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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

貞慶 『南都叡山戒勝劣事』

原文

夫尋大唐終南山之戒壇者。道宣律師任印度之風欲建戒壇時。忽一人聖人自然化現。示其戒壇之方法。而道宣不信之處。沙彌來求彼聖人。其時道宣律師問沙彌曰。聖人誰人哉。沙彌答曰。聖人是賓頭盧尊者也。此時道宣律師始生信。任聖人告掘地。下至水際。四角各有一堅石。高六尺也。件石上有銘。是此迦葉佛時。比丘戒之壇場。號淸官寺戒壇。云々 

而今東大寺戒壇。偏寫彼儀式。實非同唯釋迦一佛月氏之戒壇兼寫久遠迦葉之法式。夫南都戒壇者。依唐土天竺之舊儀。任前佛後佛之遺跡。登壇受戒之法式。以南都戒壇可爲本也。

今延暦寺戒壇者。出最澄之新儀不見釋尊之正説。於五印度之中者依何所圖哉。至四主之間者。寫何國壇哉。爰以昔弘仁 聖朝御時。延暦寺最澄。叡山可建戒壇之由雖經 官奏。諸寺僧侶不許。故 天判更不成。最澄終不遂素懐而歿畢。然後延暦寺別當國道朝臣伺賢政漸隱之尅。得佛法衰微之比。重歴 奏聞。蒙 勅許。

後義眞爲立叡山戒壇。謁南都戒壇院第九和上常詮僧都乞請東大寺戒壇院四角之土。籠叡岳戒壇令建立壇場畢。其義眞請文卽在東大寺。爰知以南都爲本戒壇。以叡山爲末戒壇云事。

何況最澄者興福寺所司仁秀寺主之門弟。於正倉院受具足戒之後任大安寺。其後登叡山可立戒壇之由。經 官奏之處也。次義眞者。興福寺東金堂衆延修之童子。童名糸牛丸也。又慈覺又名圓仁。者。於東大寺戒壇院受比丘戒。既於叡山戒壇仰傅戒之祖師。最澄義眞等皆以南都之門流也。爭可誹謗出家具足之大戒哉。

凡以菩薩十重禁戒四十八輕戒爲出家大僧戒云事。更無聖敎之所説。梵網瓔珞全無其説。善戒地持都無彼文。菩薩戒者。二界五趣出家在家通受之戒也。若以受此戒爲出家者。欲天色天之衆。龍神鬼神之類。奴婢畜生之羣。皆以可爲大僧哉。故以延暦寺戒壇爲出家戒之條。甚以無聖敎誠説。只爲受戒之作法者也。

而延暦寺僧徒迷戒相。以菩薩戒用出家之條。暗聖敎之所説。更迷戒相故也。知延暦寺僧侶者非比丘而着比丘之衣。非大僧而居大僧之位。豈不知戒律之作法哉。以叡山戒壇可爲末戒壇云事。道理既必然也。天台門葉歸伏戒律之根源。勿起諍論

訓読

夫れ大唐終南山の戒壇を尋れば、道宣律師、印度の風に任て戒壇を建んと欲せる時、たちまち一人の聖人しょうにん自然じねん化現けげんして、其の戒壇の方法を示す。而て道宣これを信ぜざる處、沙彌しゃみ來て彼の聖人を求む。其の時、道宣律師、沙彌に問て曰く、聖人誰人だれひとかと。沙彌答て曰く、聖人是れ賓頭盧びんずる尊者なりと。此の時、道宣律師、始て信を生ず。聖人のつぐるに任て地を掘て、しも水際すいさいに至り、四角におのおの一堅石けんせき有て、高さ六尺なり。くだんの石上に銘有り。是は此れ迦葉佛かしょうぶつの時、比丘戒の壇場にして、淸官寺せいかんじ戒壇と號すと云々。 

しこうして今、東大寺戒壇、ひとへに彼の儀式を寫す。實に唯だ釋迦一佛・月氏の戒壇に同じに非ず、兼て久遠くおん迦葉の法式を寫すものなり。夫れ南都の戒壇とは、唐土・天竺の舊儀に依て、前佛ぜんぶつ後佛ごぶつ遺跡ゆいせきあたる。登壇とうだんじゅかいじゅかい法式ほっしき、南都の戒壇を以てもととすべし。

