明忍について初めて著された正式な伝記は深草元政による『行業記』です。しかし、前項でも述べたように『行業記』の内容に不満足であった槇尾山の衆徒によって、満足し得る詳しいものとして新たに筆されたのが『行業曲記』でした。
元政が槇尾山とつながりがあったように、月潭もまたその師一絲文守との関係で、槇尾山によく出入りしていた人であったため、その執筆依頼は比較的容易くなされたことでしょう。月潭の属した当時新来の臨済宗黄檗派(後に黄檗宗として独立)はもとより京における禅宗の僧徒は、明忍らにより創始された興律運動によく注目しており尊敬する者がありました。対馬で自ら明忍の足跡を辿り、当時の話を聞き集めたのは、槇尾山の僧ではなく建仁寺の長老です。
そのようなことから、明忍の伝記としては『行業記』と『行業曲記』の二系統があり重要です。とはいえ、それらが同じく根本資料とした『行状記』は、普通は伝記類に載せられ表に出ることのない話や説が記されていることから、最も重要な資料の一つです。また他にも、これらは基本的に表に出ることはないものですが、今も西明寺(平等心王院)には明忍の直筆の手紙や写本などが多数遺されています。
月潭が『行業曲記』を著した同年、明から来日していた黄檗の隠元の弟子、支那僧の高泉性潡によって日本の高僧伝『東国高僧伝』が著されていますが、それに明忍も取り上げられ「槇尾山明忍律師伝」として掲載されています。その種本とされたのは、月潭の『行業曲記』でした。
またさらにその翌年の元禄元年、槇尾山平等心王から出て河内野中寺を律院僧坊とするべく中興した慈忍慧猛の弟子、戒山慧堅によって編纂された支那および日本の律師伝、『律苑僧宝伝 』〈元禄二年刊行〉にもまた明忍伝は「槇尾平等心王院俊正忍律師伝」として掲載されています。これも『行業曲記』を元にして略したものですが、しかし高泉の「槇尾山明忍律師伝」もまた参照しており、その表現を所々に借り用いています。もっとも、戒山のそれは『行業曲記』などを踏襲していると言っても、やはり明忍を祖とする律僧であったからのことでしょう、細かいところで独自の説も述べているため、一応それらとは別物として考えたが良い書となっています。
さらに、これは特に「明忍伝」としてのものではありませんが、元禄十三年〈1700〉に西明寺(平等心王院)にて著された『槇尾山略縁起并流記』に、明忍律師の伝記が簡単に伝えられています。西明寺の『槇尾山略縁起』は、それまでの伝承と若干ながら異なった話が載せられている点に特色があり、それは近世の律宗における春日明神と戒律の相承に係わる伝承の元となるものとして重要です。
元禄十五年〈1702〉、臨済僧の卍元師蛮により、なんと三十年あまりの歳月を費やしてそれまでの僧伝・史料を集大成し著された『本朝高僧伝』巻六十二には、戒山『律苑僧宝伝』のそれが「洛西槇尾山沙門明忍伝」として収録されています。
そして元禄十六年〈1703〉、徳川綱吉の生母、桂昌院が檀越となったことにより律院としての堂舎の再整備が進み、経済的に余裕の出来た平等心王院の衆僧は明忍の没した地に顕彰碑を建てることを発案。再び月潭にその碑文を著すことを依頼し、それを勒石してから対馬にまで運んで、明忍が没した地に建てています。その碑は今も対馬厳原の荒れた山中に、ほとんど地元の人にも知られずひっそりと立ちすくんでいます。
(現代、これを明忍の墓であると誤認している者が多く見られますが、墓ではなくあくまで塔碑であり、いわゆる顕彰碑のようなものです。墓は京都槇尾山西明寺境内にあります。)
なお、年代が多少前後しますが、元政の『行業記』は、元禄二年〈1689〉に浄土宗僧了智により編纂された往生伝、『緇白往生伝』巻中の初めに、元政『行業記』そのまま全文が載せられています。これは明忍の対馬での最期に、いわゆる極楽往生を思わせる奇瑞があったことに基づいたものです。
明忍は、南宋代の支那における南山律宗中興の祖とされる元照が律僧であると同時に浄土信仰も兼持していたことに倣っており、日頃から源信『往生要集』を読み、実際その死を迎える前には念仏していました。そして、明忍の末期がいかなるものであったか、それを看取った道依によって詳しく伝えられ、また明忍自身が死の直前に朦朧とする意識の中で見た奇瑞を自ら筆を走らせた書があるが、京の人々によく知らされ注目されています。
なお、明忍は神護寺の晋海の弟子であって真言密教を一通り修めてはいましたが、彼に真言宗こそなどといったいわゆる宗派意識は皆目見られません。また明忍の同志は元法華宗や律宗の人でありますが、そんな彼等にも特に宗派意識というものは見られません。少なくとも最初期の彼等が戒律復興運動を展開したのは、ただ戒律だけに拘ってそうしたものでなく、仏教の復興を目指すその礎としてのことです。
そもそも律とは、そしてまたその復興は特定の宗派に限って行われるような性質のものではありません。実際、そんな彼等のもとに集ったのは、律宗、禅宗および浄土・法華など様々な宗派出身の僧たちでした。そのようなことからも、明忍らに始まる戒律復興の動きは諸宗の学僧らから非常に注目され、尊敬されるところとなったのでしょう。
以上挙げた伝記は全て漢文によって著されたものですが、伝記に類するものとしてはただ二つのみ、例外的に仮名によるものがあります。その一つは、天和三年〈1683〉の西村市郎右衛門(未達)による御伽草子、『新御伽婢子』です。一体どうしてここに収録されたのか不可解で、あるいは西村市郎右衛門が明忍律師を甚だ敬慕してのことであったか、あるいは当時往生の奇瑞が怪異にすら感じられたことによるのかもしれません。その最後の巻六末に唐突として「明忍伝」が記されています。これは往生の奇瑞があったとされる、明忍の最期が特に記されたものです。
