梵字悉曇字母幷釋義
沙門空海撰
夫梵字悉曇者印度之文書也。西域記云梵天所製。五天竺國皆用此字。然因地随人稍有増減。語其骨體以此為本。劫初之時世无法教。梵王下来授以此悉曇章。根原四十七言。流派餘一万。世人不解元由謂梵王所作。若依大毗盧遮那経云。此是文字者自然道理之所作也。非如来所作亦非梵王諸天之所作。若雖有能作者如来不隨喜。諸佛如来以佛眼觀察此法然之文字即如實而説之利益衆生。梵王等傳受轉教衆生。世人但知彼字相雖日用而未曾解其字義。如来説彼實義。若随字相而用之則世間之文字也。若解實義則出世間陀羅尼之文字也。所謂陀羅尼者梵語也。唐翻云総持。総者総攝。持者任持。言於一字中総攝无量教文於一法中任持一切法於一義中攝持一切義於一聲中攝蔵无量功徳。故名无盡蔵。
此総持略有四種。一法陀羅尼。二義陀羅尼。三呪陀羅尼。四菩薩忍陀羅尼。第一法陀羅尼者謂諸菩薩獲得如是念慧力持由此力持聞未曾聞言未温習未善通利名句文身之所攝録无量経典経无量時能持不忘。是名菩薩法陀羅尼。云何義陀羅尼。謂如前説此差別者即於彼法无量義趣心未温習未善通利経无量時能持不忘。是名菩薩義陀羅尼。云何呪陀羅尼。謂諸菩薩獲得如是等持自在。由此自在加被能除有情災患諸真言句。令彼章句悉皆第一神驗无所唐捐能除種種災患。是名菩薩呪陀羅尼。云何菩薩忍陀羅尼。謂諸菩薩成就自然堅固因行具足妙慧乃至諸真言章句審諦思惟籌量觀察不従他聞自能通達一切法義是名菩薩能得忍陀羅尼。已上四種者瑜伽佛地等論且約人釋。
若據密蔵義更有約法四種之釋。一者此一字法能与諸法自作軌持於一字中任持一切諸法。是名法陀羅尼。二者於此一字義中攝持一切教中義趣。是名義陀羅尼。三者誦此一字之時能除内外諸災患乃至得究竟安樂菩提之果。是名呪陀羅尼。四者若出家在家若男若女於日夜分中一時二時乃至四時觀念誦習此一字時能滅一切妄想煩悩業障等頓證得本有菩提之智。是名能得忍陀羅尼。如一字者自餘一切字義皆含如是義理。譬如易一爻中具含万象龜十字上悉知三世。
又有五種総持。謂一者聞持。二者法持。三者義持。四者根持。五者蔵持。一聞持者謂耳聞此一字聲具識五乗之法教及顯教密教之差別不漏不失。即不忘聴也。二法持者。謂念不住不忘流於蘊中。三義持者謂假實二法因縁性空。四根持者謂六縁念更无餘境。五蔵持者謂第九阿磨羅識即佛性浄識是也。如是五種亦約人釋。若約法釋更有五種。恐繁不述。
是五種四種陀羅尼即明如来四智五智之徳。佛地経等顯教則但説四智。故佛地瑜伽等論説四種陀羅尼。若於大毗盧遮那及金剛頂等祕密蔵中具説如来自受用五智等相應之趣。故説五種陀羅尼。如是五種智為根本。云何五智。謂一者大圓鏡智。二者平等性智。三者妙觀察智。四者成所作智。五者法界體性智。従此五智流出三十七智一百二十八智乃至十佛刹微塵數不可説不可説一切智智。如是无量智悉含一字中一切衆生皆悉具足无量佛智。然衆生不覺不知。是故如来慇懃悲歎。悲哉衆生去佛道甚近。然被无明客塵之所覆弊不解宅中之寶蔵輪轉三界沈溺四生。是故以種種身相種種方便説種種法利諸衆生。如涅槃経云世間所有一切教法皆是如来之遺教。然則内外法教悉従如来而流出。如来雖具如是自在方便而此字母等非如来所作法自然道理之所造。如来佛眼能觀覺知如實開演而已。