今の延暦寺えんりゃくじの戒壇とは、最澄さいちょう新儀しんぎに出て釋尊の正説しょうせつに見へず。五印度ごいんどの中には何の所のに依るか。四主ししゅの間に至ては、何の國の壇を寫すか。ここを以て昔、弘仁こうにん聖朝しょうちょう御時おんとき、延暦寺最澄、叡山に戒壇を建つべきのよし官奏かんそうを經ると雖も、諸寺しょじ僧侶そうりょ許さず。故に天判てんぱん更に成ぜず。最澄つひ素懐そかいを遂げずして歿ぼっおわん。然るに後、延暦寺別當べっとう國道朝臣くにみちのあそん賢政けんせい漸隱ぜんおんこくうかがひて、佛法衰微のころを得、重て奏聞そうもんを歴て、勅許をこうむる。

後に義眞ぎしん、叡山戒壇を立る爲に、南都の戒壇院第九和上常詮じょうせん僧都そうずに謁し、請じて東大寺戒壇院の四角よすみの土を乞ひ、叡岳戒壇にこもりて壇場を建立せしめ畢ぬ。其の義眞の請文しょうもん、卽ち東大寺に在り。ここに知るべし、南都を以て本戒壇と爲し、叡山を以て末戒壇と爲すと云ふ事を。

いかいはんや最澄とは興福寺の所司しょし仁秀にんしゅう寺主の門弟にして、正倉院しょうそういんに於て具足戒を受けるの後、大安寺だいあんじに任す。其の後、叡山に登て戒壇を立つべきの由、官奏かんそうを經るの處なり。次に義眞とは、興福寺こうふくじ東金堂衆延修えんしゅの童子にして、童名糸牛丸いとうしまるなり。また慈覺じかく又の名は圓仁えんにんとは、東大寺戒壇院に於て比丘戒を受け、既に叡山戒壇に於て傅戒の祖師と仰ぐ。最澄・義眞等皆、以て南都の門流なり。いかでか出家具足の大戒を誹謗ひぼうすべし。

凡そ菩薩の十重禁戒じゅうじゅうごんかい四十八輕戒しじゅうはちきょうかいを以て出家の大僧戒たいそうかいと爲すと云ふ事、更に聖敎しょうぎょうの所説に無し。梵網ぼんもう瓔珞ようらく、全く其の説無し。善戒ぜんかい地持じじすべて彼の文無し。菩薩戒とは、二界にかい五趣ごしゅ、出家・在家通受つうじゅの戒なり。若し此の戒を受ることを以て出家と爲せば、欲天よくてん色天しきてんしゅ、龍神・鬼神のたぐい奴婢ぬひ畜生ちくしょうむれ皆以て大僧たいそうと爲すべし。故に延暦寺戒壇を以て出家戒と爲すの條、はなはだ以て聖敎しょうぎょう誠説じょうぜつ無く、只だ受戒の作法さほうと爲すべきものなり。

しかるに延暦寺の僧徒、戒相かいそうに迷て、菩薩戒を以て出家に用るの條、聖敎の所説に暗く、更に戒相に迷ふが故なり。知るべし、延暦寺えんりゃくじの僧侶とは比丘びくに非ずして比丘のころもを着、大僧たいそうに非ずして大僧の位に居ることを。に戒律の作法を知らざるや。叡山えいざん戒壇かいだんを以て末戒壇まつかいだんと爲すべしと云ふ事、道理どうり既に必然ひつねんなり。天台てんだい門葉もんよう、戒律の根源に歸伏きふくして、諍論じょうろんを起すことなか

脚註

  1. 沙彌しゃみ

    [S]śrāmaṇera / [P]sāmaṇeraの音写。求寂や息慈、勤策男などと漢訳される。未だ具足戒を受けていない、仏教における見習い出家者。出家ではあるけれども立場としてはあくまで見習いであるため、僧伽(僧宝)の成員には含まれない。
    仏教では原則として数え年十三となって沙弥としての出家が可能となり、二十歳以上で心身ともに健全であれば具足戒を受けて比丘となることが出来る。もし、比丘となるための諸条件を満たさず、またなんらか欠格条項に一つでも触れていたならば、比丘となることは出来ず、二十歳を超えても生涯沙弥のままでいなければならない。詳しくは別項「沙弥 ―仏教徒とは」を参照のこと。

  2. 賓頭盧びんずる尊者

    [S]Piṇḍola Bhāradvāja. 神通力に秀でていたとされる仏陀の直弟子の一人。十六羅漢の筆頭。
    仏教伝来して以来蔓延っていた支那における格義仏教の弊害を廃し、また漢訳に際しての誤りを正すべく奮闘した釈道安が、自らの諸経典への解釈が正しいかどうか不安に思っていたある日、その夢に白髪まじりの眉毛の長い胡人が現れ、その理解が道理に沿ったものであることを告げた。果たしてその人とは賓頭盧尊者であったといい、共に仏教を広めようと誘われ、また時時に食の供養をせよと云われたという。以降、支那では特に食堂に賓頭盧尊者をその上座に祀り、その前に食事の供養を設けることが慣わしとなった。これを日本でも受け継ぎ賓頭盧尊者は食堂に祀られるが、それは現在も特に禅宗にて伝えられている。

