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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』

訓読

慶長十一年、律師、年方としまさに三十一。乃ち新学しんがくの徒を以て二師に属し、已に槙尾を出づ。六物ろくもつの外、身に隨ふる具無し。時に沙弥しゃみ有て曰く、師異域に臨む、何ぞ字書のたぐいを携へざるや。律師咥然てつねんとして笑ふのみ。既にして對馬に至る。偶ゝたまたま震旦しんたんの佛法、大に衰たることを聞て、未だともづなくに及ばず。此に因て書を雲公に贈て告て曰く、異朝の佛法、欣慕するに足らず。只だ須く一衆和合して夏満げまんの日を以て共に別受を行ずべしと。

律師、馬島に寓すること數年。環堵かんとの室、風日をおおはず。常に乞食を行じて資用たず。經論の要文、悉く古紙に書す。書牘しょとくと雖へども亦た多くは然かり。嘗て梵網経ぼんもうきょう闇書あんしょす。其の後に記して云く、且つ廃忘はいもうに備んが為に、麁紙に艸書そうしょす。敢て佛語を軽慢きょうまんせず。

會ゝたまたま母の書、洛より至る。律師便ち殷勤いんぎん捧載ほうたいして山下さんげの小流に投ず。終にひらき視ず。人、其の意を知ること莫し。初め律師、唐に入んと欲る時、同志の者の多し。已に發する日に至て唯だ道依どうえ一人のみ。

律師、馬島に在てやまいを抱くこと日久し。慶長十五年の夏、病已にあらたかなり。六月五日、手筆を染て書を高雄の僧正に遣り、其の深恩を謝す。時を歴て苦むこと甚し。即ち短杖を執て席を叩て佛号を唱へ、安養あんにょうに生ぜんことを願ふ。即時に紫雲靉靆あいたいし、宝華乱墜す。律師みずから書して曰く、此の苦みは須臾しゅゆの事、此の清涼しょうりょうの雲中に彼の聖衆に交らば、幾許いくばくの快楽ぞや。其のことば倭字わじを用ゆ。此こにつぶさにせず。

六月七日帰寂す。其の年三十有五。葬事已に畢て、道依ことごとく律師所有の軽重物きょうじゅうもつを肩にして来り帰る。一衆痛絶つうぜつして恃怙じこを喪するが如し。僧正、書を得て悲歎ひたんへず。自ら和歌を作て追慕ついぼす。

律師嘗て自誓血脉じせいけちみゃくの図を製す。興正の下に讃辞を系けて曰く、三聚さんじゅ并呑へいどんし、戒身を長養す。法を耀かがやかし、生を利す。千古未だ聞かず。

一日省我しょうが比丘びく、律師の行状を懐にし来て、余が筆削ひっさくを乞ふ。余、浅才を顧みざるには非ず。但だ舊知の故を以て、敢て辞譲じじょうせず。状に信せて纂輯さんしゅす。言、朴質なりと雖へども、庶くは律師の事実を失はざらんことを。夫れ末法の出家、尚を三衣さんねの名を知らざる者の多し。律師、是の時に當りて狂瀾きょうらんを既に倒れたるにめぐらさんと欲す。又、雲・尊二師を得て遂に其の家を世す。今の律を言ふ者の槙尾を指して中興と為す。嗚乎、法滅の日に於て再び比丘の儀相を見る者の、豈に律師のいさおに非ずや。吾れうらむらくは文獻足らず、律師の聲徳しょうとくを述ぶるに堪へざることを。

現代語訳

慶長十一年〈1606〉、律師の年齢はまさに三十一歳、(平等心王院の門に入った)新学の徒らを(慧雲・友尊の)二師に託して槙尾山を出立した。(律師は三衣と座具と鉄鉢、漉水囊の)六物の外に、身に携える物を持たなかった。そこである沙弥が言った。
「師はこれから外国に渡ろうというのに、一体どうして字書の類をすら携えて行かないのでしょうか」
しかし、律師はただ笑って答えるだけであった。そうこうする内、(律師は)対馬に到着した。しかし偶然、震旦しんたん〈支那〉の仏法が大いに衰えてしまっていることを聞き、(ただちに震旦へ向けて)船出せぬままにいた。そこで手紙を慧雲公に送り、「異国の仏法は、願い求めるに値するものではなかった。(槇尾山の皆は)ただ一衆和合し、夏満げまんの日〈自恣。安居を終える最後の日。ただし、ここでの意は別受の執行が可能となる「具足戒を受けて後、十夏の自恣を迎えた時」の意〉に共に別受を是非とも行じたらよい」と伝えている。