昔後漢明帝夢見金人之後磨騰竺蘭等以此梵文来傳振旦。字非篆隷語隔梵漢。弄玉難信案劍夜光。為誘童蒙随方翻説。従爾已還相承翻傳。然梵字梵語於一字聲含无量義。改曰唐言但得片玉三隅則闕。故道安法師著五失之文義浄三蔵興不翻之歎。是故傳真言之匠不空三蔵等。教授密蔵真言悉用梵字。然則此梵字者亘三世而常恒。遍十方以不改。學之書之定得常住之佛智誦之觀之必證不壊之法身。諸教之根本諸智之父母蓋在此字母乎。所得功徳不能縷説。具如花嚴般若大毗盧遮那金剛頂及涅槃等経廣説。
梵字悉曇字母幷釋義
沙門空海撰
夫れ梵字悉曇といふは印度の文書なり。西域の記に云く、梵天の所製なり。五天竺の國には皆此の字を用る。然に地に因り人に随て稍く増減有り。其の骨體を語へば此れを以て本とす。劫初の時には世に法教无かりき。梵王、下り来て授に此の悉曇章を以てせり。根原は四十七言。派と流て一万に餘れり。世の人、元由を解せずして、梵王の所作なりと謂へり。若し大毗盧遮那経に依て云はば、此是の文字は自然道理の所作なり。如来の所作に非ず。亦た梵王、諸天の所作にも非ず。若し能作の者有ると雖も、如来隨喜したまはず。諸佛如来は佛眼を以て此れ法然の文字なりと觀察して、即ち實の如くして之を説て衆生を利益したまふ。梵王等は傳へ受て轉た衆生に教しう。世人は但だ彼の字相を知て、日に用ふと雖も未だ曾て其の字義をば解せず。如来のみ彼の實義を説たまう。若し字相に随て之を用ときは則ち世間の文字なり。若し實義を解すときは則ち出世間の陀羅尼の文字なり。所謂、陀羅尼といふは梵語なり。唐には翻じて総持と云ふ。総といふは総攝なり。持といふは任持なり。言ふこころは一字の中に於て无量の教文を総攝し、一法の中に於て一切の法を任持し、一義の中に於て一切の義を攝持し、一聲の中に於て无量の功徳を攝蔵せり。故に无盡蔵と名く。
此の総持に略して四種有り。一は法陀羅尼、二は義陀羅尼、三は呪陀羅尼、四は菩薩忍陀羅尼。第一に法陀羅尼といふは、謂く諸の菩薩、是の念慧力持を獲得して、此の力持に由て、未だ曾て聞かざる言の、未だ温習せず、未だ善く通利せざる名・句・文身に攝録する所の无量の経典を聞て、无量の時を経て能く持て忘れず。是れを菩薩の法陀羅尼と名く。云何なるか義陀羅尼。謂く前説の如く、此の差別 といふは即ち彼の法の无量の義趣に於て、心に未だ温習せず、未だ善く通利ざるを、无量の時を経て能く持して忘れず。是れを菩薩義陀羅尼と名く。云何なるか呪陀羅尼。謂く諸の菩薩は是の如き等の持の自在を獲得せり。此の自在加被に由て能く有情の災患を除する諸の真言句、彼の章句をして悉く皆な第一神驗ありて唐捐なる所无からしめ、能く種種の災患を除する。是れを菩薩呪陀羅尼と名く。云何なるが菩薩忍陀羅尼。謂く諸の菩薩は自然に堅固の因行具足の妙慧を成就し、乃ち諸の真言章句に至るまで審諦に思惟し、籌量し、觀察して、他に従ふて聞かずとも、自ら能く一切の法の義を通達する。是を菩薩能得忍陀羅尼と名く。已上、四種は瑜伽・佛地等の論に且く人に約て釋せり。
若し密蔵の義に據ていはば、更に法に約て四種の釋有り。一は此の一字の法、能く諸法の与に自ら軌持と作て、一字の中に於て一切の諸法を任持せり。是れを法陀羅尼と名く。二は此の一字の義の中に於て一切の教の中の義趣を攝持せる。是れを義陀羅尼と名く。三は此の一字を誦する時に、能く内外の諸の災患を除し、乃至、究竟の安樂の菩提の果を得る。是れを呪陀羅尼と名く。四は若は出家にまれ在家にまれ若は男にまれ若は女にまれ、日夜分の中に於て、一時、二時、乃至、四時に此の一字を觀念し誦習する時は能く一切の妄想の煩悩・業障等を滅して、頓に本有菩提の智を證得す。是を能得忍陀羅尼と名く。一字をいふつるが如く自餘の一切の字義も皆な是の如き義理を含む。譬ば易の一爻の中に具さに万象を含し、龜の十字の上に悉く三世を知るが如し。