  3. 水際すいさい

    水輪際。仏教の世界観において、須弥山を中心とする世界の下には金鱗・水輪・風輪があるとされる。その水輪の最下部、風輪との接する境界を水輪際という。

  4. 迦葉佛かしょうぶつ

    [S]Kāśyapa. 釈迦牟尼仏の前に現れていた仏陀。過去七仏のうち第六仏。

  5. 淸官寺せいかんじ

    長安清官郷(現在の陝西省西安県長安区)に位置する浄業寺の前身。道宣がしばし住して著述・講演した寺。

  6. 久遠くおん

    遠い過去。

  7. 前佛ぜんぶつ後佛ごぶつ

    前代の仏陀と後代の仏陀。特に迦葉仏と釈迦仏、あるいは釈迦仏と弥勒仏の意とされるが、ここでは前者の意。

  8. 登壇とうだんじゅかいじゅかい法式ほっしき

    沙弥が戒壇にて具足戒を受ける次第(順序)・方法。あるいは、戒壇そのものの形態のこと。
    貞慶の当時、すでに持戒持律の僧は滅び、戒律の相伝は全く絶えて無くなっていたものの、しかし通過儀礼としての受戒は戒壇院にて行われていた。そして、その東大寺戒壇院における受戒を管掌していたのは、興福寺東西両金堂の堂衆であり、律宗・律学の本拠は唐招提寺でも東大寺でもなかった。そして当時、唐招提寺は興福寺の所管となっていた。しかしながら、その律宗を本宗とする筈の東西両金堂の堂衆らも堕落を極めてもはや律学についてまるで無知となっており、戒壇院における受戒の内容も全く乱れた不如法のものとなっていた。これを興福寺の学侶らが春日社における法華八講の場において問題視したことを契機として、実範がその復興を志す。そこでまず著したのが『東大寺戒壇院受戒式』一巻であった。これはすでに天平の昔に法進が著していた、『東大寺受戒方軌』の焼き直しというべきものである。しかし、それはただの式次第であって、それを著したからといって戒律復興などする筈もなく、それまで戒壇院で行われていた中身の全く無い通過儀礼としての受戒の内容を、形式上は正しいものとして変えようとするに過ぎないものであった。結局、実範の戒律復興への志を果たすことは叶わなかったが、その遺志は蔵俊・覚憲を経て、興福寺の貞慶に受け継がれる。
    ここで貞慶が主張している「南都の戒壇を以て本とすべし」とは、まず東大寺の戒壇の形態と由来とが三国伝来のものであってさらに前仏の代にまで遡りえる正統なものであることと、そこでの受戒の方式・内容とが同じく最も伝統的・正統なものであることを言わんとしたもの。

  9. 最澄さいちょう新儀しんぎ

    『山家学生式』および『顕戒論』における、純大乗の僧はただ大乗戒(梵網戒)をのみ受けることによって比丘たり得るし、そうあるべきで、それが印度以来の伝統にもそぐうものであるとした、最澄の主張。それはしかし、インド以来前代未聞の説であって経律に根拠も無く、故に全く「新しい主張」であった。仏教において「新しい」ということは、往々にして根拠がない、伝統にないことを意味する。

  10. 五印度ごいんど

    東西南北および中印度。中印度は釈尊が成道されたガンジス川中流域、摩伽陀国周辺。

  11. 四主ししゅ

    四州(四大州・四洲)。仏教の世界観で、須弥山を中心とした四方にある四大陸のこと。そのうち我々の世界は南方の閻浮提(贍部洲)と言われる。閻浮提あるいは贍部洲とは、サンスクリットJambudvīpaの音写。南贍部洲とも。

