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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

月潭『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』

訓読

道行旅㝛と雖も、而も三衣一盋暫くも身を離れず。息慈道依、複を挾んで之に從ふ。初め平戸津に抵り、次に對馬州に到る。奈せん國禁森嚴にして渡唐を許さず。然ども師の心息まずして彼の中に畱寓す。遂に宇を豐滿岳の茅壇の上に結んで、翛然として焉に居す。日常、緣に隨て㪅に佗の營み無し。饑る寸は則ち盂を擎て食を乞ひ、寒き寸は則ち破れたるを補て形を蔽ふ。淸苦自ら守て惟だ道、是れ務む。里俗、風を欽んで以て眞の苾蒭僧と爲す。

一日、書を雲公に寄て曰く、余、此地に來てより幸に恙無きを獲たり。但だ異域の佛法、未だ親く探ること能はず。故に畱滯して以て時緣を待つ。倘し商舶の駕すべき有ば、縱ひ震旦は往くべからずとも、三韓に到ることを得るも亦た大幸ならん。故山の衆務、全く公の維持を賴む。只だ能く衆を勵まして道を修め、法を久住せしめば、則ち余遐陬に在ても亦た何の慮る所か有んや。且く此間、經典の借るべき無し。後便に煩しく爲に事鈔幷に記等の數部を寄せ來れ。是れ㴱く望む所なりと。

雲・尊の二公、師の馬島に僑寓して數禩を緜歴するを念ひ、請して山に囘しめんと擬して、書を馳せて訂すに三年の約を以てす。師の答書に曰く、前に云ふ三年の約は乃ち是れ一期の施設なり。余が素願を識んと要せば則ち三の字の下に十を加へて方に始て可ならんと。竟に旋らせず。後に復た寄せて云く、邇ころ聞く、異域の律法、大に衰へて欽慕するに足らずと。然ども余が歸期、未だ定らず。只だ宜く一衆和合して夏滿の日を以て法に依て別受を行ふべしと云云。每便寄る所の手札多く和字を用ゆ。辭意諄諄として新學を誡勖す。未だ始より一語も佗事に及ばず。

馬島は西北渤溟の中に在て寒冱苦甚、因て疾を感ず。久ふして瘳へず。庚戌の夏に至て病已に革かなり。杪夏五日、遽かに觚翰を索めて海僧正に遺る書を作て曰く、經中に所謂一日一夜出家受戒の功德は無量なりと。況や某、悠悠たる塵海を出得して釋門に投入すること已に十餘年をや。皆是れ尊師、訓導教化の力なり。洪恩に報んと欲して常に自ら黽勉して寤寐にも未だ敢て廢㤀せず。奈何せん、愚願未だ遂げざるに報命遽かに盡く。設使此の生は虛しく過すとも、生生の大願曷ぞ竆已有らんやと云云。

初七日の昧爽、歿期稍瀕きことを知て、手に小磬槌を執り坐席を敲て驟ば佛號を唱へ、安養に生ぜんことを願ふ。忽ち異香の室に滿て馚馥人に襲くこと有り。復た紫雲の𥁋に似る者の所居の屋上に覆ふこと有り。人皆見て其の往生の明驗を識る。師、復た筆を呼んで書して曰く、我が此の病苦は須臾の事なり。彼の淸凉の雲中に諸の聖衆と相交らば、則ち豈に大なる快樂にあらずや。八功德水・七寚蓮池、是れ我が歸る所なりと。既に書し訖て加趺冥目して泊然として長逝す。

溽暑に當ると雖も容色變ぜず。道依、治命に遵て荼毘の法を用て從事す。靈骨を收め道具を擔て棲棲として京に旋る。槇阜の一衆、訃を聞て哀慟して所親を𠷔するが如し。僧正も亦た書に接して泫然として涙下す。和歌を綴て之を悼む。道依、衆と同じく某月日を擇で本山に就て塔を建つ。

現代語訳

その道程は旅宿ではあったが、しかし三衣一鉢さんねいっぱつを片時も身から離すことはなかった。息慈そくじ〈沙弥〉道依どうえ〈道依明全。この時、道依は浄人として随行したのであり道依は沙弥で無かった〉は、複を挾んで師に随行した。まず初めに平戸津ひらどのつに至り、そして次に対馬州に到った。(対馬から唐に渡ろうとしたけれども)いかんせん国禁森厳こっきんしんげんであって渡唐は許されなかった。しかしながら、師はその志を捨てること無く、対馬に滞留し続けた。そして庵を豊満岳の茅壇かやだんの上に結び、翛然しゅくぜんとしてここに居した。その日常は、ただ縁に従うのみで更に他の営みなど無かった。餓えた時は鉢をもって食を乞い、寒い時は破れた布を補って体を覆うのみである。清苦〈清貧〉たることを自ら守り、ただ仏道にのみ努め励んだ。土地の人々は、(師の)風儀を喜んで「真の苾蒭びっす〈比丘僧〉である」と言った。

