『南都叡山戒勝劣事』とは中世、鎌倉初期に活躍した興福寺出身の法相宗僧、解脱上人貞慶〈1155-1213〉によって著されたとされる書です。
貞慶とは、藤原南家の藤原通憲(信西)の孫、藤原貞憲の子であった人です。信西が平治の乱で失脚して死に、縁座によってその子息であった父貞憲もまた失脚した〈一般に土佐に流罪となって殺されたとされるが、実際は京で出家入道して生西と名乗っていた〉ことにより、信西の子で興福寺にて出家していた叔父の覚憲に引き取られて僧となっています。
貞慶は、そのような藤原氏出身とは言え没落した家柄の子弟であったものの、叔父でありその師でもある覚憲の元で学問の研鑽にいそしみ、やがてはその学徳の高さと弁舌の鋭さ・巧みさで頭角を現しています。ついには、官僧としての出世に必須であった論議法要、いわゆる南都三大会の一つ、維摩会に首座(堅義)として出仕するなど、その将来を嘱望される存在となっていきました。
しかし当時、出家などと言ってもそれは名ばかりのことで、南都にしろ北京にしろ並み居る諸大寺の内実は貴族の庶子の処世の場に過ぎず、俗世における門閥貴族社会の引き写しというべきものでした。学僧として行う数々の仏典の読誦・研究など、そのような「出家社会というもう一つの俗世」における出世のため術に過ぎず、ただ知識と弁舌のみ鍛えてその実践など一切しないし出来ない、という頽廃した状況であったのです。
貞慶はそのような当時の出家社会を嫌い、と言ってもそんな単純な話でも無かったのでしょうけれども、建久四年〈1193〉の三十九歳のころ、ついに興福寺を出て遁世。山深い笠置寺に入っています。一説に、そのきっかけとなったのが薬師寺にて行われる最勝会宮講に出仕した時のこと、官人やその他の学侶らが絢爛なる装束で身を包み居並ぶところに、貞慶は、その馬と下僕も人から借り、しかも疲弊した粗末な衣で参じていました。これを諸人は嘲り笑ったことに対し、貞慶は頭陀行は仏陀の遺訓であるのに、もはや僧徒は法に則ることなく奢侈に走っていると憤慨したことによる、とされています。
遁世とは、本来、脱俗して出家することを意味する語です。しかしながら、中世となると、すでに僧として出家していながらも、もう一つの俗界と化していた大寺院などから出、多くの場合は都市部から離れた山間部や地方の小寺院・庵に入ることを意味するようになっています。それは、いわば「二度目の出家」というべきものを示す語で、それを果たした者を遁世僧と云いました。
それにしても遁世とは面白い語で、中世に「二度目の出家」といった意味で用いられるようになったのは、当時の僧俗の人々も仏教界が全く堕落していることを自覚していたからこそのことであったのでしょう。
遁世の 遁は時代にかきかへむ 昔は遁 今は貪
遁世の「遁」の字は、時代を経て書き換えられる。
昔は「(俗世から)遁れる」であったが、今は「(俗世を)貪ぼる」である。
無住『沙石集』三
さて、貞慶は笠置に遁世したとはいえ、しかし興福寺を捨てて絶縁したというのでは全然なく、以降も興福寺のために様々に力を尽くしています。貞慶の活動は実に幅広く、興福寺復興のための資材をつのる勧進はもとより、興福寺の末寺としての唐招提寺の復興にも携わっていました。
そもそも貞慶は藤原氏一族の人であり、言うまでもなく興福寺は藤原一門の氏寺であって、法相宗の本拠にして大和一国を統べていた大寺院です。そのような興福寺と縁など切れようはずもなく、そのような意志も全く無かったでしょう。
