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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

空海『遺誡』

空海『遺誡』解題

弘仁と承和の遺誡

ここで紹介する『遺誡ゆいかい』とは、先の明治四十三年にその初版が発行された『弘法大師全集』において『遺誡 出家修道』と『遺誡 剃頭染衣』と題されていた別々のものが、平成八年に新たに編纂された『定本 弘法大師全集』において空海真作として一つにまとめられ、その第七巻に収録されたものです。

時系列からいくと前後が顛倒していますが、その最初は空海が没する前年の承和元年〈834〉五月廿八日になされたとされるものであり、二つ目が弘仁四年〈813〉仲夏之月晦日になされたものとされています。今一般に、前者は承和年間のものであることから『承和遺誡じょうわのゆいかい』、後者は弘仁年間のものであることによって『弘仁遺誡こうにんのゆいかい』と称されています。その説かれた年代が正しいならば、互いに二十二年の開きあるものです。

もっとも、『承和遺戒』は、空海の残した書簡や詩文・願文・碑銘などをその弟子真済が編纂した『遍照発揮性霊集へんじょうはっきせいれいしゅう〈呉音では「へんじょうほっきしょうりょうしゅう」。ただし、当時は桓武帝の意向により漢音を用いるべしと勅によって定められていたため、ここでは漢音の読みを採用〉第九巻「高尾山寺擇任三綱之書(高雄山寺の三綱を択び任ずる書)」の中に同文があります。そこでは「弘仁之年季冬之月」に語られたものであるとされており、『承和遺戒』が承和元年に説かれたとするのと撞着しています。

また『弘仁遺誡』は空海が38歳の時、弘仁三年〈812〉十一月十五日に高雄山寺において開いた金剛界灌頂および同年十二月十四日の胎蔵灌頂、そしてまた翌四年〈813〉三月六日に行われた金剛界灌頂を受けた弟子達にあらためて教誡したものであろう、などと現代の学者でいった人もあります。

古来、空海の教誡あるいは遺誡であるとして伝えられたものに諸本あり、近代以降はそのうち六本が真作であろうと目されていました。就中、中古から非常に重要視されてきたのが『御遺告ごゆいごう』といわれるもので、廿五箇条からなる空海の自叙伝から自身の死後における弟子の処遇に言及した遺言があります。そして、その真蹟とされるものが、高野山金剛峯寺の御影堂みえどうに収蔵されています。ただし、これについてはすでに明治期、空海の遺志を汲んだものではあろうが真作ではなく、したがって真蹟でもないとの見方が生じています。では何が真作であったろうかと注目されたのが、『弘仁遺誡』と『承和遺誡』でした。

ただし、近年はこれら二つの遺誡すらも空海真作のものでは言い難い、との意見が学会に提出されています。しかし、学術的に云々などここでは置き、それら両遺戒は、真言宗徒に限らず密教を受法して相承した他宗、そしてまた仏教徒全体にすらも通じて言える言葉であり、その故になお尊重すべきものです。

両遺誡の相違点 ―持律と和合

『弘仁遺誡』と『承和遺誡』のいずれも、広くは出家者として戒律を護持することのすこぶる重要にして不可欠なことが述べられた教誡です。とはいえ、これは後に示す中世の叡尊がすでに指摘していたことですが、前者は出家者それぞれ個人がその護持する律儀を遵守すべきことの重要性を説くものであるのに対し、後者はむしろ出家者の集団つまり僧伽として律の規定に違わずその秩序を正して和合することを説いたものとなっています。

空海は、『弘仁遺誡』において、仏弟子であってまた自身の弟子である者でありながら律儀を護持しないのであれば、「もしことさらに犯ずる者は、佛の弟子にも非ず、金㓻子に非ず、蓮華子に非ず、菩薩子に非ず、聲聞子に非ず、我が弟子にも非ず、我もまた彼が師にも非ず。彼と泥團でいだん析木しゃくもく と何の異なることあらむや」と厳しい態度を示し、さらにそのような者を「一闡提いっせんだい」であると断じたうえで「我また永く共住ぐうじゅうしてかたらはじ」といって、共にあることを拒絶しています。

