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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

不筌 『明忍律師之行状記』

原文

カナシイカナ無常(むじゃう)ノ暴風貴賤(きせん)ヲエラフコトナク精奪(しょうだつ)ノ猛鬼(まうき)神仙ヲ論セサレハ慶長十五ノ夏病惱頻(しきり)ニ發(おこ)ルソノ時小杖(こづえ)ヲ以て疊ヲ打(うち)稱名(しゃうみゃう)念佛(ねんぶつ)シテ魂ヲ安養(あんにゃう)ニウツサント乞(こふ)時ニ忽(たちまち)ニ紫雲(しうん)タナヒキ寶花降、苦惱中ニ筆端(ひったん)を染ム其辭(そのじ)ニ曰(いはく)

此(この)苦(く)ハ志(し)はらくのことあの聖衆(しゃうじゅ)の紫雲(しうん)淸涼雲の中に有(あり)ましいりたらはいか程の喜悦(きえつ)そや繪(え)に書たるは萬分の一八功德池(はちくどくち)にハ七寶(しちはう)の蓮華樹林にハ琉璃(るり)の枝葉等也

其御眞翰(ごしんかん)當寺藏庫にアリ此雨華紫雲の事隨逐明全(みゃうぜん)法師ノ直語(じきご)並彼國(かのくに)ノ俗上京の次(ついで)而(して)此寺ニ來(き)テカタル智城(ちじゃう)親聞セリト終(つひに)春秋(しゅんじう)五七(ごしち)の花顔(くわがん)永ク二三(にさん)ノ月ト共して東黛(とうたい)ノ雲トノホリ耀法(きはふ)ノ威容、點(とも)シテ初七(しょしち)ノ日ニイサナイテ西聳(さいしょう)ノ山ニ入ヌ毎日受用ノ一體(いったい)ハむなしき室に獨(ひとり)とゝまり四儀(しぎ)所着の三衣(さんね)其(その)莚(むしろ)に殘リテ主(あるじ)なし道依(どうえ)明全(みゃうぜん)玉ヲウシナフノ心チ茫然(まうねん)トシテ夢ニシモアラスワクカタモナク御形ヲカクシ遺物(ゆいもつ)ナラヒニ僧正御方ヘノ末後狀(まつごじゃう)トリモチ涙ヲナカシ聲(こえ)ヲアケテ歸寺(きじ)セリ其狀(そのじゃう)曰

一日一夜出家功德經所說無邊何況我等悠々愚俗入釋門已十箇年餘皆是尊師訓導教化之大恩也依之隨分報謝之微力寤寐無廢忘報命歿干今一生設虛生々大願何有窮哉 俊正房明忍末後誠恐謹言

 六月五日
高雄山 僧正阿闍梨御法前

彼(かの)病中(びゃうちう)御所持の小杖(こづえ)ニ書付アリ少々ワカチカタキ處アリ

何トヲソクトモ今三日ノ喜歟安ゝ

衆僧(しゅそう)の悲歎(ひたん)さして去るへし僧正泣くゝ一首の和歌を詠ス

打(うち)見(み)よとかねのしもくの筆の跡
まつ泣(なく)聲そもよをされける

又御自作ノ自誓(じせい)ノ血脈(けちみゃく)アリ御草案(ごさうあん)ニ準スルニ慶長(けいちゃう)十五年正月廿六日の造ナリ草案ニハ敬圖(きやうず)愛法(あいはふ)明忍(みゃうにん)トアソハサレタリ又讃ノ第一句少(すこしく)差(たが)ヘリ其ノ圖(ずに)曰(いはく)

就此圖古目録ニハ題通受血脈名通別二受雖祖意難察爲待多智決判粗述愚解光釋迦大師於祇園精舎說善戒經而授通受戒法於彌勒仍殊擧二尊今叡尊以通受自誓得戒故眞系正中脉是也次左右二脉者立儀之繼法䟽書之依用全非受戒之血脉也於三聚中攝律持依宣照之䟽記後二任奘基解釋故擧之也問何彌勒之下南山系耶答三聚中之攝律全五部之律藏也豈有乖違然則通受自誓血脉無疑者也又讃云並呑等並是雜也麁也於三聚戒中兼兩祖爲言又草案讃第一句云三聚歸一思之 古録通受書者於彼島有明全之親傅乎 若名二受者不可是多先別受脉迦葉等相承矣南山其流派也如何彌勒之下列之哉慈尊雖爲通別遍學之聖今至相承的傅血脈通漫不可論之又叡尊者通別二受都不從也何得系脉、然此圖且擧叡師雖試之密意顯自立歟當寺受法人者專可仰此血脈矣