又、五種の総持有り。謂く一は聞持、二は法持、三は義持、四は根持、五は蔵持。一、聞持といふは、謂く耳に此の一字の聲を聞くときに、具さに五乗の法教、及び顯教・密教の差別を識て漏れず失せず。即ち忘く聴せぬなり。二、法持といふは、謂く念ひ不住不忘にして蘊の中に流するぞ。三に義持といふは、謂く假實二法、因縁の性空なるぞ。四、根持というは、謂く六縁念にして更に餘の境无きぞ。五、蔵持といふは、謂く第九の阿磨羅識即佛性の浄識是れなり。是の如き五種は亦、人に約て釋せり。若し法に約て釋せば、更に五種有り。繁に恐りて述べず。
是の五種・四種の陀羅尼には即ち如来の四智・五智の徳を明す。佛地経等の顯教には、則ち但だ四智を説けり。故に佛地・瑜伽等の論には四種陀羅尼を説けり。若し大毗盧遮那及び金剛頂等の祕密蔵の中に於ては、具さに如来の自受用の五智等の相應の趣を説けり。故に五種の陀羅尼を説く。是の如き五種の智を根本とす。云何なるをか五智といふ。謂く一は大圓鏡智、二は平等性智、三は妙觀察智、四は成所作智、五は法界體性智なり。此の五智より三十七智、一百二十八智、乃至、十佛刹微塵數の不可説不可説の一切智智を流出す。是の如く无量の智は、悉く一字の中に含めり。一切の衆生は皆、悉く无量の佛智を具足せり。然れども衆生、覺せず、知らず。是の故に如来、慇懃に悲歎したまふ。悲しい哉、衆生の佛道を去れること甚だ近きを。然も无明の客塵の覆弊せられたること被て、宅中の寶蔵を解らずして、三界に輪轉し四生に沈溺す。是の故に種種の身相、種種の方便を以て、種種の法を説て諸の衆生を利したまふ。涅槃経に云へるが如きは、世間の所有一切の教法は、皆な是れ如来の遺教なり。然れば則ち内外の法教、悉く如来従り流出せり。如来は是の如く自在方便を具したまへりと雖も、此の字母等は如来の所作の法に非ず。自然道理の所造なり。如来の佛眼をもて能く觀じ覺知して、實の如くして開演したまふまく。
昔、後漢明帝、夢に金人を見ての後に、磨騰・竺蘭等、此の梵文を以て来て振旦に傳へたり。字、篆・隷に非ず、語、梵・漢を隔てたり。玉を弄ぶに信じ難く、劍を案ずるに夜光あり。童蒙を誘えむが為に方に随て翻説す。爾従り已還、相承して翻傳せる。然も梵字・梵語には一字の聲に於て无量の義を含めり。改めて唐言に曰へば、但し片玉を得て三隅は則ち闕けぬ。故に道安法師は五失の文を著はし、義浄三蔵は不翻の歎を興せり。是の故に真言を傳ふるの匠、不空三蔵等、密蔵真言を教授するに、悉く梵字を用ひたまへり。然れば則ち此の梵字は三世に亘て常恒なり。十方に遍して以て不改なり。之を學し之を書すれば、定て常住の佛智を得、之を誦し之を觀ぜば、必ず不壊の法身を證す。諸教の根本、諸智の父母、蓋し此の字母に在り。所得の功徳、縷さに説くこと能はず。具さには花嚴・般若・大毗盧遮那・金剛頂及び涅槃等の経に廣く説けるが如し。
奈良時代末から平安時代初頭の僧。774-835. 入唐して金剛界と胎蔵法の両部の密教を受法し、その正嫡となって日本に帰国して真言宗を開宗。密教の修学修行に必須となる悉曇について日本人として初めてその解説書を著し、また年分度者として声明業を置いて真言宗における悉曇学の礎を築いた。▲
