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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

空海 『梵字悉曇字母并釈義』

訓読

梵字悉曇ぼんじしっだん字母じもならびに釋義しゃくぎ

沙門空海くうかい

梵字ぼんじ悉曇しっだんといふは印度の文書もんじょなり。西域さいいきいはく、梵天ぼんてんの所製なり。五天竺ごてんじくの國には皆此の字を用る。しかるに地にり人にしたごふようやく増減有り。其の骨體こつたいへば此れを以てもととす。劫初こうしょの時には世に法教ほうきょうかりき。梵王ぼんおう、下り来て授に此の悉曇章しったんしょうを以てせり。根原は四十七言しじゅうしちごん。派とながれ一万いちまんあまれり。世の人、元由がんゆせずして、梵王の所作しょさなりとへり。大毗盧遮那経だいびるしゃなきょうに依て云はば、これ文字もんじ自然じねん道理どうり所作しょさなり。如来の所作に非ず。亦た梵王、諸天の所作にも非ず。若し能作のうさの者有ると雖も、如来隨喜ずいきしたまはず。諸佛如来は佛眼ぶつげんを以て此れ法然の文字なりと觀察かんざつして、即ち實の如くして之を説て衆生しゅじょう利益りやくしたまふ。梵王等は傳へ受てうたた衆生に教しう。世人せにんは但だ彼の字相じそうを知て、日にもちふと雖も未だかつて其の字義じぎをばせず。如来のみ彼の實義を説たまう。若し字相に随て之を用ときは則ち世間の文字なり。若し實義を解すときは則ち出世間しゅっせけん陀羅尼だらにの文字なり。所謂いはゆる、陀羅尼といふは梵語ぼんごなり。唐にはほんじて総持そうじと云ふ。総といふは総攝そうしょうなり。持といふは任持にんじなり。言ふこころは一字の中に於て无量むりょう教文きょうもんを総攝し、一法の中に於て一切の法を任持し、一義の中に於て一切の義を攝持しょうじし、一聲いっしょうの中に於て无量の功徳を攝蔵しょうぞうせり。故に无盡蔵むじんぞうと名く。

此の総持に略して四種有り。一はほう陀羅尼、二は陀羅尼、三はしゅ陀羅尼、四は菩薩忍ぼさつにん陀羅尼。第一に法陀羅尼といふは、いはく諸の菩薩、是の念慧ねんえ力持りきじ獲得わくとくして、此の力持に由て、いまかつて聞かざることばの、未だ温習うんしゅうせず、未だ善く通利つうりせざるみょう文身もんしん攝録しょうろくする所の无量の経典を聞て、无量の時を経て能く持て忘れず。是れを菩薩の法陀羅尼と名く。云何いかなるか義陀羅尼。いはく前説の如く、此の差別しゃべつ といふは即ち彼の法の无量の義趣ぎしゅに於て、心に未だ温習せず、未だ善く通利ざるを、无量の時を経て能く持して忘れず。是れを菩薩義陀羅尼と名く。云何なるか呪陀羅尼。謂く諸の菩薩は是の如き等の持の自在を獲得せり。此の自在加被かひに由て能く有情うじょう災患さいげんを除するもろもろの真言句、彼の章句をして悉く皆な第一神驗しんけんありて唐捐とうえんなる所からしめ、能く種種の災患を除する。是れを菩薩呪陀羅尼と名く。云何なるが菩薩忍陀羅尼。謂く諸の菩薩は自然に堅固の因行いんぎょう具足ぐそくの妙慧を成就し、乃ち諸の真言章句に至るまで審諦しんたい思惟しゆいし、籌量ちゅうりょうし、觀察かんざつして、他に従ふて聞かずとも、自ら能く一切の法の義を通達つうだつする。是を菩薩能得忍陀羅尼と名く。已上いじょう、四種は瑜伽ゆが佛地ぶっち等の論にしばらく人において釋せり。