又有人(あるひと)の物語セシハ常ニ往生(わうじゃう)要集(やうしゅう)ヲ見(み)給(たま)ヒシトナン御臨終ノ御事(おんこと)ヲ思フニサモコソアラメ又御毫(ごがう)ノ跡ヲ見ルニ慶長十三年五月廿ニ日四分(しぶん)戒本(かいほん)の奥ニハ

已發誓願 欲於渡海 若遂不遂 必期命終

願狀(ぐわんじゃう)ニハ

オヨソ發心(ほっしん)ハ遠ク來際(らいさい)ヲ期(ご)ストモ且(しばら)ク約一期要誓

トカケリ爾者(しからば)大智ノ生弘毘尼死歸安養ノ御意樂(ごいぎゃう)ヲマナヒ給フニヤ希(まれ)ニ一戒ヲ受(うく)ル人猶(なほ)恩浴(おんよく)ニアツカルイハンヤ其ノ餘(よ)ヲヤ智者自(おのずから)知ルヘシ豈(あ)ニ委細(ゐさい)ノ策勵(さくれい)ヲマタンヤ

承應(じょうおう)元年夏一衆評議して繪所(えどころ)德應(とくおう)ニ命シテ形像(ぎゃうぞう)ヲ畫(かく)、同十一月中旬成就畢(をはんぬ)

讃(さんに)曰(いはく)

内修秘密真言行 外炳菩薩圓律儀
生々弘法廣大願 引導衆生歸安養

予、祖像畫圖之砌往詣心蓮院具有此事聞仍病氣良間爲思念厚恩任憶度草書

猶隨有聞後賢可加
承應元臘月十八辰 不筌

晋海(しんかい)僧正土砂(どしゃ)ヲ加持(かじ)セラレシノ時明忍等砂(すな)ヲスヽキナトシ給トナン其時(そのとき)僧正明慧(みゃうえ)上人ノ力ヲタノムヘシトテ栂尾(とがのお)ヘ上人御加持ノ土砂ヲモライニ遣(つかは)シ僧正加持土砂ノ上ニフリマカレタリトナン此事(このこと)心蓮院(しんれんいん)親(まのあたり)見タルト慥(たしか)ニ物かたリアリ祖像圖畫時予直(じきに)聞之今高雄ノ經藏(きやうぞう)ニアルイカニモ細ナル土砂是也當寺(たうじ)封付(ふうつき)ノヌリマケ物ニ入タル土砂又同シキ歟(か)未遂披見故ニ不正(ただしからず)

雲(うん)師高雄山迎接院(がうせふいん)ニテ死ス其時惠燈(えたう)ヲシテ臨終(りんじう)の智識(ちしき)トス衆(しゅ)ニカタツテ曰(いはく)入觀(にうくわん)シテヲワリナント思フ若病苦(びゃうく)來(きたり)テ入觀アタワサリセハ南無(なむ)慈尊(じそん)ト唱ヘシ其時(そのとき)マテハ聲(こえ)スルコトナカレトイフ衆(しゅ)靜黙(じゃうもく)し左右(さう)ニ居(こ)スヤヽアツテ彌勒の寶號(はうがう)ヲ唱(となふ)其時伴僧(ばんそう)同音ニ唱(となへ)寂然(じゃくねん)トシテ命終(みゃうじゆ)スト

現代語訳

嗚呼(ああ)、なんと悲しいことか、無常の暴風は貴賤(きせん)を選ばず、精奪(しょうだつ)の猛鬼(もうき)は神仙(しんせん)を論ぜず。ために慶長(けいちょう)十五年〈1610〉の夏、病苦が頻(しき)りに起こった。その時、(明忍師は)小杖(こづえ)を執って畳を打ちながら称名(しょうみょう)念仏(ねんぶつ)し、死後に安養(あんにょう)〈極楽浄土〉に往生(おうじょう)せんことを乞われた。するとたちまち紫雲(しうん)たなびき、宝花(ほうけ)が降ってきた。病苦に苦しむ中、筆を染めてそれを描写(びょうしゃ)したものにこうある。

