門侶活命ヲ競テ邪法弘說セルヲウラミテ上人號ヲトルヘカラスハ我カ會下ニ來テ學スヘシトテ門弟ニ一紙ノ起請ヲカヽセテ講談セルトナン猶虛名無實ノ受施鐵湯ヲ飲ノ因ナルコトヲナケイテ持戒ニアラサレハ出家ニアラス出家ニアラアラスンハ檀施ヲ受ンヤトテ丹波國ニ身ヲカクシスミヲヤキワラタツヲ作テ生命ヲクリシカ凡心境ニ隨フノナケキ又アリシカハ是ヨリ南都ニ行、霊跡ナツカシク滅法ノナケキ我ノミニ覺テコヽカシコサマヨエルトナン此時三輪ホトリニシテ忍師ト行會テ互ニ述懐セルニ兩師ノ所存宛乳水ノコトシ手ヲ打涙ヲナカシテ倶ニ興起正法ノ契約ヲナス
爰、西大寺ハ興正菩薩ノ御遺跡、昔嘉禎ノ年中ニハ四律五論ノ聖典赫日ホカラカニ三大五事ノ祖父珍玉アサヤカナリ尸羅梵風東山ニ吹テ通セサルコトナク木叉ノ窂船西海ニウカメテワタササルモノナカリキ時三百餘年ウツリ人機澆末ニシテ實行カケタリサレトモ多聞ノ學德毘尼ノ法䡄カツ殘レリコヽニヲイテ貧人ノ寶ヲ得ルコヽチアツテ慶長七年比明忍字ハ俊正於栂尾春日住吉前祈好相寥海字ハ惠雲 全空字ハ友尊 三大德等共大心ヲ發テ自誓ノ得戒ヲ嘉禎の昔にかへし止作ノ随行ヲ興正ノ再誕ニマトハス其比南都ニヲイテ忍雲兩師行事鈔ヲ講談ス慶長九年二月十一日ヨリ始テ同年十二月廿日一部ヲ終ル其ノ中間講談ノ日都テ貳百八十四日闕日廿三日其外律部並後二ノ戒學一々相ヲ明ラメリ
爰高雄前權僧正晋海如說ノ戒行ヲ随喜シ將軍家康公ヨリ給フ處ノ所領三百石ヲ分テ貳百五十ハ高雄の惣寺ニ分チ二十ハ栂尾三十餘ハ槇尾平等心王院ノ寺領附テ件ノ 僧ヲ請シ住セシメリ通受自誓ノ大願既圓滿セシカトモ猶別受相承ノ望アリシカハ忍師ハ入唐ヲ心さし給ヒヌ何以シルトナラハ彼師對馬ヨリ雲師ニ送ル狀之中ニ曰 異國等法之盛衰ヲ聞及ニサノミ香ハシキ事モ無シ唯貴院界内和合シテ滿夏之時可有興行別受事專用々々今程友尊房止住ニ候ヘハ彌々互相資助可有勸導新學候我等も終ニハ可預其恩浴之念願斗ニ候ト書又願狀曰
立願狀 三寶御寶前
一、聖天供 一七ヵ日如常
一、於御影堂護摩不動 一百座若自若他
一、伊勢石淸水春日參詣隨分法施
右所祈之旨趣越海求法速疾成就興隆毘尼利益群生凡發心惟雖遠期來際且約一期要誓如斯唯願垂冥威矣
慶長十三年十一月廿九日 明忍敬白
コレラヲミルニ異域ノ法ヲトロヘタリトきゝテ滿夏ノ別受ヲスヽメ又興隆毘尼ノ誓言祖意粗アラワレリ跡ヲ寥海全空兩大德ニ頼テ新學ノ導師トス
慶長十一年三十一歳ノ比生誕ノ舊里ヲ出テ難度不知ノ境ニ及ヘリ其時傍ニ沙彌アツテ入唐マシマサハ字書等所持あるへしといへるに打エミテイタマエリトナン實ニ三十編いよいよクラキト古聖猶カナシメル律相ヲ解シ別受相承ヲ猶興正大權ノ小足ニ量テ入唐求法ノ大願ヲ發ス人、文字ノ書籍ヲタノミトシタマハンヤ船中も猶聖教ヲヒラキ給るニヤ法花神文ノ奥ニハ於平戸一遍於當島ニ遍覽えカケリ先日本對馬ノ國ニアツテ異國ノ佛法ノ現住盛衰ヲウカヽエリ此時京ナル悲母ノ御モトヨリ文ヲ遣シ給フニ執手慇懃ニ拜戴シテ披クコトナク頓而寺邊ノ小河にナカセシトナンイカナル御心ヤアリケン日景タモトヽメサル草庵ニ住常ニ乞食セルトナンヲモヒヤレハ一紙ノ貯モナカリケルニヤ聖教ノ拔書此山ニ越セシノ狀古紙ノウラナラヌハマレナリ誠アルカナ諳書自筆ノ梵網經ノ奥ニ
且爲備廢忘且爲轉病心苟染翰墨廉紙草書不敢輕慢佛語矣
慶長十三年五月十一日對馬府中宮山行亭安居比丘明忍
ト書ケリ
(日蓮宗の)門侶らが活命〈布施の獲得。金策〉を競って邪法を弘説しているのを悲しみ、「(日蓮宗や浄土宗の僧徒らが自ら官許を求めて名乗る)上人号を取らないならば、我が会下に来て学んだら良い」として、門弟に一紙の起請文を書かせてから講談したという。さらに(僧が)虚名無実の身ながら布施を受けることは、(来世には地獄に転生して)溶けた鉄湯を飲まされる因となることを嘆き、