律師はそのまま対馬に寓居ぐうきょすること数年、その貧しい家の部屋は風も陽も満足に遮るものではないほど(粗末なもの)であり、常に乞食を行じ、満足に物を所有していなかった。経論の大事な文言は、すべて古紙に書きつけていた。書状に関してすら、そのほとんど多くは同様であった。ある時、『梵網経ぼんもうきょう』を(古紙に)暗書されたが、その最後にこのように記していた、「あらかじめ万一忘れてしまった時に備え、麁紙に草書したのである。敢えて仏語を軽慢したのではない」と。

ときおり母からの書が京都より届いていた。律師はしかし、慇懃に(手紙を頂戴してから)山のふもとの小川に流していた。ついに開き見ることがないままに。人は(律師がなぜそのような事をしたのか)その意を測りかねた。そもそも律師が(いまだ槇尾山平等心王院にあるとき)唐に渡ろうと決心した時、同志の者が多くあった。しかし(対馬へと)出立する日には、ただわずか道依どうえ〈道依明全。明忍没後、出家して槇尾山衆徒となる。当時は浄人〉一人のみとなっていた。

律師が対馬に滞在する中、長患いの病を得てずいぶんの日にちが経った。慶長十五年〈1610〉の夏、病状が深刻なものとなった。六月五日、(律師は)手ずから筆を執って手紙を高雄の晋海僧正のもとに遣り、その深い恩を謝した。(その病に律師が)長時間苦しむこと、それは甚しいものであった。そこでしかし、(律師は)短い杖を執り席を叩いて仏陀の名号を唱え、安養あんにょう〈極楽浄土〉転生てんしょうすることを願った。するとたちまち紫雲が立ち登り、宝華が乱れ落ちてきた。律師自らがその様子を記したのには、「この病による苦しみは(長く生死輪廻し続ける苦しみに比べれば)一瞬のことである。しかし、この清涼の雲中において彼の聖衆に交ったならば、それはどれほどの快楽であろうか」とある。その詞は倭字〈仮名混じりの文章〉によるものであったが、ここではその内容を詳細にはしない。

六月七日、(律師は終に)帰寂した。その歳は三十五。葬送が終わって後、(対馬で律師に側仕えていた)道依がすべての律師所有の軽重物きょうじゅうもつ〈比丘の三衣一鉢をはじめとしたその他の日用品〉を肩に背負って(槇尾山に)帰り来たった。一衆は(律師の死を)痛み悲しむこと、あたかも実の両親の死を喪すかのようであった。晋海僧正は、(律師が死の二日前に記した)書を得て悲歎に耐えず、自ら和歌を作て追慕した。

律師はかつて『自誓血脉の図』を制作していた。興正菩薩の下に讃辞を付したが、それには「三聚を并呑へいどんし、戒身を長養す。法を耀かがやかし、生を利す。千古未だ聞かず」とある。

ある日、省我比丘が、(私元政のもとに)律師の行状を懐にし訪ね来て、私の添削を依頼してきた。私(がその依頼を受けたの)は、我が浅才を顧みなかったからというのではなく、ただ旧知の人であったから敢えて辞退しなかったのである。(省我比丘の持参した)行状にある記述のままに、これを編纂した。記した詞は簡素であろうが、律師の事蹟が忘れられることのないように願うばかりである。そもそも末法の出家者には、三衣さんねの名をすら知らない者が多い。律師は、このような時代にあって、物事の乱れ崩れたのを本来の姿に戻そうとしたのである。また慧雲・友尊の二師を得て、ついにそれを現実のものとした。今の世で律について語る者は槙尾山を指して中興とするのである。嗚乎、この法滅の時代において、再び比丘の儀相を見ることが出来るのは、ひとえに律師の業績に拠るものである。私が惜しむらくは文献が足らず、律師の徳行を全く述べ尽くすことができないことである。