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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

貞慶 『南都叡山戒勝劣事』

原文

夫尋戒根源。凡於菩薩所修六波羅蜜。戒波羅蜜中有三種不同。一者攝律儀戒。謂正遠離所應遠離法。二者攝善法戒。謂正修證應修證法。三者饒益有情戒。謂正利益一切有情。

其中第一律儀戒者。聲聞菩薩大乘小乘共受戒也。以此律儀戒或名具足戒。或名比丘戒。故方成大小比丘僧。設雖菩薩先受比丘戒卽烈比丘衆。其上可受菩薩戒也。

若菩薩不受比丘戒者。是應非比丘衆哉。若菩薩受比丘戒名爲菩薩比丘衆。若聲聞人受比丘戒名爲聲聞比丘衆。凡以受出家戒名僧寶。彼僧寶卽名比丘僧。設雖菩薩不受比丘戒。非比丘僧者屬在家人。難云出家僧哉。故云菩薩僧云比丘僧云凡夫僧。是受比丘戒故立僧寶之名也。

而南都具足戒者卽菩薩三品戒波羅蜜中律儀戒。是名比丘戒。叡山徒侶迷戒品不受南都比丘戒。既以非比丘僧。可屬在家人也。

爰以不空三藏年至十三雖受菩薩戒。後受比丘戒。鑑眞和尚十八歳雖受菩薩戒。後二十一之時受具足戒。 聖武天皇請行基菩薩雖受菩薩戒。後從鑑眞受比丘戒。若南都具足戒爲聲聞小乘戒者。不空三藏鑑眞和尚 聖武天皇豈捨大乘趣小乘哉。知南都具足戒者非一向小乘戒云事。

凡東大寺戒壇者。月氏震旦日域三箇國共許之法式也。 聖武天皇以天平勝寶六年五月六日。於東大寺可立戒壇之由。被下 綸言之刻。大唐終南山道宣律師。重受戒弟子南泉寺弘景律師門資龍興寺鑑眞和尚。幷中天竺曇無懴三藏弟子揚州白塔寺沙門法進。此二人和上奉 勅宣也。而中納言藤原朝臣高房爲行事勅使。仍鑑眞法進二人和上勅使相共依經任圖令建立東大寺戒壇院。被寄廿一箇國。

天平勝寶六年甲午被造始。至于同七年。速疾二箇年之内被造畢。大唐終南山道宣移天竺之戒壇鑑眞卽任終南山之戒壇立南都戒壇院畢。法進又同傅印度之風儀出戒壇之圖畢。非和州始戒壇。月氏震旦之舊風也。於東大寺具足戒誰可生疑網乎。

訓読

かいの根源をたずぬれば、およ菩薩ぼさつの修むる所の六波羅蜜ろくはらみつに於て、かい波羅蜜の中に三種の不同有り。一には攝律儀戒しょうりつぎかい、謂く正しく應に遠離おんりすべき所の法を遠離す。二には攝善法戒しょうぜんぽうかい、謂く正しく應に修證しゅしょうすべき法を修證す。三には饒益有情戒にょうやくうじょうかい、謂く正しく一切有情うじょう利益りやくす。

其の中、第一の律儀戒とは、聲聞しょうもん・菩薩、大乘だいじょう小乘しょうじょう、共に受くる戒なり。この律儀戒を以て或は具足戒ぐそくかいと名け、或は比丘戒びくかいと名く。故にまさに大小の比丘僧びくそうじょうず。たとひ菩薩と雖も先ず比丘戒を受けて卽ち比丘衆びくしゅつらぬる。其の上に菩薩戒を受くるべきなり。

し菩薩にして比丘戒を受けざる者は、是れまさに比丘衆に非ざるべし。若し菩薩にして比丘戒を受けるを名けて菩薩比丘衆と爲す。若し聲聞人にして比丘戒を受けるを名けて聲聞比丘衆と爲す。凡そ以て出家の戒を受けるを僧寶そうぼうと名け、彼の僧寶を卽ち比丘僧と名く。設ひ菩薩と雖も比丘戒を受けず、比丘僧に非ざれば在家人に屬す。出家僧と云ふこと難し。故に菩薩僧と云ひ、比丘僧と云ひ、凡夫ぼんぷ僧と云ふ。是の比丘戒を受けるが故に僧寶の名を立つなり。