二つ目は江戸後期、明忍らが目指した戒律復興運動の果ての仏教復興を、一つの形として成し遂げたと言える慈雲尊者による『律法中興縁由記』です。これはその師忍綱貞紀から聞いた、明忍がいかにして戒律復興を果たしていったかが漢文ではなく仮名で記された伝記というよりメモ書きのようなもので、今は『慈雲尊者全集』に収録されています。
近世における興律の祖として世に広く知られ尊崇された明忍は、しかし明治維新を迎えた後に急速に衰退していった仏教と共に、次第に忘れ去られ、今やをその名をすら知る者もほとんど無くなっています。
大東亜戦争後、仏教は主に学問の分野で再び脚光を浴びるようになり、奈良・平安・鎌倉期の日本仏教は盛んに研究がなされたものの、仏教学会からすると近世の日本仏教は堕落した仏教で見るべきものはない、という見方が大勢を占めていました。また、学者の間においてすら戒律など前時代の遺物であって現代には無用の長物とする思想が強かったため、なおさらそれを近世に復興した明忍に着目して深掘りする人が現れることは極稀でした。
しかし、大正から昭和にかけて盛んにあらゆる史料の収集と編纂がなされていたことにより、明忍の伝記やその伝記が収録されている諸本は、様々な叢書類に編纂されて今に伝えられています。それらは、その意志さえあれば今でも比較的容易に閲覧できるものです。もっとも、そのほとんど全てが漢文によって書かれたものであるため、まず漢文を読む能力を要し、さらに仏教に関する一定程度以上の素養がなければその意味を理解することは困難です。
したがってそれらは仏教学者や史学者、国文学者らのごく一部が、ただその生業の一つとして稀に触れ、あれこれ学会の内でのみ言うだけのことであって、一般に親しめる様態とは到底なっていません。そのいずれもが世間の目に触れることのまず無い、むしろその存在をすらほとんど知られぬものに載せられたままとして、これをいくらかでも世に知らしめんとする人は絶無のままです。
古代日本に律をもたらした鑑真、中世鎌倉期初頭に戒律復興を果たした西大寺の叡尊や唐招提寺の覚盛、極楽寺の忍性らに比すれば、まったくと言っていいほど世に知られていないのが俊正明忍律師です。これは極めて遺憾なことと言わざるを得ません。
もっとも叡尊や忍性そして覚盛すらも、寺家にはある程度その名を知る者があったでしょうけれども、現代社会においてはそれほど前から世に知られた人で無かったようです。昭和のバブル期頃にようやく着目されるようになり、史学者および仏教学者など多方面からの研究が進められて、今やよく知られる人となっています。
そのように明忍らが世に知られず、今までの学者らに興味も持たれなかった要因は、明忍およびその同志たる慧雲や友尊らが、戒律復興を果たした後十年に届こうかという時に次々と、矢継ぎ早に早逝してしまったことがまず第一にあると思われます。また、彼等のうち一人として何ら著述を残していないということもあるのでしょう。律を復興して間もない頃にあって、それを現実に行い定着させていくことは容易でなくてその暇など無く、また経済的余裕も無かったとも考えられます。その故に、明忍以降の、実はその流れを汲む諸宗諸派の僧こそがよく知られ、しかしその源流がいずこにあるか確かには知られていないために、そんな僧らもそれぞれ曖昧に理解されているのであろう、と愚考しています。
そのようなことから、それを為すにはあまりに無能無力ながら、ここでせめて明忍など若き獅子らの孤軍奮闘によって近世においていかに戒律復興されたかの基を世に多少なりとも知らしめるため、俊正明忍という清冽な人が近世江戸最初期にあったことを示す最初の伝記、『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』をここに紹介している次第です。さらに別稿においてまた、先に挙げた明忍伝の多くを紹介しています。
事を始めんと欲すれば、その基を知らずんばあるべからず。
単に明忍の生涯ばかりいくらか知ったところで、それはただ歴史の一幕をめくったに過ぎません。明忍およびその後の律僧らや興律運動を正しく掴むのには、彼らが模範とし敬慕したその源を知らなければなりません。故に明忍の行業を知ることをきっかけに、叡尊や忍性、さらには明恵や貞慶、そして鑑真、道慈などへと遡り辿り、彼等が何を見、何を求めていたかを知る必要があります。
実は、明忍らによって近世なされた戒律復興運動を理解するのには、中世における叡尊や覚盛の思想や事績を知っておくことが不可欠です。さらにいえば、これは案外根の深い問題であるため、平安期初頭の最澄によって巻き起こされた大乗戒壇問題、そしてまた鑑真渡来直後に生じていた南都での自誓受戒問題を理解しておかなければなりません。
それらを知り理解したときには、そこには縷のようであったとしても明らかな一つの流れを見て取ることができるでしょう。そしてその源泉は間違いなく釈迦牟尼の説かれた法と律とにあることを知り、終には仏教の真に何たるかを知るに至るに違いありません。
現在、日本仏教では再三にわたって戒も律もその伝統は「完全に」途絶え、一部の外国僧や留学僧を除いては、ほとんど全くまともな仏教僧が存在しない、真に仏教を説く僧が無い、という事態を迎えています。この明忍の短くも真摯なその生涯に触れることを機縁とし、この扶桑の地に再び興律の志を持ち、現実としてそれを成し遂げんとする幾ばくかの人の現れることを願んでやみません。