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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

念(smṛti, sati)とは何か

上座部における定義

伝統的「sati」の理解、その位置づけ

上座部〈Theravāda〉と通称される分別説部〈Vibhajyavāda〉では、どのように念(sati)を理解してきたか。

それがもっとも簡便に説かれているのは、十一世紀にインド僧Anuruddhaアヌルッダによって著された、Abhidhammatthasaṅgahaアビダンマッタサンガハ です。この書は、分別説部所伝の阿毘達磨の所説が簡潔にまとめ記されている、大変すぐれた概説書でありその入門書です。

上座部の初学者がその教学を学ぶには、必ずこの書から学び始められるほどの書となっており、事実ビルマでは出家したばかりの年少の沙弥たちは、この書とパーリ語の文法書 Kaccāyana-pakaraṇaカッチャーヤナ・パカラナ を素読することからその修学を開始します。全部丸覚えしてから学習するのです。その性格は少々異なりますが、説一切有部の『倶舎論』あるいは『順正理論』のようなものといえます。

そこではまず、以下のようにsatiの位置付けが示されます。

saddhā sati hirī ottappaṃ alobho adoso tatramajjhattatā kāyapassaddhi cittapassaddhi kāyalahutā cittalahutā kāyamudutā cittamudutā kāyakammaññatā cittakammaññatā kāyapāguññatā cittapāguññatā kāyujukatā cittujukatā ceti ekūnavīsatime cetasikā sobhanasādhāraṇā nāma.
信・念〈sati〉・慚・愧・無貪・無瞋・中捨・身軽安・心軽安・身軽快性・心軽快性・身柔軟性・心柔軟性・身適業性・心適業性・信練達性・心練達性・信端直性・心端直性、これらの十九の心所を、「清らか(な心)と共なるもの」〈sobhanasādhāraṇa-cetasika〉という。

Bhadanta Anuruddha. Abhidhammatthasaṅgaha

これはただ「心の働き」であるcetasikaチェータシカ(心所・心数)を分類するなかで、念がどの範疇に含まれるかを示したものです。上記のように、satiはあくまで「清らかな心と共にのみ働く心の機能」であると位置付けられています。

しかし、これはただその位置付けが示されたものであって、「satiとは何か」を説明するものではありません。それは、この書の複註書(Ṭīkāティーカー)において行われています。

saraṇaṃ sati, asammoso, sā sampayuttadhammānaṃ sāraṇalakkhaṇā.
〈sati〉とは憶えること〈saraṇa〉、混乱のないこと〈asammosa〉である。それは相応する諸法〈sampayuttadhamma〉を憶えておかせるという特徴をもつ。

Abhidhammatthavibhāvinīṭīkā

このように、分別説部においても、先に示した説一切有部とまったく同様、satiとは「憶えること」・「記憶」であると定義されています。ただし、分別説部において、satiはただ単に「何でも憶えること」とは理解されていません。分別説部での一般的な理解では「念とは、清らかな心においてのみ働くもの」であって、「念とは、仏・法・僧、あるいはなんらか善なるものをこそ憶えておかせる心の働き」であるとされています。このような念の位置付けと理解は、分別説部特有のものであって、この点は留意しておかなければならない。

しかしそれがいくら優れているとはいえ、いわば概説書に過ぎないAbhidhammatthasaṅgahaとその注釈書における一節を示すだけでは十分とは到底言えません。そこで、さらにその根拠となっている諸典籍を詳しく示していきましょう。

まず分別説部における阿毘達磨蔵の七典籍の一つ、Dhammasaṅgaṇīダンマサンガニー(『法集論』)では、念をこのように定義しています。

tattha katamā sati? yā sati anussati paṭissati sati saraṇatā dhāraṇatā apilāpanatā asammusanatā sati satindriyaṃ satibalaṃ sammāsati — ayaṃ vuccati sati.
そこで、何が念であろうか?念〈sati〉・随念〈anussati〉・憶念〈paṭissati sati〉・憶持性〈saraṇatā〉・留意性〈dhāraṇatā〉・不浅薄性〈apilāpanatā〉・不忘失性〈asammusanatā sati〉・念根〈satindriya〉・念力〈satibala〉・正念〈sammāsati〉―これが念であると云われる。