而て南都なんとの具足戒は卽ち菩薩の三品さんぼん、戒波羅蜜の中の律儀戒なり。是を比丘戒と名く。叡山えいざんの徒侶、戒品かいほんに迷ふて南都の比丘戒を受けず。既に以て比丘僧を受けざれば、在家人に屬すべし。

ここを以て不空ふくう三藏、年十三に至て菩薩戒を受くと雖も後に比丘戒を受け、鑑眞がんじん和尚、十八歳に菩薩戒を受くと雖も、後に二十一の時、具足戒を受く。聖武しょうむ天皇行基ぎょうき菩薩に請て菩薩戒を受くと雖も、後に鑑眞がんじんに從て比丘戒びくかいを受く。若し南都の具足戒を聲聞しょうもん小乘戒しょうじょうかいと爲せば、不空三藏・鑑眞和尚・聖武天皇、豈に大乘を捨て小乘におもむくか。知るべし、南都の具足戒は一向小乘戒に非ずと云ふ事を。

凡そ東大寺とうだいじ戒壇かいだんとは、月氏げっし震旦しんたん日域にちいきの三箇國共に之を許す法式ほっしきなり。聖武天皇、天平勝寶六年五月六日を以て、東大寺とうだいじに戒壇を立つべきのよし綸言りんげん下さらるのとき、大唐終南山しゅうなんざん道宣どうせん律師の重受戒の弟子にして南泉寺なんせんじ弘景こうけい律師門資、龍興寺りゅうこうじの鑑眞和尚、幷に中天竺曇無懴どんむせん三藏の弟子にして揚州白塔寺はくとうじの沙門法進ほうしん、此の二人の和上は勅宣ちょくせんを奉る。しこうして中納言藤原朝臣ふじわらのあそん高房たかふさ行事勅使ぎょうじちょくしと爲し、すなはち鑑眞・法進の二人の和上と勅使と相共に經に依りに任て、東大寺戒壇院を建立こんりゅうせしめて、廿一箇國に寄せらる。

天平勝寶六年甲午こうご造始ぞうしせられ、同七年に至る。速疾二箇年の内に造せられおわんぬ。大唐終南山の道宣、天竺てんじくの戒壇を移し、鑑眞卽ち終南山の戒壇にまかせて南都の戒壇院を立て畢ぬ。法進、又同く印度の風儀を傅へて戒壇圖かいだんずを出し畢ぬ。和州わしゅうに始る戒壇に非ず、月氏・震旦の舊風きゅうふうなり。東大寺の具足戒に誰か疑網ぎもうを生ずべきや。

脚註

  1. かい

    [S]śīla / [P]sīlaの漢訳。尸羅はその音写。その原意は(良い)習慣・道徳。本来、戒と律とは全く別物であって使い分けられるべきものであるが、支那では仏教伝来当初から両者の異なりが理解されず混同された。

  2. 菩薩ぼさつ

    [S]bodhisattva / [P]bodhisattaの音写、菩提薩埵の略。bodhi(菩提)+ sattva(衆生)、直訳すれば「覚りの人」であるが、転じて「覚りを求める人」・「悟りに向かう者」とされる。声聞では特に成道以前の釈尊を言い、大乗では仏陀に等しい悟り(無上正等正覚)を求めて修行する者を言う。

  3. 六波羅蜜ろくはらみつ

    無上正等正覚を求める者、菩薩が必ず修めるべきとされる六種の修行徳目、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧。波羅蜜は[S]pāramitāの音写であって「完成」がその原意。これを支那・日本では伝統的に「彼岸に至る(行為)」の意と理解された。六波羅蜜とは、菩提を得るための福徳・智慧の二資糧を展開・詳説したものであり、仏教の根本的修行階梯である戒・定・慧の三学に、布施・忍辱・精進を別出して加えたもの。
    行者が修すべき事柄として波羅蜜が説かれるのは大乗に限定されず、声聞乗においても修行に必須のものとして(その内容に若干の相違はあるが)説かれることは同様である。

  4. かい波羅蜜

    三聚浄戒。『摂大乗論』巻中に「云何應知諸波羅蜜差別。由各有三品知其差別。《中略》戒三品者。一守護戒。二攝善法戒。三攝利衆生戒」(T31. P125b)。
    戒波羅蜜とは具体的には三聚浄戒の護持であり、その内容の大枠が以下に述べられる。