法然が布教を開始していた専修念仏の浄土教に対し、これを国家として停止させるべきことを興福寺一門を挙げて求めた『興福寺奏状』がありますが、それは貞慶によって起草されたものです。そして、それを起草した元久元年〈1204〉は、貞慶が興福寺を出て笠置寺にあること十年を過ぎた頃のことでした。
貞慶は、仏教の篤信者であった公卿、藤原長房の信を受け、様々にその後援を受けていましたが、承元四年〈1210〉にはこれを出家の弟子として海住山寺に迎え、覚真(慈心坊)の名を与えています。また承元のこの頃、貞慶は興福寺の律宗を再興し、ひいては仏教自体を復興するために、戒律復興の拠点たる道場を設けて律学を振興せんとする願いを綴った、『戒律興行願書』を著しています。
そして建暦二年〈1212〉、その覚真が、貞慶の戒律復興の意を受け、興福寺内に新たに建立したのが常喜院でした。常喜院とは、特に戒律を研究するためのいわば専門道場です。貞慶はそこで、ここに若く優秀な僧二十口を定員として集め、律学の講演を開始しています。その常貴院の律学の徒として最初に参加した僧二十口の中の最年少者が、嘉禎二年〈1236〉に同志の叡尊や有厳・円晴と共に戒律復興を果たし、やがて唐招提寺の中興の祖となる覚盛でした。
しかし、常喜院が建てられて三年も経たぬ元仁二年〈1213〉二月、貞慶は五十九歳でその寿を終えています。貞慶没後、常喜院における律学の振興は戒如が引き継ぎ、先にも述べたように海住山寺は覚真が継いで、それぞれ戒律復興のための礎を築いています。
さて、そもそも何故、貞慶は戒律復興のためとしてその道場を興福寺に建てたのか。
それは中世の当時、今でこそ律宗の本山とされている唐招提寺は、思託と普照の勧めによって鑑真が律学のため平城京に上り集まる僧徒の修学の場として創建したものであり、また鑑真のいわば隠居寺でもあって、南都七大寺にも入らぬ一寺院に過ぎず、しかも平安後期には荒廃しきって興福寺の末寺の一つとなっていました。また、比叡山延暦寺の僧徒を除く全ての宗派の僧の受戒を行う場であった東大寺戒壇院はもはや東大寺の管理下にはなく、これを取り仕切っていたのが興福寺東西両金堂の堂衆となっていたためです。
興福寺は法相宗の本拠であると同時に、律宗の本拠でもあったのです。
実は貞慶以前、時代を遡ること少しの平安末期(十二世紀初頭)には、やはり興福寺から中川少将上人とも言われた実範が出て、戒律復興の先鞭をつけていました。実範が戒律復興を志したのは、本来は律宗を本宗として東大寺戒壇院における授戒を取り仕切り、また律宗を興隆すべきはずの興福寺東西両金堂の堂衆がその役目をまったく果たさず、頽廃ぶりが目に余ると学侶から問題視されたことをきっかけとするものでした。
(実範についての詳細は、別項「戒山『中川寺實範律師伝』」を参照のこと。)
律學者の學と行と相違の事
唐の龍興寺の鑒眞和尚、聖武天皇の御宇、本朝に來て、南都の東大寺、鎭西の觀世音寺、下野の藥師寺、三の戒壇をたて給ひ、毘尼の正法をひろめ、如法の受戒を始め行ぜしかども、時うつり儀すたれて、中古より只名ばかり受戒というて、諸國より上りあつまりて、戒壇はしりめぐりたるばかりにて、大小の戒相もしらず、犯制の行儀もわきまへず。わづかに臈次をかぞへ、虚しく供養をうくる僧寶になりはてて、持齋持律の人跡たえぬる事をなげきて、故笠置の解脱上人、如法の律儀興隆の志深くして、六人の器量の仁をえらびて、持齋し律學せしむといへども、時いたらざりけるにや、皆正躰なき事にてありけれども、堂衆の中に器量の仁を以て、常喜院と云ふ所にて、夏中の間、律學し侍り。持齋すべき供料なんどはからひおかる。夫も夏をはれば、持齋もせずして、如法の儀なかりけるに、近比かの學者の中より發心して、如法の持律の人、世間におほし。かの本願上人の御志の感ずる所にや。
