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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

念(smṛti, sati)とは何か

説一切有部における定義

念とは大地法の一つ

特に西北インドを中心として一時期はインド最大の勢力を誇っていたという説一切有部〈Sarvāstivāda〉(説因部)では、どのように念を理解していたか。

まず説一切有部の論蔵の典籍いわゆる六足論の一つ、尊者シャーリープトラによって説かれたものと伝えられる『阿毘達磨集異門足論あびだつましゅういもんそくろん』には、以下の様に簡単な定義がされています。

云何失念。答諸空念性虚念性失念性心外念性。是名失念。《中略》
云何念。答諸念隨念廣説乃至。心明記性是名念。
何が失念であろうか?答えるに、諸々の空念性・虚念性・失念性・心外念性、それらが失念である。《中略》
何が念であろうか?答えるに、諸々の念・随念であって、広説すれば乃至、心に明記する性を念という。

玄奘訳 舎利子『阿毘達磨集異門足論』巻十七 (T29, pp.436c-437a)

ここでは先に失念とは何かが云われ、後段において念とは何かが説かれています。これだけでは少々不明瞭ですが、ここでは要するに、「念とは心に明記すること」であるとされています。

さて、説一切有部の教学を、批判的にではあるものの、世親せしん〈Vasubandhu〉によって非常によくまとめられた概説書である『阿毘達磨倶舎論』の本頌では、まず以下のように念の位置付けが示されます。

これはインド・チベット・支那・日本など、大乗を学ぶ者でも必須の基礎学として学ばれてきた書でもあります。

受想思觸欲 慧念與作意 勝解三摩地 遍於一切心
受・想・思・觸・欲・慧・念・作意・勝解・三摩地は、すべての心に遍く伴って働くものである。

玄奘訳 世親『阿毘達磨倶舎論』巻四 分別根品 (T29, p.19a)

ここでいわれる「遍於一切心」とは、大地法(Mahābhūmika)と名づけられる心の作用の分類で、すべての心の生じるあらゆる場所・瞬間に遍く伴って起こる心の作用(心所しんじょ )のことです。すなわち、説一切有部では、念はどのような心であれ必ず伴に働いている心所であるとされています。

この偈頌に続き、それぞれの心所がどのようなものであるか、一つ一つ世親によって自註されている中に、念をごく簡単に定義する一節があります。

念謂於緣明記不忘。
念とは、認識対象を明記して忘れないことである。

玄奘訳 世親『阿毘達磨倶舎論』巻四 分別根品 (T29, p.19a)

幸いにも、『倶舎論』はその原典たる梵本すなわちサンスクリット本(Pradhan Ed.)が伝わっているため、該当する一節の梵文も示します。

smṛtirālambanāsampramoṣaḥ ||
念とは、認識対象〈ālambana〉を失わないことである。

Ācārya Vasubandhu. Abhidharmakośabhāṣya

そこでさらに、玄奘三蔵より先んじてこれを訳出されていた真諦三蔵の訳文はどうなっているか。

念謂不忘所縁境
念とは、認識対象を忘れないことである。

真諦訳 世親『阿毘達磨倶舍釋論』卷三 分別根品(T29, p.178b)

このようにしてみると、玄奘三蔵の訳よりもむしろ真諦三蔵の訳が梵本に合致しています。玄奘三蔵の訳文には、原文には見られない「明記」の語があるためです。

ここで少々本論からずれてしまいますが、玄奘訳『倶舎論』は、現在伝わっているPradhan版の梵本と比した時、しばしば語句の出入があることが知られます。そのことから、玄奘三蔵が翻訳時にその語句を斟酌して挿入あるいは削除した可能性と、もしくはそもそもそれぞれの訳した原典の語句自体が若干異なっていた可能性があることが言われています。

また更に、説一切有部の教義を(主として経量部の立場から)批判的に概説した世親菩薩の『倶舎論』に激しく対抗し、その正統説を述べんとした衆賢しゅけん〈Samghabhadra〉によって著された『阿毘達磨順正理論』における念の定義を示す一節も、併せ示しておきます。