  5. 攝律儀戒しょうりつぎかい

    [S]saṃvara-śila. 仏教徒には比丘・比丘尼・式叉摩那・沙弥・沙弥尼・優婆塞・優婆夷の七種の別があって、それぞれ立場によって異なる受けるべき律儀(saṃvara)が説かれる。すなわち、比丘・比丘尼には律蔵所説の比丘律儀、式叉摩那には六法、沙弥・沙弥尼には十戒、優婆塞・優婆夷には八斎戒もしくは五戒である。それらの総称を摂律儀戒、あるいは単に律儀戒という。

  6. 攝善法戒しょうぜんぽうかい

    [S]kuśala-dharma-saṃgrāhaka śīla. 律儀戒を受けて後、菩提を得るために積極的に行うべき諸々の善行を積むこと。『瑜伽師地論』ではその具体的内容として、六箇条を挙げて詳説し、『摂大乗論釈』では摂善法戒を三慧・十波羅蜜・十善業道を修めることであるとする。
    印度の諸論書によれば、摂善法戒とは「積極的に為すべき事柄」であって「為すべきでない事柄」をその内容とするものではない。

  7. 饒益有情戒にょうやくうじょうかい

    [S]sattvārtha-kriyā-śīla. 摂衆生戒あるいは摂衆生利益戒とも。大乗の菩薩として衆生を助けるべきか、いかにして利益すべきかの行動規定。
    『瑜伽師地論』ではこれに十一相あるとして具体的事例を挙げ、『摂大乗論釈』では①衆生を悪趣から救い出し、②不信・疑惑を除き、③仏教を信じず憎むことを止めさせ、④声聞乗・独覚乗を志向することから導き出すという、四種の行為をもって饒益有情戒とする。饒益有情戒もまた摂善法戒に同じく、「~してはならない」というのではなく、「~すべきである」という指針を示したもの。

  8. 具足戒ぐそくかい

    [S]upasaṃpadā. 原語に「戒」に該当する[S]śīlaが無いことに注意。その原意は「(比丘あるいは比丘尼たることを)得ること」。人が比丘あるいは比丘尼たることを、それぞれの僧伽からの承認、あるいはその承認される過程。

  9. 比丘僧びくそう

    比丘は[S]bhikṣu / [P]bhikkhuの音写。その原意は「(食を)乞う者」で、仏教における正規の出家男性修行者。僧とは本来、[S]saṃgha / [P]saṇghaの音写である僧伽の略であり、特に四人以上の比丘の集まりを指す語であった。また、そうして出来た僧侶も元来、出家者複数を指す語であったが、次第に僧の一字を以て広く出家者を指す語となり、出家者単数をも言うようになった。ここでは比丘僧伽の略でなく、単数の「比丘という出家者」の意。

  10. 比丘衆びくしゅ

    bhikṣu saṃghaの漢訳。比丘僧伽に同じ。四人以上の比丘によって構成される比丘の集まり。
    ここで「受比丘戒卽烈比丘衆(比丘戒を受けて卽ち比丘衆に列る)」とあるのは、天平の昔から『唐大和上東征伝』に「若有不持戒者不齒於僧中(若し戒を持たざる者の有れば僧中に齒ず)」と言われていることの裏返しであって、宗旨宗派など関しない、仏教における「あたりまえ」であった。

  11. 僧寶そうぼう

    仏・法・僧の三宝の一つ。仏陀の法と律とを伝え、自ら実践する比丘・比丘尼によって構成される僧伽を指して言う語。仏教徒として信仰し、供養すべき対象。

  12. 叡山えいざんの徒侶、戒品かいほんに迷ふて...

