慶長壬寅の歳、居を梅尾の蘭若に徒す。雲尊二公と伴を結んで、春日住吉二神の前に好相を祈り、大乘三聚通受の法に依て自誓受戒す。
時に師の年二十七甲辰の春、南京の安養・龍德・戒藏の諸院に於て雲公と與に行事鈔を輪講す。佛涅槃の前四日より肇めて臘月二十日に至て講已に徹す。其の餘の律典、及び後二の戒學、精微を硏覈せずと云ふこと靡し。時に三大部、世に未だ曾て刊行せず。唯だ宋刻の古本有て名藍に秘在す。師、往いて借出して手自から謄寫して、以て儉閲に僃ふと云ふ。
梅尾の右に山有て槇尾と號す。峰巒環峙、泉石淸幽、尤も絶勝たり。曩て弘法大師の上足智泉法師權輿の地なり。建治年間に當て泉の自性上人、重て其の廢を𦥷す。後に復た燹而に燬れて金碧の區鞠めて椔翳の墟となる。其間に過る者、衋然として心を棲ましめざると云ふこと莫し。海僧正、師の弘律の志を感じて、乃ち其の故址に就て茅を葺て廬となし、師を延て焉に棲ましむ。施者、漸集して爲に佛殿・僧寮・淨厨等の宇を建て蔚として精藍と爲る。結界立法、一へに舊制に式る。四方學律の侶、風を慕て騈ひ臻る。僧正、復た衆多くして糧乏からんことを慮て、乃ち東照神君賜ふ所の腴田若干畝を割捨して、永く香積の資に充つ。僧正、亦た寺事を謝して入衆進具す。
時に南京に高珍と云ふ者有て篇聚の學に粹なり。師、之を招て遞に相ひ講演して來蒙を誘訓す。人皆謂ふ、嘉禎の風、再び斯時に振ふと。
丙午の歳、師年三十一、精神方さに壯んにして愈よ扶宗の志を勵ます。自ら思て曰く、吾已に通受自誓の願を遂ぐと雖も未だ別受相承の望を果たさず。是を缺典となす。仄かに聞く、大唐・三韓、佛法現住して名師碩匠代よ、人に乏しからず。吁、古人、法を求めて海を航り山に梯して艱辛を憚らず。吾れ何人ぞや。斯に敢て武を躡み芳を繼がざらんやと。是に於て高雄に登り、大師の像前に於て𢚈く百座の護摩法を修し、又た躳から伊勢・八旛・春日の三神祠に詣して入唐求法の願を告て、其の冥護を祈る。既にして雲・尊の二公に囑して衆の軌範を攝せしめ、孤錫翩然として直に海西に赴く。
慶長壬寅の歳〈慶長七年. 1602〉、居処を梅尾の蘭若〈[S]araṇyaの音写、阿蘭若の略。森林、閑静な地〉に移した。慧雲・友尊の二公と伴に結んで、春日・住吉の二神前にて好相を祈り、大乗三聚浄戒を通受の法によって自誓受戒した。
時に師の年二十七、甲辰〈慶長九年. 1604〉の春、南京の安養・龍徳・戒蔵の諸院において、慧雲公と『四分律刪繁補闕行事鈔』〈以下『行事鈔』〉を輪講した。仏涅槃の前四日より始めて臘月二十日に至ってその講了した。その他の律典および後二の戒学についても、精微を研覈〈研究〉しないということは無かった。当時、(律宗における最も重要な典籍である、南山大師道宣による『行事鈔』・『四分律戒本疏』・『四分律羯磨疏』の)三大部は(日本において)いまだかつて刊行されたことが無かった。ただ宋代の支那で出版されていた古本があって名藍〈有名寺院〉が秘蔵していたのみであった。そこで師は往ってこれを借り出し、手ずから謄写して(後に出版するべく)検閲に備えたということである。
梅尾の右には山があって槇尾という。峰巒環峙、泉石清幽として、もっとも絶勝〈地勢が非常に優れていること〉である。かつて弘法大師の上足智泉法師が権輿〈発端。開基〉した地である。建治年間〈1275-1278〉に泉州の自性上人〈我宝自性〉が改めて廃れていた地を復興した。その後、再び兵火によって消失し、かつての金碧の区〈絢爛な姿〉は成れ果てて椔翳〈枯死した草木〉の墟となった。ここを通り掛かる者で、(その荒れ果てた様を)悲しみ嘆き、心を傷めない者は無かった。そこで僧正は、師〈明忍〉の弘律の志に感動してその故址に茅葺きの庵を建て、師を招いてそこに住まわせた。そのために施す者も次第に集まり、(師らの)為に仏殿・僧寮・浄厨〈僧坊結界内に食料を貯蔵する厨房を置くことは出来ないため、律に違反しないようその一区画のみ結界から除外した僧のための厨房〉などの堂宇を建て、ついに盛んとなって精舎伽藍となる。(これを律院僧坊とするに際しての)結界の法は、偏に旧制〈律〉に則るものであった。全国の律を学ばんとする者らは、その風儀を慕って参集した。僧正はそこで、衆僧が多くなり食糧が乏くなることを慮り、東照神君〈徳川家康〉から賜われた腴田〈肥沃な田地。家康は神護寺の寺領千五百町を変換し、さらに二百五十石を付与した〉若干畝を(槇尾山に)割譲し、永く香積の資にあてたのである。そして、僧正もまた(神護寺の)寺務を謝絶し入衆進具〈具足戒を受けて比丘となること〉したのであった。
時に南京(西大寺)には高珍という者があって篇聚〈五篇七聚の略。律の構成と内容の意〉の律学に精通していた。師は彼を(槇尾山に)招き、相互に講演して(新たに槇尾山に律を学んで受けようと)来たった新学の徒らを訓誘した。人々は口々に、
「(興正菩薩叡尊らが律を復興した)嘉禎年間の風が、再びこの時代に吹いた!」
と噂したものである。
丙午の歳〈慶長十一年. 1606〉、師の年三十一、精神まさに壮健であっていよいよ扶宗〈仏教復興〉の志を励ましていた。そこで自ら考えて、
「私は既に通受自誓受の願いを遂げ(比丘となり)はしたけれども、いまだ(本来の受具足戒の法である)別受を相承する望みを果たしてはいない。これは実に缺典〈欠点〉である。仄聞するに、大唐〈支那〉・三韓〈朝鮮〉では仏法は未だ現在も伝わり行われており、名師・碩匠も代々あって(仏法を真に教授する)人が乏しいことなどないという。ああ、古人は法を求めて海を渡り、山々に登って艱難辛苦するを憚りなどしなかった。私など(命を惜しむほどの)何者でもありはしない。そうであれば、(渡唐した古人に倣って)敢えてその跡を踏み、その行業を継ごうではないか」
と言ったのであった。そこで高雄山に登り、弘法大師の像前において恭しく百座の護摩法を修し、また自ら伊勢・八幡・春日の三神祠〈高雄山の鎮守で、本社ではないか?〉に詣でて入唐求法の願いを告げ、その冥護を祈った。そうして慧雲・友尊の二公に後を託して槇尾山衆徒の軌範師とし、
孤錫翩然として直に海西に赴いたのである。