「持戒しなければ出家ではない。出家でなければ檀施を受けることなどどうして出来ようか」
と、(ついに自らも正しく持戒の僧でないことを自省して)丹波国に身を隠し、炭を焼き、藁を編むなどして生計を立てるようになった。しかし、(堕落した寺門から脱し、質素で静かな俗に身を置いたとしても、自らの)凡心が見聞覚知する境〈対象〉にたちまち惑わされることへの嘆きが依然としてあった。そこで意を決して、ここ〈丹波〉から南都に行き、(その昔いまだ徳ある先徳らが在した)霊跡に心惹かれ、「仏法は已に滅んでしまったのか」と嘆くのは私だけであるかのように思いつつ、ここかしこと彷徨ったのだという。そんな時、三輪〈三輪山。大神神社の神体〉の辺りにて明忍師と行き逢ったのである。互いにその志を述懐したところ、二人の懐いはあたかも乳水がたちまち相交わるかのように通じたのだった。(二人はそのあまりの感動に)手を打ち、涙を流して倶に正法を興起せんと誓いあった。
ここ西大寺は興正菩薩の御遺跡であり、その昔、嘉禎の年中〈叡尊や覚盛が自誓受戒によって戒律復興を成就したとする嘉禎二年(1236)以降〉には四律五論〈漢訳された四つの律蔵と、五つの律の注釈書〉の聖典、赫日朗らかに(南山大師道宣による)三大部〈『行事鈔』・『羯磨疏』・『戒本疏』〉や五事〈律を持すことの功徳〉についての祖父珍玉の意は明らかであった。尸羅〈[S] śīla. 戒〉という梵風〈清らかなる徳風〉は東山に吹いて障り無く、波羅提木叉〈prātimokṣa. 戒律の根本。戒本〉という窂船を西海に浮かべて渡し得ない者など無かった。それから時が三百年余り移った今、人機〈人の才知、能力〉は澆末〈頽廃した末世〉となって(戒も律も)実行する者など存在していない。しかしながら、多聞の学僧と毘尼〈[S] vinaya. 律〉の法䡄はわずかに残っていた〈覚盛・叡尊らによって創始された「通受自誓受」という受戒法が、その根拠となる典籍と知識とが西大寺に伝わっていた〉。
ここにおいて、あたかも貧しき人が財宝を得たかのような心地となって、慶長七年〈★〉の頃、明忍字は俊正。栂尾の春日および住吉社の前にて好相を祈った、寥海字は恵雲、全空字は友尊、三大徳等〈他に晋海と玉圓のニ名が同行であった〉は共に大心を発し、自誓受戒による得戒を嘉禎の昔に倣って行い、止作〈止持戒(止悪)と作持戒(作善)〉を随行すること、あたかも興正菩薩が再誕したかのようであった。
それから南都において、明忍・恵雲の両師は『行事鈔』〈南山大師道宣による『四分律』の注釈書の一つ〉を講談し、慶長九年〈1604〉二月十一日より始めて同年十二月廿日に一部を終えた。その講談をされた日数は総じて二百八十四日であり、闕日はただ廿三日。その他の律の典籍ならびに(律三大部の)他の二部など、戒学を一つ一つ明らかにしていった。
ここ高雄山の前の権僧正晋海は、(明忍・恵雲・友尊らによる)如説の戒行を随喜し、将軍家康公より賜った寺領三百石を分配して、二百五十は高雄の総寺に分かち、二十は栂尾高山寺、三十余り〈三十五石四斗七升五合六勺五才〉は槇尾平等心王院の寺領附〈御朱印地〉として、彼ら律師を請じて住まわせた。通受自誓の大願は既に円満したけれども、さらに別受〈三師七証・白四羯磨による律儀の正統な受法〉によって具足戒を相承したいとの望みがあったため、明忍師は入唐を志された。これはどのように知られたのであるかといえば、彼の(明忍)師が対馬より恵雲師に送られた書状の中に、
