同大師重誡
語諸弟子等。凡出家修道本期佛果。不更要輪王釋梵家。豈況人間少少果報乎。發心遠渉非足不能。趣向佛道非戒寧到。必須顯密二敎堅固受持清淨戒莫犯。所謂顯戒者三歸五戒及聲聞菩薩等戒。四衆各有本戒。密戒者所謂三昧耶戒。亦名佛戒。亦名發菩提心戒。亦名无爲戒等。如是諸戒十善爲本。所謂十善者身三語四意三也。攝末歸本一心爲本。一心之性与佛无異。我心衆生心佛心三无差別。住此心即是修仏道。乗此寳乗直至堂塲。若上上智觀即身成佛之經路。上智觀則三大證果。中智觀者緣覺乗。下智觀者聲聞乗也。如是諸戒不具足恵眼暗冥。知此意如護眼命。寧弃身命此戒莫犯。若故犯者非佛弟子。非金㓻子。非蓮花子。非菩薩子。非聲聞子。非我弟子。我亦非彼師。与彼泥團析木何異矣。師資之道子相親父子。雖骨肉相親但是一生之愛。生死之縛。師資之受法義相親世間出世間拔苦与樂。何能比况。所以慇懃提撕示之迷衢。若随我誡即是随順三世佛誡。是則仏説不是我言。諸近圎求寂近事童子等奉行此戒精修本尊三摩地速超三妄執證三菩提。圎滿二行拔済四恩。所謂冒地薩埵豈異人也。違我敎即違諸佛敎。是名一闡提。長沉苦海。何時得脱。我亦永不共住語。徃去莫住。徃去莫住。
弘仁四年仲夏之月晦日也。
高野贈大僧正遺誡
同大師重誡
諸の弟子等に語たまふ。凡そ出家修道の本は佛果を期す。更に輪王・釋梵の家を要せず。豈に況や、人間の少少の果報をや。心を遠渉に發することは、足に非れば能はず。佛道に趣向することは、戒に非しては寧ろ到んや。必ず顯密二敎を須て堅固に清淨の戒を受持して犯ずこと莫るべし。 いはゆる顕の戒とは三歸五戒、及び聲聞・菩薩等の戒なり。四衆に各本戒有り。密の戒とはいはゆる三昧耶戒なり。また佛戒と名く。または發菩提心戒と名く。また无爲戒等と名づく。是の如くの諸戒は十善を本とす。いはゆる十善と者は、身の三、語の四、意の三なり。末を摂しては本に歸し、一心を本とす。一心の性は佛とは異なることなし。我が心と衆生の心と佛心との三は差別なし。この心に住するは即ち是れ仏道を修するなり。この寶乗に乗れば、直に堂塲に至る。 もし上の上智觀は即身に佛と成る經路なり。上智觀は則ち三大に果を證す。中智觀の者は緣覺乗なり。下智觀の者は聲聞乗なり。 是の如きの諸戒を具足せざれば恵眼暗冥なり。この意を知て眼命を護るが如くすべし。寧ろ身命をば弃つとも、この戒をば犯すこと莫れ。もし故に犯ずる者は、佛の弟子にも非ず、金㓻子に非ず、蓮華子に非ず、菩薩子に非ず、聲聞子に非ず、我が弟子にも非ず、我もまた彼が師にも非ず。彼と泥團と析木と何の異なることあらむや。師資の道の子は父子よりも相ひ親し。骨肉は相ひ親と雖も、但だ是れ一生の愛なり。生死の縛なり。師資の受法の義の相ひ親しきことは、世間出世間に拔苦与樂す。何ぞ能て比况せむや。所以に慇懃に提撕して、この迷衢に示す。 もし我が誡に随はば即ち是れ三世の佛誡に随順す。是れ則ち仏説なり。是れ我が言にはあらず。諸の近圎・求寂・近事・童子等、此の戒を奉行して精しく本尊の三摩地を修して、速かに三妄執を超て三菩提を證せよ。二利を圎満して、四恩を抜済すべし。いはゆる冒地薩埵といふは、豈に人に異ならむや。我が敎に違せば、即ち諸佛の敎に違しぬ。是を一闡提と名く。長く苦海に沉べし。何の時にか脱すことを得む。我また永く共住して語らはじ。徃去せしめて住すこと莫れ。徃去して住すこと莫れ。
弘仁四年仲夏之月晦日也。
高野贈大僧正遺誡
輪王は転輪聖王の略で、印度古来の伝説的王。武によってでなく法によって世界を治める王とされる。釈梵は帝釈天と梵天の略で、いずれも印度における最も強力な神々の一。ここでは、いずれも世俗的地位・名誉を求めること、あるいはその境遇に生まれ変わることを意味し、世俗的な欲望の究極の例として挙げられている。続く「人間少少の果報をや」は、出世して財産を得るなど、世俗でのより良い暮らしを望む事を「少少」とする。
異本では「梵釈」。▲
旧『弘法大師全集』(旧版)では「必須顯密二戒堅固受持清淨莫犯(必ず須く顕密二戒を堅固に受持して清淨にして犯莫るべし)」とあり、また異本には清淨が「浄戒」とある。
本稿で底本とした『定本 弘法大師全集』が「清淨の戒を受持して」を正しいとし、また訓じている点には不審がある。そもそも「持戒清淨」などと戒律に関して「清淨」というのは、物理的・精神的に「清らか」であることを意味せず、「戒あるいは律の規定に対して違反のないこと」が意味される。したがって、「清淨」は戒を形容する語ではなく、むしろ「持戒」に係る語とするべきであろう。すなわち、この一節はむしろ旧版が文章および語として正しく、しかし「必ず須く顕密二戒を堅固に受持すること清淨にして犯莫るべし」と読むのが適切であろうと思われる。▲