一闡提いっせんだいとは、[S]icchantikaの音写で、「望む者」を原意とする語です。しかし、仏教においては「断善根」であるとか「信不具」の意とされ、一般に決して菩提に至ることの無い者を指す言葉として用いられます。

そこでまた『弘仁遺誡』は、空海の(あるいは古代の真言宗における)戒律観がよく表れたものとなっています。これは仏弟子それぞれの立場に対して説かれている戒あるいは律を厳守すべきであるとの仏教徒として当然の主張であり、同時代、戒律について極めて特殊な理解をして独自の主張を展開し、従来の戒および律の放棄を表明してなお僧侶たり得るとした最澄とは対称的なものです。最澄の主張が印度および支那そして日本でも前代未聞の突拍子もないものであったのに対し、空海のそれは密教独自の三昧耶戒の護持も必然的に強調してはいますが、真言宗であるからなどといった派閥意識を特に含まない、仏教として伝統的・常識的な態度でした。

次に『承和遺誡』においては、律の規定にそむいて僧伽の秩序を乱す者を、仏弟子ではなく「魔のともがら」・「魔党」であるといい、あるいは「旃陀羅悪人せんだらあくにん」であると強い口調で断じ、これを厳に戒めることを主眼としています。

(余談ながら、空海が「旃陀羅せんだら」すなわちCaṇḍālaチャンダーラというインドの四姓制度における最下級民の呼称を平安期の昔に用いていたことは、昭和中頃から平成の世にかけて共産主義者など左派の左巻き等によって糾弾の対象とされています。彼らは、現代における価値観をもって過去の事象を取り上げて断じ大声を張り上げ、現代の組織に対していわゆる「総括」・「自己批判」を強いることを、ややもすればゆすりたかりの種としその生業にしたのが多くありましたが、それも今は昔の物語です。)

ここで僧伽の秩序とは何か。それは、『承和遺誡』でも言及されていることですが、一般に「一味和合」です。では一味和合とは何か。それは、「自他に非があれば、これを情に依らず律に照らして相応の処断を下し、皆が規律に従った上で僧伽における行事や会議に全員参加して一致すること」を意味します。

より具体的に一味和合とは、六和合あるいは六和敬ろくわきょう を以てすることです。六和合とは、比丘が互いに①身(礼拝)・②口(讃嘆)・③意(信心)・④戒(戒律)・⑤見(見解)・⑥利(施食・寄進)の六点について等しく、皆が共有し同一とすることであって、これらを護持することにより僧伽が運営され保たれます。これもまた律儀を皆が備えていることを大前提としたものです。

また、僧伽における長幼の序とは、これも律の規定によるのですが、一秒でも先に具足戒を受けて比丘となった者が上座となる、という一点のみによって決定されるものです。では上座とある者がそれだけで下座に対して横柄な態度を取り得るかといえば決してそういうことはなく、上座としてより多くの教養を具えることや寛容さ、責任ある行動とが要求されます。下座は下座で、出家する前の家柄など出自の高低貴賤といった価値観を完全に捨て、一瞬でも先に比丘となった上座に対して敬意を払い、また経験と教養・智慧の浅いことを自覚し謙虚な姿勢であることが求められます。

そして、特に僧伽における師と弟子との関係について述べておけば、これも律において非常に具体的に「和上法」と「弟子法」として定められています。師匠が弟子の誤っている点を指摘し正すのは勿論ですが、師が明らかに誤っている、その見解や行いに非があるのであれば、弟子はそれを諫言して正すよう、義務として求めなければなりません。「師は白いものを黒いと言っていますが、それは明らかに誤りです」と。仏教における師弟の関係は、実の親子に比せられるものではありますが、それは決して一方的に盲従すべきものなどとされていません。事実はその真逆です。