「(支那・朝鮮における)異国における仏法の盛衰を(ここ対馬で)聞き及んだところ、(すでに彼の地の仏法も衰亡しており)もはや願い求めるべきものではありませんでした。そこで貴院〈平等心王院〉は界内和合し、満夏の時〈夏安居の終わる日。自恣。しかし、ここでは特に別受を行じえる年限である具足戒を受けてから十夏を過ごし終えた時のこと〉には別受を興行したら良いでしょう。この事を目標に専らお励みください。近頃は友尊房が(平等心王院に)止住されたということですから〈それまで平等心王院にて寺院運営および後進の指導の任あたっていたのはほぼ慧雲独りであった〉、ますます互いに助け合い、新学を指導したら良いでしょう。我等も終にはその(新学の徒から興律の雄が出て)恩浴に預かることになるべく、それを念願するばかりです」
とあったためである。その書にはまた『立願状』が付されていた。
立願状 三宝御宝前
一、聖天供 一七ヵ日 常の如し
一、於御影堂護摩不動 一百座若しは自、若しは他
一、伊勢・石清水・春日参詣 随分法施
右に祈る所の趣旨は、仏法を求めて海を超え行くことの速疾成就のため、毘尼〈[S] vinaya. 律〉興隆のため、群生〈生きとし生けるもの〉を利益するためである。およそ発心はただ遠く未来際を期してのことではあるが、しばらく一期〈一生〉に約して誓うこと以上の如し。ただ願わくは冥威を垂れ給え。
慶長十三年〈1608〉十一月廿九日 明忍 敬白
これらを見ると、異域の法も衰えていると聞き、滿夏の別受を勧め、また興隆毘尼の誓言などにて祖意〈明忍の意志〉がおおよそ表されている。(明忍が去った平等心王院の)跡は寥海〈恵雲〉・全空〈友尊〉の両大徳に頼み、新学の導師とされた。
慶長十一年〈1606〉、三十一歳の頃、生誕の旧里〈京〉を出て、(支那を目指し、まず対馬という)右も左もわからぬ地へと旅立たれた。その時、傍らに沙弥があって、
「入唐なさるのであれば、字書〈辞書〉など所持されなければならないでしょうに」
と言ったのに対し、ただ微笑まれるのみであったという。実に三十編〈何を指すか不明〉、いよいよ理解し実践する者が無いと古の聖者らはさらに悲しんでおられる。律について理解し、別受による律の相承を、さらに(自らを)興正大権〈大権は大権現の略で、叡尊を大菩薩の垂迹であるとした称〉の小足〈末弟〉に擬して入唐求法という大願を発す人が、文字の書籍など頼みとされるであろうか。(渡海に際して)船の中にある時も、なお聖教を開くなどされるであろうか。『法華神文』の奥書には「平戸〈長崎佐世保の西北側近くにある島で貿易港があった〉を一遍、当島〈対馬〉を二遍見た〈隈無く探索したの意か〉」とある。まず日本の対馬の国にあって、異国の仏法の現住盛衰を調べたのである。この時、京にある悲母の御元より文を遣わされたのであるが、(明忍はその手紙を)ただ手に執り、慇懃に頂戴するのみで開くことなく、すぐに寺の辺りの小河〈後に「文捨て川」と称された〉に流されてしまったという。それは一体どのようなお心でなされたことであったろう。(明忍師は)日陰の草庵に住まわれながら毎日、托鉢乞食されていたという。想像するに、一紙の貯えをすら無かったのであろう。聖教の抜書を槇尾山に送られてきた書状が、古紙の裏でなかったことは稀であった。きっとそうであったのであろう、諳で書かれた自筆の『梵網経』の奥書きに、
あるいは廃忘してしまった時に備え、あるいは心が病に転じてしまった時に備え、もったいないことではあるが翰墨を廉紙〈古紙〉に染めて草書した。敢えて仏語を軽慢してのことではない。
慶長十三年〈1608〉五月十一日 対馬府中宮山 行亭安居比丘明忍
と書かれていた。
生活。ただし、ここでは経済活動というより金集め、寄進の獲得の意。▲
日蓮宗や浄土宗、浄土真宗の僧が自ら申請し官許されることによって得た称号。
新仏教などと現代言われ、実際に戒も律も捨てた上でおよそ仏教とは到底思われない思想を奉じる彼らが「上人」を(昔も今も)名乗るのは、まさに「虚名無実」と断じられるも宜なることであった。▲