若し密蔵みつぞうの義によっていはば、更に法に約て四種の釋有り。一は此の一字の法、能く諸法のために自ら軌持きじと作て、一字の中に於て一切の諸法を任持せり。是れを法陀羅尼と名く。二は此の一字の義の中に於て一切の教の中の義趣ぎしゅを攝持せる。是れを義陀羅尼と名く。三は此の一字を誦する時に、能く内外ないげの諸の災患を除し、乃至、究竟くきょうの安樂の菩提ぼだいの果を得る。是れを呪陀羅尼と名く。四はもしは出家にまれ在家にまれもしは男にまれ若は女にまれ、日夜分の中に於て、一時、二時、乃至、四時に此の一字を觀念かんねん誦習ずしゅうする時は能く一切の妄想もうそう煩悩ぼんのう業障ごっしょう等を滅して、とん本有ほんぬ菩提ぼだいの智を證得しょうとくす。是を能得忍陀羅尼と名く。一字をいふつるが如く自餘の一切の字義も皆な是の如き義理を含む。たとへえき一爻いっこうの中に具さに万象ばんしょうを含し、かめ十字じゅうじの上に悉く三世さんぜを知るが如し。

又、五種の総持有り。謂く一は聞持もんじ、二は法持ほうじ、三は義持ぎじ、四は根持こんじ、五は蔵持ぞうじ。一、聞持といふは、謂く耳に此の一字の聲を聞くときに、具さに五乗ごじょうの法教、及び顯教けんぎょう密教みっきょう差別しゃべつしって漏れず失せず。即ちくはしゆるせぬなり。二、法持といふは、謂く念ひ不住ふじゅう不忘ふもうにしてうんの中にするぞ。三に義持といふは、謂く假實けじつ二法、因縁の性空しょうくうなるぞ。四、根持というは、謂く六縁念ろくえんねんにして更に餘のきょう无きぞ。五、蔵持といふは、謂く第九の阿磨羅識あまらしき佛性ぶっしょう浄識じょうしき是れなり。是の如き五種は亦、人において釋せり。若し法によせて釋せば、更に五種有り。はんおそりて述べず。

是の五種・四種の陀羅尼には即ち如来の四智・五智の徳を明す。佛地経ぶっちきょう等の顯教には、則ち但だ四智を説けり。故に佛地・瑜伽等の論には四種陀羅尼を説けり。若し大毗盧遮那だいびるしゃな及び金剛頂こんごうちょう等の祕密蔵ひみつぞうの中に於ては、つぶさに如来の自受用じじゅゆうの五智等の相應のおもむきを説けり。故に五種の陀羅尼を説く。是の如き五種の智を根本とす。云何なるをか五智といふ。謂く一は大圓鏡智だいえんきょうち、二は平等性智びょうどうしょうち、三は妙觀察智みょうかんざっち、四は成所作智しょうしょさち、五は法界體性智ほっかいたいしょうちなり。此の五智より三十七智、一百二十八智、乃至、十佛刹じゅうぶっせつ微塵數みじんしゅ不可説ふかせつ不可説ふかせつ一切智智いっさいちち流出るしゅつす。是の如く无量の智は、悉く一字の中に含めり。一切の衆生は皆、悉く无量の佛智を具足せり。然れども衆生、覺せず、知らず。是の故に如来、慇懃いんぎんに悲歎したまふ。悲しい哉、衆生の佛道を去れること甚だ近きを。然も无明むみょう客塵きゃくじん覆弊ふくへいせられたることかむふて、宅中たくちゅう寶蔵ほうぞうさとらずして、三界さんがい輪轉りんてん四生ししょう沈溺ちんにゃくす。是の故に種種の身相、種種の方便ほうべんを以て、種種の法を説て諸の衆生を利したまふ。涅槃経ねはんぎょうに云へるが如きは、世間の所有あらゆる一切の教法は、皆な是れ如来の遺教ゆいぎょうなり。然れば則ち内外ないげの法教、悉く如来り流出せり。如来は是の如く自在方便を具したまへりと雖も、此の字母等は如来の所作の法に非ず。自然道理の所造なり。如来の佛眼ぶつげんをもて能く觀じ覺知して、實の如くして開演かいえんしたまふまく。

