VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

貞慶 『南都叡山戒勝劣事』

訓読

夫れ大唐終南山の戒壇を尋れば、道宣律師、印度の風に任て戒壇を建んと欲せる時、たちまち一人の聖人しょうにん自然じねん化現けげんして、其の戒壇の方法を示す。而て道宣これを信ぜざる處、沙彌しゃみ來て彼の聖人を求む。其の時、道宣律師、沙彌に問て曰く、聖人誰人だれひとかと。沙彌答て曰く、聖人是れ賓頭盧びんずる尊者なりと。此の時、道宣律師、始て信を生ず。聖人のつぐるに任て地を掘て、しも水際すいさいに至り、四角におのおの一堅石けんせき有て、高さ六尺なり。くだんの石上に銘有り。是は此れ迦葉佛かしょうぶつの時、比丘戒の壇場にして、淸官寺せいかんじ戒壇と號すと云々。 

しこうして今、東大寺戒壇、ひとへに彼の儀式を寫す。實に唯だ釋迦一佛・月氏の戒壇に同じに非ず、兼て久遠くおん迦葉の法式を寫すものなり。夫れ南都の戒壇とは、唐土・天竺の舊儀に依て、前佛ぜんぶつ後佛ごぶつ遺跡ゆいせきあたる。登壇とうだんじゅかいじゅかい法式ほっしき、南都の戒壇を以てもととすべし。

今の延暦寺えんりゃくじの戒壇とは、最澄さいちょう新儀しんぎに出て釋尊の正説しょうせつに見へず。五印度ごいんどの中には何の所のに依るか。四主ししゅの間に至ては、何の國の壇を寫すか。ここを以て昔、弘仁こうにん聖朝しょうちょう御時おんとき、延暦寺最澄、叡山に戒壇を建つべきのよし官奏かんそうを經ると雖も、諸寺しょじ僧侶そうりょ許さず。故に天判てんぱん更に成ぜず。最澄つひ素懐そかいを遂げずして歿ぼっおわんぬ。然るに後、延暦寺別當べっとう國道朝臣くにみちのあそん賢政けんせい漸隱ぜんおんこくうかがひて、佛法衰微のころを得、重て奏聞そうもんを歴て、勅許をこうむる。

後に義眞ぎしん、叡山戒壇を立る爲に、南都の戒壇院第九和上常詮じょうせん僧都そうずに謁し、請じて東大寺戒壇院の四角よすみの土を乞ひ、叡岳戒壇にこもりて壇場を建立せしめ畢ぬ。其の義眞の請文しょうもん、卽ち東大寺に在り。ここに知るべし、南都を以て本戒壇と爲し、叡山を以て末戒壇と爲すと云ふ事を。

いかいはんや最澄とは興福寺の所司しょし仁秀にんしゅう寺主の門弟にして、正倉院しょうそういんに於て具足戒を受けるの後、大安寺だいあんじに任す。其の後、叡山に登て戒壇を立つべきの由、官奏かんそうを經るの處なり。次に義眞とは、興福寺こうふくじ東金堂衆延修えんしゅの童子にして、童名糸牛丸いとうしまるなり。また慈覺じかく、又の名は圓仁えんにんとは、東大寺戒壇院に於て比丘戒を受け、既に叡山戒壇に於て傅戒の祖師と仰ぐ。最澄・義眞等皆、以て南都の門流なり。いかでか出家具足の大戒を誹謗ひぼうすべし。

凡そ菩薩の十重禁戒じゅうじゅうごんかい四十八輕戒しじゅうはちきょうかいを以て出家の大僧戒たいそうかいと爲すと云ふ事、更に聖敎しょうぎょうの所説に無し。梵網ぼんもう瓔珞ようらく、全く其の説無し。善戒ぜんかい地持じじすべて彼の文無し。菩薩戒とは、二界にかい五趣ごしゅ、出家・在家通受つうじゅの戒なり。若し此の戒を受ることを以て出家と爲せば、欲天よくてん色天しきてんしゅ、龍神・鬼神のたぐい奴婢ぬひ畜生ちくしょうむれ、皆以て大僧たいそうと爲すべし。故に延暦寺戒壇を以て出家戒と爲すの條、はなはだ以て聖敎しょうぎょう誠説じょうぜつ無く、只だ受戒の作法さほうと爲すべきものなり。

しかるに延暦寺の僧徒、戒相かいそうに迷て、菩薩戒を以て出家に用るの條、聖敎の所説に暗く、更に戒相に迷ふが故なり。知るべし、延暦寺えんりゃくじの僧侶とは比丘びくに非ずして比丘のころもを着、大僧たいそうに非ずして大僧の位に居ることを。に戒律の作法を知らざるや。叡山えいざん戒壇かいだんを以て末戒壇まつかいだんと爲すべしと云ふ事、道理どうり既に必然ひつねんなり。天台てんだい門葉もんよう、戒律の根源に歸伏きふくして、諍論じょうろんを起すことなかれ。

