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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

Paṭiccasamuppāda(縁起)

諸部派における理解

業感縁起 ―上座部(分別説部)における縁起解釈

画像:モーゴウ・セヤードウ(Mogok Sayadaw)

ここでは分別説部ふんべつせつぶ、世間で上座部と通称される部派ではいかに十二縁起が理解されているかを紹介します。それに際し、ビルマの故Mogokモーゴウ Sayadawセヤードウ(右写真は大徳の死の直前、数時間前の姿)が、十二支縁起をヴィパッサナー瞑想の中に取り入れて、人々にこれを理解しやすいよう示していた図を日本語訳したものを示します。

四聖諦ではなく十二縁起をこそ修習の対象とするのは、五世紀中頃のセイロンにて分別説部の教理ならびに修道法を確立した大学僧Buddhaghosaブッダゴーサの説に一応基づくものですが、十二縁起を初めからヴィパッサナーの対象とすることはモーゴウ・セヤードウに特徴的な手法です。

モーゴウ・セヤードウは、在世当時から人々に阿羅漢であるとすでに信ぜられていた高僧です。その死後、荼毘に付されたあと、その遺骨が不思議な様相を示したということもあり、これを羅漢の舎利として祀り、現在においても人々は大徳への篤い信仰をもっています。

余談ながら、Sayādawセヤードウとは、ビルマにおける高僧一般の敬称です。Mogokモーゴウ とは、実のところ「モーゴゥッ」とカナ表記したほうが、よりその発音に近いのですが、ビルマ北西部はシャン高原北西部の山間部の町の名です。モーゴウは、世界で最も良質なルビーのビルマにおける産出地として世界的に名高い地です。大徳の僧名はVimalaヴィマラ ながら、特にその地の人々が檀越であったことからそう呼ばれます。ビルマでは誰か高僧とされる人が出た時、その人の出身地や出身寺院などの名をもってその僧の通称とする習慣があるのです。

日本ではこの地をモゴクなどと記述し、また呼ぶ者がありますが、これは日本の悪習たる、ただローマ字綴りに闇雲に従って実際の発音を全く無視したカタカナ表記に基づくものです。現地、あるいはビルマ人に対してモゴクなどと言っても誰も理解出来ません。東南アジアの言語ではほとんど総じてそうであるように、ローマ語綴りした場合の最後の子音はほとんどの場合発音されず、おおかた促音となります。

余談次いでとなりますが、最近世界的に著名となり、といっても上座部界隈での話ですが、日本でもやや知られるようになってきたPa Aukパ・アウ Sayadawセヤードウについても、日本人には何故かこれを「パオ・セヤドー」などという、現地ならびに世界でも誰も理解不能の、日本語風に訛っているというのではなく完全に誤った呼称を、どこまでも強いて用いている一類の輩があります。ビルマでパオなどと言っては、シャン州中部に住む少数民族パオ族(Paoh)のことだと思われるのが落ちです。実に、そのような一類の日本人らがいまだに為し続けている外国語の扱いは、粗暴で無知に満ち、またその言語や名に対する敬意もまったく欠けた悪習・陋習ろうしゅうであり、また不合理かつ非効率な愚行に他なりません。

さて、大徳が唱導していた独自のヴィパッサナーを教授するいわゆる瞑想センターは、ビルマ各地にその支部が多く建てられ、現在のビルマにおいてマハーシ系、ウ・バ・キン(レディー)系、パ・アウ系、スンルン系と数ある中でも、著名かつ有力なものとなっています。モーゴウ大徳亡き後、彼の弟子らによって運営されている瞑想センターにおいては、瑜伽者はまず以下の図などを用いた十二縁起についての講釈を必ず受けなければならず、その理解を瞑想のなかにおいて用いる、という手法が取られています。今現在これを継ぎ、取り仕切っているAunアウン Sanサン Sayadawセヤードウ曰く、「ビルマには数多く指導法・指導者があると言えど、自分たちの瞑想法が一番優れている」などと言っています。

この図はまた、ビルマにおいて著名なDhammakathikaダンマカティカ(説法師)たちが、十二縁起について在家信者らに説法する際にも頻繁に用いられています。故にこの図をもって、南・東南アジアには仏教国が数あるとは言え、そのなか最も保守的・伝統的なビルマの分別説部(上座部)において正しいと認知されている縁起理解の図として可なるものです。

(原図はビルマ語とパーリ語で描かれたものであり、またこれを英訳したものがあるが、以下はそれらを斟酌して日本語訳し、また原図は実に粗雑なものであるため、色使いなども含め若干見栄えを整理して改良したもの。)

図表:上座部における十二縁起解釈図(©viveka.site)