[S]Brāhmī (Brāhmīlipi). 梵天の気息から生じた、あるいは作られたと伝承されることからそう称される、古代印度の文字体系。
紀元前三世紀頃に普及していたBrāhmī(ブラーフミー)文字より四世紀から六世紀にかけ派生したGupta(グプタ)文字から、さらに五から六世紀頃に生じて主として北印度において通用したもの。支那には六世紀(隋代)に伝えられたようで、その頃の慧遠や彦琮などの書において悉曇の語が見え始めている。▲
[S]siddhaṃの音写。√sidh(成就する・達成する・完成する)の過去分詞(sidh+ta⇒shiddha)の名詞化した中性名詞で、siddhaṃはその主格単数形。その文字自体が「完成されたもの」という賛辞であったか。梵語では今一般にsiddha mātṛkā(完成された字)と称される。ただし、空海は本書において悉曇をすなわちsiddhāṃと記述しているが、それは梵語として不正な綴りである。あるいは『悉曇字記』にそう記述されていることに倣ってのことであったかもしれない。
悉曇は七旦とも書かれ、「しったん」と読まれるが、「しっだん」と読むのがその原語siddhaṃからして、また往古に義浄がこれを「悉談」と音写して伝えていることからも正しい。ただし、近世後期の慈雲は悉曇という語について、「。これを外々の傳の梵文は。と引點なしに書することも有り。今の相承はシダアンなり。常に言ときは七旦シッタンと呼べし。正く十八章傳受のときは悉曇シダアンと呼べし」としている。慈雲は「法隆寺貝葉」を見ており、そこに「」と引点が付されておらず「siddhaṃ」とされていることを知っていた。しかしながら、相承を非常に重要視した慈雲は、悉曇の原語について智廣『悉曇字記』および空海『梵字悉曇并釈義』などにより(誤って)伝えられたものを「相承としては正」であるとし、これを「シダーン」と読むべきとした。▲
玄奘『大唐西域記』(以下、『西域記』)巻二「詳其文字。梵天所製原始垂則。四十七言也。寓物合成隨事轉用。流演枝派其源浸廣。因地隨人微有改變。語其大較未異本源」(T51, p.876c)。
空海はこれに加え、さらに玄奘の伝記『大慈恩寺三蔵法師伝』(以下、『慈恩伝』)の所伝も交えており、すべてが『西域記』にある説ではない。『慈恩伝』「其源無始莫知作者。毎於劫初梵王先説傳授天人。以是梵王所説故曰梵書。其言極廣。有百萬頌。即舊譯云毘伽羅論者是也。然其音不正。若正應云毘耶羯剌諵音女咸反此翻名爲聲明記論。以其廣記諸法能詮故名聲明記論。昔成劫之初梵王先説。具百萬頌。後至住劫之初。帝釋又略爲十萬頌。其後北印度健馱羅國婆羅門覩羅邑波膩尼仙。又略爲八千頌。即今印度現行者是」(T50, p.239a)。
しかし、玄奘の名を挙げて批判的に引用するにしては正確でなく、悉曇が誰に由っても作られたものでないとの自説を主張するため我田引水の感がある。▲
印度全土。印度を東西南北および中央に分けて言った称。▲
劫は[S]kalpaの音写「劫波」の略。印度における宇宙的長大な時間の単位。あるいは宇宙が生まれてから滅するまでの期間。ここでは宇宙が創生されたその初めの意。▲
大梵天王。仏教において色界の初禅天に君臨する王とされる。▲
悉曇の摩多(母音)と体文(子音)を体系的に示したもの。▲