  12. 弘仁こうにん聖朝しょうちょう御時おんとき

    第五十二代天皇、嵯峨帝の治世。

  13. 諸寺しょじ僧侶そうりょ

    僧綱および南都諸大寺の僧侶。最澄の当時、僧綱の筆頭には元興寺の護命が任ぜられていた。南都の興福寺および元興寺・薬師寺などを本拠とする法相宗は、天台宗年分度者となって東大寺戒壇院で受戒したとたんに離散する者の主たる受け皿となっており、また最澄の単受菩薩戒によって比丘として認めることの許しを朝廷に上奏した際にはそれを全く否定して真っ向から反対していたため、最澄の主敵であった。
    もっとも、僧綱が最澄の主張に反対したのは政治的理由からでなく、それがまず前代未聞で明瞭な根拠の無いものであったためであった。むしろ最澄の主張こそ、自身が桓武帝の後援のもと打ち立てた天台宗の、その著しい人員離散による危機的状況を背景としたものであり、それをなんとか防ごうとする政治的目的・手段によるものであったが、現代一般にはまったく逆様に理解されている。

  14. 天判てんぱん

    天皇の裁可。

  15. 最澄つひ素懐そかいを遂げずして...

    最澄の上奏は、僧綱および南都諸大寺からの反対があったことと、最澄自らが僧綱と直接対決して決着をつけることを避けたため、天皇もこれを許可することが無かった。また最澄は別途、いわゆる三一権実論争を徳一と展開していたがその決着も見ることはなく、ついに弘仁十三年〈822〉六月四日、比叡山中道院にて没した。享年五十六。
    二十世紀末に、最澄が求めた単受大乗戒により僧位を与えることの勅許が、実は最澄の死亡する前日に下っていたことが判明している。もっとも、最澄はその時すでに意識はなく、その知らせを聞くことないまま逝ったと思われる。しかしこの一節から、古代末から中世の当時も大乗戒壇の勅許は最澄の死亡後に下されていたと認識されていたことが知られる。

  16. 別當べっとう

    「べたう」とも。寺院を統括する長官。一般に寺院の別当とは僧が就く官職であるが、最澄は「勧奨天台宗年分学生式」(『山家学生式』八条式)において比叡山には僧とは別に、俗人の公家が就く俗別当を設けることの許可を求めていた。

  17. 國道朝臣くにみちのあそん

    大伴国道(後に伴国道と改名)。最澄の後援者の一人。最澄の死を迎え、その生前の労苦を憐れみ、最澄が悲願としていた比叡山上に独自の大乗戒檀を創立することの勅許を得られるよう尽力し、ついにその死後一週間の弘仁十三年〈822〉六月十一日、「允許大乗戒官符」が下った。最澄は生前、比叡山に僧の別当だけではなく俗別当をも置くことの許しも求めていたが、それは最澄の死後翌年の弘仁十四年三月三日に許され、その職に藤原朝臣三守と大伴宿禰国道の二人が任ぜられた。
    ここで貞慶(法相宗)は、大伴国道を以て「賢政漸隱の尅を伺て、佛法衰微の此を得、重て奏聞を歴て、勅許を蒙」らせ、天台宗延暦寺の大乗戒壇という僻事に対する勅許を実現させた、いわば大悪人であると見なしている。。

  18. 義眞ぎしん

    最澄の弟子、というより最澄とおおよそ対等の関係にある、いわば同志であった人。天台宗初代座主および大乗戒壇における初代伝戒師。もとは興福寺東金堂衆(行人)であった延修の童子を勤めた法相僧。後、最澄の元に参じて、最澄が還学生として入唐する際には訳語僧として同行して通訳を勤めた。唐では最澄と席を同じくして道邃から菩薩戒を受け、また順暁からは最澄と共に密教を受けている。このようなことから義真は最澄の弟子というより同志であったといえ、それによって義真は最澄亡き後の天台宗を任されることとなり、その初代伝戒師となっている。しかし、最澄の亡き後の天台宗を背負うに際しても紆余曲折があり、その他の弟子たとえば仁忠などと軋轢があって、その後の比叡山における内紛の火種ともなった。
    義真が比叡山上に戒壇を築くに際し、東大寺戒壇院に依頼してその戒壇四隅の土を貰い受け、山上の戒壇に移植したということは『恩覚奏状』と『興福寺僧綱大法師等奏状』にも述べられていることから事実であったろう。義真がそのようにしたのは、最澄に師事して後、共に大安寺の聞寂や、鑑真の門弟であった下野の道忠より天台教学および律学を学んでいたことに起因していたのかもしれない。鑑真を敬愛していたのは義真だけでなく、そもそも最澄も同様であって、それは鑑真が天台三大部を日本にもたらした最初の人であり、また天台教学に通じた学僧でもあったことによる。
    義真が戒壇院の土を叡山上のそれに移植していたなどという事実は、東大寺戒壇院をして三乗の具足戒授受の場、小乗戒の場であると謗っていた後代の天台宗徒にとっては甚だ不都合なことであったろうし、また天台宗内の権力争い、円仁の門徒が義真の弟子であった円珍の門流をますます批難する基にもなるものであったろう。