律学者の学と行とが相違している事
唐の龍興寺の鑑真和尚は、聖武天皇の御宇に本朝に到来し、南都の東大寺・鎮西の観世音寺・下野の薬師寺に三つの戒壇を建てられ、毘尼〈vinaya. 律〉の正法を広めて如法の受戒を始め行じられた。
けれども、時代が移るとその儀は廃れてしまい、中古〈平安時代〉よりただ「名ばかり受戒」と云って、(僧となろうとする者が)諸国より(東大寺に)上り集まって、(戒を授受する両人共に自身らが何をしているかも解らず)戒壇の上を走り巡るだけのこととなった。(そのような者らは、戒壇院で受戒したといっても形式ばかりのことで)、大乗〈菩薩戒〉・小乗〈律〉の戒相〈戒律の具体的内容〉も知ることはなく、犯制〈僧侶としての禁則〉の行儀をわきまえてもいない。(夏安居が終われば)ようやく臈次〈比丘としての席次。安居を過ごした回数〉を数えるばかりで、(比丘としての内実など全く無いにもかかわらず、)虚しく供養を受けるだけの(偽の)僧宝に成り果たのである。
持斎持律の人跡が絶えてしまっている事を嘆いた故笠置の解脱上人〈貞慶〉は、如法の律儀を興隆する志を深くし、六人の器量〈才知優秀〉の人を選抜して、持斎〈持戒〉・律学させた。しかしながら、その時機にはまだ至っていなかったのであろう、その皆がまるで本来からかけ離れた有様であった。そこでまた、(興福寺東西金堂の)堂衆の中から器量の人を選んで常喜院という所にて、夏中〈雨安居の三ヶ月〉の間、律を学ばせ、(常喜院にて)持斎させるための供料〈運営費〉など工面したのである。しかし、それも夏〈安居〉が終わったならば、(常喜院の律学に参加していた者等が)持斎することなどなく、如法の儀など行われることはなかった。
ところが近頃〈嘉禎二年以降〉、その(常喜院の)学者の中から発心して如法の持律の人〈覚盛等〉が出たことにより、今や世間に多く見られるようになった。これは、かの本願上人〈中川の中将上人実範〉の御志の果報というものであろう。
無住『沙石集』巻三 「律學者の學と行と相違の事」
そのようなことからも、戒律復興の狼煙は自然に興福寺から上げられることになった、いや、それは必ず興福寺から上げられるものでなければなりませんでした。
本書『南都叡山戒勝劣事』がいつ頃著されたものか定かではありません。そもそも日付どころか貞慶の署名もなく、ただ解脱上人の起草として伝えられているだけのものです。
(ここでは伝統説に従い、本書を貞慶による書であるとして扱っています。本書が貞慶によるものでないなどという疑義は無く、むしろ伝統説通り貞慶著であると考えて問題ないためです。)
その内容は、題目に「南都叡山戒勝劣事」などとありますが、南都と比叡山とにおける戒律の優劣を論じたものではありません。それは、そもそも東大寺戒壇院の由来を訊ねてその正統性を論じたもので、かえって比叡山上の戒壇およびそこで授受される出家戒としての梵網戒がいかなる仏典・伝統・史実にも根拠の無いものであることを述べており、その勝劣というのではなくむしろその真偽を言ったものです。
そして、そのような『南都叡山戒勝劣事』は、戒律復興を志した貞慶によって、突如として著されたものではありません。それは、貞慶より半世紀ほど前に生じていた延暦寺よりなされた法相宗への誹謗に対する法相宗からの反論を引き継いだものでした。
『南都叡山戒勝劣事』の原型となる書、それは『応和宗論記竝恩覚奏状』という、一般にはほとんど知られていないものです。その中の「恩覚奏状」とは、もと興福寺の学僧で恩覚という人が、白河天皇によって建立された六つの御願寺のうち最大であった法勝寺という、四箇大寺〈興福寺・東大寺・延暦寺・園城寺〉に匹敵する南都の壮麗な大寺院に、伝灯法師としてあった応保二年〈1162〉、二条天皇を頂く朝廷に対して奏された書状です。