悉曇の摩多・体文における四十七音とその字。ただし、玄奘は『大唐西域記』にて「四十七言也」(T51, p.876c)とするが、義浄は『南海寄帰内法伝』巻四にて「本有四十九字」(T54, p.228b)と報告しているように、その依る書によって四十七字から五十一字まで所説ある。ここで空海が四十七字説に由っていたことに注意。ただし、本書(次項)にて示される梵字の数は総計五十字となっている。これは、詳しくは後述するが字母に二字、体文に一字と、本来的にはそこに含まれない計三字を加えているためで、その根本は玄奘の言う通り四十七字として誤りない。▲
誰によって作られたでもなく自ずからその通りに存在して永遠不変であること。誰によっても作られたものでなく、無始の昔からそのとおりあること。▲
作り上げる主体、制作者。▲
賛同して喜ぶこと。▲
生けるもの、意識を有する者。有情に同じ。▲
字形、字の形。▲
字が意味し、あるいは象徴するもの。▲
[S]dhāraṇīの音写。読誦し三昧に入ることにより念慧の力を強めて事物をよく記憶させるもの。呪、総持、能持、能遮などと漢訳される。
『大般若経』巻三百四十七「汝等若能受持如是甚深般若波羅蜜多陀羅尼者。則爲總持一切佛法」(T6, p.785a)
『仏地経論』巻五「陀羅尼者。増上念慧能總任持無量佛法。令不忘失。於一法中持一切法。於一文中持一切文。於一義中持一切義。攝藏無量諸功徳故名無盡藏」(T26, p.315c)▲
保持。保つこと。▲
包括。おさめとること。▲
学んだことを繰り返し習うこと。復習。▲
よくその事物に通じて、その利益を得ること。▲
その本来の意味、真義。▲
生けるもの、意識を有するもの。衆生に同じ。▲
虚しいこと、無意義・無意味なこと。▲
明らかにすること。▲
数えること。計量。▲
『瑜伽師地論』巻四十五「當知如是妙陀羅尼略有四種。一者法陀羅尼。二者義陀羅尼。三者呪陀羅尼。四者能得菩薩忍陀羅尼」(T30, p.542c)▲
『仏地経論』巻五「此陀羅尼略有四種。一法陀羅尼。二義陀羅尼。三咒陀羅尼。四能得菩薩忍陀羅尼」(T26, p.315c)▲
仏法における規範を保つこと。▲
爻は易の掛(け)を構成する上中下三段の横画。易の占術に基づく一結果。▲
易における占術の一つに、亀の甲羅を焼き、その割れ目など相を見るものがあるが、その甲羅。▲
仏教における五種の教法。人乗・天乗・声聞乗・菩薩乗・仏乗の五つ。▲
空海により提唱された密教の対概念。密教以外の仏教すべて。▲
仮にあるものと実にあるもの。あるいは世俗諦と第一義諦(勝義諦)。▲
あらゆる存在がその本性として空であること。無自性空。▲
本書にのみ見られる特殊な語のためその意味が不明瞭。あるいは地水火風空の六大を対象とする念、いわゆる界分別観を意図したものか?。▲
阿磨羅識(阿摩羅識・阿末羅識)は[S]amala vijñānaの音写と漢訳。自性清浄心に同じであるが、ここでは特に唯識学派が主張する識に八識ありとする説を前提とし、完全な悟りに至った者の第八阿頼耶識([S]ālaya vijñāna)が全く清淨となると転じて第九阿磨羅識となるというさらに特殊な説を述べたもの。▲
『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』(『真実摂経』)。▲
仏陀が悟りの境地を独り自ら楽しむこと。他にこれを開示しその楽しみを享受させようとすることは他受用という。▲