昔、後漢明帝めいてい、夢に金人きんじんを見ての後に、磨騰まとう竺蘭じくらん等、此の梵文ぼんもんを以て来て振旦しんたんに傳へたり。字、てんれいに非ず、語、梵・漢を隔てたり。ぎょくもてあそぶに信じ難く、けんを案ずるに夜光やこうあり。童蒙どうもうこしらえむが為に方に随て翻説ほんぜつす。しか已還このかた相承そうじょうして翻傳ほんでんせる。然も梵字・梵語ぼんごには一字のこえに於て无量の義を含めり。改めて唐言に曰へば、但し片玉へんぎょくを得て三隅さんぐうは則ちけぬ。故に道安どうあん法師は五失ごしつの文を著はし、義浄ぎじょう三蔵は不翻ふほんたんおこせり。是の故に真言を傳ふるのしょう不空ふくう三蔵等、密蔵みつぞう真言を教授するに、悉く梵字を用ひたまへり。然れば則ち此の梵字は三世にわたっ常恒じょうこうなり。十方に遍して以て不改ふかいなり。之を學し之をしょすれば、さだめて常住の佛智を得、之を誦し之を觀ぜば、必ず不壊ふえ法身ほっしんを證す。諸教の根本、諸智の父母ぶもけだし此の字母じもに在り。所得の功徳、つぶさに説くこと能はず。具さには花嚴けごん般若はんにゃ大毗盧遮那だいびるしゃな金剛頂こんごうちょう及び涅槃ねはん等の経にひろく説けるが如し。

現代語訳

梵字悉曇ぼんじしっだん字母じもならびに釈義しゃくぎ

沙門空海くうかい

そもそも梵字ぼんじ悉曇しっだんというのは印度の文書もんじょである。『西域記さいいきき〈玄奘『大唐西域記』〉は、「梵天ぼんてんによって作られたものである。五天竺ごてんじくの国では皆、この字を用いる。しかしながら、(それぞれ地方の)土地にり、また人にしたがっていくらか改変されている。その骨体こつたいえば、これがもとである」としている。(また『慈恩伝』では)「劫初こうしょの時には、世界に法教ほうきょうは無かった。そこで梵王ぼんおうが下り来たって(人に)この『悉曇章しったんしょう』を授けた」という。その根源は四十七言しじゅうしちごんであるが、これから派生して一万いちまん余りとなる。世間の人は、その元の由来を理解せず、「梵王の所作しょさ〈作り出したもの〉だ」と言っている。(しかし、)もし『大毗盧遮那経だいびるしゃなきょう〈『大日経』〉に依って云えば、この文字もんじ自然じねん道理どうりの所作である。如来の所作ではなく、また梵王や諸天の所作でもない。もし(仮に、これを)よく作る者があったとしても、如来は隨喜ずいき〈賛同して喜ぶこと〉されることはない。諸仏・如来は仏眼ぶつげんにより、「これは法然の文字である」と観察かんざつして、すなわち実の如くにこれを説いて衆生しゅじょう利益りやくされる。梵王等は(それを)伝え受けてうたた衆生に教えたのだ。世人せにんはただその字相じそうを知って、日々にもちいているけれども、いまだかつてその字義を理解せず。如来のみがその実義を説かれている。もし字相に随ってこれを用いる時は則ち世間の文字である。もし実義を理解する時は則ち出世間しゅっせけん陀羅尼だらにの文字である。所謂いわゆる、陀羅尼というのは梵語ぼんごである。唐では翻訳して総持そうじと云う。総というのは総摂そうしょうであり、持というのは任持にんじ〈保持〉である。その意は一字の中に無量むりょう教文きょうもんを総摂し、一法の中に一切の法を任持し、一義の中に一切の義を摂持しょうじ〈包括〉し、一声いっしょうの中に無量の功徳を摂蔵しょうぞうしているということ。故に(陀羅尼を)無盡蔵むじんぞうという。