この(病による)苦しみなど一時のことに過ぎない。あの聖衆(しょうじゅ)の紫雲、清涼(しょうりょう)なる雲の中に入ったならば、どれ程の喜悦(きえつ)であろう。(極楽浄土として描かれた)絵に書かれたのはその万分の一にすぎない。八功徳池(はちくどくち)には七宝(しっぽう)の蓮華、樹林(じゅりん)には琉璃(るり)の枝葉など。

その御真翰(ごしんかん)は今も当寺〈西明寺〉の蔵庫(ぞうこ)にある。この雨華(うけ)紫雲(しうん)の奇瑞(きずい)は、(対馬まで槇尾山から)隨逐(ずいちく)していた明全(みょうぜん)法師〈道依明全。明忍の俗弟子。当時は浄人であったが明忍の遷化後、慶長十五年十月に平等心王院にて出家して沙弥となり、慶長十六年には賢俊良永など他十人と共に自誓受具して比丘となっている〉が直接語ったことであり、または対馬の国の俗人が上京のついでにこの寺に来たって語ったのを智城(ちじょう)〈慈雲智城〉が親しく聞いたことでもある。
ついに春秋(しゅんじゅう)五七(ごしち)〈三十五歳〉の花顔(かがん)〈花のようにうるわしい顔〉は、永く二三(にさん)の月〈六月〉と共に東黛(とうたい)〈泰山。支那で死者の魂が帰るところとされる山〉の雲となり、耀法(きほう)の威容(いよう)〈遺骸〉は初七(しょしち)の日に荼毘(だび)に付し、その煙はたなびいて西の山へと入っていった。毎日受用(じゅよう)されていた一体(いったい)〈鉄鉢〉は空(むな)しき室(むろ)に独り留まり、四儀(しぎ)所着(しょちゃく)の三衣(さんね)はその莚(むしろ)に残ってその主(あるじ)を失ったのだ。道依(どうえ)明全(みょうぜん)は掛け替えの無い宝を失ったかのような心地(ここち)でただ茫然(ぼうねん)としたが、それは夢(ゆめ)幻(まぼろし)のことでなかった。もはやそのお姿はどこにも無く、(道依は)遺物(ゆいもつ)ならびに僧正(そうじょう)御方への末後状(まつごじょう)〈遺言状〉を携(たずさ)えて、涙を流し泣き声をあげつつ(平等心王院へと)帰寺(きじ)してきたのである。その状にはこう記されていた。

一日一夜の出家の功徳は経に無限であると說かれます。ましてや私などのような悠々(ゆうゆう)とした愚かで俗なる者であっても、仏教に帰依して出家し、すでに十年以上を経た者であればなおさらであります。それらは皆全て尊師による訓導(くんどう)教化(きょうけ)(の賜物であって)、大なる恩です。そのようなことから私の分際(ぶんざい)に従い、(師への)報恩(ほうおん)謝徳(しゃとく)のため微力(びりょく)を日夜決して忘れずに尽くしてきました。我が今生(こんじょう)の命はまさに今没しようとしております。しかし、たとえこの一生が失われたとして、(律幢を立てんとする)生生(しょうじょう)世世(ぜぜ)の大願は、どうして盡きることが有りましょう。俊正(しゅんしょう)坊明忍(みょうにん)、遺言(ゆいごん)として誠に恐れながら謹(つつし)んで申し上げます。

六月五日
高雄山 晋海僧正阿闍梨(あじゃり) 御法前(ごほうぜん)