一師僧のもとに集まって学ぶ場所、あるいはその弟子僧。「えか」とも。▲
起請文。ある事を発起し、それを行うよう仏神や主上などに請い願うことを書いた文書。▲
僧に金銀や物品を施すこと、あるいはその物自体。または檀越([S/P] dānapati. 施主)からの寄進。▲
三輪山。城上郡(奈良盆地の東南部)にある大神神社の神体。記紀の昔から神奈備と見なされてきた霊地。
一体なぜ恵雲および明忍が奈良の、しかも三輪山を訪れていたのか。それについて伝承は何も語っていない。しかし、ここは三輪別所といわれた平等寺があり、西大寺の末寺であった。これは根拠無き憶測に過ぎないが、当時、平等寺を中心とした律宗寺院にてなんらか座学のみとしても律学に関わる動きがあることを聞きつけてのことではなかったか。
なお、江戸中期になると、明忍と恵雲とが出会ったのは三輪山ではなく、春日大社であったと伝承が変化している。これは春日神が戒律不在の時代に戒体を預かり、来たるべき持戒持律の僧の出現を俟つものである、との伝承にことよせたもの。この背景には、近世の律宗における、いや、鎌倉期の叡尊からすでにあった明恵上人への信仰と伝承があるに違いない。いずれにしても、この二人の邂逅は、まさに宿縁あってこそというべき劇的なものであった。▲
称徳天皇が護国・国家鎮護のために創建した、かつて南都七大寺の一つであった寺院。平安中頃に衰退し、興福寺が所管する一寺院となる。そこへ鎌倉前期に自誓受具という手段によって戒律復興を果たした興正菩薩叡尊が入寺し、その活動の拠点とした。
もっとも、叡尊が入寺したといっても最初の十余年は旧住の僧らも依然とあって様々な軋轢があり、彼らは叡尊に対して嫌がらせを執拗に行っていたという。その後、ようやく叡尊はその全権を得て、叡尊を中心とする新しき律宗が全国的に支持されていく。実は叡尊による律宗こそ、鎌倉期において日本で最も指示され、信仰されていた教団であったという。▲
思円叡尊〈1201-1290〉が、正安二年〈1300〉に伏見上皇より送られた諡号。
叡尊は始め醍醐寺にて出家し真言密教を修めたが、密教(もとより仏教)をいくら修めても何の意味も功徳・証果も無いことを思い悩み、ついには空海の『遺誡(弘仁遺誡)』における「凡出家修道本期佛果。不更要輪王梵釈家。豈況人間少少果報乎。發心遠渉非足不能。趣向佛道非戒寧到。必須顯密二戒堅固受持清浄莫犯(凡そ出家修道は、もと仏果を期す。更に輪王梵釈の家を要めず。豈況んや、人間少少の果報をや。発心して遠渉せんには、足にあらざれば能はず。仏道に趣向せんには、戒にあらざれば寧んぞ至らんや。必ず須く顕密の二戒堅固に受持して、清浄にして犯なかるべし)」などの一節を読み、その原因は持戒せねば仏道はなんら意味をなさない、その証果も決して無いことを確信。戒律復興のために運動し始めることとなった。ついには法相宗の解脱上人貞慶などの後援により律学を深め、覚盛ら同志四人で戒律復興が果たされた。▲
四条天皇在世時の年号〈1235/9/19-1238/11/23〉。ここでは特に覚盛および叡尊ら四人により東大寺大仏殿前にて通受自誓受による戒律復興が行われた嘉禎二年〈1236〉を云ったもの。中世以来の律宗の徒にとって、嘉禎年間は戒律復興の起点となった特別なものであった。▲
「四律」は『十誦律』・『四分律』・『摩訶僧祇律』・『五分律』の支那にもたらされ漢訳された完備した律蔵。
「五論」は『毘尼母論』・『摩得勒伽論』・『善見律毘婆娑(善見論)』・『薩婆多毘尼毘婆沙(薩婆多論)』・『律二十二明了論(明了論)』で、諸律蔵の注釈書。いずれも支那および日本で律学を志す者に必読とされた根本典籍。▲