ところが、現今の日本における僧職者のほとんど皆がこの僧伽における「一味和合」の意味を自己勝手に解釈し、「他者の非をみて責めず争わず。他者も我が非をみて叱責せず。波風たたせず、馴れ合うこと」などといったいわゆる事なかれ主義、あるいは悪平等的な意味あいのものとして理解しています。

そして師弟の関係性については、「師が黒いものを白いといったならば弟子も白いと言わなければならない」であるとか、「師匠の言うことは絶対で、それがたとい不合理で誤ったものであっても、弟子がそれに従うのは義務である」などという実に倒錯した理解を、これはいつ誰がそのように言い出したことかしりませんが、当たり前のようにしている愚かな僧職者が非常に多くあります。

さらにまた、日本の寺家は、特に大戦後以降に公然と妻帯・世襲するようになり、跡を継ぎ得る男子の無い寺院にその次男・三男を養子に出し、あるいはその後継ぎに自らの娘を嫁すなどして一族血統を形成するようになっています。そこで今や、それなりの財力・資産を有する大寺院の多くが互いに親戚同士であることは決して珍しくありません。すなわち、日本の寺家は、釈尊がその昔に批判し否定した、印度におけるバラモン階級のような存在となってむしろそれを誇ってすらいます。そこで、これは非常に滑稽なことであるのですが、人が寺家出身か在家出身か、あるいは寺家でも都会の大寺であるか地方の貧乏寺であるかの出自で判断することがごく当たり前に通用しています。

したがって、彼らのいう一味和合あるいは和、そして師弟というものは、そのような構造を前提とした上での事大主義的協調あるいは封建主義的協調、そして単なる盲従です。

しかし、それはこの『遺誡』においても言及されているように、一味和合とはそのようなものではなく、彼らの主張するそれは大変愚かな誤解であり誤認です。繰り返しますが、仏教における和合とは、律を受けた者が、皆揃ってその規定に従って行動し、何か誤りがあった場合にはやはり律によって対処・処断することです。それぞれが戒も律も護持せず、ただ事なかれ主義や事大主義によって馴れ合うこと、その上辺だけの協調を取り繕うことは「和合」ではなく「烏合うごう」に過ぎません。

『承和遺誡』において「長兄は寛仁を以て衆を調のへ、幼弟は恭順を以て道を問ふべし。賤貴を謂ふことを得ざれ」とわざわざ言及されているのは、当時は僧の立場が貴族化し、さらに皇家・公家が次々出家するようになって俗世の階級を出家社会に持ちんだことにより、その出自によって僧の高低を判じ、僧伽におけるあるべき秩序を乱す者が多くあったからこそ言われたものであろうことが伺われます。そしてそのような事態が実際に生じていたことが、それは空海が亡くなってから四半世紀以上後のことではありますが、真言宗内部というより日本仏教界にあったことを証する記述が正史〈『日本三代実録』〉にあります。

烏合を良しとする態度や出自による差別など仏の教えにはなく、それを行う者は仏弟子ではありません。

また、「善心の長者等は、内外ないげの法律に依て治擯ぢひんすべし」とあるのは、当時は「内」すなわち仏教の律(『四分律』)や菩薩戒(瑜伽戒・梵網戒)による自治だけでなく、「外」すなわち世法として「僧尼令」が布かれて僧尼および寺院が統括されていたことを反映した言です。治擯ぢひんとは、律儀を持たず、僧伽の和合を乱す者は、『弘仁遺誡』でも「共住して語らはじ」とあるように、定められた規定に従って追放あるいは隔離の処断を意味する言葉です。要するに、馴れ合いや人情でなく、仏陀によって定められた合理的で明瞭な規定に従って物事を処断し、僧伽を運営すべきことを言ったものです。

空海は、『承和遺誡』の最後に具体的なことをそれ以上は言わず、「一を以て十を知れ、煩く多言せず」と結んでいます。実際、これはそもそも数多の仏典に明瞭に、そして事細かに説き示されていることであって、本来は空海がわざわざ一から十まで言う必要などないものでした。しかし、曰く「大道廃れて仁義あり」、当時の真言宗内にそう言わなければならない事態が生じていたからこそ敢えて言及した、ということであるでしょう。