彼の病中に御所持の小杖には書付けがあるが、少々わかりにくいところがある。

何と遅くとも今三日の喜びか安々

(槇尾山の)衆僧の悲歎(ひたん)は察するに余りあるものであろう。(その訃報を得た晋海)僧正は、泣く泣く一首の和歌を詠まれた。

打(うち)見(み)よと かねのしもくの 筆の跡
まつ泣(なく)聲(こえ)そ もよをされける

また、御自作の「自誓(じせい)の血脈(けちみゃく)」がある。御草案(ごそうあん)に準じれば、慶長(けいちょう)十五年正月廿六日に造られたものである。草案には「敬図(きょうず)愛法(あいほう)明忍(みょうにん)」とお書きになっている。また讃の第一句は少しく違っている。その図にはこうある。

この図について、古目録(こもくろく)には通受(つうじゅ)血脈(けちみゃく)を題して「通別(つうべつ)二受(にじゅ)」と名づけられているけれども、(明忍師が具体的に何を意図して記されたか、その)祖意(そい)を察し難いため、(これを理解し得る後代の)多智(たち)〈智者〉の決判(けっぱん)を待つこととする。(しかし今は一応、その意について)あらあら愚解(ぐげ)を述べておきたい。釈迦大師が祇園(ぎおん)精舎(しょうじゃ)にて『善戒経(ぜんかいきょう)』を説かれ、通受の戒法を弥勒(みろく)菩薩に授けられた。このことに基づいて殊(こと)に(釈迦・弥勒の)二尊が挙げられている。そして、叡尊(えいそん)が通受(つうじゅ)自誓(じせい)を以て得戒したことを、「真系(しんけい)の正中脈(しょうちゅうみゃく)」としている。次に左右(さう)の二脉(にみゃく)は、「立儀(りゅうぎ)の継法(けいほう)」と「疏書(しょしょ)の依用(えよう)」であって、全く受戒の血脈ではない。三聚(さんじゅ)浄戒(じょうかい)のうち摂(しょう)律儀戒(りつぎかい)の受持は道宣(どうせん)と元照(がんじょう)の疏記(しょき)〈『行事鈔』や『資持記』など南山律宗の重要典籍の説〉に依る。後二(ごに)の戒〈摂善法戒と饒益有情戒〉は玄奘(げんじょう)と基(き)〈慈恩大師〉の解釈(げしゃく)に基づいていることから、これらが挙げられているのだ。
《問》どうして弥勒の下に南山(なんざん)大師を連(つら)ねているのか。
《答》三聚浄戒の中の摂律儀戒は全て五部(ごぶ)の律蔵(りつぞう)〈五部派が伝持した諸律蔵〉に基づいたものである。どうして(弥勒菩薩と南山大師とを連ねることに)乖違(かいい)があろう。ならば則ち、通受自誓の血脈は疑い無いものである。また讃にある「並呑(へいどん)」等の句はすべて雑(ぞう)であり麁(そ)である〈その大略を粗々示したもの〉。三聚浄戒の中に両祖(りょうそ)を兼ねてこのように言われているのだ。また草案における讃の第一句は「三聚(さんじゅ)帰一(きいつ)」とあるから、このことを考えるべきである 古録の通受書は彼(か)の島に明全(みょうぜん)があってこれを親しく伝えている。もし(通別)二受と名付けることが不可であるというならば、これは多先(たせん)の別受(べちじゅ)の血脈であり迦葉(かしょう)等の相承(そうじょう)〈伝律の系統〉であって、南山(なんざん)はその流派である。どうして弥勒(みろく)の下にこれを列(つら)ねているのであろうか。慈尊(じそん)〈弥勒菩薩〉を「通受と別受の遍学(へんがく)〈両者を兼ね学ぶこと〉の聖(ひじり)」とすると言っても、今に至る相承(そうじょう)的傅(ちゃくでん)〈嫡伝〉の血脈通(けちみゃくつう)は、濫(みだ)りに論ずべきでないであろう。また、叡尊(えいそん)は(弟子らへの授戒に際して)通別二受に必ずしも依っていない。どうしてその系脈を得ることが出来ようか。ならばこの図は、仮に叡尊師を挙げているけれども、試みにその密意を顕(あらわ)して自ら立てたものであろう。当寺〈平等心王院〉にて受法する者は、専(もっぱ)らこの血脈を仰ぐべきである。

また或る人が物語られたところによれば、(明忍律師は)常に『往生(おうじょう)要集(ようしゅう)』をお読みになっていたということである。御臨終(ごりんじゅう)のご様子から察すると、それも納得のいくことである。またその御筆跡(ごひっせき)を見たならば、慶長十三年五月廿二日の『四分(しぶん)戒本(かいほん)』の奥には、