於境明記不忘失因。説名爲念。
認識対象を明記して忘れないことの因を、念と名づけるのである。

玄奘訳 衆賢『阿毘達磨順正理論』巻十 辯差別品第二(T29, p.384b)

訳者が同じく玄奘三蔵ということもありましょうが、念の定義については『倶舎論』とほとんど同様です。いずれにせよ「念とは、忘れないこと」と極簡略に示されていることで一貫しています。

ところで、この『倶舎論』には、唐の玄奘三蔵の弟子であった普光ふこうによって著されたすぐれた注釈書があります。『倶舎論記』です。普光によって著されたものであることから『光記』とも呼称されます。この書が支那で著されて以来、仏教伝来後の日本においても、ほとんど必ず『倶舎論』を学ぶ者すなわち大乗の学徒のほとんど全員が、この書を参照してきたというほどのものです。そしてその『光記』では、『倶舎論』において念を定義している一節にも、他の典籍を援用しつつ注釈を加えています。

支那以来日本でも、古来仏教の説く「念とは何か」がいかに仏教者に理解されてきたかを示すものとなりますので、その一節を以下に徴しましょう。

念謂於縁明記不忘者。念之作用於所縁境分明記持。能爲後時不忘失因。非謂但念過去境也。故正理云。於境明記。不忘失因説名爲念 又入阿毘達摩云。念謂令心於境明記。即是不忘已・正・當作諸事業義解云彼論從強説心。理實亦令心所
「念とは、認識対象を明記して忘れないことである〈念謂於縁明記不忘〉」(という『倶舎論』の一節)は、念の作用を示したものである。現在認識している対象を、分明に記して持すことである。それが後に「忘れないこと」の因となる。(「忘れないこと」といっても)ただ過去の認識対象を念ずる〈記憶する・思い起こす〉だけと言うのではない。その故に『順正理論』に説かれる、「認識対象を明記して忘れないことの因を、念と名づける〈於境明記不忘失因。説名爲念〉」と。また『入阿毘達磨論』に云われる、「念とは、心の対象を明記させるものである。すなわちそれは、すでに為したこと〈巳〉・まさしく為していること〈正〉・まさに為そうとしていること〈当〉という諸々の事業を行なうを忘れないという意味である〈念謂令心於境明記。即是不忘。已正當作謂事業義〉」を注釈するに、『入阿毘達磨論』では強ちに従いて「令心」と説くが、理実としては「令心所」である。

普光『倶舎論記』巻四 分別根品第二之ニ (T41, p.74b)

ではあらためて、「念とは忘れないこと」とは具体的にどの様なことか。それは、「(眼・耳・鼻・舌・身・意の)六根いずれかにて認識している対象を、失わないこと」です。そのような心の機能から展開した働きとして、あるいは別の表現として、現代日本語で云うところの「気を付ける」・「注意する」ことがあります。そしてそのような根本的な機能により、過去の出来事が記憶せられ、現在の事物・行動が認識し続けられ、未来にすべき、あるいは予定する行いを記憶することがある、ということでありましょう。

ところで、最初に示したように説一切有部では、念という心の働きを、大地法すなわち根本的な心の働きの一つとして分類し挙げています。しかしながら、そのような説一切有部の「念は大地法の一つである」とする見解に対し、世親はそれに自ら『倶舎論』で紹介しておきながらも、疑問を投げかけていました。いや、それを実に批判的に見ていたことが、『倶舎論』自体の記述から知られます。

では、菩薩は念の位置付けをどのように見ていたか。後述しますが、大乗に転向して後に著した書(『大乗百法明門論』等)の中で、念をして「別境」の範疇に入れ、それは心の質の善悪は問わぬもののある一定の条件に生じるものとされる心所の範疇ですが、有部のように「根本的な心の働きの一つ」とはしていなかったことが解ります。

この世親菩薩による念についての所見は、大乗における心と心所への理解へと引き継がれています。