Dhammasaṅgaṇī, Nikkhepakaṇḍa, Suttantikadukanikkhepa 1358

この一節はまた同じく阿毘達磨の典籍の一つであるVibhaṅga(『分別論』)でも全く同様に見られ、頻出するものです。

しかし、satiを説明するのにまたsatiが用いられ、あるいは単に言葉としてsatiが付随しているものが列挙されたのでは、そもそもsatiという言葉の意義を知りたい者には全く適当で無い。そこでひとまずそれらを除いてみましょう。すると、saraṇatā(憶持すること)、dhāraṇatā(意に留めること)、apilāpanatā(数え上げること/浮つかないこと)、asammusanatā(忘れないこと)が抽出されます。

やはり、念とはまず「忘れないこと」・「憶えていること」であるとされ、さらに「浮つかないこと」であるとされています。そして実は、この「数え上げること/浮つかないこと(apilāpanatā)」というのがsatiの主たる特徴であると、分別説部では一般に言われます。

このapilāpanatāという語は、先にMilindapañhāミリンダパンハーを紹介した中でも、まさにsatiの特徴として挙げられていた語です。Milindapañhāでは明らかに「数え上げる・列挙すること」という意味で用いられていました。それはこの語の原義であります。しかし、この語はまた「浮つかないこと」の意でもあると理解されているので、ここではその両義を挙げています。

次に、経蔵のKuddhaka Nikāya(小部)に編纂されているPaṭisambhidāmaggaパティサンビダーマッガ(『無碍解道』)にて、念に直結する念根・念力・念覚支の意義について端的に説いている一節があるため、それを以下に示します。

satindriyassa upaṭṭhānaṭṭho abhiññeyyo; ...
satibalassa pamāde akampiyaṭṭho abhiññeyyo; ...
satisambojjhaṅgassa upaṭṭhānaṭṭho abhiññeyyo;
念根〈satindriya〉の「随侍すること〈upaṭṭhāna〉」との意義が、了解せられるべきである。〔中略〕
念力〈satibala〉の「放逸に流されない」との意義が、了解せられるべきである。〔中略〕
念覚支〈satisambojjhaṅga〉の「随侍すること」との意義が、了解せられるべきである。

Paṭisambhidāmagga, Mahāvagga, Ñāṇakathā (KN.12)

さらにまた同じくPaṭisambhidāmaggaは後段において、さらに以下のように理解すべきことを説いています。

upaṭṭhānaṭṭhena satindriyaṃ abhiññeyyaṃ; ...
upaṭṭhānaṭṭhena satisambojjhaṅgo abhiññeyyo; ...
upaṭṭhānaṭṭhena sammāsati abhiññeyyā; ...
upaṭṭhānaṭṭhena satipaṭṭhānā abhiññeyyā;
「随侍すること〈upaṭṭhāna〉」の意義によって、念根〈satindriya〉は了解せられるべきである。《中略》
「随侍すること」の意義によって念覚支〈satisambojjhaṅga〉は了解せられるべきである。〔中略〕
「随侍すること」の意義によって正念〈sammāsati〉は了解せられるべきである。〔中略〕
「随侍すること」の意義によって念住〈satipaṭṭhāna〉は了解せられるべきである。

Paṭisambhidāmagga, Mahāvagga, ñāṇakathā (KN.19)

このように『無碍解道』では、念根(satindriya)・念覚支(satibojjhaṅga)・正念(sammāsati)・念住(satipaṭṭhāna)など、念に関する事柄は全てupaṭṭhānaという意味によって、今は一応これを「随侍(付き従うこと)」と訳しましたが、理解すべきことが繰り返し説かれています。

あるいは玄奘三蔵などの先例に習い、upaṭṭhānaを「住すること(留まること)」と伝統的に訳したほうが良いかもしれません。それはむしろupaṭṭhānaという語、ひいてはsatiの意義を理解する助けとなるでしょう。