中世の戒律復興の発端

空海やその直弟子達が生きた平安期初頭は、天台宗の大乗戒問題が生じてはいたものの、いまだ鑑真の渡来によってようやく果たされた律儀は大勢としては護持され、また律令の中で布かれていた「僧尼令」もかろうじて機能していました。しかしながら、空海が没した承和三年から三十年の後には、すでに戒壇院における如法の受戒制度は崩壊しており、それに空海の孫弟子で僧綱職にあった慧運がそのあまりの惨状に苦言を呈していたことが知られます〈『日本三代実録』〉。以降、急速に日本仏教において戒律は実行だけでなく学問としても蒸発して消え去り、そのまま長い月日を経ていくことになります。

ところが、平安末期となると興福寺の学侶であった中川上人実範によって戒律復興の端緒が先ず付けられ、後にその遺志を解脱上人貞慶じょうけいが継いで律学が復興されています。そしてついに嘉禎二年〈1236〉叡尊えいそん覚盛かくじょうなど四人により、と言っても結局その主要な者は叡尊と覚盛の二人となるのですけれども、実を伴った戒律復興が成し遂げられたのでした。そして実は、その戒律復興が実現する大きな契機の一つとなっていたのが、空海の教誡として伝えられていた『弘仁遺誡』ならびに『承和遺誡』の存在でした。

なんとなれば、その四人の中では最年少でありながら、その後に最も世間から信仰され大きな影響力を持つこととなる叡尊が、空海のそれら遺誡を読んだことによって持戒の不可欠であることに気づき、また密教への確信を得ることとなっているためです。その経緯は叡尊自らによる日記、『金剛仏子感身学生記こんごうぶっしかんじんがくしょうき』によって知られ、そこにはそれぞれの大部分が引用されて、叡尊がなぜ戒律復興を志すようになったかが記されています。

(* 叡尊が引用したものと現在伝わる『遺誡』の文言とはその極一部が一致しておらず、したがって本稿で紹介する『遺誡』とも合致しない点がありますが、ここでは叡尊の引用したままを示しています。)

