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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』

訓読

律師いみな明忍みょうにん、初には以白いはくと名く。あざな俊正しゅんしょう、族は中原氏なかはらうじ権大外記ごんたいげき康綱やすつな九世の孫、少内記しょうないき康雄やすまさが次子なり。小の字は久松、俗の諱は賢好。天正四年丙子へいしの歳を以て、洛城に誕る。

七歳にはじめて高雄の僧正晋海しんかいに隨て学ぶ。聰悟、人に過ぎ絶れたり。十一歳春三月、初て冠して少内記に任す。家、兄有りと雖も其の才若かず。故を以て家業けごうを嗣ぐ。殿上の聯句れんくの毎に執筆を命ぜらる。頗る字を問はず。能く聚分韻咯じゅぶんいんりゃくを諳んず。叢林そうりん宿学しゅくがく、皆な嘆服して曰く、謂はざりき、當今此の神童有んとは。官事のいとま、勤て家業を脩す。其の舊記を取て闕たるを補ひ、すたたるを繼ぐ。自ら數十巻を錄す。十六歳にして少外記右少史の両職に任ず。而て此の遇を受くと雖へども栄とせず。之れ唯だ昔し聞く所の海師の慈訓、心に在て忘るること無し。常に世相を厭て思を雲山に寄す。時ゝ高雄の峰にのぼっ躊躇ちゅうちょして帰ることを忘る。

慶長四年、律師二十四歳、遂に高雄に投じて剃落す。即ち海師かいしを以て阿闍梨あじゃりと為して、瑜伽ゆがの密行をく。明年十一月十五日、十八道じゅうはちどうを開いて四度加行しどけぎょうを修す。律師嘗て律幢りつどうの久く傾けることを嘆ず。乃ち南京に往て古聖の遺教を尋ね、專ら抽繹ちゅうえきを事とす。

時に沙門しゃもん慧雲えうんと云ふ人有り。本法花宗ほっけしゅうの徒なり。妙年にして自ら出家し、道行堅高どうぎょうけんこうにして慧解秀徹えげしゅうてつなり。人或は観行即かんぎょうそくの慧雲と稱す。常に僧徒の邪命説法じゃみょうせっぽうを慨して以謂く、持戒に非ば出家に非ず。出家に非んば、豈に能く檀信だんしんを受んや。乃ち迹を丹波の山中にくらまして、炭を焼きがまを編んで自ら活すること年有り。一日霊蹟を訪って南都に遊ぶ。律師と解后して互に素志を述ぶ。あたかも宿契の如し。二人手をとって涕を流がして感喜す。偕に西大寺に入て同く受戒す。寺に友尊ゆうそんと云ふ人有り。素とより戒律を信ず。是に於て志をひとしくして共に律蔵を探る。西大寺は所謂る興正菩薩こうしょうぼさつ弘法の地なり。一たび廃しての後、久く振はず。軌則きそく有りと雖へども、隨行ずいぎょう全く缺けたり。然れども尚を、多聞の老学有て能く持犯開遮じぼんかいしゃを説く。律師之を幸として慧雲・友尊と相共に隨て学ぶ。暗に明に遇へるが如し。宿滞しゅくたい、氷の如に釋く。

慶長七年、律師二十七歳、梅尾とがのおに於て好相こうそうを祈り、雲尊二人と共に自誓受戒じせいじゅかいす。專ら止作隨行しさずいぎょうはげます。こころ嘉禎かていあとを追て再び律幢の倒れたることを興んと欲す。

慶長九年二月十一日、律師慧雲共に行事鈔ぎょうじしょうを講ず。十二月二十日に至りて一遍を竟ふ。其の餘の律部及び後二ごにの戒学、研究せずと云ふこと無し。

槇尾の平等心王院は弘法大師の神足じんそく智泉ちせんひらく所なり。建治帝けんじていの時、泉州槙尾山自證じしょう上人、復た其の基ヰを興す。爾の後、又湮没いんもつして莾蒼もうそうに属すること久し。晋海僧正、律師の如法奉戒にょほうぶかいを隨喜して、乃ち重て槙尾を開き、東照神君とうしょうしんくん嘗て賜ふ所の寺田如千じでんにょせんを分ち附して、並に律師及び二師を請じて住せしむ。西大寺の沙門高珍こうちん毘尼びにの学に精なり。律師之を招て大に講律を開く。律師常に謂く、吾れ巳でに通受つうじゅ自誓の願を遂ぐ。未だ別受べつじゅ相承の望みを果さず。是に於て踰海ゆかいの志を跂つ。

現代語訳

律師のいみな明忍みょうにん、初めは以白いはくといった。あざな俊正しゅんしょう。族は中原氏である。権大外記康綱九世の孫であり、少内記康雄やすまさの次男であった。幼少時の字は久松、俗の諱は賢好かたよしである。天正四年丙子へいし〈1576〉の年、京都にて生まれた。