大きな丸い鏡が万物を写すように、すべての事物をそのまま照らし観る智慧。▲
すべての事物は無自性空・縁起せるものという点において平等であることを観る智慧。▲
すべての事物の現象した姿やその働きの異なりを照らし観る智慧。▲
衆生を教化するため為すべきことを為して成就している智慧。羯磨智に同じ。▲
第九阿磨羅識の働き。▲
佛刹は[S] buddha-kṣetraの音写で、仏陀の地の意。ここでは特に『華厳経』の説かれる正覚仏・願仏・業報仏・住持仏・化仏・法界仏・心仏・三昧仏・性仏・如意仏の十身具足した盧遮那仏の国土。▲
まったく言語にて表し得ない、いかにしても言語にて示し得ないこと。▲
[S]sarva-jñāna. あらゆる事物の真実を知る智慧、無上正等正覚。大日如来の智慧、法界体性智に同じ。▲
[S]avidyā. 無明。四諦・縁起・輪廻など真理に対する認識を欠いていること。根本的無知。▲
煩悩とはあらゆる生命が有する生来的なものであるけれども、しかし恒常不変でなく、あたかも家の客人のような移り変わり次々去りゆくものであること。▲
仏教の世界観であらゆる生命(六道)が流転する場。欲界・色界・無色界。▲
あらゆる生命の生じ方を四種に分類したもの。胎生(哺乳類等)・卵生(鳥類・魚類・爬虫類等)・湿生(虫等)・化生(天人・阿修羅・餓鬼・地獄の獄卒や住人等)。▲
[S]upāya. 教化するための手段。あるいはあらゆる修行法。▲
今のところ該当する一節を見出し得ない。▲
孝武帝の第四子、後漢の第二代皇帝劉荘(28-75)、在位57-75。支那における正史にて仏教伝来の契機を作り、洛陽に白馬寺を建てて仏教を擁護したとされる。▲
[S]Kāśyapamātaṅga. 迦葉摩騰。永平十年〈67〉、支那に初めて仏教を伝えた僧として知られる人。初の漢訳経典とされる『四十二章経』の訳者。▲
[S]Dharmarakṣa. 竺法蘭。迦葉摩騰と共に支那に渡り、白馬寺にて『四十二章経』を共訳したとされる。▲
[S]Cīnasthānaの音写。支那(Cīna / 秦)の地(sthāna)。▲
篆書。隷書の元。▲
隷書。楷書の元。▲
『史記』巻八十三 鄒陽列伝「明月之珠,夜光之璧,以闇投人於道路,人無不按劍相眄者。何則。無因而至前也。蟠木根柢,輪囷離詭,而為萬乘器者。何則。以左右先為之容也。故無因至前,雖出隨侯之珠,夜光之璧,猶結怨而不見德。故有人先談,則以枯木朽株樹功而不忘。今夫天下布衣窮居之士,身在貧賤,雖蒙堯、舜之術,挾伊、管之辯,懷龍逢、比干之意,欲盡忠當世之君,而素無根柢之容,雖竭精思,欲開忠信,輔人主之治,則人主必有按劍相眄之跡,是使布衣不得為枯木朽株之資也」の引用か?▲
幼く道理のわからない者。無知な人。▲
崑崙山(崑山)の玉の欠片。崑崙山は支那の西方にあるという伝説上の霊山で、名玉の産地とされる。
印度の梵語を西方にある崑崙山の玉(完璧)に類比し、梵語を漢語へ翻訳したものは崑山の玉のカケラとした表現。▲
崑山の玉はたとえ一欠片であっても価値あるものであるが、翻訳によってその意味を限定することはまさにその欠片のようなものであり、やはり本来の価値を損なった三隅を欠いたものであることに違いはない、とする言。
この「三隅」はまた、『論語』述而第七「子曰、不憤不啓、不悱不発。挙一隅、不以三隅反、則不復也」にも掛けたものであろうか。▲