現代語訳

そもそも大唐終南山の戒壇(の由来)を尋ねてみれば、道宣律師が印度の風儀に倣って戒壇を建てようとした時、突如として一人の聖人がどこからともなく化現して、その戒壇の方法を示したのであった。しかし道宣はそれを信じなかったところ、一人の沙彌がその聖人を訪ねてきたのである。そこで道宣律師は、その沙彌に「聖人は何者であろうか」と聞いてみると、沙彌は「その聖人は賓頭盧尊者です」と答えた。その時、道宣律師は初めて(その聖人の言うことを)信用するようになった。そして聖人の告げるままに地を掘って水際まで至ると、その四角にそれぞれ一つの堅石があり、その高さは六尺であった。その石には銘が彫られており、「これは迦葉仏の時、比丘戒の壇場であって、清官寺戒壇と号す」とあったという。 

そこで今、東大寺戒壇とは偏にその儀式を写したものである。実にただ釈迦一仏、月氏の戒壇と同じだけでなく、兼ねて久遠迦葉 〈迦葉仏〉の法式を写したもの。そもそも南都の戒壇とは、唐土・天竺の旧儀に依り、また前仏後仏の遺跡に倣ったものである。登壇受戒の法式は、南都の戒壇をもって本とすべきものである。

今の延暦寺の戒壇とは、最澄の(主張した)「新儀」から出たものであって、釋尊の正説に根拠のあるものではない。一体、五印度の何れの所の図に依ったものであろうか。四主〈四州。全世界〉について言えば、何れの国の壇を写したものであるのか。このようなことから、昔弘仁の聖朝の御時、延暦寺最澄は、比叡山に戒壇を建てられるよう官奏したけれども、諸寺の僧侶は許さなかった。故に天判による許可が下されはしなかったのである。最澄は終にその素懐を遂げずに死去した。ところがその後、延暦寺別当国道朝臣は、(天皇自らによる)賢政が漸く衰えだした時勢を伺って仏法もまた衰微していく機会を得、重ねて奏聞して(最澄の『山家学生式』にある要望に対する)勅許を得たのであった。

そしてまた後に義真は比叡山戒壇を建てる為、南都の戒壇院第九和上常詮僧都に謁し、東大寺戒壇院の四角の土を乞い受けて、叡岳戒壇に籠めて壇場を建立したのであった。その義真の請文は東大寺に今もある。このようなことから知るべきである、南都(の東大寺戒壇)こそ本戒壇であって、比叡山(の戒壇)は末戒壇であるということが。

まして最澄とは興福寺の所司仁秀寺主の門弟であって、(興福寺)正倉院〈北倉院の誤伝〉において具足戒を受け、その後大安寺に住している。その後、比叡山に登って(ただ梵網戒をのみ授受する為の)戒壇を立てることを希望して官奏したのである。次に義真とは、興福寺東金堂衆延修の童子であって、童名を糸牛丸といった。また慈覚またの名を円仁というとは、東大寺戒壇院にて比丘戒を受け、叡山戒壇において伝戒の祖師と仰がれている。すなわち、最澄・義真など皆、南都の門流である。一体どうして出家具足の大戒を誹謗することなど出来ようか。

およそ菩薩の十重禁戒四十八軽戒を以て出家の大僧戒であると云う事など、更に聖教の所説に無い。『梵網経』・『菩薩瓔珞本業経』にも、全くその説は無し。『菩薩善戒経』・『菩薩地持経』にも、通じてそのような文は無い。菩薩戒とは、二界・五趣、出家・在家の通受の戒である。もしこの戒を受けることによって出家となるのであれば、欲天・色天の衆、龍神・鬼神の類、奴婢・畜生の群、(菩薩戒を受けることが出来る)皆すべては大僧となるであろう。故に延暦寺戒壇を以て出家戒とすることなど、なんら聖教の誠説に基づいたものでは無く、(何らの意味もない)「ただの受戒の作法」というべきものである。

にもかかわらず、延暦寺の僧徒は戒相に迷って菩薩戒を以て出家に用いているのは、聖教の所説に暗く、更に戒相に迷ったが故のことである。知るべし、延暦寺の僧侶とは比丘では無いのに比丘の衣を着、大僧では無いのに大僧の位に居していることを。どうして戒律の作法を知らぬままでいられようか。叡山戒壇とは末戒壇であると云う事の道理は既に必然である。天台の門葉らよ、戒律の根源に帰伏して諍論を起こすことなかれ。