    日本天台宗における伝説〈『叡山大師伝』〉では、最澄は齢五十三の頃となる弘仁九年〈818〉、二百五十戒〈具足戒・律儀〉を捨戒したと言われる。また最澄は、その著『山家学生式』において、天台宗における僧となるのに具足戒は不要であると主張し、梵網戒(後述)のみを受けることによって僧たり得るとした。もし具足戒を受けるとしても十二年間、比叡山に籠山した者のみが仮受することが可能とする構想を天皇に上奏し、その勅許を求めていた。しかし、それは最澄生前に勅許が下ることはなかった。
    僧となるため大乗戒を受けるのみで充分という主張は、印度以来まったく常識はずれで前例がなく、しかも仏典に根拠が全く無いものであった。故に最澄がこれを言い出した当初から大問題となり、僧綱を始めとする南都の学僧らは猛烈な批判を加えている。最澄もまたそのような僧綱からの批判に対し、『顕戒論』を著して逐一反論しているけれども、それは時に問題のすり替えや事実誤認あるいは意図的な解釈変更に基づいた強弁であって、本質的答えとなっていないものであった。最澄没後の弟子、例えば円仁は『顕揚大戒論』を著して最澄の主張を補完しようとしているが、結局それも迂遠なものであって、最澄の主張が正統なものであることを証明できるものではなかった。
    ここでの貞慶による「叡山の徒侶、戒品に迷ふて南都の比丘戒を受けず」という言は、そのような史実を受けてのもの。

  13. 不空ふくう三藏

    支那における『金剛頂経』系の密教の正嫡であり、多くの主として密教経典の漢訳に携わった僧で、いわゆる四大訳経家の一人。梵名はAmoghavajraで、不空はその漢訳名。
    不空の伝記『大唐故大徳贈司空大辨正広智不空三蔵行状』(『不空三蔵行状』)に拠れば、出身は「北天竺之波羅門族」であってその生地が「西良府」であるというが、それが具体的に何処のことであるか未詳。不空は支那に幼少の頃からあって、十歳にして唐にあって密教を伝えていた印度僧、金剛智〈Vajrabodhi〉に師事。十五歳で沙弥出家し、二十歳となって具足戒を受け比丘となったとされる。その具足戒は、金剛智の出た印度の那爛陀寺〈Nālandā〉がそうであったように「根本説一切有部律」に基づくものであったという。
    ここで貞慶は『恩覚奏状』の説に基づき、「不空三藏、年十三に至て菩薩戒を受く」としている。しかし、『不空三蔵行状』にはその記事はなく、ただ「十三事大弘教」と大乗に信を廻らしたことを伝えるのみである。南都では、それを以て菩薩戒を受けたと理解していたのであろう。
    『宋高僧伝』「不空伝」では「年十五師事金剛智三藏 《中略》 與受菩薩戒。引入金剛界大曼荼羅。驗以擲花。知後大興教法」と、金剛智に師事したのが十五歳のことであり、そこで菩薩戒を受けたとしている。しかし、これは『不空三蔵行状』にある「他日與授菩提心戒。引入金剛界大曼茶羅。驗之擲花。知有後矣」の「菩提心戒」を「菩薩戒」と誤認しての記述であったろう。菩提心戒とはいわゆる三昧耶戒のことであって菩薩戒とは異なる。しかも『不空三蔵行状』では、「十五初落髮。二十進具戒」と、不空は十三歳で菩提心戒を受けて金剛界の灌頂を受け、その後の十五歳となって沙弥出家し二十歳で比丘となったとしている。

  14. 鑑眞がんじん和尚

    日本に仏教として正規の律を伝えた初めての人であり、日本における律宗の祖とされる人。詳しくは別項「真人元開 『唐鑑真過海大師東征伝』」を参照のこと。
    淡海三船によるその伝記『唐大和上東征伝』に拠れば、長安元年〈701〉の十四歳のとき智満について沙弥出家し、神龍元年〈705〉すなわち十八歳で道岸の元で菩薩戒を受け、景龍二年〈707〉(二十歳)に弘景を和上として具足戒を受け比丘となったと伝える。鑑真に授戒した道岸と弘景との二人は共に、南山律宗祖道宣に付いて受戒した弟子であった。また、鑑真は天台教学に通じた学匠でもあった。鑑真が日本に渡来したのは天平勝宝五年十二月廿六日〈753〉のことであるが、戒律関係の書籍だけではなく、初めて日本に天台三大部をもたらすなど、日本における天台教学の普及する大きな素因となった。