釈道安(312―385)。東晋の僧。それまで儒教や道教など既存の支那思想を通し交えて仏教を理解していた(格義仏教)のを誤りとし、思想的夾雑物を排除して支那仏教を正そうと勤めた。また、僧には律儀が必須であるとして戒律を求め、修禅に打ち込むなど行学兼備の人として知られる、初期支那仏教における最も重要な僧。▲
道安により建てられた翻訳方針「五失本 三不易」。
五失本(ごしつほん)とは胡語(梵語など外国語)を秦(漢語)に訳す際、原文の原型を失ってしまう五つの点の指摘で、①梵語は(漢語に訳せば)語順がすべて逆となること。②梵文は簡素な表現が尊ばれるが漢語は文飾を好み、(簡素なまま訳せば支那人の)性状にあわないこと。③梵文では悉く詳しく、(仏陀や高僧を)称賛する辞を煩を厭わず何度も繰り返しの表現が用いられるが、支那ではこれを省略すること。④梵文にはその意味の説明があるが(支那では)それが乱辞と思われ、かなるの分量を除いても本旨に差し障りがないため削除すること。⑤(梵文では)一つの話題が終わったならば、最後にそのまとめとして簡単な繰り返しがなされるが、漢訳ではそれを除くこと。いずれも翻訳に際して原型は失うけれども、この五点については許容されるものとした。
同時に決して変えてはならないこととして挙げたのが三不易(さんふやく/さんふにゃく)で、①聖者は「時」というものを考慮して説かれるものであるから、時代や習俗が変わったからと言って、それを今様に変えてはならないこと。②愚者と賢者とははるかに隔たったものであるから、聖人が上古における微妙な教えを今に合わせて改変してはならないこと。③阿難尊者など仏滅後の弟子が経律を編纂するに際し、摩訶迦葉などが五百羅漢と共になんら斟酌を加えないとしたにも関わらず、それから千年の時を隔てた凡愚の者らが取捨選択するなどもってのほかであること。▲
635-713. 唐代の僧。法顕や玄奘の渡天に憧れ、自らも南海経由で印度に入り、およそ二十五年の長きにわたり当地の僧院にて生活。その様子や事情を記した『南海寄帰内法伝』は今なお当時を知るうえでの第一級資料。渡天の目的の一つが印度における僧儀の実際を知ることであったため、特に律関連の記述が詳しい。帰朝に際して未伝であった根本説一切有部の律蔵、他多数の経論をもたらし翻訳した。▲
おそらくは『寄帰伝』巻四にある「然則古來譯者。梵軌罕談。近日傳經但云初七。非不知也。無益不論。今望總習梵文。無勞翻譯之重(然れば則ち古來の譯者、梵軌罕に談ずのみ。近日、經を傳ふに但だ初七を云ふのみ。知らずに非ず。益無くして論ぜず。今望むらくは總て梵文を習ひ、翻譯の重の勞無きことのみ)」(T54, p,228b)の一節を意図したものであろう。義浄は支那の学僧たちが梵語を学び、漢訳による種々の弊を無くして、翻訳を通じず直に仏教を学びえるようになって欲しいとの願いを持っていた。▲
[S]Amoghavajra. 不空金剛(705-774)。北印度出身ながら、15歳にて唐に渡って僧となり、師の[S]Vajrabodhi(金剛智)を助けて極めて多くの訳経に携わった。師からはまた金剛頂系の密教を受法し、密教の阿闍梨として唐にて活躍。玄宗皇帝から粛宗・代宗と三代に渡る帝師となった。空海の師、恵果は不空の弟子。▲
実叉難陀訳『大方広仏華厳経』巻七十六「入法界品」等。▲
玄奘訳『大般若波羅蜜多経』巻五十三「弁大乗品」等。▲