この図では、部右側の外縁から四段目、色を薄いオレンジ色にしている段に、釈尊が説かれた十二縁起を順に描いており、まずここから着目しなければなりません。その内周部と外周部に、それが如何に解釈されているか、あるいは如何様に互いに連関しているかが示されています。

しかし、率直に言って原図、そして原図の構成を改変せずただ見た目だけをやや整理して日本語訳したこの表も、図表としてははそれほど洗練されておらず、少々分かりにくい点があります。無論充分に時間をかけ説明されればなるほど、とし得るのですが、視覚的・直感的理解は望めそうにないものです。実際、ビルマの僧俗でも、説法でしばしば用いられているにも関わらず、この図が何を意味しているかを理解している人は限られています。

この図表が詳しく何を意味するか知りたい者は、分別説部の阿毘達磨を広く直接学ぶか、とりあえずその綱要書Abhidhammatthasaṅgaha(『摂阿毘達磨義論』)に当たるのが一番です。しかし、それは多くの人にとって取っ付きにくいものであるでしょう。ならば、この図を解説する原書もしくはその英訳本を読む必要があるかもしれません。

また二点、この図には不合理もしくは蛇足に思われる点も見られます。まず、輪廻は無始無終と言われるように始まりが無く(解脱しない限り)終わりも無いのですが、何故か上の図では転輪する縁起の輪の中に入っていく矢印が描かれています。次に、過去世と現世、現世と未来世とが連関したものであることを示すための矢印が描かれていますが、これが過去から現在、現在から未来と一方向ならわかるものの、双方向の矢印となっている。前者については、縁起の起点を一応示したものだと言い、後者はただその連関していることを示したものだと言いますが、これは視覚的・直感的に誤解を与えかねないもので、また特にこれを描く必要もないものだと考えます。

しかし、これについて今は一応、原図通りに改変せず、そのままとしています。いずれにせよ以上の図から理解できるように、分別説部では、縁起を過去・現在・未来の三世にわたって理解すべきものとして捉えられています。

煩悩に基づいた業の果として「私」という存在があり、またその「私」による業が、死を超えて「私」を生じ苦しませる、というこの縁起理解は、別に分別説部に特有のものではありません。これは声聞乗の諸部派にほとんど通じて見られる縁起理解なのですが、これを現在一般に、業感縁起と呼称します。

これについて、よく発せられる問いは「なにが最初の原因であったのか?そもそもの初まりは何か。無明だというならばそれは恒常普遍のものか」という如きものです。まず、世界の有限無限、始まりと終わり云々などについて、釈尊は考えるだけ無駄なことであるとして一切口を閉ざすという態度を取られています。しかし同時に、世界はいわゆる創造主などが創り上げたものでないこと、もしくは無因いわゆる偶然に起こったものでも無いこと等を説かれています。そのようなことから、輪廻は無始無終といって始まりも終わりも無い、とされます。

無明に基づくからこそ全ては生滅を繰り返すのですが、それは恒常不変のものではありません。

三世両重因果 ―説一切有部における十二縁起解釈

分別説部に同じく、上座部系の有力な部派であった説一切有部せついっさいうぶ(以下、有部うぶ)での縁起理解はいかなるものであったか。

有部の諸師は、縁起を広く様々な角度から解釈し、以下のような複数の仕方で理解しています。これは彼らの阿毘達磨蔵の典籍『 発智論ほっちろん』に対する注釈書『大毘婆沙論だいびばしゃろん』巻廿三において見られます(T27, p.117中段)。

説一切有部における四種の縁起理解
No. 漢訳 意味
Sanskrit
1. 刹那縁起せつなえんぎ 生命のある行為における、その着手(行動を起こそうと意思した時)から完了までの刹那(超短時間)に、十二支の縁起の過程がすべて備わると見る理解。
kṣaṇika
pratītyasamutpāda
2. 連縛縁起れんばくえんぎ 十二支の各支が順に連接し、前支が因となって無間に果として後支が生じ相続していると見る理解。無間は瞬間的・時間的にというのではなく、前支と後支との間に他のものが生じないとの意。
sāṃbandhika
pratītyasamutpāda
3. 分位縁起ぶんいえんぎ 十二縁起各支の体は五蘊であり、その各支の名の異なりは、その時々の五蘊において最も勢力の強い作用をもって名としたことによる、とする理解。
āvasthika
pratītyasamutpāda
4. 遠続縁起おんぞくえんぎ 分位縁起が、過去世から現世、現世から未来世へと生死を超越し相続して果てしない、とする理解。
prākarṣika
pratītyasamutpāda

以上の様に、有部では十二縁起を四種の仕方で理解していましたが、そのうち第三の分位縁起こそが、仏陀世尊の真意であると捉えられています。分位縁起とは、しばしば仏教の輪廻転生に関して議論される「何が輪廻するのか?」という問に対して、「輪廻するのは五蘊である」と云うものです。

