夫れ戒の根源を尋れば、凡そ菩薩の修むる所の六波羅蜜に於て、戒波羅蜜の中に三種の不同有り。一には攝律儀戒、謂く正しく應に遠離すべき所の法を遠離す。二には攝善法戒、謂く正しく應に修證すべき法を修證す。三には饒益有情戒、謂く正しく一切有情を利益す。
其の中、第一の律儀戒とは、聲聞・菩薩、大乘・小乘、共に受くる戒なり。この律儀戒を以て或は具足戒と名け、或は比丘戒と名く。故に方に大小の比丘僧を成ず。設ひ菩薩と雖も先ず比丘戒を受けて卽ち比丘衆に烈る。其の上に菩薩戒を受くるべきなり。
若し菩薩にして比丘戒を受けざる者は、是れ應に比丘衆に非ざるべし。若し菩薩にして比丘戒を受けるを名けて菩薩比丘衆と爲す。若し聲聞人にして比丘戒を受けるを名けて聲聞比丘衆と爲す。凡そ以て出家の戒を受けるを僧寶と名け、彼の僧寶を卽ち比丘僧と名く。設ひ菩薩と雖も比丘戒を受けず、比丘僧に非ざれば在家人に屬す。出家僧と云ふこと難し。故に菩薩僧と云ひ、比丘僧と云ひ、凡夫僧と云ふ。是の比丘戒を受けるが故に僧寶の名を立つなり。
而て南都の具足戒は卽ち菩薩の三品、戒波羅蜜の中の律儀戒なり。是を比丘戒と名く。叡山の徒侶、戒品に迷ふて南都の比丘戒を受けず。既に以て比丘僧を受けざれば、在家人に屬すべし。
爰を以て不空三藏、年十三に至て菩薩戒を受くと雖も後に比丘戒を受け、鑑眞和尚、十八歳に菩薩戒を受くと雖も、後に二十一の時、具足戒を受く。聖武天皇、行基菩薩に請て菩薩戒を受くと雖も、後に鑑眞に從て比丘戒を受く。若し南都の具足戒を聲聞小乘戒と爲せば、不空三藏・鑑眞和尚・聖武天皇、豈に大乘を捨て小乘に趣くか。知るべし、南都の具足戒は一向小乘戒に非ずと云ふ事を。
凡そ東大寺戒壇とは、月氏・震旦・日域の三箇國共に之を許す法式なり。聖武天皇、天平勝寶六年五月六日を以て、東大寺に戒壇を立つべきの由を綸言下さらるの刻、大唐終南山の道宣律師の重受戒の弟子にして南泉寺の弘景律師門資、龍興寺の鑑眞和尚、幷に中天竺曇無懴三藏の弟子にして揚州白塔寺の沙門法進、此の二人の和上は勅宣を奉る。而て中納言藤原朝臣高房を行事勅使と爲し、仍ち鑑眞・法進の二人の和上と勅使と相共に經に依り圖に任て、東大寺戒壇院を建立せしめて、廿一箇國に寄せらる。
天平勝寶六年甲午に造始せられ、同七年に至る。速疾二箇年の内に造せられ畢ぬ。大唐終南山の道宣、天竺の戒壇を移し、鑑眞卽ち終南山の戒壇に任て南都の戒壇院を立て畢ぬ。法進、又同く印度の風儀を傅へて戒壇圖を出し畢ぬ。和州に始る戒壇に非ず、月氏・震旦の舊風なり。東大寺の具足戒に誰か疑網を生ずべきや。
そもそも戒の根源を尋ねてみれば、およそ菩薩が修める六波羅蜜の戒波羅蜜の中に三種の不同がある。一つは摂律儀戒、すなわち正しく遠離すべき法を遠離するもの。二つには摂善法戒、すなわち正しく修証すべき法を修証するもの。三つには饒益有情戒、すなわち正しく一切有情を利益するものである。
その中、第一の律儀戒とは、声聞・菩薩、大乗・小乗の共に受ける戒である。この律儀戒をあるいは具足戒と言い、あるいは比丘戒とも言って、(律儀戒を受けるが)故に大乗・小乗の比丘僧と成りえる。たとい菩薩であったとしても、(出家であれば)先ず比丘戒を受けて比丘衆に列なる。その上で菩薩戒を受けなければならない。
もし菩薩であって比丘戒を受けていない者は、まったく比丘衆ではない。もし菩薩であって比丘戒を受けたならば、それを名づけて菩薩比丘衆とする。もし声聞人であって比丘戒を受けたならば、それを名づけて声聞比丘衆とする。およそ出家の戒を受けた者を僧宝と名づけ、その僧宝とは比丘僧のことである。たとい菩薩であったとしても、比丘戒を受けておらず、比丘僧で無かったならば在家人に属す。出家僧と云うことなど出来ない。故に菩薩僧といい、比丘僧といい、凡夫僧という(言葉がある)のだ。この比丘戒を受けることから僧宝の名が成立のである。
そこで南都の具足戒とはすなわち菩薩の三品、戒波羅蜜の中の律儀戒である。これを比丘戒という。叡山の徒侶は、戒品に迷って南都の比丘戒を受けることがない。すでに比丘僧を受けないのであれば、在家人に属するものである。
そのようなことから、不空三蔵は、年十三に菩薩戒を受けていたけれども後に(二十歳を迎えてから)比丘戒を受け、鑑真和尚は十八歳にて菩薩戒を受けていたけれども後の二十一歳の時、具足戒を受けたのである。聖武天皇は、行基菩薩に請われて菩薩戒を受けられていたけれども、後に鑑眞に従って比丘戒を受けられている。もし南都の具足戒を声聞小乗戒であるとするならば、不空三蔵・鑑真和尚・聖武天皇は、大乗を捨てて小乗に趣いたというのか。知るべし、南都の具足戒は一向小乗戒では無いということを。
およそ東大寺の戒壇とは、月氏〈中央アジア〉・震旦〈支那〉・日域〈日本〉の三箇国に共通した法式である。聖武天皇が天平勝宝六年〈754〉五月六日をもって、東大寺に戒壇を立つべきことの綸言を下された時、大唐終南山の道宣律師の重受戒の弟子である南泉寺の弘景律師の門資、龍興寺の鑑真和尚、ならびに中天竺曇無懴三蔵の弟子である揚州白塔寺の沙門法進、この二人の和上が勅宣を奉った。そして、中納言藤原朝臣高房を行事勅使とし、鑑真・法進の二人の和上と勅使と相共に経典に基づき図に依って、東大寺戒壇院を建立させて、廿一箇国に寄せられた。
天平勝宝六年甲午〈754〉に造営を始めて同七年〈755〉に至り、速疾にただ二箇年の内に落成した。大唐終南山の道宣は天竺の戒壇を模範として(終南山に同じものを)建て、鑑真は終南山の戒壇に倣って南都の戒壇院を立てたのである。法進はまた、同じく印度の風儀を伝えて戒壇図を出した。(東大寺戒壇とは)和州にて初めて創始された戒壇ではなく、月氏・震旦の旧風(に倣ったもの)である。東大寺の具足戒に対し、一体誰が疑網を生ずることなどできようか。