応保の当時、延暦寺は、園城寺の覚忠僧正〈慈円の実弟〉が第五十世天台座主に補任されたことを不服とし、これを拒絶しようと強訴していました。そもそも比叡山延暦寺は、その前年の永暦二年〈1161〉、園城寺がその別院であった宇治の平等院に戒壇を建立しようとしているのではないかと疑って蜂起し、小競り合いを起こしています。
比叡山延暦寺の僧徒らは、円珍の門流いわゆる寺門派の拠点となっていた園城寺が、藤原道長や白河上皇など貴人の信を得て以降ますます繁盛していたことを嫉妬し忌々しく思っていました。そして、延暦寺は、園城寺がさらに大きくなり、戒壇や灌頂など僧として重大な儀式を自前で執行し得る機能を備えて完全に独立した存在となることを、非常に恐れていたのです。
事実、それからさらに時を遡った長久二年〈1041〉と延久二年〈1070〉の二度に渡り、園城寺は寺内に戒壇を建立したい旨を公とし、まず諸宗にその可否を問うていました。そのような園城寺からの具申に対し、南都六宗および真言宗の諸大寺は反意を示すことはなかったのですが、しかしただ独り猛烈に拒絶の意を示したのが延暦寺でした。
その後、白河天皇の皇子誕生の祈祷に携わった園城寺の実相房頼豪〈1003-1084〉は、承保元年〈1074〉に無事敦文親王が誕生したその功績の賞として、実際に園城寺に戒壇〈この時、頼豪が求めたのは「菩薩戒壇」ではなく「三昧耶戒壇」であったと『太平記』ではいう〉を建立することを求めています。それを白河帝は許そうとするも、延暦寺からの猛烈な反対にあって遂に実現されませんでした。
(後代、頼豪はその恨みから断食して憤死し、鼠の妖怪となって延暦寺の経蔵を襲った、などという説話が創作されています。もちろんそんな話は真っ赤なウソで、頼豪は断食で死んでなどおらず、その十年後に八十二年の人生を穏やかに終えています。そのような詮無い俗説が生じた影には、延暦寺に与する者による、戒壇建立を望み続けた園城寺および頼豪の世評を失墜させようとする卑しい意図があったのでしょう。いわゆるプロパガンダですが、そのような手法は古今よく用いられており、社会の一部、時には大多数に有効に作用しています。)
そして承保二年〈1075〉、それが元で両寺の武力衝突に発展。永保元年〈1081〉には、両寺の僧徒は互いの境内に攻め入りあうなど抗争が激化し、ついに園城寺一山は灰燼に帰しています(その三年後の応徳元年〈1084〉に復興)。
ところで、長久と延久年間に園城寺が戒壇を寺内に建立することの可否を諸宗に訊ねた時、法相宗の諸大寺が反対していなかったという事実は見過ごしてはならない点です。なんとなれば、それはすなわち法相宗が中古通じて天台宗における独自の菩薩戒に対する見解や受戒制度に異を唱え、批判し続けていたのでなかったことの証となるためです。
ただし、園城寺が求めたのが三昧耶戒壇であったとしたならば、南都がこれに反対する理由など何一つとしてありはしません。しかし、三昧耶戒とは普通、常設の戒壇など全く不要なものであって、灌頂が開かれる際に堂内などに一時的に設けられ授けられるものです。故に園城寺はただ名目上、三昧耶戒壇と言ったのであって、実は菩薩戒を行い得る、東大寺の戒壇や叡山のそれを模した常設の戒壇の建立を目指していたように思われます。