この総持に略して四種がある。一つはほう陀羅尼、二つは陀羅尼、三つはしゅ陀羅尼、四つは菩薩忍ぼさつにん陀羅尼である。第一に法陀羅尼というのは、いわく、諸々の菩薩がこの念慧ねんえ力持りきじ獲得わくとくして、その力持に由り、いまだかつて聞いたことがないことばの、いまだ温習うんしゅうしておらず、いまだ善く通利していないみょう〈単語〉文身もんしん〈文章〉摂録しょうろくする無量の経典を聞いて、どれほど時を経てもよく持して忘れない。これを菩薩の法陀羅尼という。何が義陀羅尼であろうか。謂く、前に説いたように、その差別しゃべつというのは即ち彼の法の無量の義趣ぎしゅ〈真義〉に於いて、心にいまだ温習せず、いまだ善く通利していないのを、どれほど時を経てもよく持して忘れない。これを菩薩義陀羅尼という。何が呪陀羅尼であろうか。謂く、諸々の菩薩は是の如き等の持すことの自在を獲得している。この自在を得たことに由り、よく有情うじょう〈生命あるもの〉災患さいげんを除く諸々の真言句が、その章句をして悉くすべて第一神験しんけんがあって唐捐とうえん〈無意義〉なところを無くさせ、よく種種の災患を除く。これを菩薩呪陀羅尼という。何が菩薩忍陀羅尼であろうか。謂く、諸々の菩薩は自然に堅固の因行いんぎょう具足ぐそくの妙慧を成就し、すなわち諸々の真言章句に至るまで審諦しんたい〈明らかにすること〉思惟しゆいし、籌量ちゅうりょう〈計量〉し、観察かんざつして、他から聞かなかったとしても、自らよく一切の法の義を通達つうだつする。これを菩薩能得忍陀羅尼という。已上いじょうの四種(陀羅尼)は、『瑜伽師地論ゆがしじろん』・『仏地経論ぶっちきょうろん』等の論書によって、仮に人において釈したものである。

もし密蔵みつぞう〈密教〉の義によって言ったならば、更に法において四種の釈がある。一つはこの(真言の)一字の法が、よく諸法のために自ら軌持きじ〈規範を保つこと〉となって、一字の中に於いて一切の諸法を任持する。これを法陀羅尼という。二つはこの一字の義の中に於いて一切の教えの中の義趣ぎしゅを摂持する。これを義陀羅尼という。三つはこの一字を誦する時、よく内外ないげの諸々の災患を除き、乃至、究竟くきょうの安楽の菩提ぼだいの果を得る。これを呪陀羅尼という。四つはあるいは出家であれ在家であれ、あるいは男であれあるいは女であれ、日夜分の中に於いて、一時、二時、乃至、四時にこの一字を観念かんねん誦習ずしゅうする時は、よく一切の妄想もうぞう煩悩ぼんのう業障ごうしょう等を滅して、たちまち本有ほんぬ菩提ぼだいの智を証得しょうとくする。これを能得忍陀羅尼という。一字についていったように、その他の一切の字義もすべて是の如き義理を含む。たとえば、えきで出た一爻いっこう〈易占いの結果〉の中に具さに万象ばんしょうを含み、(亀卜に用いる)亀甲きっこう十字じゅうじ〈亀甲を焼いて出たひび割れ〉の上に悉く三世さんぜを知るようなものである。

また五種の総持がある。謂く、一つは聞持もんじ、二つは法持ほうじ、三つは義持ぎじ、四つは根持こんじ、五つは蔵持ぞうじである。一つ、聞持というのは、謂く、耳にこの一字の声を聞く時、具さに五乗ごじょうの法教、及び顕教けんぎょう密教みっきょう差別しゃべつって漏らさず失わせない。すなわち、忘れ去らない。二つ、法持というのは、謂く、念が不住ふじゅう不忘ふもうであってうんの中に漂う。三つに義持というのは、謂く、仮実けじつ二法、因縁の性空しょうくうである。四つ、根持というのは、謂く、六縁念ろくえんねんにして更に他のきょうが無い。五つ、蔵持というのは、謂く、第九の阿磨羅識あまらしき仏性ぶっしょう浄識じょうしきである。是の如き五種はまた、人において釈したものである。もし法によせて釈したならば、更に五種がある。(しかし、これ以上は)はんおそれて述べない。