すでに誓願(せいがん)を発(おこ)して渡海を欲した。もしそれを遂げられようと遂げられなくとも、(京に戻らず)必ず命終(りんじゅう)することを期す。

願状(がんじょう)には、

およそ発心はただ遠く未来際を期してのことではあるけれども、しばらく一期(いちご)に約して要誓する。

と書かれている。このようなことからすると、大智(だいち)律師〈元照。南宋代の南山律宗中興の祖〉の「生じては毘尼(びに)〈律〉を弘め、死しては安養(あんにょう)〈極楽浄土〉に帰せん」という御意楽(ごいぎょう)〈ご意志〉を学ばれたのであろう。たまたま一戒を受けた人であっても、なお(持戒の)恩浴に預かるのである。ましてやそれ以上を受けた人であれば尚更(なおさら)のこと。智者は自ら知るがよい。どうして(持戒の功徳を)さらに詳しく策励(さくれい)されることを待つ必要などあろうか。(いや、無い。智者は速やかに持戒し、自らその功徳を知るべきである。)
承應(じょうおう)元年〈1652〉夏、(平等心王院の)一衆(いっしゅ)は評議して絵所(えどころ)〈絵師〉木村徳應(とくおう)に命じ、(明忍師の)形像(ぎょうぞう)を書かせることとなった。同十一月中旬に完成。その讃に曰く、

内に秘密真言行を修し、外には菩薩の圓の律儀を炳(あかし)たり。
生々(しょうじょう)、法を弘めて廣く大願し、衆生(しゅじょう)を引導して安養に帰らしむ。

私〈不筌〉は、祖像の画図の砌(みぎり)、心蓮院に往詣して具さにこの事のあることを聞き、仍ち病気の良かなる間に厚恩をなすことを思念し、憶度(おくど)に任せて草書した。(明忍師の行業について)さらに聞き取りえた事柄があったならば、後賢〈後代の優れた人〉よ、どうかそれを加えてほしい。
承應元〈1652〉臘月十八辰 不筌(ふせん)

晋海僧正が土砂を加持せられた時、明忍等が土砂を濯ぐなどされたのだという。その時、僧正は「明恵(みょうえ)上人の力を頼むべし」と言われ、栂尾(とがのお)〈高山寺〉へ上人御加持の土砂を貰いに人を遣わし、僧正が加持された土砂の上に振り撒かれたということである。この出来事は、心蓮院(しんれんいん)〈宥厳〉が親しく見たと確かに語られた。(明忍師の)祖像を書く時、予〈不筌〉は直にこれを聞いた。今、高雄山〈神護寺〉の経蔵にある、いかにも細かな土砂がそれである。当寺にある封印された塗りの曲物(まげもの)に入れてある土砂がまた同じものであろうか。しかし、これは未だに確かめて見たことがないため不確かなことである。

恵雲(えうん)師が高雄山迎接院(ごうしょういん)にて死去された。その時、恵燈(えとう)〈全理恵燈〉をもって臨終の智識とした。(恵雲師が)衆僧に言われるには、
「入観〈修禅〉したまま死を迎えたいと思う。もし病苦によって入観を続けることが出来なくなったならば南無慈尊(じそん)〈弥勒菩薩〉と唱えるから、その時までは音をたてないように」
とのことであった。そのため、衆僧はただ静黙してその左右に侍っていた。しばらくすると弥勒の宝号が唱えられた。伴僧らが(「南無慈尊」と)同音に唱えるなか、恵雲律師は寂然(じゃくねん)として命終(みょうじゅう)された。

脚註

  1. 稱名(しゃうみゃう)念佛(ねんぶつ)

    特定の仏陀の名前を唱えて帰依し、表敬すること。ここでは「南無阿弥陀仏」と唱えること。▲

  2. 安養(あんにゃう)

    極楽浄土。阿弥陀仏の報土。▲

  3. 御眞翰(ごしんかん)