叡山からすれば、それが三昧耶戒であっても自らが掌握する天台の僧徒にとって最重要な儀式の執行権が分割される、すなわち侵害されることを意味します。まして、その常設の三昧耶戒壇とやらにて菩薩戒まで授受される可能性があるとなれば、園城寺が完全に比叡山の影響下から脱することとなり、なおさら猛反発したのでしょう。
もっとも、だからといって法相宗を始めとする南都諸宗が、その昔の最澄の主張に納得し、日本天台宗の大乗戒壇の正統性を承認するようになっていた、というわけでは全くありません。しかし、仏教として正統性あるものとして認められたというのではなくとも、すでに朝廷の認可を得て既成事実化して久しく、またそれによる影響が、たとえば南都の僧の一部に最澄の主張した大乗戒を認めてむしろそれをこそ受けたいと望む者すら現れるなど、様々な形で色濃く及んでいました。
さて、そのように延暦寺と園城寺との間での権力や勢力争いが展開される中、園城寺の僧徒は延暦寺戒壇で受戒することを良しとせず、というよりそんなことが不可能となる程両者の確執が厳しいものとなっていたのですが、東大寺戒壇院にて受戒することとなっていました。
誰であれ僧となるには必ず受戒しなければなりませんが、当時の国法として、正式な受戒の場は日本全国の中に、天台宗以外のすべての僧徒となる者のための鑑真以来の三戒壇と、天台宗徒のみが利用する義真以来の延暦寺の戒壇以外にはありませんでした。園城寺の門徒は天台宗徒であるとはいえ、しかし延暦寺で受戒することが出来ないならば、僧となるための場は必然的に東大寺戒壇院(と東西の二戒壇)以外にはありませんでした。これは当時の僧尼に対する俗法の問題でもあったのです。
そして応保二年〈1162〉、園城寺の者(覚忠)が天台座主に補任され、また園城寺の僧徒が東大寺戒壇院にて受戒していることを許しがたいとした延暦寺は、「智証〈円珍〉の門人は法相の権宗〈真実ではない仮の教え〉を学んで円頓〈日本天台宗〉の教文を捨てる」と云い、また「南都具足戒は唯だ声聞の小戒である」と断じて園城寺を激しく謗り、園城寺の僧徒が再び比叡山の戒壇で受戒することを国法として縛るよう、朝廷に要求しています(朝廷は叡山の要求どおりその勅を下すも、園城寺はそれを拒絶)。
いわゆる山門派と寺門派の諍いなど天台宗における内紛に過ぎず、ほとんど関わり無い法相宗ではありました。いや、一応、寺門派の受け皿となっていたという程度の関わりはあった。しかし、そのような、いわば「とばっちり」で南都の戒壇および法相宗が難じられることを聴き逃がすことを、法相宗は出来ませんでした。そこで、その延暦寺の言の非を訴え、さらには法相宗と天台宗の真偽を糺そうとして朝廷に出されたのが「恩覚奏状」です。
恩覚は、比叡山の大乗戒壇および菩薩戒単受の制度を全く誤った根拠なきものであると断じ、比叡山延暦寺は本来、興福寺の末寺に過ぎないのであって、またその戒壇の建立に際してわざわざ東大寺戒壇の土まで移植して建てられた事実のあることから、東大寺戒壇の末戒壇であるとしています。このような批難の応酬は、平安初期に展開した南都の僧綱・諸大寺と最澄との諍論と、法相宗の徳一と最澄と間でなされた論争とが、時代を超えて再燃したものでした。
さて、前述したように、興福寺における戒律復興への気運は、そのような延暦寺と園城寺の諍いに起因した興福寺から延暦寺への反論・批判がなされる以前、すでに実範によって生じていたものです。が、上に示した当時の情勢を鑑みたならば、そのような法相宗における延暦寺の所言に対する強い反感・反発によっても、興福寺における戒律復興への意識が高められていったのだと見ることが充分に可能となるでしょう。
中世における戒律復興は、そのような様々な当時の事情を背景に、ようやく成し遂げられていきます。