しかし、世親はその著『倶舎論』の中で、『大毘婆沙論』に説かれるこれら四種の縁起説を挙げ、有部では分位縁起こそが仏陀の真意とされたものとしていることを紹介しつつも、特に分位縁起について疑義・不審を唱えています。経説と阿毘達磨説とが異なっていることに対しての疑義です。有部は、経説ではなく阿毘達磨説を先として採っているのです。

そこで世親は、『倶舎論』の中で有部の説を紹介するだけではなく、自身の理解をも開陳しています。それは当然ながら有部の説と異なったものとなっていますが、その異なりはそれほど大きくはありません。いずれにせよ十二縁起は三世にわたって説かれたものと、阿毘達磨説ではなく経説(『縁起経』)に従ってこれを明かしています。この態度は経量部に同様のものです。

さて、以下に示す有部における十二縁起の理解(遠続縁起)について、著名無名を問わず過去の仏教学者にはこのような輪廻を前提とした理解を釈尊の教えを貶めた理解だと盛んに批判する、いわば多くの断見論者らがありました。その昔、多くの仏教学者らは盛んに阿毘達磨はその意たる「勝れた教え」などでなく、いわば仏教精神の本来(?)そして現実社会からも乖離した独断的僧院的な、ただただ煩雑で無価値なものとの見方が多かったようです。

その影響をモロに受けた仏教徒・仏教愛好者・趣味仏教の人は少なくなく、いまだに彼らの見解をオウム返ししている人も多く見られます。

しかし、見方を変えれば、これは非常に洗練された優れたものとなっています。また、大乗の徒についても伝統的にもその学習が必須とされ、声聞の阿毘達磨の学習抜きに大乗を理解することは、およそ不可能となるでしょう。

図表:説一切有部の十二縁起解釈を示した聯関図

この図は最外周の枠において釈尊の説かれた十二縁起の順を示しているために、まずこれを基準として見なければなりません。

有部では縁起の十二支を、これは分別説部と同様ですが、前際・後際・中際の三際すなわち過去・未来・現在にわたって説かれたものであるとします。過去に摂されるのが無明と行、未来は生と老死、現世はそれ以外の八支です。

また、縁起には十二支あるとはいえ、これを約せば惑・業・事(苦)との三つ過程、あるいは因果の二つをその本性とするとします。惑とは煩悩の総称で、無明・渇愛・取がそれです。業は行そして有。は識・名色・六処・触・受・生・老死の七支で、惑と業に依って起こる事であるから事と言い、それはまた苦に他ならないことから苦ともこれを称します。因果の二つに十二縁起を約す場合、因となるのが無明・行・渇愛・取・有の惑と業の五支、果となるのが識・六処・触・受・有・生・老死の七支です。

ここに示した図表のごとく、過去の煩悩(惑)に基づいた行いを因、現世の生(苦)はその果、そしてまた現世での煩悩に基づいた行い(業)が来世の因となって、来世における苦なる生死がある。あるいは、煩悩(因)によって苦なる生死(果)がある、というのがその縁起法解釈です。

また、この現世での生を基準とした場合、我々は無明そしてそれに基づく行為、その果を生じさせる力すなわち「行」を原因として、また未来際に苦としての生からの連環を引き起こしていく。なんという恐るべき悪循環、苦しみの自転車操業ですが、娑婆の自転車操業ならいつか自壊して悲惨な終わりを迎え、あるいは自己破産してあらゆる商売から足を洗うという手もありますが、輪廻の場合終わりはありません。娑婆での「絶対に潰れない」自転車操業は、ありえるならばある意味理想的業態ですが、ありえません。

ここでは悲惨な状態がずっと、波の高低こそあるものの途切れることなく続いていきます。しかし、まさにこれが人の営みを示したものです。如何にしてこれを止めるか、この悪循環を止め得るのか。それは、上図に白矢印で示したように、人生を苦として受け止め、その循環の構造を知り、そしてその根となっている根本の原因を除くこと。すなわち受から渇愛そして取という過程を取らないこと、無明にもとづく行為を起こさないことです。

さて、このような、三世にわたって十二支それぞれが互いに因となり果となっているという理解を一般に、三世両重因果などと呼称します。

ところで、分別説部や有部以外のその他部派が如何様に十二縁起を解していたかの詳細は、それら他部派の典籍が部分的断片的のみ、あるいはほとんど伝わっていないことによって、今や知ることが不可能となっています。しかし、以上にわずかながら示したように、分別説部と有部の縁起理解は、それほど異なったものでなく、多く共通しています。日本では多くの仏教学者やその学徒らが勘違いしているようですが、十二縁起を三世に渡るものとして理解していたのはなにも有部に限ったものでありません。

