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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

空海『遺誡』

訓読

高野贈大僧正遺誡後、詔諡により弘法大師と号す

もろもろ金㓻こんごうの弟子等にかたりたまふ。れ頭を剃り衣を染めたるを着るのたぐいは、我が大師薄伽梵ばがぼんみこなり。僧伽そうぎゃと呼ぶ。僧伽の梵名をば、翻じては一味和合等と云ふ。意云く、上下諍論しょうろんすること无くして長幼に次第有ることは、乳水にゅうすいわかたること無きが如し。仏法を護持することは、鴻雁こうがんの序を有るが如し。群生ぐんじょうを利益せむこと、能く己れを護るがごとし。即ち是を佛弟子と名く。

もし斯の義にことなれば、魔のともがらと名く。佛弟子は即ち是れ我が弟子なり。我が弟子は即ち是れ佛の弟子なり。魔黨まとうは則ち吾が弟子に非ず。吾が弟子は則ち魔の弟子には非ず。我れ及び佛弟子には非ざるは、いわゆる旃陀羅せんだらの悪人なり。佛法と國家との大賊なり。大賊は則ち現世に自他の利無し。後生には即ち无間むけんの獄に入る。无間重罪の人をば諸佛の大慈も覆蔭ふいんしたまふこと能はざる所なり。菩薩の大悲も救護くごしたまふこと能はざる所なり。いかいわんや諸天善神、誰の人か存念せむ。宜く汝等二三の金㓻子等、つらつら出家の本意をかへりみよ。誰か入道の源由を尋ねむ。

長兄は寛仁を以て衆を調のへ、幼弟は恭順を以て道を問ふべし。賤貴を謂ふことを得ざれ。一鉢単衣いっぱつたんねにして煩擾ぼんにょうを除き、三時上堂に本尊の三昧を觀ぜよ。五相入觀にすみやかに大悉地を證す。五濁ごじょく澆風ぎょうふうを變じて三覺の雅訓を勤め、四恩の廣徳をむくひて、三寶の妙道を興せよ。 此れ吾が願なり。自外の訓誡はひとつにして顕密二敎の如とし、違越いおつすることなかれ。もしことさらに違越せば五大忿怒十六金㓻、法に依て捻極でんごくしたまふべし。善心の長者等は、内外の法律に依て治擯ぢひんすべし。一を以て十を知れ。わずらわし多言たごんせず。

承和元年五月廿八日遺誡

現代語訳

高野贈大僧正遺誡〈『承和遺誡』〉 後、詔諡により弘法大師と号す

諸々の金剛〈金剛乗.密教〉の弟子等に告げる。そもそも頭を剃り、衣の(壊色に)染めたのを着ける類は、我が大師たる 薄伽梵ばがぼん〈bhagavān. 世尊〉みこである。(このような者達の集いを)僧伽そうぎゃ〈saṃgha. 比丘あるいは比丘尼の集団・組織。〉と言う。僧伽という梵名を、(漢語に)翻訳すると「一味和合」等という。その意は、(出自の違いなどによる身分の)上下で諍論することなく(出家し具足戒を受けてからの年数による)長幼の次第 〈席次の秩序〉があること、あたかも(一つに混ぜられた)乳と水とが分離しないようなものである。(そのようにして)仏陀の教えを護持することは、鴻や雁(の群れが空を飛ぶ際に)整然としているようなものである。群生ぐんじょうを利益することは、よく自己を護るようなものである。すなわち、これを仏弟子という。

もしこの義に異なっていたならば、「魔のともがら」と名づける。仏弟子はすなわち我が弟子である。我が弟子はすなわち仏弟子である。魔党まとうは我が弟子ではない。我が弟子はすなわち魔の弟子ではない。我および仏の弟子でない(にもかかわらず我が弟子・仏弟子を語る)者は、いわゆる「旃陀羅せんだら〈caṇḍāla. 元はインドの四姓制度における最下級層の呼称。ここでは「行い賤しき者」の意〉の悪人」である。仏陀の教えと国家との大賊である。大賊には現世における自他の利益りやくは無い。後生にはたちまち無間に生まれ変わるのだ。無間に落ちる重罪の人は、諸仏の大慈によっても覆蔭ふいん〈覆うこと。ここではその罪業を消し去ること〉したまうことは出来ない。菩薩の大悲も救護したまえるものではない。ましてや諸天や善神など、誰が(そのような罪業ある者に)思いをかけることがあろうか。よろしく二、三の金剛子らよ、つらつら出家の本意を顧みよ。他の誰が(自らが)入道した源由を尋ねられようか。

(出家して久しい)長兄は寛仁かんじんを以て衆徒をまとめ、(出家してまもない)幼弟は、恭順を以て(長兄と同胞らに)道を問え。(その出自の)卑賤・尊貴をもって(僧伽における高下を)謂ってはならない。一つの鉄鉢と袈裟衣だけの生活によって煩擾ぼんにょう 〈煩悩.煩擾悩乱〉を除き、三時〈早暁・日中・夕刻〉に仏堂に入っては(三密瑜伽法のいずれか)本尊の三昧〈samādhi. ここでは諸尊にそれぞれ象徴される特定の教義〉を観ぜよ。五相成身観〈『初会金剛頂経』における核心〉を修せば、大悉地を証すであろう。五濁ごじょく〈末世において生じる五種の騒乱・危機〉はびこる道理の破れた世情を変じて三覚さんがく〈saṃbodhi. ここでは正等覚者で「仏陀」の意であろう〉の雅訓を勤め、四恩〈父母・国王・衆生・三宝〉の計り知れない徳に報いて、三宝〈仏教〉の優れた道を興隆せよ。これが我が願いである。これ以外の訓誡は、ただ一つであって顕密の二教〈顕教と密教〉に同じである。(我が願い、仏陀の教えに)違越することなかれ。もし故意に違越すれば五大忿怒や十六金剛が、法に依って相応の処分をなすであろう。善心ある長者〈大寺院の住職、管理者〉等は、(僧伽の秩序である長幼の除を乱す者を)内外の法律〈内の法律とは『四分律』と『瑜伽論』および『梵網戒』、外は「僧尼令」〉に依って治擯ぢひん〈追放や隔離など処断すること〉せよ。(私の言う)一を以て十を知れ。(これ以上、私は)わずらわしく多言しない。

承和元年五月廿八日遺誡