  15. 聖武しょうむ天皇

    第四十五代天皇。神亀元年〈724〉から天平勝宝元年〈749〉までの二十五年間在位。支那に興福寺僧、栄叡と普照の二人を派遣し、正規の戒律を招来することを勅した人であり、その結果としてまず道璿を大安寺に迎え、そして遂に当代きっての律匠として名高かった鑑真の招聘に成功して日本における僧宝の確立に尽力した。また、それ以前には東大寺を建立してそこに盧遮那仏を造立、全国に国分寺・国分尼寺を整備して仏教を核とした国家運営を目指した。聖武天皇は天皇在位中に沙弥出家しており、その法名勝満といった。

  16. 行基ぎょうき菩薩

    奈良期の法相宗僧。薬師寺に属しながら、僧尼令に反して市街地で私に道場を建てて法を説き、また私に男女を出家させること多数であって一教団を構えていた。土木に関する知識を有していたようで、教団を使って架橋や築堤など公共に資する行いをする一方、梵網戒に基づき人々に焼身・皮剥などによる供養もさせるなどカルト的一面を有していた。聖武天皇が政務に迷って紫香楽宮にある時、天皇は行基の有していた力を頼って大仏造営の勧進を任される。後に行基の為に新設された大僧正位に補されるなど、天皇からの信頼が絶大なものとなった。天平二十一年二月二日、大仏完成の三年前、八十二歳で死去。
    ここで聖武天皇は行基から菩薩戒を受けたとするのは、『東大寺要録』一にある「或日記云天平廿年戌子正月八日天皇并后御出家四月八日受菩薩戒名勝満以行基菩薩為戒師云々」とあって、聖武天皇および光明皇后は天平二十年〈749〉正月八日、行基を師として出家し、四月八日には菩薩戒を受けたとされることによるのであろう。なお、『続日本記』にはこのことについて全く言及が無い。

  17. 後に鑑眞がんじんに從て比丘戒びくかいを受く

    ここで貞慶は、聖武太上天皇が鑑真から具足戒を受け、比丘となっていたとの認識を示している。これは『恩覚奏状』ならびに『興福寺僧綱大法師等奏状』にそうあるのをそのまま受けての言であろう。しかし、『鑑真和上東征伝』の所伝では「其年四月初於盧遮那殿前立戒壇天皇初登壇受菩薩戒」と、鑑真が聖武天皇に授けたのは菩薩戒であったとされており、比丘戒ではない。これは『延暦僧歴』でも同様である。
    なお、すでに行基から菩薩戒を受けていながら、ここで再度、鑑真からも菩薩戒を受けたとされていることを不審に思う史学者などがある。しかし、これは重受といって特に不審に思うべきことでなく、菩薩戒の受戒においてそれほど珍しい事態ではない。故に聖武天皇が、ついに来たった伝律の高徳から改めて菩薩戒を受けることを熱望し実行したことは自然である。ところで、『続日本記』巻二十四「鑑真卒伝」には、「聖武天皇師之受戒焉」とただ「受戒」としてそれがいかなる戒であったかを詳らかにしない。もしこれが具足戒であって聖武天皇が比丘出家していたとしたならば、これは特記すべきことであったろうし、その後、聖武天皇が自らを「比丘勝満」とする記述がどこかに現れていても不思議ではない。しかし、そのような記録は史料に一つとして見出だすことは出来ない。
    しかしながら、『東大寺要録』巻四にある『延暦僧録』の逸文に、聖武上皇がその死の直前にもまた受戒していたらしいことを伝えており、しかもそこで「十八種物」という『梵網経』所説ではあるけれどもその全ては比丘の所用物について羯磨したことが記されている。そこで菲才は、これがまさにその死の直前ではあったけれども、いや、直前であったからこそ聖武上皇は比丘出家していた記録の断片であったと考えている。そして上皇がその時比丘出家していたという伝承が、正史には伝えられなくとも南都ではこうして保存していたのであろうと思う。