  19. 常詮じょうせん僧都そうず

    東大寺戒壇院第九代和上。

  20. 仁秀にんしゅう寺主

    興福寺の三綱、すなわち上座・寺主・維那のうち、寺主を勤めた僧。伊予出身。

  21. 正倉院しょうそういんに於て具足戒を受ける

    最澄が具足戒を受けたのは、その戒牒に拠れば、延暦四年〈785〉四月六日、その齢二十のことである。このように貞慶が言うのは、『恩覚奏状』で「最澄者。興福寺所司。仁秀寺主門弟。於正倉院。受具足戒」とあるのをそのまま引いたものであろう。なお、『興福寺僧綱大法師等奏状』には、「汝等先師傳教大師者。是大安寺行教〈行表の誤伝あるいは誤写〉和尚之入室弟子也。於興福寺正倉院以仁秀寺主爲師出家得度」としていた、その両書には若干の相違がある。ここで『恩覚奏状』が、最澄が具足戒を受けたのは「興福寺正倉院」であるとしている点は甚だ不審。
    なお、ここに「興福寺正倉院」とあるが、その昔は南都七大寺それぞれに寺宝・什物を収めるための正倉院が備わっており、今のように東大寺独自のものではなかった。故にその点についての不審はない。しかし、これは「興福寺北倉院」の誤伝であって正倉院ではない。また、行表が最澄を得度させたのは、その度牒に拠れば、近江国分寺においてのことであり、宝亀十一年〈780〉十一月十二日、最澄十八歳〈実際は十五歳〉のことであったという。よって、『恩覚奏状』と『興福寺僧綱大法師等奏状』の記述いずれもが、誤写でないのであれば、誤認である。
    興福寺北倉院にて受戒したのは最澄の師、行表である。そしてその行表の当初の受戒は、鑑真渡来以前のことであり、『占察経』に基づいた三聚浄戒の自誓受であった可能性が高い。

  22. 大安寺だいあんじ

    南都七大寺の一。飛鳥の百済大寺を前身とし、武市に移設されて以降は武市大寺、大官大寺と改称された。平城遷都に伴い、また移設されて大安寺と称した。三論宗の拠点の一で、道璿など外国僧が住し講筵を敷いたことにより律宗も伝える。さらに空海が別当職に任じられてからは真言宗も伝えた。大安寺にあった道璿の弟子として出家したのが最澄の師、行表である。行表は興福寺北倉院にて受戒した後、近江崇福寺に移って寺主となった後、大国師に任じられる。最澄が得度したのは近江国分寺であったが、最澄が具足戒を受けた年(延暦四年)に焼失した。これによって最澄は帰るべき寺を失い、行表は大安寺に移った。最澄は行表を頼り、一時大安寺に住している。

  23. 延修えんしゅ

    未詳。

  24. 慈覺じかく

    最澄の弟子の一人、円仁の諡号、慈覚大師の略。九歳から童子として下野の寺(大慈寺)に入り、十五歳で比叡山延暦寺の最澄に師事。弘仁七年〈816〉、二十三歳の時、東大寺戒壇院で受具して比丘となって以降も最澄のもとを去ること無く仕えた。
    最澄没後の承和五年〈838〉には、最後の遣唐使に同行して唐に渡り、彼の地にあること十年足らず。主として密教を相承し、帰国した後には日本の天台密教の大成者の一人となる。帰国に際しては会昌の廃仏にあって強制的に還俗させられたが、帰国直前に再受戒している。仁寿四年〈854〉、円澄のあとを継いで第三代延暦寺座主となり、貞観六年〈864〉に七十一歳で没。
    その没後、最澄直系の弟子であった円仁の門流と、もと法相宗の興福寺出身で後に最澄の門下となった義真の弟子円珍の門流との間に非常な確執が生じ、やがては血みどろの権力争いに発展。結果として円仁の門流は比叡山にとどまって山門派となり、円珍の門流は山を降りて園城寺を本拠として寺門派を形成した。