七歳〈1582〉の時、高雄山寺〈神護寺〉の僧正晋海しんかいのもとで学問を始めた。その聡明なること群を抜くものであった。十一歳〈1576〉の春三月、元服して少内記に任じられた。家には兄があったがその才覚が及ぶものでなかった。そのため(次男でありながら)家業を嗣ぐこととなった。殿上人らの連句のうたげ毎にその筆記を命ぜられた。少しも字がわからないなどと問うことがなく、(虎関師錬の)『聚分韻咯じゅぶんいんりゃく』を暗記していた。叢林の宿学らは皆、感服して言ったものである、「まさか思いもしなかった、現代にこのような神童があるなどとは」と。官職に従事するいとまに、中原家が代々(朝廷で)勤めてきた職の記録に勤めていた。家の旧記を読んでは欠けたものを補い、また廃れていたのを継いでは、ついにその数十巻を編纂した。十六歳〈1591〉にして少外記と右少史の両職に任じられた。しかしながら、このような待遇を受けながらも栄誉とすることはなく、ただ幼いころに聞いた晋海師の慈訓こそ、心に在て忘れることが無かった。常に世相を厭い、思いを(世俗を離れた)雲山に寄せていた。時々に高雄山に登り、躊躇して帰ることを忘れるほどであった。

慶長四年〈1599〉、律師二十四歳の時、遂に高雄山に入って出家した。そこで(神護寺法身院の)晋海師を阿闍梨とし、瑜伽の密行を受けた。明年〈1600〉十一月十五日、十八道を開いて四度加行しどけぎょうを修した。律師はその昔から律幢が久しく傾いていることを嘆いて、南京〈奈良〉に行って古聖の遺教を尋ね、ひたすら(戒律を如何に復興するかの)糸口を求めて研究に没頭した。

時に沙門慧雲えうんという人があった。元は法華宗〈日蓮宗〉の徒である。若年にして自ら出家し、道行堅高どうぎょうけんこうにして慧解秀徹えげしゅうてつであり、人にはこれを「観行即かんぎょうそくの慧雲」と称賛する者があった。常に(日蓮宗の)僧徒らの邪命説法を聞いては歎き、そこで「持戒していなければ出家者ではない。出家者ではないならば、どうして信徒の布施と信仰とを受けることが出来ようか」と考えていた。そこで(法華衆徒から)姿を丹波の山中に晦まし、炭を焼き蒲を編んで自活し、年月を過ごしていた。ある日、霊蹟を訪ねて南都に行っていた所が律師と邂逅し、互いに平素からの志を語り合った。それはあたかも宿世からの定めであったかのようであり、二人手を取り合い、涙を流して(その出会いに)感喜した。そこで共に西大寺に入り、同じく受戒した。西大寺には友尊ゆうそんという人があった。平素から戒律を信じる者であった。ここにおいて(その三人は)志を等しくして共に律蔵を探求し始めた。西大寺はいわゆる興正菩薩こうしょうぼさつ〈叡尊〉が法を弘めた地である。一度(戒律の伝統が)廃れてしまって以降、(西大寺は)長く振るわなかった。(別受や通受の)軌則は伝わっているとはいえ、その実行は全く欠けたままであった。そうはいっても、いまだ(西大寺には)多聞の老学僧があり、よく(律の)持犯開遮の講説はなされていた。律師はこれを幸いとして、慧雲・友尊と相共に(この老学僧に)従って学んだ。それは暗闇の中で明りに遇ったようなものであり、(戒律について)永くあったわだかまりが氷のように溶けて無くなっていった。

慶長七年〈1602〉、律師二十七歳の時、栂ノ尾とがのおにおいて好相を祈り、慧雲・友尊の二人と共に自誓受戒し、以降はひたすら止作隨行に励んだ。その意志は(叡尊らにより戒律復興が果たされた)嘉禎の先蹤を追い、再び律幢が倒れたのを興すことを求めた。

慶長九年〈1604〉二月十一日、律師は慧雲と共に『行事鈔ぎょうじしょう』を講説し、十二月二十日に至って一遍を終えた。その他の律部、及び後二の戒学〈三聚浄戒のうち後の摂善法戒しょうぜんぽうかい饒益有情戒にょうやくうじょうかい〉についても、研究しないということは無かった。

槇尾の平等心王院びょうどうしんのういん〈現:西明寺〉は弘法大師の高弟であった智泉ちせんが開いた寺である。建治帝〈後宇多天皇〉の時、泉州槙尾山の自証じしょう上人が復興したが、その後、再び退廃して山野に帰したまま永い時を経ていた。晋海僧正はそこで、律師の如法奉戒を隨喜し、再び槙尾山を伐採して平等心王院を復興し、東照神君とうしょうしんくん〈徳川家康〉から(高雄山神護寺に)賜った寺田の千五百町歩から(平等心王院に)分ち附与し、律師および(慧雲と友尊との)二師を請じて住させた。西大寺の沙門高珍こうちん毘尼びに〈vinaya. 律〉の学問に精通していた。律師は彼を(平等心王院に)招き、大いに講律を開いた。律師は常に考えていた、「私はすでに通受自誓受戒するという願いを遂げた。しかし、いまだ別受相承の望みを果せぬままである」と。そこで海を渡って大陸に往かんとの志を立てた。