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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

念(smṛti, sati)とは何か

念の語源

smṛtiとsati

画像:語根からみるsatiの原意

念の原語である[S].smṛti、および[P].satiの意味をその語根から示します。smṛti は、「憶える」・「思い出す」を意味する語根smṛ に、名詞語基を形成する接尾辞 -ti が付され成っている女性名詞です。

(以下、語根は√にて表す。パーリ語の場合は√sar。パーリ語の場合、√sar→【過去分詞】sata+【接尾辞】-ti⇒satiと、語根から直接でなく過去分詞の名詞化と見ることも可。)

その原意は、「憶えること」・「心に留めること」・「記憶」、あるいは「思い出すこと」・「想い起こすこと」。それが転じて「注意」・「気を付ける」の意となっています。

同根の現在動詞は、[S]smārati([P]sarati)ですが、その意はやはり「憶える」・「思い出す」。また、同根同義の名詞にはsmaraṇa(saraṇa)があって、やはり「記憶」・「注意」の意。派生した形容詞にはsmṛtimat(satimant)があって、「用心深い」・「注意深い(者)」の意です。

ここで念入りに、先ずは漢訳語として用いられてきた「念」という語が、上に示したサンスクリットあるいはパーリ語の原意に対し、果たして適切なものであるか、その意を充分に伝えるものであるかを確認します。そこで念という漢語の原義を知るため、これは一応ながら、紀元一世紀末の後漢に初めて漢字字典を編纂し、漢字一字一字の部首・旁の構成からその意味の解明を試みた、許慎の『 説文解字せつぶんかいじ』の当該項目を示します。

念常思也。

許慎『説文解字』

画像:金文における念の字形

許慎は念という文字について、ただ単に「常に思うこと」という意味を記すのみです。これではどうしようもありません。そこで更に、念の原字となる字形(右図)をも参照しつつ、何故そのような意味とさるのかを考えてみましょう。

念という文字は、言うまでもなく「今」と「心」という字から成っています。しかし、この「今」という字は時間を示したものではなく「含」に通じるものとされます。いや、実はそもそも「今」という字は、元来「ふくむ」・「おさえる」を意味していたのであり、それが後に「現在」を表す文字として転用されたものです。もともと心臓の象形であった「心」は今用いられている意味で文字通りの心、すなわち精神・意識です。

したがって、漢字のなりたちからいうと、念という字は「心の中に含む」という意を表し、そこから、念とは「憶えること」・「想い起こすこと」・「考えること」・「心に留めること」・「注意」の義とされます。

先に、smṛti(sati)には、「記憶」・「思い出すこと」・「想い起こすこと」・「考えること」と、「注意」・「気をつけること」等々の意味があることを確認しました。そして、それを「念」という漢語の解字とこの様に比較してみると、この訳として当てられた念という語は、その全てとはいかぬものの、そのどれか一つだけでなく、それらを含意し表する、全く適訳であることがわかります。

画像:念とsatiの相関

世間には「念とは、「今の心」のことである」だとか、「『今の心』を知るので念である」などという、もっともらしくそれっぽい、しかしながら根拠のまったくない通俗的解釈をふるう人があります。けれども、それはただ舌先三寸、世間の流行りに乗って人に受けそうなことを吹聴しているだけであって、全く的外れな空言に過ぎません。

もっとも、漢訳仏典の中で「念」との訳が用いられるのはsmṛtiに対してだけではありません。kṣaṇaクシャナという語もまた念と訳されています。kṣaṇaとは刹那せつなとも音写された言葉です。刹那という語は現在の日本においてもしばしば用いられており、その意を知っている人も多いでしょう。そう、その意とは、smṛtiのようにある心の働きを示すものでなく、アッという間もないほどの瞬間を意味する語です。