律三大部。南山大師道宣による『四分律』に対する三種の注釈書。『四分律刪繁補闕行事鈔(行事鈔)』・『四分律刪補隨機羯磨疏(四分律羯磨疏)』・『四分律比丘含注戒本疏(四分律戒本疏)』。
日本に律儀が鑑真ら一行によってもたらされて以来、『四分律』に基づく律儀を受け、学ぶ者にとって不可欠の書。▲
具体的に何を意味したものか明瞭でない。あるいは『行事鈔』にても触れられる『摩訶僧祇律』所説の「五事利益」および『四分律』所説の「五利」などか。であれば、律を受持することでいかなる功徳があるかを示したもの。そのうち「令法久住」が律の存在意義のうち最も重要な点となる。
道宣『行事鈔』「先明律本者。僧祇中云。欲得五事利益。當受持此律。何等五也。一建立佛法。二令正法久住。三不欲有疑悔請問他人。四僧尼犯罪者爲作依怙。五欲遊化諸方而無有閡。是爲篤信善男子五利。四分持律人得五功徳。一者戒品牢固。二善勝諸怨。三於衆中決斷無畏。四有疑悔者能開解。五善持毘尼令正法久住」(T40, p.5b)▲
「尸羅」は[S] śīlaの音写で(良い)習慣・道徳の意。一般に戒と漢訳される。「梵風」は尸羅(戒)を実現することによる清淨なる徳風を形容したものであろう。▲
波羅提木叉([S] prātimokṣa)の略。戒本あるいは別解脱律儀と漢訳される。戒本はそれが戒(道徳)の根本であることからの意訳。別解脱律儀は原語の直訳で、仏教徒それぞれの立場に応じて説かれた学処を持すことで、その学処に応じた行為(律儀)が別個に悪を離れること(解脱)を意味する。
比丘・比丘尼においては律蔵にて規定される諸々の律儀を簡略に列挙したものを意味する。▲
人の素質、能力。▲
澆は軽薄の意。道徳が衰え世情が乱れた世。澆季に同じ。▲
[S/P] vinaya. 律。原意は調伏。比丘・比丘尼の行儀作法についての規定であり、仏教を後世に伝えるために不可欠の僧伽を統制する規則。毘奈耶とも音写される。▲
止持作持の略。律における止持戒(してはならない行為に対する学処、止悪)と作持戒(積極的になさなければならない行為に対する学処、作善)。▲
南山大師道宣によって著された『四分律』の注釈書『四分律刪繁補闕行事鈔』の略。およそ日本において律を学ぶ者は必ず学び、常に参照していた書。
明忍と慧雲とが『行事鈔』を講じた場所は、『律苑僧宝伝』巻十五「慧雲海律師伝」では、南都の安養寺・龍徳院・戒蔵院など諸院においてのことであったと伝えられる▲
三聚浄戒、すなわち律儀戒・摂善法戒・饒益有情戒の後者二戒に関する学問。叡尊(西大寺系)における、いわゆる法相戒観にもとづく理解では、摂律儀戒に律蔵所説の具足戒(二百五十戒)が当てられ、その律蔵は特に『四分律』に依るもので、その実際にあたっては南山大師道宣の解釈が専ら用いられた。そして摂善法戒と饒益有情戒には、『瑜伽師地論』(『菩薩持地経』)所説の瑜伽戒、および『梵網経』(ならびに『瓔珞本業経』)所説のいわゆる梵網戒が当てられた。ここでは、律儀を『行事鈔』に基づいて理解・実行するだけでなく、後二の瑜伽戒と梵網戒についての研究とその実行にも余念が無かった、との意であろう。
なお、三聚浄戒のそれぞれに何を配当するかの理解は、すでに鎌倉期以来の西大寺系と唐招提寺系とで異なっており、各々がその独自性を過度に主張しだすや、愚かな宗派主義、縄張り根性を発揮して、律とはそもそも何かの本義を忘れ、律の実行すらも廃れていく一大要因となった。近世における戒律復興運動においても同様の事態が発生し、詮無い宗派主義と宗論の基となっていく。▲
慶長五年〈1600〉、晋海僧正は徳川家康に「一山三衣にも事欠く有様なれば、願わくは寺領境内地先規の如く返附せられ度云々」とその神護寺の窮乏した状態を訴え、その翌年訴えどおりに寺領千五百町歩が「返還」された。『神護寺文書』によれば、千五百町歩以外にも家康はさらに二百六十石を寺領として付与している。晋海は、その貴重な神護寺の経済基盤となる寺田の幾分かを槇尾寺平等心王院を律院として再興するために分与し、明忍らの活動の経済基盤とした。▲