  25. 十重禁戒じゅうじゅうごんかい四十八輕戒しじゅうはちきょうかい

    『梵網経』盧舎那仏説菩薩心地戒品第十下に、菩薩が必ず受けるべきものとして説かれる大乗戒の通称。

  26. 梵網ぼんもう

    鳩摩羅什訳『梵網経』。智顗以前は出自不明の偽経の疑い有りとされる経典に過ぎなかったが、智顗以降に注目されやがて支那における菩薩戒の代表の地位を占めるに至った。

  27. 瓔珞ようらく

    竺仏念訳『菩薩瓔珞本業経』。『梵網経』所説の十重禁戒と全く同じ内容のものを十波羅夷として説きつつ、また『梵網経』ではまったく言及のなかった三聚浄戒を説いて、律儀戒とは十波羅夷であり、摂善法戒を八万四千の法門、また饒益有情戒を四無量心であるとする。
    菩薩戒についてかなり特異な説が多く見られるが、支那で智顗や法蔵が重要視して引用して以来、支那及び日本で菩薩戒の最も重要な典拠の一つとして扱われてきた。

  28. 善戒ぜんかい

    求那跋摩訳『菩薩善戒経』。『梵網経』および『菩薩瓔珞本業経』が支那で重用されるようになる以前、菩薩戒の本拠として最重要視された経典。もっとも『梵網経』などが流布して後に等閑視されるようになったということはなく『梵網経』などと併せて依行された。

  29. 地持じじ

    曇無讖訳『菩薩地持経』。後に玄奘により訳出された『瑜伽師地論』(『瑜伽論』)菩薩地の同本異訳。『菩薩戒経』とも言われる。
    『瑜伽論』が訳される以前の支那において、菩薩戒の典拠として主たる位置を占めた典籍であり、その所説の戒は「地持戒」などとも称された。しかし、『瑜伽論』が訳されて以降は「瑜伽戒」と称されるようになった。菩薩地持「経」などとあるが経典ではなく、あくまで論書である。その本拠は『菩薩善戒経』であって、その所説の戒を詳説したものが『菩薩地持経』であり、また『瑜伽師地論』であると理解された。

  30. 通受つうじゅ

    出家および在家の者が「通じて受けるもの」であること。
    しかしながら、中世初頭、貞慶の教導・後援のもと戒律復興を志してそれを果たした覚盛により、従来の通受の意味は改変され、「律儀戒を含め三聚浄戒を通じて(一遍で)受けること」の意とされた。故に通受の語義は、日本においては中世以前と以降とで異なることに注意。

  31. 欲天よくてん

    欲界に属する天部、六欲天。四王天・忉利天・夜摩天・兜率天・楽変化天・他化自在天。

  32. 色天しきてん

    色界の天部、四禅天に属する神々。

  33. 皆以て大僧たいそうと爲すべし

    菩薩戒、特に梵網戒はその受者として出家・在家を問わないことはもとより、人語を理解するものであれば誰であれ可能とされる。もし、ただ梵網戒を受けることによって大僧(比丘)となることが出来るという主張を許したならば、梵網戒を受けた者は皆、自身が大僧であると自称することが出来るようになってしまうであろうこと。
    ここで貞慶は『瑜伽師地論』巻五十三の「隨轉差別者。謂有堪受律儀方可得受。此中或有由他由自而受律儀。或復有一唯自然受。除苾芻律儀。何以故。由苾芻律儀非一切堪受故。若苾芻律儀。非要從他受者。若堪出家若不堪出家。但欲出家者。便應一切隨其所欲自然出家。如是聖教便無。軌範亦無。善説法毘柰耶而可了知。是故苾芻律儀無有自然受義(隨転の差別とは、律儀を受けるに堪えるのであれば、まさに受けることが可能たることである。これについて、あるいは他者に由り〈他受〉または自らに由って〈自誓受〉、律儀を受ける方法がある。あるいはまたさらに一つ、ただ自然受〈従他でも自誓でもなく、自然に戒を備える〉がある。ただし、苾芻律儀〈ここでは比丘律儀の名を以て出家すべての立場に該当するものとされる〉は例外である。なんとなれば、苾芻律儀は万人が受けるに堪えるものではないからである。もし「苾芻律儀は、必ずしも従他受によるもので無い」などとしてしまえば、出家に堪えようが出家に堪えなかろうが、ただ出家を望んだならば、たちまちの誰であっても思うがままに自然と出家(であると自称)することが可能となってしまうであろう。もしそのような主張がまかり通るのであれば、聖教〈仏法〉は軌範など無いものとなり、また理解すべき善説の法〈教え〉と毘柰耶〈律〉とは無きに等しいものとなろう。そのようなことから、苾芻律儀には自然受の義は成立しないのである)」(T30. P589c)との所説に基づきこのように言っているのであろう。
    ここでの貞慶による言はまた、鑑真が本邦に渡来した当時、日本で具足戒を受けること無く比丘と自称していた志忠・霊福・賢璟などの旧僧らが鑑真から改めて受戒することにあくまで反対した際、普照がそれらの僧らを前にその主張が非法であることを説き伏せたことの再現でもあった(宋性『日本高僧伝要文抄』第三 高僧沙門釈普照伝)。