  18. 聲聞しょうもん小乘戒しょうじょうかい

    最澄(日本天台宗)の主張からすると、具足戒とは「声聞のみが受けるべき小乗の戒」であって、真の大乗の徒は受けるべきもので無いのであるという。例えば、最澄は「天台法華宗年分度者回小向大式」(『山家学生式』四条式)にて「凡佛戒有二一者大乘大僧戒 制十重四十八輕戒。以爲大僧戒二者小乘大僧戒 制二百五十等戒。以爲大僧戒」といい、十重四十八軽戒(梵網戒、後述)をもって大乗の比丘戒とし、二百五十戒(具足戒)をもって小乗の比丘戒であるとしている。
    そもそも最澄は、その最初の上奏であった「天台法華宗年分學生式」(『山家学生式』六条式)にて「今我東州。但有小像。未有大類」と、南都の諸宗をして「小像」であると賤しめ、自身こそが「大類」であるとしていた。延暦寺が法相宗を「権教」であると言い、また東大寺戒壇院相伝の戒を「声聞小戒」であると云い続けたのは、そのような最澄の言に基づいたものであった。
    しかしながら、そのような最澄の主張は、むしろ最澄が至上のものとした本家の支那における天台宗の諸師の言によって真っ向から否定されるものであった。例えば、湛然『止観輔行傳弘決』では「戒序云。聲聞小行尚自珍敬木叉。大士兼懷寧不精持戒品。今戒爲行本猶是小乘。棄而不持大小倶失(智顗『菩薩戒義疏』に「声聞の小行すら、なお自ら波羅提木叉を珍敬して(受持して)いる。大士の兼懐であれば、なおさら戒品を厳しく受持しないということがあろうか」とある。今、戒を行の本としてなお是れを小乗と言い、棄てて持たざれば大乗・小乗ともに失うであろう)」とあり、大乗の僧であれば菩薩戒はもちろんのこと具足戒も当然厳しく受持しなければならないとしていた。事実、智顗にしろ灌頂にしろ湛然にしろ、支那の天台の諸師は具足戒を受けた上で菩薩戒を受持していたのであり、それはまた印度以来の当たり前であって、最澄の主張などただちに否定されるものであった。
    もっとも、その見方として、具足戒をして小乗のものであるといって軽視または等閑視する理解は支那の歴史上存してはいる。湛然は「今戒爲行本猶是小乘。棄而不持大小倶失」などとわざわざ言っているのは、むしろそのような事実を反映してのことであり、そしてそれが誤った態度であることを指摘するためである。

  19. 戒壇かいだん

    [S]upasampadā-sīmāmaṇḍla. これを今仮に漢語に直訳したならば「具足戒界壇」となろうが、印度や南方において普通は単にsīmā(界)といい、『四分律』では小界という。
    比丘・比丘尼が律に準拠して生活するには様々な界、摂僧界(大界)・摂衣界・摂食界などを設定することが必須であるが、そのうちいわゆる戒壇とは特に具足戒の授受などを行う際の、ある一定の限られた区域・境界のことで小界の一つ。一般に、戒壇とはただ具足戒の受戒のための施設・建築物と思われることが多いが、受戒以外にも布薩や僧残罪の出罪など、僧伽における重要な儀式を行う場ともなる。
    なお、支那・日本ではその理解に混乱があるが、本来、戒壇が授戒の場といってもそれはあくまで具足戒に限られるのであって、沙弥出家のための十戒や大乗の徒として必須となる菩薩戒(三聚浄戒)を授ける際には、戒壇なるものに於いて行う必要は全く無い。実際、支那においても過去に「大乗戒壇」なる、菩薩戒をのみ授けるための戒壇など存在したことはなかった。そもそも菩薩戒を説く諸経論に、菩薩戒は戒壇において授けよ、などと説くものは存在しない。菩薩戒の授受に戒壇など必要ないのである。しかし、比叡山上に大乗戒壇なるものの設置が勅許されて以降、日本では「戒は必ず規定の戒壇の上で授け、あるいは受けなければならないもの」という誤った理解が定着するようになった。

  20. 月氏げっし

    中央アジアの遊牧民族、またはその支配する地域。

  21. 震旦しんたん

    [S]cīna-sthānaの音写。支那の地の意。支那とはその初めての統一王朝、秦のインドにおける呼称cīnaの音写。sthānaは土地、場所の意。

  22. 日域にちいき

    日本。

  23. 東大寺とうだいじに戒壇を立つべきのよし...