ある日、書を慧雲公に寄せて云うに、 「私はこの地に来てから幸いにも恙無く過ごすことが出来ています。ただ異域の仏法について、いまだ親しく探ることが出来ていません。そこでここに滞留して時縁を待っています。もし商舶に乗船できるようなことがあれば、たとい震旦しんたん〈支那〉には(直接)行くことが出来なくとも、三韓に到ることが出来るならばまた大いなる幸いでありましょう。槇尾山の衆務は全く公の維持に頼ります。ただよく衆徒を励まして道を修め、仏法を久住させたならば、私が遐陬かすう〈僻地〉にあったとしても何も心配することはありません。(ところで)いまのところこの地には、経典を借り得るところがありません。後便にて、手を煩わせますが、私のために『行事鈔』ならびに『行事鈔資持記ぎょうじしょうしじき〈大智律師元照による『行事鈔』の注釈書〉等の数部を送ってくれるないでしょうか。これは私が深く望んでいることです」 とのことであった。

慧雲・友尊の二公は、師が対馬島に僑寓きょうぐう〈仮住まい〉して数年にわたるであろうことを慮り、請うて槇尾山に帰らせようと思案して書を馳せ、定めて三年の期限とすることを取り決めた。すると師の答書には、「前の便りで言われた『三年の期限』とは一期の施設せせつ〈仮に云うこと。概念〉でありましょう。私の素願を知ろうと要せば則ち三の字の下に十を加えて初めて可でありましょう」とあって、遂に帰らせることが出来なかった。すると後にまた書を寄せ、そこには「近頃聞くに『異域の律法、大いに衰えて欽慕するに足るものではない』とのことでした。しかしながら、私がそちらに帰る時期はいまだ定まりません。ただ(槇尾山の衆徒は)よろしく一衆和合し、夏満げまんの日〈自恣。安居を終える最後の日。ただし、ここでの意は別受の執行が可能となる「具足戒を受けて後、十夏の自恣を迎えた時」の意〉に法に従って別受を行えばよいでしょう云云」とあった。毎便、(師が)寄せてくる手紙の多くは和字〈かな〉が用いられていた。その内容は諄諄じゅんじゅんとして新学〈新たに律を受け学ぶ者〉を教誡するものであった。(対馬に渡ってから)その始めより一語として他事に及ぶものは無かった。

対馬島は西北の渤溟ぼつめい〈大海〉の中に位置して非常に寒く、その苦しみは甚だしいものであったが、それに因って病の兆候があり、しばらくしても一向に治らなかった。庚戌こうじゅつ〈慶長十五年. 1610〉の夏となって、その病は頓に悪化した。杪夏びょうか〈晩夏。六月〉五日、にわかに紙筆を手繰り寄せて晋海僧正に遺す書を作って、「経典の中に『一日一夜であろうとも出家受戒の功徳は無量である』といわれます。ましてや私の如き、悠悠たる塵海じんかい〈無限なる苦海。俗世界〉を脱して釈門〈仏門〉に入って既に十余年の者ならばなおさらであります。それも全て尊師〈晋海僧正〉による訓導教化の賜物です。その洪恩こうおん〈鴻恩〉に報いようと願って常に自ら黽勉びんべん〈努め励むこと〉し、寤寐ごび〈寝ても覚めても〉にも決して忘れたことがありません。(しかしながら)どうしようもないことに、その愚願をいまだ遂げることが出来ぬままに、私の寿命はにわかに盡きることとなりました。たといこの生は虚しく過ぎたとしても、生生世世の大願がどうして盡きることがありましょうか云云」と記したのである。

初七日〈六月七日〉、死期がもはや差し迫っていることを知って、手に小さな磬槌けいついを執り坐席を叩きながら、しばしば(「南無阿弥陀仏」と)仏号を唱え、安養あんにょう〈極楽浄土〉に生まれ変わることを願った。すると忽ち異香が部屋にたちこめ、その芳しい香りが人にまで染み付いた。また紫雲が傘のようになったのが(師の)庵の屋根の上を覆ったのである。人は皆それを見て、師が(極楽浄土に)往生する明らかな兆候であることを知った。

師は再び筆をたぐり寄せ、「我がこの病苦など須臾しゅゆ〈一瞬〉の事に過ぎない。あの清涼なる雲の中にて諸の聖衆と相い交ったならば、それはどれほど大いなる快楽であろうか。八功徳水・七宝蓮池、それこそ我が行き着く所である」と書き終わると結跏趺坐して冥目し、泊然はくぜん〈恬淡たる様子〉として長逝ちょうせい〈逝去〉した。

非常に蒸し暑い時期であったけれども、(その遺骸の)容色は腐敗変色しなかった。道依は遺言に従い、荼毘だびの法をもって葬送した。そしてその霊骨を収めて(師の遺された)道具を背負い、すぐさま京に帰った。槇尾山の一衆は、その訃報を聞いて哀慟すること、あたかも親を亡くしたかのようであった。僧正もまた(師の僧正に宛てた)書に接して泫然〈さめざめと泣くこと〉として涙をこぼした。そこで和歌を綴ってその死を悼んだのである。道依は(出家して)槇尾山の衆徒と同じくし、某月に日を択んで本山に墓塔を建てた。