このupaṭṭhānaは、仏教の修道において非常に重要な語となるもので、その意は上述したように「付き従うこと」あるいは「留まること」です。何故この語を非常に重要とするかと言えば、上に示した『無碍解道』にまさにそう説いているように、「念根」・「念覚支」・「正念」・「念住」といういわゆる三十七道品の内容に関わる語であるためであり、特に「念住」すなわちsatipaṭṭhānaにまさしく含まれた語であるためです。

しかしながら、その意が「付き従うこと」あるいは「留まること」などであると言っても、案外それだけでは今一つ掴み難いものかもしれない。そこで、さらにその意を明らかに理解するのには、upanibandhaという語をもってするのが良いでしょう。upanibandhaとは「繋ぎ止めること」・「近くに結ぶこと」の意です。

何事か対象に意識を「付き従う」・「留まる」ことが念住であり、それはすなわち対象に意識を「繋ぎ止める」ことであるためです。

註釈家による「sati」の理解

次に、漢訳の完本と部分的に西蔵訳のみが伝わっているUpatissa〈優波底沙〉による『解脱道論』Vimuttimaggaではどのように言っているかも示します。

云何為念。念隨念彼念覺憶持不忘。念者念根念力正念此謂念。問念者何相何味何起何處。答隨念為相。不忘為味。守護為起。四念為處。
何を念と云うのであろうか?念とは随念であり、それは念覚・憶持・不忘である。念とは念根・念力・正念であって、これを念と言う。
問: 念にはいかなる相〈特徴〉、いかなる味〈作用〉、いかなる起〈功用〉、いかなる処〈対象〉があるであろうか?
答: 随念を相とし、不忘を味とし、守護を起とし、(身・受・心・法に対する)四念を処とする。

優波底沙『解脱道論』巻五 行門品 (T32, p.419a)

優波底沙は、いま正統派とされ唯一現存する分別説部大寺派(現在の上座部)からすれば異端とされた分別説部無畏山寺派に属する、しかし当時は阿羅漢として崇敬された学僧です。現代の学者によって『解脱道論』はおそらく印度で書かれたと目されている、その修道書です。優波底沙は、まずはおそらくDhammasaṅgaṇī(『法集論』)の所説をそのまま記し、その後に「念の作用」などについての想定問答を展開することによって、念の意義を明らかにしています。ここでは、念とは随念を特徴とし、不忘が作用、その対象は(身・受・心・法の)四念であるとされています。

このような、念についての阿毘達磨における諸説を踏まえた上で、相(特徴)・味(作用)・起(功用)・処(対象)という四つの側面から理解を促す方法は、阿毘達磨の諸典籍に管見では見られず、今知る限りでは優波底沙大徳によって初められたように思われるものです。人に確かな理解を促す、すぐれた方法でありましょう。

後述しますが実際この術は後代、無畏山寺派を異端として優波底沙の説に反駁しながら自説を加えていく、Buddhaghosaによって踏襲されています。

さてまた、『解脱道論』の他の箇所では、より端的に以下のようにも説かれています。

念者是心守護如持油鉢。彼四念處足處。
念とは、それが心を守護することは、あたかも油鉢を持つようなものである。それは四念処の足処〈基体〉である。

優波底沙『解脱道論』巻十 五方便品 (T32, p.447c)

なお、ここにいう「油鉢を持つようなもの(如持油鉢)」とは、前述のSaṃyutta Nikāya, Mahāvagga, Satipaṭṭhānasaṃyutta(相応部大品念住相応)のJanapadakalyāṇī-suttaの所説が引き合いに出されているものです。漢訳にも対応する同内容の経典があり、それは『雑阿含経』(No.623)です。