    真筆。▲

  4. 明全(みゃうぜん)法師

    道依明全。明忍が対馬に向かった際、ただ一人随行した人。ここで道依はすでに息慈(沙弥)であったかに記されているが、当時道依は沙弥で無かった。なんとなれば、西明寺に伝わる文書の一つ『禅語採要』(沙弥名籍)には、道依は賢俊良永と共に明忍没後の慶長十五年十月に入衆、すなわち沙弥となったことを伝えるためである。
    明忍のように比丘が旅に出る時、随行する者が沙弥など出家者のみで構成されていては厳密に律義を厳持することは困難であるため、普通は浄人といわれる在俗の比丘に側仕える者が随行する。そこで道依は当初から浄人すなわち在家信者として随行し、対馬での明忍の生活を助けたと見て違いあるまい。ただし道依の出自等についての伝承が無い。なお、道依が比丘となったのは慶長十六年〈1611〉であり、賢俊を含めた他十名と共に自誓受具してのことであった。元和二年〈1616〉八月廿七日没。道依の没後、元和四年にその実弟もまた平等心王院にて比丘出家し、閑宿了空と名乗った。▲

  5. 智城(ちじゃう)

    慈雲智城。既出。▲

  6. 東黛(とうたい)

    「黛」は支那の泰山の別称。五岳中、東方にあるところから「東黛」という。支那において人が死ぬとその魂魄が泰山に帰ると信じられていたことから転じて、墓地の意となり、日本ではまた転じて荼毘に付すこと、あるいは荼毘に付す場所を指していうようになった。▲

  7. 毎日受用ノ一體(いったい)

    日々に使用していた物品。清貧の生活を対馬に送っていた明忍にとって、それはただ鉄鉢や文房四宝など極限られたものであったろう。▲

  8. 四儀(しぎ)

    行・住・坐・臥の四威儀。日常の起居すべて。▲

  9. 三衣(さんね)

    比丘が必ず身近に備え、適切な場所・場面で着用しなければならない三種の衣。大衣(僧伽梨)・上衣(鬱多羅僧)・下衣(安陀会)。▲

  10. 茫然(まうねん)

    気が抜けててぼんやりとしている様子。▲

  11. 末後狀(まつごじゃう)

    遺言。▲

  12. 其狀(そのじゃう)

    西明寺に現存。▲

  13. 自誓(じせい)ノ血脈(けちみゃく)

    明忍が独自の構想に基づいて創案した自誓受戒相承の系図。西明寺に現存。▲

  14. 御草案(ごさうあん)

    明忍は「自誓ノ血脈」を創案するに、本書に描かれたもの以外にその試案(草案)を古紙の裏に大きく描いており、それはここで言及されるように少しく本書のものと字句が異なっている。具体的には偈文の第一句が「三聚帰一」、第二句が「戒身具足」となっている。これは「表無表章」を根拠として(通受により)戒体受得することが可能とした(覚盛、ひいては叡尊の)説に対する明忍の理解を言わんとしたものであった。▲

    画像:明忍「自誓血脈 草案」
  15. 善戒經

    『菩薩善戒経』。いわゆる瑜伽戒の本拠となる菩薩戒経。三聚浄戒とその構成・内容が説かれる。▲

  16. 眞系正中脉

    自誓受戒は現前の師なく、ただ自ら誓って受けるものであるから本来的に系脈も何もない。しかしながら、「比丘得戒を可能とする意味での通受」の典拠の一つとされた『菩薩善戒経』は、そもそも釈尊が弥勒菩薩を対告衆として説かれたものであり、本図において「釋迦→彌勒」との系統を通受について描くことに不都合ない。そしてまた自誓受についていう場合、誓いの対象として仏菩薩があり、また自誓受戒の可なることを具に明かした典籍が『瑜伽師地論』であって弥勒菩薩所説のものである。したがって自誓の系図として、その正中に彌勒→叡尊とすることに異論はない。また、これを仮に別受について云うならば、弥勒が菩薩比丘であったことは『大智度論』にて説かれるところであるけれども、しかしそうであるとして弥勒が誰らから受具したかを伝える大乗典籍は管見の限り知られないが、釈尊御在世の仏弟子として仮に「釋迦→彌勒」とすることに問題はないであろう。
    以上のことから、一般に解しがたく思われるであろう左右の系脈こそ問題となるであろうが、以下の一節にて不筌が展開している理解により、さしたる不審なく理解することが可能となる。
    明忍は、叡尊の遺した諸著作、特に当時すでに南都にて大きな問題とされた通受自誓受の正統性についても大いに興味を持ち、こうした系図によってその理解を表したものと考えられる。▲