  34. 延暦寺えんりゃくじの僧侶とは比丘びくに非ず

    いくら朝廷からの大乗戒の勅許を得たとは言え、それはあくまで政治上・行政上のことであって、仏教として正統なものであると認められたわけではなく、天台僧らが具足戒を受けておらずただ菩薩戒のみを受けた者である以上は比丘では決して無く、「在家人」に過ぎない者であることを、貞慶はここで改めて強調している。実は最澄は沙弥出家の方法についても、「(十戒ではなく)十善戒とするべき」などと「天台法華宗年分学生式」(『山家学生式』六条式)にて主張していたが、それもまた仏教として根拠が全く無いものであった。十善戒を受けることによって沙弥出家することなど出来る訳がない。最澄がそのようにあらゆる点で天台宗独自の方法を取ることを行政として認可して貰おうとしたのは、それによって自宗の年分度者が絶対に他宗に転向出来ないようにするための、いわば「縛り」の方策であった。
    ここでの貞慶(法相宗)の主張は、ことそれが戒律という仏教者共通の重大課題に関するものであるため、ただ日本の南都諸宗の意見をのみ反映したものであるとか、無闇に宗論を戦わそうとしてのものだと断じることは出来ない類のものである。最澄は大乗菩薩戒をのみ受けることによって比丘となりえるとし、それが印度以来の正統なる大乗僧のあり方であって、そのような理解に基づく戒を円頓戒などと称している。けれども、事実として当時の支那においても延暦寺の戒壇は認められておらず、もし菩薩戒をのみ受けて比丘となったと称していた日本天台僧が支那に留学してきたとしても、その者はただの沙弥、あるいは在家人として扱われた。本来からすれば、天台僧は沙弥としても認められるものではなかった。何故ならば沙弥となるには比丘の弟子とならなければならず、すなわち比丘が存在しなくなった天台宗では沙弥すら存在し得なくなっていたためである。
    そのようなこともあり、貞慶からやや時代が下った貞応二年〈1223〉、明全と道元とが入宋する際には、明全は正治元年〈1199〉東大寺戒壇院で具足戒を受けたとする偽の戒牒を入手し、僧として扱われるよう備えている(「明全戒牒」として現存し重文指定)。偽の戒牒といっても東大寺が実際に発行したものであって、当時はどうやら入宋する僧に対しては、(相応の代価と引き換えに)東大寺が公式に戒牒を捏造するという喜劇が行われていた模様。それは当時の東大寺戒壇院がもはや戒律を伝える場などでは全くなくなっていたことの証左でもある。
    なお、道元は、師の明全がそうしたような東大寺の偽の戒牒を入手すること無く入宋したため、天童山などで比丘として扱われず、そこで一悶着起こしていたことが知られる。

  35. 大僧たいそう

    比丘。

  36. 叡山えいざん戒壇かいだんを以て末戒壇まつかいだんと爲すべし

    天台宗における出家戒としての受戒を完全に否定し、その戒壇の形態も三国伝来のものでも何らか根拠あるものでもないとしてきた、貞慶のこれまでの所論からすると、ここで比叡山の戒壇を「末戒壇」とすることは少々筋が通らないことのように思われるかもしれない。しかし、それは延暦寺が園城寺との抗争の中で、園城寺をあくまで延暦寺の末寺として見なし、扱おうとした朝廷への主張における論法を逆に利用したものであった。もし延暦寺が園城寺に対してそのようにいうのであれば、延暦寺は興福寺の末寺であり、またその戒壇は東大寺戒壇院の末戒壇であると言ったのである。