先に述べたことの繰り返しとなりますが、Janapadakalyāṇīsuttaは、特に四念住のうち身念住をいかに行うべきかを譬喩によって説くものです。それは念(sati)という語が、「リラックスし、ただ己の身体的動作などを気づく」などといったものでは全く無く、そもそも「気づき」などという意味で決して用いられていないことの証の一つです。それはむしろ、緊張感をもってなんら落ち度無く、身体に(まつわる諸行為に)ついての念、すなわち「落ち度がないように注意深いこと・よく気をつけていること」を修めるべきことが説かれた経です。

では次に、分別説部大寺派すなわちいま上座部と通称される部派の修道書であり、その教義と修行体系を知る上で最重要にして不可欠の典籍となっている、ブッダゴーサによるVisuddhimaggaヴィスッディマッガ(『清浄道論』)では、どのように念を規定しているかを示します。

saranti tāya, sayaṃ vā sarati saraṇamattameva vā esāti sati. sā apilāpanalakkhaṇā, asammosarasā, ārakkhapaccupaṭṭhānā, visayābhimukhabhāvapaccupaṭṭhānā vā, thirasaññāpadaṭṭhānā, kāyādisatipaṭṭhānapadaṭṭhānā vā. ārammaṇe daḷhapatiṭṭhitattā pana esikā viya, cakkhudvārādirakkhaṇato dovāriko viya ca daṭṭhabbā.
それらによって憶える〈saranti〉ために、あるいはそれ自らが憶する(sarati)ために、あるいは憶念〈saraṇa〉そのものであるために、念〈sati〉である。それは「浮つかないこと〈apilāpana〉」を相〈特徴〉とし、「混乱のないこと〈asammosa〉」を味〈作用〉とし、「防護〈ārakkha〉」の現出〈paccupaṭṭhānā〉、あるいは「境〈対象〉に直面していること〈visayābhimukhabhāva〉」の現出である。堅固なる想〈thirasaññā〉を直接因とし、あるいは身体等〈身・受・心・法〉の念住〈satipaṭṭhāna〉を直接因とする。さらにまた、(念とは)認識対象に堅固に屹立すること、あたかも門柱のようであり、眼門等〈眼・耳・鼻・舌・身・意〉を護ることは、あたかも門衛のようであると知るべきである。

Buddhaghosa. Visuddhimagga 2-14, khandhaniddeso 465.

ここでブッダゴーサは、先に示した優波底沙の『解脱道論』での説を明らかに踏まえ、さらに自説を加上していることが理解されるでしょう。

もはや改めて言う必要などないかもしれませんが、さらに重ねて誰でもわかるよう易しくこれを言えば、仏教の修道において用いられる念すなわちsatiとは、まず「忘れない」ことです。しかし、それはただ「忘れない」というのではありません。更に具体的に言えば、「現在の注意の対象を失わないこと」、「(意識を)乱さぬよう用心していること」を言うものです。

分別説部の心所説においても、念は、その認識対象や心の状態を問わずに「忘れないこと」・「記憶すること」とはただ単純にされません。最初に示したように、分別説部においては、あくまでも「念の対象は仏法僧、あるいは善なるもの」であって、それを忘れないことです。あるいは、特に四念住(sati+upaṭṭhāna)とこそ関連付け、その意を限定したものとして把握されていることは、前掲の一説にても明らかでありましょう。

そこで、その対象そして心の状態が善(というより清らか)であるときに生じるものと限ったもの、あるいは念の働きが心にある時その心は善なる(清らかなる)ものであるとして、これをSobhana-sādhāraṇa-cetasika(共善心所)、すなわち「善なる心のみと共にある心の働き」の範疇に入れるという理解がされているのです。

分別説部において、もし煩悩と伴なる心において「憶えること」が生じたとしたら、それは邪念(Micchāsati)といわれ別物とされます。ただし、邪念なるものは分別説部の心所説において別出して説かれてはいません。

しかし、では人の一般的な「記憶」という働きは、分別説部ではどの心所に依るものとするのか。それは想(saññā)であると、分別説部では云います。これは、その阿毘達磨において念を「善なるもの」と限定して位置づけた結果、しかし念の本来の意味である(その対象の善悪など問わない、単なる)「記憶」という働きに帰すべき心所が無くなってしまうことによる、やむを得ない結果だとも考えられるものです。