  17. 立儀之繼法

    律(『四分律』)における継承の梗概を記したもの。
    『四分律』の正統を伝えたと信じられる南山律宗の最重要人物である道宣と元照から、(別受の相承は平安中期から鎌倉初期まで途絶しているが)その儀法(儀式次第、および律儀の具体的内容・解釈)は叡尊に連なっているとする理解を記したもの。▲

  18. 䟽書之依用

    三聚浄戒を通受自誓受することによって比丘性が成就し得るとした覚盛による解釈の根拠となった、『瑜伽師地論』や『大乗法苑義林章』「表無表章」など(法相宗の)重要な論書・注釈書の学系を示したもの。
    日本の平安中期には別受の相承は途絶し、したがって従来の理解ではその復興はもはや(支那に渡りでもしない限り)不可能と考えられていた中、法相の学系によってその復興が可能となったとする理解を記したもの。▲

  19. 三聚

    三聚浄戒。『華厳経』に触れられ、『菩薩善戒経』にて詳説され『瑜伽師地論』などにて解説される。「三聚」は律儀戒(摂律儀戒)・摂善法戒・饒益有情戒の三種をいうもので、いわゆる戒と律とを大乗の立場から包摂して説かれる。詳しくは別項「三聚浄戒」を参照のこと。▲

  20. 攝律

    摂律儀戒。三聚浄戒の一環として説かれる、七衆あるいは八衆それぞれの立場に応じて説かれる別解脱律儀を包摂して称したもの。たとえば比丘の律儀は一般に称される二百五十戒、比丘尼は五百戒、式叉摩那は六法、沙弥・沙弥尼は十戒、近住は八斎戒、優婆塞・優婆夷は五戒。▲

  21. 宣照之䟽記

    唐代の道宣と南宋代の元照ら、南山律宗における祖師による『四分律』の注釈書。道宣のものは天平の昔に鑑真などによって日本に初めてもたらされ、また鎌倉初期に(覚盛と叡尊と共に通受自誓受した)有厳が入宋して再度もたらされている。また元照のそれは平安末期に俊芿により請来された。いずれも律学に必須の書典で、後者は鎌倉期以降の律学に甚大な影響を及ぼした。▲

  22. 後二

    三聚浄戒のうち後二の摂善法戒と饒益有情戒。▲

  23. 奘基解釋

    玄奘とその弟子基とによる法相教学に基づいた律および菩薩戒理解。▲

  24. 五部之律藏

    仏涅槃百年後にあらわれた高僧、優婆毱多の弟子五人が分立した①薩婆多部(説一切有部)・②曇無徳部(法蔵部)・③彌沙塞部(化地部)・④迦葉遺部(飲光部)・。⑤婆麁富羅部(犢子部)がそれぞれ編纂し伝持した律蔵、との支那における伝承。
    ①・②・③は順に『十誦律』・『四分律』・『五分律』として漢訳され、⑤は(実際は異なるが)『摩訶僧祇律』がそれに該当すると考えられた。④は未伝であるが、『解脱戒経』がその戒本であるとされた。▲

  25. 迦葉等相承

    「迦葉」は摩訶迦葉で、それ以来の具足戒(比丘律儀)の相承。▲

  26. 叡尊者通別二受都不從

    叡尊は通受自誓受によって比丘性を得たとされるが、その九年後に覚盛から別受の創始(復興)の必要を説かれ、そこに二点の極めて重大な問題があったものの同調して別受を開始した。以降、叡尊は具足戒得戒にあたって通受であれ別受であれいずれか一方に拘らず実行しているが、その指摘。もっとも、特に西大寺の叡尊の後進らは別受よりも通受を自誓受を重要視する傾向にあった。▲

  27. 往生(わうじゃう)要集(やうしゅう)