三帰は三宝に帰依すること、三帰依の略で戒ではないが、戒を受ける前にまずなすべきことであることからしばしば併せて挙げられる。五戒は仏教徒、在家信者としてもっとも基本的な、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒という五つの戒。▲
「教えを聞く人」の意で、これに大乗も小乗もなく仏弟子全般を指す語。しかし、大乗ではこれをしばしば小乗の出家修行者の呼称に充て、大乗より低い境地に留まる者と見なす伝統がある。声聞の戒とは、一般に具足戒といわれる律儀の事で出家修行者に限って説かれたもの。これにおよそ250項目の禁止事項や規定があることから二百五十戒などと言われる。そもそも戒と律とは根本的に異なる意味内容を持つ語であるが、支那以来、戒と律との意味が混同され、しばしば訳語にそれが如実にあらわれている。空海も、両者の違いを正確には理解していなかったことが、たとえば『三摩耶戒序』などによって知られる。▲
[S].bodhisattvaの音写、菩提薩埵の略。悟りを求める人の意。特に大乗の修行によって最高の悟りを志向する者。小乗では悟りを開く以前の釈尊を指す。
菩薩の戒とは、日本では一般に『梵網経』に説かれる十重四十八軽戒いわゆる梵網戒と、『瑜伽師地論』所説の四重四十三軽戒いわゆる瑜伽戒が伝わり、空海の当時も行われていた。▲
比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四つの集まり。それぞれ、男性出家修行者・女性出家修行者・男性信者・女性信者を意味する。この言葉でもって「仏教徒全体」を意味する。もっともよりつぶさには七衆と言う、その立場に応じて七つの別がある。これは、出家修行者に男性に二、女性に三と、五つの別があるためである。いずれにせよ仏教徒全体を指す言葉。▲
密教修行者の保つべき戒。顕教の戒と異なり、釈尊が説いたものでなく大日如来が説いた戒。いかなる内容のものかは空海『三昧耶戒序』に詳しい。
異本では「三摩耶戒」。▲
『大智度論』の「十善為総相戒(十善を総相戒とす)」(T25, p.395b)に基づいた語。▲
「三大」は三大阿僧祇劫の略。阿僧祇とは数えられないほどの数、劫は時間の単位であるが、ほとんど無限かとも思われるほどの宇宙的時間を意味する。経典では三大阿僧祇劫がどれほど長い時間かを譬えるのに、「天人の羽衣の譬え」や「芥子粒の譬え」が用いられる。顕教(一般大乗)では、ほとんど無限の時をかけて修行しなければ仏陀になることは出来ないとされることの謂。▲
ただ独り修行して、師の導き無くして悟りに至ろうとする修行者あるいはその教え。一般に小乗と分類される。▲
師の導きによって修行し、悟りに至ろうとする修行者あるいはその教え。一般に小乗と分類される。▲
師匠と弟子。「資」は弟子の意。▲
師が弟子を教誡して導く事。▲
衢は、岐路あるいは世間の意。ここでは「迷える弟子達」、あるいは「混迷した世間」の意としても可であろう。▲
比丘に同じ。具足戒を受けた正式な仏教の出家修行者。大僧とも称。▲
沙弥に同じ。普通廿才未満で、具足戒を受けていない見習い出家修行者。身体的欠陥があるなど諸条件を満たせず比丘になることが出来ない者は沙弥として留まるため、廿以上の高齢の沙弥も存在する。▲
在家信者。一般的には男性を優婆塞、女性を優婆夷と称する。▲
近円(比丘)が戒律を護って生活するための助けとなるべく、僧団にあってその雑事に従事しあるいは学問する、出家が許されていない13歳以下の年少者。いずれ出家する者と、そうでない者があったという。
平安中期から末期からは「寵童」いわゆる僧侶の男色の対象とされる向きがあった。俗悪の説に「寵童の初めは弘法大師」というものがあり、これは鎌倉期からまことしやかに言われているが根拠はなく、あくまで俗悪説に過ぎない。▲
[S/P].samādhiの音写。三昧・定に同じ。ここでは三密瑜伽法の意。▲
我執・法執・無明執。▲
saṃbodhi. 正等覚。▲
自利と利他。自身と他者の利益。▲
bodhisattva. 菩提薩埵・菩薩に同じ。▲
[S].icchantikaの音写。仏の教えに触れたとしても決して悟りに至る事はない者の意。漢訳に断善根などがある。これを未来永劫に決して悟り得ない存在と見るか、この世における一生のものと見るかは、仏教諸派あるいは人によって一致しない。その他の著作から判ずるに、空海は後者の見解を採っているであろうが、ここでは単に「救いようのない者」といった意味で用いられているか。▲