そのような分別説部大寺派における理解の故に、『清浄道論』は上に示した一節において、念をして「堅固なる想(thirasaññā)を直接因とし、あるいは身体等(身・受・心・法)の念住(satipaṭṭhāna)を直接因とする」ということをわざわざ言っているのでしょう。

ところで、またブッダゴーサは律蔵の注釈書Samantapāsādikāサマンタパーサーディカーにおいて、比丘尼の波羅夷に関して解説する中、medhāvinīメーダーヴィニー(賢き女)という語について注釈するに、以下のようにsati(念)とpaññā(智)との関係を以て表しています。

medhāvinīti pāḷiggahaṇe satipubbaṅgamāya paññāya atthaggahaṇe paññāpubbaṅgamāya satiyā samannāgatā.
「賢き女」〈medhāvinī〉とは、聖典の言葉を学ぶことにおいて念を初めとする智慧〈satipubbaṅgama pañña〉を、(聖典の言葉の)意味を学ぶことにおいて智慧を初めとする念〈paññāpubbaṅgama sati〉を具えている(女性)、ということである。

Buddhaghosa. Samantapāsādikā, Bhikkhunīvibhaṅgavaṇṇanā 656.

賢者(ここでは賢女)たる者、あるいは賢者たりえる者とは何か。それは、聖典を学ぶにその意味・一々の語義を最初に理解するのでなく、先ずは聖典を記憶し、次にその記憶した聖典の意味内容について考え、理解したことをまた記憶した者である、とされます。

まずその内容を理解する以前、理解すべき対象を丸覚えしてしまう。そうして初めてその覚えた内容について検討し、理解していく。まず記憶していなければ理解しようがなく、しかしただオウム返しに記憶しているだけでも意味はなく、そしてその時だけ理解しただけで次の瞬間に忘れてしまっていては仕様がありません。

これは何もただ仏教を学ぶ者に限って言えることでなく、往古の学問を積む者たちにとってごく当たり前な、全くアジア諸国(特にはインド亜大陸周辺)において取られてきた伝統的な学習態度であり、その徳です。ブッダゴーサはそのような伝統的過程を踏み、(必ずしも博覧強記であるべきことを言ったものではないでしょうが)聖典を学び習得した者をこそ賢者としています。

先に、念と智との関係性を譬喩によって拙いながらも示しましたが、それと相似たことはすでに1600年も昔、より簡潔に大徳ブッダゴーサによってなされていました。

あるいは、これはごく当たり前でわざわざいうことでない、と思われるかもしれません。

学而不思則罔
学びて思わざれば則ちくら

『論語』為政

しかし、現実には当たり前のようで当たり前でないからこそ、1600年どころか2500年の昔、孔子もまた弟子に言い聞かせていたのでしょう。

念とは対象を掴んで離さないことであり、智とはその掴んだ物事を確かに知り理解すること。その両者はまた相関して互いを深め、強め合うのに必須のものです。

現代の上座部における見解

最後に示すのは経典でも論書でもなく、現代のミャンマーにおける分別説部の著名な仏教学者であり在家修行者でもあるモン族の人で、アメリカはイリノイ大学にて博士号(Ph.D.)を取得した、Mehm Tin Monミン・ティン・モン氏により英語で書かれた阿毘達磨の優れた概説書です。

この書においてもやはり、satiとは何かの定義が極めて簡潔かつ明瞭に述べられており、これによって現代の分別説部でsatiがどのように理解されているかを知ることが出来るでしょう。