  37. 諍論じょうろんを起すことなか

    貞慶はここで天台宗徒に対し、これは今更というべきか、尚その大乗菩薩戒単受によって比丘たり得るという主張とあり方を改めるよう呼びかけている。「諍論を起すこと勿れ」と言っているが、それは解題において述べたように、当時、北嶺が南都の東大寺戒壇およびそこでの具足戒ならびに三聚浄戒の授受に対して「三乗具足戒」・「偏小戒」・「小乗戒」であると卑下していたためであった。南都はそのような北嶺の言に対し、そもそもの最澄および円仁らの主張への厳しい批判を再開したのであった。
    園城寺が戒壇を寺内に建立しようとしたことに猛烈に反対し、武力闘争を展開した比叡山が、長らく続く抗争によって比叡山で受戒出来ず東大寺戒壇院にて受戒していた園城寺の僧徒を、比叡山で受戒させるよう国法として定めることを要求した強訴。それに対し、興福寺の僧綱らが反応して呈した長寛元年〈1163〉の『興福寺僧綱大法師等奏状』には、比叡山の戒壇および菩薩戒単受の態勢を全く誤ったものであると断じ、比叡山延暦寺は本来、興福寺の末寺に過ぎないとしている。
    またその他にも、例えば栄西は、正治二年〈1200〉に再再治してなったその著『出家大綱』において、「頃有大徳自看讀戒藏云。山門別授菩薩戒非正。破云。遠截七佛遺流等云云。親聞此言。哀慟無極。其人已堕魔網。千佛無能救乎。其人欲生般若。還燥般若種子。尤可悲矣。學般若者。惡尚不可憎。況善哉。凡觀達迷中是非。是非倶非。夢裏有無。有無倶無。其是般若也。何況如來説教區區。大士弘經品品也。傳教大師別授菩薩戒。有何過失哉。我大師若建立別授菩薩戒者。此土末代無持律人。因何結戒縁哉。況彼時。賢人名匠。乏其人哉。何況別授菩薩戒。特有由乎口訣有別。 《中略》 自今已後。只守汝自情。莫説伝教大師別授菩薩戒之正否矣。大師已逝。誰會汝謗難哉。汝破大師云。截七佛遺流云云。予代大師救汝云。開三惡之門戸。可哀可哀。善戒經文有會釋。如別文。異梵網經意也(最近、ある大徳がみずから戒蔵を研究して、「山門〈比叡山・天台宗〉で別授にて行われている菩薩戒は正統なものではない」とし、これを批難して「往古からの七仏の伝統を断じたものである」などと言われていた。私はこれを直接(彼から)聞いたのだが、あまりの哀しみに衝撃を受けたほどである。その人は、すでに魔網に絡み取られてしまったようである。千人の仏陀によってしても救うことなど出来ないであろう。その人は、(自ら)般若〈智慧〉を生じようとしながら、むしろ般若の種子を乾かしてしまっている。もっとも哀しむべきことである。般若を学す者は、悪をすら憎むべきではない。善については言うまでもない。およそ「迷いの中の是非」を達観したならば、是非は共に誤りなのである。たとえば夢の中の有無は、有無ともに無なのであるから。そのような認識が般若というものである。ましてや如来の教説はまちまちであって、菩薩の弘経〈大乗経典〉はさまざまであることは言うまでもない。伝教大師の主張された別授の菩薩戒に、一体どのような過失があるというのか。我が大師がもし別授の菩薩戒を創始されていなかったならば、この日本における末代において、持律の人など無かったであろう。(彼は)何の由縁で戒縁を結ぶことが出来たというのか。ましてや彼の時、賢人・名匠がその人の周りに乏しかったわけでもなかろう。言うまでもなく、別授の菩薩戒が創始されたのには、特にその由縁があってのことなのである口訣が別にある。《中略》 今より以降、ただ汝の自情〈自宗の領分?〉を守り、伝教大師が創始された別授の菩薩戒の正否を論じてはならない。大師はすでに逝去されているのである。一体誰が汝の誹謗について反論しえるであろうか。汝は大師を批難して「往古からの七仏の伝統を断じたものである」云云と言った。私栄西は、大師に代わって汝を救うために言おう、「(そのような言は)三悪の門戸を開くものである」と。哀れむべきことである、哀れむべきことである。『善戒経』にある一節会釈有り。別文に同じは、『梵網経』の意図することとは違うのである)」などと述べている。
    ここで栄西が非難している「ある大徳」とは、時代的そして内容的にまさしく貞慶のことであり、もしくはその周辺の人、例えば戒如のことであったろう。いずれにせよ当時、栄西がこのように感情的に反論する程度に、南都と北嶺の間で戒律の扱いに関する軋轢が確かにあった。もっとも、栄西はこのように述べているけれども、その主著というべき『興禅護国論』は、最澄および当時の天台宗の主張を全く否定してるに等しい内容のものであった。二度に渡る入宋といういわば国際経験から、栄西自身には、日本天台独自の主張が仏教における伝統的戒律への理解と態度で乖離・撞着していることへの葛藤があったように思われる。
    当時、栄西は南都の動向などとは全く関係しないところで、戒律の重要性とその復興を訴えており、また同時代の俊芿も入宋・帰朝して戒律再興に向けて動いていた。そのような事実からすると、中世の日本仏教における戒律復興は、時代精神ともいうべきもの突き動かされた大きな潮流であったと見なすことも出来よう。

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