伝統説では、その極めて短い時間について、以下のように云われます。

何等名爲一刹那量。衆縁和合法得自體頃。或有動法行度一極微。對法諸師説。如壯士一疾彈指頃六十五刹那。如是名爲一刹那量。
一刹那〈kṣaṇa〉とは、どれほどの量〈時間〉であろうか。諸々の縁が和合して法〈事物〉の自体を得る間〈生起してから滅するまでの間〉である。あるいは、ある法〈事物〉が動いたとして、一つの極微〈paramāṇu. 物質の最小。それ以上、分割されないとされる原子〉(の幅の分、隣に)移る間である。対法〈abhidharma. 阿毘達磨〉の諸師は、「力強い男がすばやく弾指たんじする間に六十五刹那がある」と説く。これを名づけて一刹那の量であるという。

玄奘訳 世親『阿毘達磨倶舍論』巻十二 分別世品 (T29, p.62a)

画像:仏教における時間単位

以上のように、刹那とは「法が生じて滅するまでの時間」であるとされます。そして、その一刹那という時間がどれほどかを説明するのに、阿毘達磨の諸師の説として、力ある男子が弾指たんじする間、すなわち親指と人差指とでもって指を弾いて音が鳴る間が六十五刹那であるとしています。非常に抽象的な表現ですが、「一昼夜ちゅうやは三十須臾しゅゆ」とする伝統説から逆算していくと、一刹那は0.013333…秒、すなわち1/75秒となります。いずれにせよ、そのような瞬間的短時間に事物は生滅を繰り返している、とされます。そしてその時間の最小単位であるkṣaṇaクシャナ(刹那)が、「念」ともされるのです。

そのようなことから、漢訳仏典において「念」との語を見た時、たとえば「一念」・「念念」などとあったとき、ただちにこれをsmṛtiの訳であると捉えては大なる誤解が生じる可能性があります。この点、よくよく注意しておかなければなりません。

また、過去に支那や日本で撰述された仏教書などで用いられる「念」という語がどのような意味で用いられているか、例えば「思い」や「考え」というそれまでの漢語で普通に用いられてきた言葉であるのかなどにも、注意する必要があります。

南方における用例

古来、仏教が信仰され伝えられてきた国々には、satiという語をそのまま国語化し、日常的に使っている国があります。

たとえば南方のセイロンやビルマなどでは、年少の僧侶が粗相、例えば歩行中に足を躓かせたり、うっかり忘れ物などしたときなどには、上座や同法の僧侶が「チッチッチッ」と舌を鳴らすなどし、それはインド文化圏における得てして否定的驚きの一般的表現なのですが、「sati, sati」と言ったり「satiが無いからだ」と言ったりして、たしなめることがあります。それは「自分が行っていることを忘れない」、「うっかりしない」・「よく気をつける」・「注意せよ」という意味で用いられます。

サンスクリットやパーリ語と同じ、インドヨーロッパ語族インド語派に属するセイロンのシンハラ語、そしてまったく言語系統の異なったシナ・チベット語族チベット・ビルマ語派であるビルマ語にも、長年仏教が信仰されてきた影響により、これはインドから遠く離れた日本ですら同様のことが言えるのですが、多くのサンスクリットあるいはパーリ語の単語がそのままその語彙に採用されているのが見られるのです。

ビルマにおいてsatiは、 ビルマ語のローマ字綴りの一例はthatiで発音は「タティ」ですけれども、そのような単語の一つで、「気をつける」・「注意」という意味の単語として日常的に用いられています。例えば、交差点などの黄色信号は注意を意味することは万国共通ですが、鉄道や道路の黄色信号のところにまさに「タティ」と記されていることがあります。そしてまた同時に、satiはその原義通りの「憶える」という意味でも使われています。例えば、「憶える」・「覚えておく」はビルマ語でthati tha de(タティ ター デー)といいます。

(ビルマ語で「憶える」ということをまた他に、 hma deマー・デーとも云う。)

なお、セイロンではsatiはシンハラ語の語彙には直接は取り入れられていないものの、上述したように僧侶の間では日常的によく用いられています。なおパーリ語satiは、シンハラ語ではsihīyaシヒーヤと訳されており、その意味はやはり「記憶」と「気を付けること」の二通りとなっています。

(一応、パーリ語の語尾に-yaを付してシンハラ語化させた、satīyaサティーヤいう語もあって、同一の意味で用いられることが、あるにはあります。)