    平安中期の天台僧、恵心僧都源信によって著された極楽の様相やその往生のための肝要などが説かれた書。三巻十章からなる。上梓されて後間もなく日本の僧徒ばかりか貴族社会にも広く読まれ、また支那にもたらされて、両国の仏教界に極めて大きな影響を与えた。▲

  28. 四分(しぶん)戒本(かいほん)

    『四分律』の波羅提木叉、いわゆる二百五十戒といわれるちょうど二百五十箇条からなる学処を簡便に列挙したもの。比丘・比丘尼にとって最も重要な日常儀式である布薩において暗誦される。比丘・比丘尼でない者には、それが沙弥であってもその内容の逐一を開示してはならないとされる。▲

  29. 大智ノ生弘毘尼死歸安養

    「大智」は南宋代の支那僧、大智律師元照。「生弘毘尼死歸安養」は「生きては毘尼を弘め、死しては安養に帰せん」と訓じる。
    元照は廃れていた道宣の南山律宗を中興すべく、それまで法相教学によって構築されていた筈の南山律宗教学に天台教学を持ち込んで再解釈した。同時に元照は自身が身体を壊した後に浄土思想に傾倒し、死後は極楽浄土に往生することを願っていたと言われる。これを近世の律宗徒らは非常に強く意識しており、また明忍がその死に際して声明念仏していたことを元照に重ね見ていた。▲

  30. 御意樂(ごいぎゃう)

    「意楽」は[S] abhiprāyaの訳で意図、意志の意。▲

  31. 繪所(えどころ)德應(とくおう)

    「絵所」は幕府に設けられた美術方。画所とも。「徳應」は木村徳應で、江戸前期における諸宗の祖師像を得意とした仏画師。京都の錦小路室町に住した。▲

  32. 土砂(どしゃ)ヲ加持(かじ)

    土砂加持、あるいは加持土砂とも。密教で光明真言によって土砂を加持し、病者に与えて病を癒し、あるいは亡者の遺骸や塔墓の上に散じて滅罪生善を期する法。『不空羂索経』などを典拠とするが、特に鎌倉期初頭、明恵上人によって広まった。▲

  33. 明慧(みゃうえ)上人

    明恵上人。中世鎌倉期初頭、華厳宗中興の祖とされる僧。神護寺の文覚の弟子上覚の甥で、その両者に師事した。紀州湯浅出身。槇尾山の北側栂尾山高山寺に居して名を馳せた。
    明忍は高尾山において明恵の直筆本を多く写本しており、明恵を敬愛していた。おそらく自誓受具して以白から明忍と諱を改めたのも、明恵から一字を得てのことであった。▲

  34. 心蓮院(しんれんいん)

    仁和寺心蓮院宥厳。既出。▲

  35. 高雄山迎接院(がうせふいん)

    神護寺の子院の一つ。慧雲はその死を迎える場所として律院僧坊として結界した平等心院は相応しくないと考えたためであろうか、あるいは看病の場として適切でなかったためであろうか、その最期の場所を神護寺迎接院に選んでいる。▲

  36. 惠燈(えたう)

    全理恵燈。慧雲の弟子。既出。▲

  37. 臨終(りんじう)の智識(ちしき)

    ここで「臨終」は、その死を以下に迎えるかの作法・式次第である臨終行儀の略。「智識」は、主導者・指導者。▲

  38. 入觀(にうくわん)

    観法を修して定(三摩地)に入ること。いわゆる深い瞑想に入ること。
    ここで慧雲がその死を迎えた方法は、明忍とは対照的である。明忍は極楽往生を願って(入観・観想でなく)称名念仏したのに対し、慧雲はその死を三摩地の中で迎えようとしていた。そしてその信仰対象は阿弥陀でなく彌勒であった。ここから彼ら近世における戒律復興の最初で最も重要な二人が、その信仰内容を必ずしも共有しておらず、たとえば元照に対する見方・態度についても異にしていたことが知られよう。それはまた、彼らが律宗や真言宗、あるいは法華宗など、特定の宗旨志向を有しておらず、あくまで仏教を復興するための礎として戒律復興のため力を尽くしていたことの証左の一つでもあろう。▲

  39. 慈尊(じそん)

    弥勒菩薩。釈尊の次、第八番目に現れるとされる未来仏。▲

明忍律師について

明忍伝