    『東大寺要録』巻四によれば「天平勝寶六年甲午五月一日。被下戒壇院建立之宣旨」と、東大寺戒壇建立の宣旨は五月一日のことであったとされる。

  24. 道宣どうせん律師

    随末から唐初(七世紀)の学僧。南山律宗祖。晩年、終南山西明寺に住して律の講演や著述に励んでいたことから南山大師と云われ、その律宗は南山律宗と称された。
    当時、支那には懐素による東塔宗や法礪による相部宗などの律宗が存しており、道宣は法礪にも学んでいたが、後に主流となったのは道宣の南山律宗であった。日本に律を伝えた鑑真は道宣の孫弟子にあたる。

  25. 弘景こうけい律師

    呉音では「ぐきょう」。恒景とも。荊州覆船山玉泉寺の律僧。鑑真が実際寺において受戒する際、その戒和上となった人。

  26. 龍興寺りゅうこうじ

    揚州の龍興寺。武則天の失脚後、復権して唐を再興した中宗が武則天の大雲寺の制に倣い、同じく全国各州にそれぞれ一ヵ寺建立あるいは設置した官寺の称。国忌法要を行じることを主目的としたという。新たに建立するより既存の寺院を改称したものが多かったようであるが、揚州では大雲寺を改めて龍興寺とした。

  27. 曇無懴どんむせん三藏

    曇無讖。五胡十六国の北涼に支那に渡った印度僧。支那に、後非常に重要視される『大般涅槃経』や『金光明経』・『大集経』など多くの大乗仏典、および初めて菩薩戒経(『菩薩地持経』・『菩薩戒本』)をもたらして訳出した。

  28. 法進ほうしん

    揚州白塔寺の僧。鑑真に従って日本に渡来した十四人の比丘のうちの一人。律学および天台教学に秀でていた学僧。しばしば天台三大部を講演しており、日本における天台教学の普及の端緒を開いている。当時の日本における律学の基礎ともなる『沙弥十戒並威儀経疏』を著したことでも有名。
    ここで貞慶は「恩覚奏状」ならびに『興福寺僧綱大法師等奏状』に倣い、法進が曇無懴の弟子であったとしているが、まず時代がまったく合わない。

  29. 藤原朝臣ふじわらのあそん高房たかふさ

    平安初期の貴族。延暦十四年〈795〉生、仁壽二年〈852〉没。
    これもまた『恩覚奏状』ならびに『興福寺僧綱大法師等奏状』にそうあるからのことであるが、ここで東大寺戒壇院の創建に関わった者として藤原高房の名を挙げているのは甚だ不審で、全く時代が合わず、また高房が中納言に位したこともない。

  30. 道宣『關中創開戒壇図経』(『戒壇図経』)。いかにして支那に戒壇が創立されたかの因縁、およびそもそも戒壇とは何か、如何にして戒壇を創るべきか等が記された書。その理想・参考とするべきは印度の祇園精舎における戒壇であると道宣は述べ、この書を以て支那における「印度以来の正しい戒壇の相」を伝えるものであるとした。
    ただし、道宣は一度として支那を出たことはないため印度における実際を見たことなどあるはずもなく、ただ諸々の論書および律蔵の所説を斟酌し、さらに(胡僧などから)聞き集めたことをもって戒壇の正しい相なるものを主張した。故にその正統性は甚だ疑問符の付くものである。事実、道宣が正しいとした戒壇の相に同じ遺構は、印度にも吐蕃(西蔵)にも見出すことは出来ず、また南方諸国においても認められない。道宣のやや後代、律の実際を知るため印度及び南海諸国を巡って、見聞した事実を具に記録した義浄は、逗留したナーランダー大僧院に戒壇のあることを伝えているが、それは道宣が正統であるとした三段構えのものではなく、高さ二尺で一丈四方の一段のものであったという。
    しかしながら、支那および日本では、(伽藍配置に関してはほとんど再現されることはなかったけれども)この書に示された、三段構成の戒壇の相をもって印度以来、三国伝灯のものであると見なされ、事実その通りに作られた。東大寺戒壇院にしろ唐招提寺にしろ、幾度か焼失しているため当時のそのままの遺構は無いが、今も道宣が正しいとした三段構成の戒壇の相が再現され伝えられている。

  31. 戒壇圖かいだんず

    後に東大寺戒壇院に併せて「天下の三戒壇」と称される、下野薬師寺および筑紫観世音寺における戒壇の造立は、主として法進の尽力によるものであるといわれる。ここにいう「戒壇圖」は法進による指図であろうが現存しない。

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