2. Sati = mindfulness, attentiveness
...
2. Sati
Sati is mindful of things that are taking place. Its chief characteristic is 'not floating away', i.e., not to let things go unnoticed. When one is not mindful enough, one does not remember what one sees or hears; it is like empty pots and pumpkins floating away on the water current.
One can recall past events with sati, and sati can be developed. When it is highly developed, one acquires the power of remembering past births. So sati can function as memory.
Buddha reminded his disciples every day not to forget wholesome deeds and to be always mindful to fulfil one's pledge to strive for the liberation from all miseries.
If one is mindful at the six sense-doors to note what one observes just as ''seeing, seeing' or 'hearing, hearing', etc., one can stop defilements from entering the mind. In this sense sati is compared to a gate-keeper who stops thieves and robbers from entering the city.
Sati is also a member of the five spiritual faculties as well as a member of the five apiritual powers. It is also one of the seven factors of Enlightenment (Bojjhaṅga) and the seventh link of the noble Eightfold Path.
2. sati = 注意深いこと、用心深いこと
《中略》
2. sati
 Satiとは、現在行われている物事について注意深いことである。その主たる特徴は「漂わないこと」である。すなわち、(自らがなしている筈の)物事を注意すること無く放置してしまわないことである。人が充分に注意深くなかったならば、その者は自分が見たこと・聞いたことを憶えることはないであろう。それはあたかも水の流れに、空っぽの鍋やカボチャなどが漂うようなものである。
 人はsatiによって過去の出来事を思い出すことが出来、そしてsatiは開発され得るものである。それが高度に開発されたならば、人は幾世にも渡る過去の生涯を思い出す力を得る。まさにsatiは記憶としての機能を果たすことが出来る。
 仏陀は日々、その弟子たちに諸々の有益な行為を忘れることがないよう、そしてあらゆる苦しみから開放されるため努力するという自らの誓願を果たすため常に注意深くあるべきことを教誡された。
 もし人が 六種の感覚器官〈六根〉において注意深く、まさに「見ている、見ている」であるとか「聞いている、聞いている」等々と自身が観察することを心に留めるならば、その者は心に煩悩が入り込むことを止めることが出来るであろう。その意味でのsatiは、盗賊や強盗が街に入り込むのを防ぐ門衛に喩えられる。
 Satiはまた、五種の精神的機能〈五根〉の一部であると同時に五種の精神的能力〈五力〉の一部でもある。そしてまた七種の菩提の要素〈七覚支〉(Bojjhaṅga) の一つであり、八支聖道〈八正道〉の第七支でもある。

Mehm Tin Mon, THE ESSENCE OF BUDDHA ABHIDHAMMA, pp.84-87
Mya Mon YADANAR PUBLICATION, 1995

ここでミン・ティン・モン博士は、satiとはまず"mindfulness"(注意深いこと)・"attentiveness"(用心深いこと)であるとし、その特徴を"not floating away"(漂わないこと)にあるとしています。これはおそらく、Milindapañhāでsatiの特徴の一つとしてapilāpanatāを挙げ、また同じくDhammasaṅgaṇīにおいてもそれをsatiの定義として挙げていることを受けてのことであるのでしょう。

先にも述べたようにapilāpanatāとは「数え上げること」あるいは「浮つかないこと」の意であり、博士はこのうち「浮つかないこと」をもってその主たる特徴としたのだと思われます。それはまたブッダゴーサが『清浄道論』において、satiの特徴としてapilāpanatāを挙げているのに基づいた言でもあるのに違いありません。実際、博士は『清浄道論』の忠実な信奉者であり、その実践者でもあるからです。

博士がここで示すsatiの定義は、上に列挙した分別説部の論蔵や蔵外の文献にある所説を取捨選択したものであって、その全容を示したものとは少々云い難いものでやや一面的ではあります。しかし、であったとしても、その伝統的な説に則った正しいものと言えます。

いずれにせよ、分別説部におけるsatiの定義は、「善なる心のみと共にある心の働き」の範疇に入れている以外、先に示した説一切有部の定義とさして変わりないものです。重ね重ねの言となりますが、「satiとは気づきである」とか「satiとは集中することである」などとは分別説部においても全くされていません。そしてそれは、以下に述べる、大乗における念の定義とにおいても同様です。

(ただし、先で示した説一切有部における念の定義についてはその極一部に過ぎず、ここで示した分別説部のそれに比すれば充分とまるで言えたものではありません。しかし、それは四念住についての別項において示しているため、敢えてここでは省いています。)