 三受学戒律事
文暦ぶんりゃく一年甲午卅四歳
凡奉受印可後十ケ年間或面受口決或書写尊法或披覧本経或談教相稽古随分不休修行経日無怠無深信心於此教常有残一疑殆禀承嫡々行者多堕在魔道猶如身子将非魔作仏悩乱我心耶如是思惟已経年月未生決智屡勘密終自憶不持浄戒不入七衆非仏子故
《中略》
弘法大師遺誡曰語諸弟子等凡出家修道本期仏果不更要輪王釈梵家豈況人間少少果報乎発心遠渉非足不能趣向仏道非戒寧到須顕密二戒堅固受持清淨莫犯所謂顕戒者三帰五戒及声聞菩薩等戒四衆各有本戒密者所謂三昧耶戒亦名仏戒亦名発菩提心戒亦名无為戒等如是諸仏戒十善為本所謂十善者身三語四意三也摂末帰本一心為本一心之性与仏無異乃至如是諸戒不具足恵眼暗冥知此意如護命寧棄身命此戒莫犯若故犯者非仏弟子非金剛子非蓮華子非菩薩子非声聞子非我弟子我亦非彼師与彼泥団折木何異矣 私曰此誡須具自行也
承和元年五月廿八日遺誡曰語諸金剛弟子等夫剃頭着染衣之類我大師薄我梵子呼儈伽々々梵名翻云一味和合等意云上下無諍論長幼有次第如乳水之無別護法仏法如鴻鴈之有序利益群生若能悟解已即名是仏弟子若違斯義即名魔党則仏弟子即是我弟子我弟子即是仏弟子魔党則非吾弟子吾弟子則非魔弟子非我及仏弟子者所謂旃陀羅悪人仏法国家大賊大賊則現世無自他之利後生即入无間獄无間重罪人諸仏大慈所不能覆蔭菩薩大悲所不能救護何况諸天善神誰人存念 私曰此誡須具衆行也 如是等文誠證非一因果必然応堕地獄而堕魔界是三密修行威力可貴可貴但億々万劫希得深法豈唯為魔業受持修行畢不如受持禁戒自進菩提修学律儀饒益群生発如是誓願求有縁勝地
 三.戒律の受学について
文暦一年甲午〈1234〉三十四歳
 およそ(密教の)印可を受けてからの十年間、あるいは口訣を面授されたり、あるいは尊法〈聖教・次第〉を書写したり、あるいは本経〈儀軌〉を披覧したり、あるいは教相〈真言の教理〉について論じ合ったりするなど、随分と稽古して休むこともなく、修行を始めてから月日を経ても怠ることは無かった。けれども、この(密教の)教えに対して信心が深まることは無く、いつも一つの疑念が心にあった。「(密教の)禀承嫡々〈師資相承〉において、その行者の多くが魔道に堕して在ることは、あたかも身子〈Śāriputra. 舎利弗。菩薩行(布施波羅蜜)を捨てたために舎利弗尊者が魔道に堕ちたとする『大智度論』にある一節に基づいた言〉のようでものであって、実は魔が仏の皮を被って(密教を説いたのであり、そんな魔道たる密教を行うことが)私の心を悩み苦しませているのではないか」と。このように考えるようになってから、すでに年月がずいぶん経たが、いまだ結論には至らなかった。そこでしばしば密かに思いあぐねていたところ、ついに自ら「それは(密教行者がそれぞれ本分の)淨戒を護持せず、七衆〈仏教徒の総称。比丘・比丘尼・正学女・沙弥・沙弥尼・優婆塞・優婆夷〉に連なっていなければ、仏弟子では無いことによるのだ!」と得心した。
《中略》
弘法大師の『遺誡〈『弘仁遺誡』〉』にはこのように説かれている。
「諸々の弟子達に告げる。およそ出家し仏道を修行のもといは仏果を期したものである。さらに転輪聖王てんりんじょうおうや帝釈天・梵天の境遇に転生する為ではない。ましてや人の世における(名聞利養など)わずかばかりの果報を求めたものであろうはずもない。思い立って遠くへ行くには、足でなくてはならない。(それと同じように)仏道に趣向することは、戒でなくてはどうして(悟りに)到ることが出来ようか。(仏道を志す者は)必ず顕密二戒を堅固に受持すること清淨しょうじょうにして犯してはならない。いわゆる顕戒とは三帰五戒、および声聞しょうもん 〈沙弥の十戒・比丘の具足戒など律儀戒〉や菩薩〈瑜伽戒・梵網戒〉などの戒である。四衆〈比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四種を以て仏教徒全体を表した語。