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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

念(smṛti, sati)とは何か

大乗における定義

最後に大乗における念の定義を示します。もっとも、「大乗における」などと言うとあまりに対象が広くなりますが、しかし「念とは何か」と言ったことを定義する典籍はそれほど多くありません。

先に「説一切有部の典籍における念の定義」の項で触れたように、大乗ではそのような基本的理解は、ただそれらが恒常不変の実体的法として見ることを否定しはするものの、おおよそ説一切有部の教学がそのまま踏襲されています。とはいえ、それも全面的に踏襲されているというのではなく、やはり細かい点で見解の相違が見られます。

大乗にはいわゆる部派仏教のような、整備され体系だった論蔵すなわち阿毘達磨蔵などというものが存在しません。けれども、そのような「法(性相)の分析」に関しては、いわゆる瑜伽行唯識派が長じており、いくつかそれが論じられている典籍が伝わっています。

たとえば、先に示した『倶舎論』を著した世親自身により、大乗に廻心した後に著された『大乗百法明門論だいじょうひゃっぽうみょうもんろん』において説一切有部とは異なる見解が示されています。

心所有法。略有五十一種。分爲六位。一遍行有五。二別境有五。三善有十一。四煩惱有六。五隨煩惱有二十。六不定有四。一遍行五者。一作意二觸三受四想五思。二別境五者。一欲二勝解三念四定五慧。
心所有の法には略して五十一種がある。これを分別すると六位ある。第一には遍行で、これに五種ある。ニには別境で、これに五種ある。三には善で、これに十一種ある。四には煩悩で、これに六種ある。五には随煩悩でこれに二十ある。六には不定で、これに四種ある。第一の遍行の五種とは、①作意・②触・③受・④想・⑤思である。第二の別境の五種とは、①欲・②勝解・③念・④定・⑤慧である。

玄奘三蔵訳 世親菩薩『大乗百法明門論』巻一 (T31, p.855b)

前述したように、説一切有部において、心所は四十六種が挙げられ六類に分類されていましたが、念はそのうちの大地法(Mahābhūmika)に分類されていました。大地法とは、すべての心の生じるあらゆる場所・瞬間に、遍く従って倶に起こる心の作用のことです。いま示した『大乗百法明門論』では、遍行といわれている心所の範疇です。

しかし、菩薩はまず心所を四十六種ではなく五十一種あるとし、自ら『倶舎論』の中でその説を紹介しながら反対していたように、念を遍行(大地法)ではなく、別境(prativiṣaya, vibhāvanā)に分類しています。ここで菩薩の言う別境とは、心の善悪の質に関わらず、ある条件下において生じる心所の範疇です。

ただし、この『大乗百法明門論』は、ただ百法を挙げ分類したのを列挙したのみの極々短い書であって、その意味内容など全く触れられていません。それは、同じく菩薩が著したという小篇『大乗五蘊論だいじょうごうんろん』(Pañcaskandhaprakaraṇa)においてなされており、そこで念とは何かの説明が加えられています。

その一説を以下に徴しましょう。

云何爲念。謂於串習事令心不忘明記爲性。《中略》
云何失念謂染汚念於諸善法不能明記爲性。
何が念であろうか?串習けんじゅう〈親しむこと・繰り返し行うこと〉したことを、心に明記して忘れさせないことがその本質である。《中略》
何が失念であろうか?(煩悩と伴なる)染汚の念である。諸々の善法を明記することができないことがその本質である。

玄奘三蔵訳 世親菩薩『大乗五蘊論』 (T31, pp.848c-849b)

ここでは一応、失念の定義箇所も挙げておきましたが、『大乗百法明門論』や『大乗五蘊論』などでは、失念とは単に「念のないこと」・「念の弱いこと」をいうものでなく、特定の心所として挙げられるもので、それは随煩悩の範疇に入れられています。したがって、念は別境であって善悪関係無いものですが、失念は随煩悩であって特に「善法を明記しえないもの」であるとされています。瑜伽行派では、「失念という心の働き」があると見ているわけです。

この『大乗五蘊論』にはまた、玄奘三蔵よりやや後に中インド出身の地婆訶羅じばから〈Divākara〉によって訳された『大乗廣五蘊論』があります。これは、六世紀中頃に活躍した無相唯識の大論師、安慧あんね〈Sthiramati〉によって著されたと伝えられるもので、『大乗五蘊論』の所論をさらに詳しく説明しています。

あるいはまた、四世紀中頃の無着むじゃく〈Asaṅga〉による『大乗阿毘達磨集論』においても心所等を定義する一節があります。無着とは、世親の実兄で、化地部にて出家していたものの後に大乗に転向し、後にやはり廻心して大乗の門に入った世親と共に瑜伽行唯識の立役者となった人です。

その『大乗阿毘達磨集論』において、念は以下のように定義されています。これには幸運にも断片的ながら梵本(Abhidarmasamuccaya, [Gokhale ed.] )が現存しているので、その該当箇所も併記しておきます。

smṛtiḥ katamā | saṃstute vastuni cetaso'saṃpramoṣaḥ | avikṣepakarmikā ||
何等爲念。謂於串習事令心明記不忘爲體。不散亂爲業。
何が念であろうか?串習したことを、心に明記して忘れさせないことがその本質であり、(心が)散乱しないことがその働きである。

Ācārya Asaṅga. Abhidarmasamuccaya
玄奘三蔵訳 無着菩薩『大乗阿毘達磨集論』巻一 (T31, p.664b)

『倶舎論』にて示されていた説一切有部での基本的な念の定義「明記して忘れないこと」に、『大乗五蘊論』に同じく串習けんじゅう〈saṃstuta〉すなわち「親しむこと」・「繰り返し行うこと」という語が付せられています。そしてまた、その業(働き)として「(心が)散乱しないこと〈avikṣepa〉」が付け加えられてもいます。

分別説部は念の働きとして「混乱のないこと〈asammosa〉」を挙げていましたが、瑜伽行唯識もまた、用語こそ異なっていますが「(心が)散乱しないこと〈avikṣepa〉」をその働きとしています。どちらも同じ働きあるものと捉えていた、といって差し支えないようです。いずれにせよ簡便なものですが、加増された点から察するに、瑜伽(Yoga)の修習というあくまで修道者の観点・経験的立場から説明されたものでもあるのでしょう。