中有について

ただ大きくは一点だけ、決して双方相容れられない点があります。分別説部が中有ちゅうう (antarābhavaアンタラーバヴァ)の存在を認めず、対して有部はこれを認めている点です。

死生二有中 五蘊名中有 未至應至處 故中有非生
死と生の二つの有の中の五蘊を中有という。未だ至るべき(次の)所に至っていないことから、中有は「生」ではない。

世親『阿毘達磨倶舎論』巻八 分別世品第三之一(T29, p.44b)

中有とは、生ある者が死を迎え、次の生を受けるまでのはざまにおける生でも死でもない有り方であることから、中有と言います。そしてこの中有における存在は、化生けしょうという、いわゆる精霊や神々、あるいは地獄の住人などと同様のあり方でのみあるとされます。

(*人には中有において解脱する者があることを示すために、有部の縁起図においては、現世と来世との中間にある中有に白星を描いています。)

これについての論争が世親『倶舎論』分別世品の前半において、比較的長々と展開されています。結論から言うと、世親は中有を認めない部派には、中有の存在を示唆する経説があるけれども、その主張の根拠となる経説と理証とが無いと断じています。

有部の中有説についてより詳しく知ることを欲する者は、この品(章)はまったく難解な云々に触れているものではないので、直接これに当たると良いでしょう。ここでの中有についての様々な議論は、おそらく現代の人にも相当に興味深く感じられるものと思われます。

なお、中有の存在を認めない部派とは、有部の諸典籍(『大毘婆沙論』・『異部宗輪論』)によれば、分別論者、大衆部・一説部・説出世部・鶏胤部、化地部であるとされています。対して、中有の存在を認めない分別説部では、その論書Kathāvatthuカターヴァットゥ(『論事』)にて、中有を説く部派として正量部しょうりょうぶ東山住部とうせんじゅうぶ大衆部だいしゅぶ系の名を挙げ、そんなものは存在しないと批判しています。

そこで問題とされているのは、経説にある中般涅槃(antarāparinibbāyin)という語についての解釈です。有部では中有というものの存在を認めているので、ある人々(中般涅槃ちゅうはつねはん不還ふげん)は死後の中有において解脱しうることを説いています。

いずれにせよ、双方が経説に依拠してその存在の有無論を展開しています。故に、あとは経説の解釈について論理的に整合性があるかどうか、という問題となります。が、互いに実証出来ない事柄であるので、実質的決着がつけられるものではありません。

中有についての有部の見解は大乗に引き継がれており、チベット・支那そして日本に通じて、中有があることを前提とした教義が各宗派において構築されています。そして、それにまつわる社会習慣も、今なお存在しています。

余談となりますが、現在の日本仏教において、中有は定めて七七日(四十九日)と当たり前のように言われています。しかしながら、実際は当時の説一切有部の学匠たちでも意見が別れていたことが知られます。実は、有部の正統説は「中有の期間は定まっていない(がそう長くもない)」で、必ずしも四十九日に限定されたものではありません。これは経説にそう説かれていることですが、例えば生前に堕地獄の業を作っていた者は、四十九日のんびり過ごすことなど無く、死んだ瞬間に地獄に生まれ変わるとされます。

如是中有爲住幾時。 《中略》
尊者世友言。此極多七日。若生縁未合。便數死數生。有餘師言。極七七日。毘婆沙説。此住少時。以中有中樂求生有故非久住。速往結生。其有生縁未即和合。若定此處此類應生。業力即令此縁和合。若非定託此和合縁。便即寄生餘處餘類。
(生あるものが死有を迎えた後)そのような中有に、どれほどの時間、留まるであろう。 《中略》
尊者世友〈Vasumitra. 有部の大論師の一人〉は、「その最長は七日である。もし(次なる)生との縁が合わない状態が続いたならば、(中有における化生として)死と生を繰り返す」と言う。ある他の師〈Śarmadatta. 有部の大論師の一人〉は、「最長は七七日」と言う。毘婆沙〈Vibhāṣā. 有部の正説〉では、「それが(中有に)住するのは短い時間である。(死を迎えた者が)中有にあっては生有を願い求めるものであるから永く住することはなく、速やかに(次なる)生を結ぶ。(しかし、)その(次なる)生の縁が中々和合しない場合があるが、もし(その業によって)ある処のある類に生じることが定まっていたならば、業の力はその縁に必ず和合させるであろう。もし和合する縁に定んで託されなければ、仮に他の処の他の類に寄生するであろう」と説かれる。

世親『阿毘達磨倶舎論』巻九 分別世品第三之二(T29, p.46b-c)

有部の中有に関する見解は、縁起法にそのまま関わっている事項でもあります。故に該当する箇所を直接読んだならば、多くの有益な往古の知識に触れる事となるでしょう。