ただ三聚浄戒を受けることにより、大乗僧として菩薩戒と律儀戒とを総じて(通じて)受けるという、鎌倉初期の覚盛によって発案され実行された受戒法。
しかし、それは律蔵および印度以来の菩薩戒の授受に関する規定に従ったならば絶対にあり得ない、むしろ否定され続けてきた受戒法であった。そもそも「通受」とは元来、「僧俗が通じて(共通して)受けるもの」という意で菩薩戒を形容する語であった。▲
自誓受戒。現前の師僧など他者に依らず、自ら誓って戒を受けること。
具足戒(律)を受けるにおいて自誓受は決してあり得ず、ただ五戒や八斎戒あるいは菩薩戒を受けるにおいてのみ許される法。▲
通受に対し、三聚浄戒のうち特に律儀戒(比丘・比丘尼の場合は具足戒・律)をのみ別個に受ける法。比丘・比丘尼の場合はただ三師七証・白四羯磨によってのみ成立し、それが仏陀釈尊以来唯一の正統な法。▲
「夏」は仏教の出家者が毎年夏の三ヶ月間、一所に留まって移動せず籠もる習慣である「夏安居」をいう。満夏の日とは一般に、その最後日でこれを自恣あるいは解夏という。仏教の出家者は夏安居を無事に過ごすことによってのみ出家者としての年齢が一つ加算される。
ただし、ここで明忍は、自らが大陸に渡って受けることを望むも果たせなかった「別受」による授戒を槇尾山にて執行することを慧雲に提案している。したがって、ここで明忍が意図した「夏満の日」とは、「その年の安居を終えた日」ではなく、彼らが「受具後、十夏を満じた年」という意味であったろう。なんとなれば、比丘が別受を執行しえる年限は、その者が具足戒を受けてから十夏以上を経ていることが最低条件であるためである。この言葉によって、明忍はこの手紙を槇尾山に出した時点で、自身がたとい当初の目的であった支那に渡ることが叶わなかったとしても、京都に帰る気は全く無かったことが知られる。▲
この記述から、明忍ら五人のうち友尊は通受自誓受して後、平等心王院が中興されて以降も当院に止住せず、他処(あるいは西大寺か?)にあって後進の指導にあたってはいなかったことが知られる。もっとも、慶長十一年〈1606〉に明忍が対馬に発つ時はまだ平等心王院に住していたようであるから、その後の一、二年は不在であったようである。
しかしながら、その理由および場所を伝える文書も伝承も無く、現状一切不明となっている。▲
[S] śrāmaṇera / [P] sāmaṇera. 未だ具足戒を受けていない男性の出家修行者。女性は沙弥尼。日本では一般に小僧、または雛僧などと言われる。事情によって比丘にならず、二十歳を超えても沙弥のままである者は相似沙弥と称される。▲
何を意図した語か不明。▲
大権現の略。仏や大菩薩が権に神祇や人の姿をとって現れること、あるいは現れた者自体を指す。変化身。[S] avatāra.
ここでは叡尊は、なんらか大菩薩が仮に人の姿をとって現れ、日本の戒律復興を成し遂げたものだとする見方を表している。▲
才知の足りない愚かな弟子、末弟。▲
明忍は京の母公からの手紙を頂戴するのみで開き見ず、茅壇の庵のほど近くを流れる小川に捨てていた。後代、その小川は律師のこの故事に因んで「文捨川」と称された。現在、対馬でその名を知る者は、近隣の者ですらまったくいない。
文捨川は山中を流れるごくごく小さな小川で、現在はほとんど涸れており、雨が降った時にのみ山中の水が流れる程度のものとなっている。しかしながら、ところどころ昔の石積みの護岸が残っており、その昔は一定の水量があったのであろう。▲