つぶさには七衆という〉にそれぞれ本戒〈その立場に応じて説かれた戒あるいは律〉がある。密戒とは、いわゆる三昧耶戒である。または仏戒と名づけ、または発菩提心戒と名づけ、または無為戒などと名づけられる。これらのような諸々の戒は、十善を本とする。いわゆる十善とは、身体に関する三種、発言に関する四種、精神に関する三種であり。様々な行為を包括してその本とは何かを尋ねれば、ただ一心がその本である。この一心の本質は、仏と異なったものではない。このような諸々の戒を具えなければ、智慧の眼は暗く闇に閉ざされる。この意味を知って(戒を護持すること)命を護るかのようにせよ。むしろ身命を捨てるとも、この戒を犯してはならない。もし故意に(戒を)破る者は、仏の弟子ではなく、金剛子でなく、蓮華子でなく、菩薩子でなく、声聞子でなく、我が弟子でもなく、私もまた彼の師でもない。(戒を受けてなお持さない)彼と泥団子や折れた木ぎれと何も異なったものではない」私に曰く、この教誡は須く自行に具えるべきものである。
(同じく弘法大師の)承和元年〈834〉五月廿八日の『遺誡〈『承和遺誡』〉』にはこのように説かれている。
「諸々の金剛の弟子等に告げる。そもそも頭を剃り、衣の(壊色に)染めたのを着ける類は、我が大師たる薄伽梵ばがぼん〈bhagavān. 世尊〉の子である。(このような者達の集いを)僧伽そうぎゃ〈saṃgha. 比丘あるいは比丘尼の集団・組織。〉と言う。僧伽という梵名を、(漢語に)翻訳すると「一味和合」という。心を等しくして(出自の違いなどによる身分の)上下で諍論することなく、(出家し具足戒を受けてからの年数による)長幼の次第 〈席次の秩序〉があること、あたかも(一つに混ぜられた)乳と水とが分離しないようなものである。仏陀の教えを護法して、鴻や雁(の群れが空を飛ぶ際に)整然としているように、群生ぐんじょうを利益せよ。もしよく(このことを)悟解したならば、すなわちこれを仏弟子という。もしこの義に異なっていたならば、「魔のともがら」と名づける。仏弟子ならばすなわち我が弟子である。我が弟子はすなわち仏弟子である。魔党まとうは我が弟子ではない。我が弟子はすなわち魔の弟子ではない。私および仏陀の弟子でない(にもかかわらず我が弟子・仏弟子を語る)者は、いわゆる「旃陀羅せんだら〈caṇḍāla. 元はインドの四姓制度における最下級層の呼称。ここでは「行い賤しき者」の意〉の悪人」である。仏陀の教えと国家との大賊である。大賊には現世における自他の利益りやくは無い。後生にはたちまち無間に生まれ変わるのだ。無間に落ちる重罪の人は、諸仏の大慈によっても覆蔭ふいんしたまうことは出来ない。菩薩の大悲も救護したまえるものではない。ましてや諸天や善神など、誰が(そのような罪業ある者に)思いをかけることがあろうか」私に曰く、この教誡は須く衆行に具えるべきものである。
これらのような文に記されていることが真実であると、(現実の僧徒の有り様として)証明できることは一つばかりではない。因果は必然であってまさに(そのような破戒・無戒の僧徒らが)地獄に堕すべきことである。しかしながら、そのように(真言の破戒の僧徒らが)魔界に堕していることは、むしろ三密修行の威力があるからこそのことである。まことに貴ぶべきことである。ただし、億々万劫という長大な時間の中で極めて稀に深法〈仏教.ここでは特に密教〉に触れ得たことを、どうしてただ(破戒・無戒のために密教を)魔業として受持し修行するばかりとすることができようか。そこで(密教を密教として修するためには)禁戒を受持すること以外にはない。そして自ら菩提に進み、律儀を修学して群生〈生命あるもの〉を饒益しよう!、とそのように誓願を発し、(その誓願を実現するために)有縁の適した場所を求めたのであった。