この五種・四種の陀羅尼には、すなわち如来の四智・五智の徳を明かしている。『仏地経論ぶっちきょうろん』等の顕教は、すなわちただ四智を説いている。したがって『仏地経論』・『瑜伽師地論』等の論は四種陀羅尼を説いている。もし『大毗盧遮那経だいびるしゃなきょう』及び『金剛頂経こんごうちょうきょう』等の秘密蔵ひみつぞうの中に於いては、つぶさに如来の自受用じじゅゆうの五智等の相応のおもむきを説いている。したがって五種の陀羅尼を説く。(密教では)是の如き五種の智を根本とする。何を五智というであろうか。謂く、一つは大円鏡智だいえんきょうち、二つは平等性智びょうどうしょうち、三つは妙観察智みょうかんざっち、四つは成所作智しょうしょさち、五は法界体性智ほっかいたいしょうちである。この五智から三十七智、一百二十八智、乃至、十仏刹じゅうぶっせつ微塵数みじんしゅ不可説ふかせつ不可説ふかせつ一切智智いっさいちち流出るしゅつする。是の如く無量の智は、悉く(真言)一字の中に含まれている。あらゆる衆生は皆、悉く無量の仏智を具えている。しかしながら衆生は(それを)覚らず、知っていない。この故に如来は慇懃いんぎんに悲歎されたのだ。なんと悲しいことであろうか、衆生が仏道から離れているといっても、(実はその道は)甚だ近くにあるというのに。しかも無明むみょうという客塵きゃくじん覆弊ふくへいされていることによって、(自らの身心という)宅中たくちゅう宝蔵ほうぞうがあることをさとらず、三界さんがい輪転りんてんして四生ししょう沈溺ちんにゃくしている。この故に(諸仏諸菩薩は、)種種の身相、種種の方便ほうべんによって、種種の法を説いて諸々の衆生を利されている。『涅槃経ねはんぎょう』は、「世間のあらゆる一切の教法は、すべて如来の遺教ゆいぎょうである」などと云う。ならば、すなわち内外ないげの法教は、悉く如来より流出したものである。如来は是の如く自在方便を具えられているとはいえ、この(悉曇の)字母等は如来の所作の法ではない。自然道理の所造である。如来の仏眼ぶつげんによってよく観じ、覚知して、実の如くに開演かいえんされているのだ。

昔、後漢の明帝めいていが夢に金人きんじんを見た後、迦葉磨騰かしょうまとう〈Kāśyapamātaṅga〉竺法蘭じくほうらん〈Dharmarakṣa〉等が、その梵文ぼんもん〈『四十二章経』の原典〉をもって来、振旦しんたん〈Cīnasthāna. 支那の地〉に伝えたのである。(しかしながら、)その字はてんれいでなく、その語は梵と漢とでまったく異なっている。「ぎょくもてあそぶに信じ難く、けんを案ずるに夜光やこうあり」。童蒙どうもう〈道理を知らない無知な者〉を導く為に、(支那という異国の)地(の言語)に随って翻説ほんぜつしたのであった。それ以来、相承そうじょうして翻伝ほんでんしてきたのである。しかも梵字・梵語ぼんごには一字のこえに無量の義が含まれている。(それを)改めて唐の言葉にしたならば、ただ片玉へんぎょく〈崑山の名玉の欠片〉は得うるであろうが、なおその三隅さんぐうけたものとなる。故に道安どうあん法師は、(漢訳における欠点を指摘した)「五失ごしつ」の文を著わし、義浄ぎじょう三蔵は(梵語を梵語として理解できるよう)不翻ふほんなげきをおこした。この故に真言を伝える法匠ほうしょうたる不空ふくう三蔵など、密蔵みつぞうの真言を教授するのに、悉く梵字を用いられたのだ。そこですなわち、この梵字は三世にわたって常恒じょうこうである。十方に遍ねくあって不改ふかいである。これを学び、これをしょしたならば、さだめて常住の仏智を得る。これを誦し、これを観じたならば、必ず不壊ふえ法身ほっしんを証す。諸教の根本、諸智の父母ぶもは、まさにこの字母じもに在る。(真言による)得られる功徳を、つぶさに説くことは出来ない。具さには『華厳経けごんきょう』・『大般若経だいはんにゃきょう』・『大毗盧遮那経だいびるしゃなきょう』・『金剛頂経こんごうちょうきょう』、及び『涅槃経ねはんきょう』等の経に、詳しく説かれた通りである。