叡尊『金剛仏子叡尊感身学正記』巻上

実は当初、叡尊が密教を受法し修学するようになったのは不本意なことであって自ら積極的に望んでのことではありませんでした。それは夢告によるものであって、むしろ顕教のいずれかを志していた叡尊は、『倶舎論』を学びつついぶかしく思いながらも密教を受法するようになったにすぎませんでした。しかし叡尊は、上掲の『感身学正記かんじんがくしょうき』をはじめその他の著作からも容易に伺い知れるように、非常に生真面目な性格であったようで、不審に思いながらも受法した密教の修学修行を着々と進めています。

ところが、いくら真面目に密教に取り組み、儀軌や次第を学び受け、修法したところで、まったく密教の意味も価値も見出すことが出来ず、不審はむしろ不信とすらなっていたようです。それはただ自らが密教を修めていく中でそう思っていただけでなく、当時の密教行者のほとんどが「魔道に堕在」していた、要するに堕落の極地にあった事実もそう感じさせていました。

しかし、そんな中で叡尊は、自らも含めた密教を行う者のほとんど多くが戒律をまったく護持していないという、すなわち実は密教徒どころかそもそも仏教徒ですら無い、という事実に気づいたのでした。そしてそのことによって、それまで密教に取り組んでもその意味を見い出すことが出来ず、また果報も全く得られなかったのだと得心しています。そのように叡尊に気づかせたのが、上掲の一節では中略しましたが、『大日経』巻二および『大日経疏』巻九における持戒の最も肝心であることが説かれた一節と、空海の遺した二つの教誡、すなわち『弘仁遺誡』と『承和遺誡』とです。

それは叡尊が密教を十八歳で受法してからすでに十六年の時を経た、叡尊三十四才の時のことです。その後、叡尊はただちに精力的に律学に没頭し、さらにその実行のため動いています。そこで叡尊が貞慶の後援のもとに興福寺で律学に励んでいた覚盛らのもとに参じたことにより、ついに戒律復興が果たされることになる嘉禎二年〈1236〉は、その二年後のことでした。

実は、日本において二度あるいは三度なされた戒律復興は、すべて真言密教を受法し兼学していた法相宗あるいは律宗、そして真言宗等の流れから起こっています。これは、空海が残した『遺誡』など、その(常識的正統的な)戒律観に起因するものであったと言って決して過言ではないものです。これは真言宗として日本仏教史に刻まれる誇るべきことの一つであるとも言えます。

しかしながら、「弘法大師の末徒」を自称してはばからない真言宗の僧尼で、このような空海の教誡に随っている者は一人としていない、と見て間違いありません。いや、まず「オソシサマ」の言葉とされてきた筈の『遺誡』に触れて知る者すら決して多くありません。その今の真言宗徒の有り様は、『遺誡』にある言葉に従って云えば、空海の弟子どころか仏弟子ですらない、ということになる。

戦後の昭和期において事相家として名を馳せた真言宗の稲谷祐宣いなや ゆうせん は、再び無戒となってそれがむしろ当然の如くになった、真言宗ばかりか日本仏教全体の現状について、「日本仏教、総浄土真宗化」と自嘲的に揶揄していましたが、それは言い得て妙なるものでした。

そして、そのような状況は、叡尊らが戒律復興する以前の当時とさして変わらぬに違いないことであります。しかし今は、叡尊のように『遺誡』や『大日経』、あるいはその他多くの仏典に基づき、仏教や密教に正面から取り組もうとする人はまずありません。仮にいたとしても、最澄に仮託された『末法灯明記』の一節のように「 たとい末法の中に持戒の者あらんも、既に是れ恠異かいいなり。市に虎有るが如し。此れ誰か信ずべけんや」といった扱いとなるに違いありません。実際この言葉は、叡尊の当時、もはや戒律など無用の沙汰として無視していた天台宗やその亜流の浄土教、そして日蓮教団などの宗派において珍重されています。

そこでしかし、真言宗徒が空海を宗祖と仰ぎ、その絶対的信仰対象とすらしているのであれば、「お大師さまの『十住心論』や『即身成仏義』に代表される密教思想は、現代にも通用する、いや通用すべき普遍的宇宙的思想である。弘法大師は実に偉大な人であった。南無大師遍照金剛、南無大師遍照金剛~」などと寒々しい称賛の言葉だけ舌先三寸ばかりで並べ立て悦に入る前に、まず根本的にやらなければならないことがあるでしょう。

もっとも、なんでも突如として物事を起こすことなど出来ず、一歩一歩の積み重ねによって遂に大成されるものです。叡尊も決意した途端にわずか二年で成し遂げたというのではなく、実範の昔から、それが拙く不完全なものであっても先人らが積み上げてきたものがあればこそのことでした。そしてその先人の業績は、その実際の伝統としては滅びていても現代にまで記録として確かに継承されています。したがって今も、たとえば真言宗ではこの『遺誡』を今一度広く読み返し、または叡尊の『感身学正記』に記された先蹤を辿ることによって、その密教本来の価値を真にそれぞれ体得する契機とすることは出来るに違いありません。そのような志を持つ人の、少しでも多く現れんことを、不佞も願ってやみません。

非人沙門覺應 敬識