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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

止観について

止観

止と観

止観しかんとは、「」と「かん」との複合語であり、仏教の修習しゅじゅうの何たるかを総じて端的に示した言葉です。

止は、寂静じゃくじょう・平静を意味する[S]śamathaシャマタあるいは[P]samathaサマタの漢訳で、しばしば奢摩他しゃまたとの音訳(音写)も用いられます。止とはその字が示す如く、波打ち揺らめく心身がいで止まった状態です。そのように寂静なる心の状態はまた[S/P]samādhiサマーディといいますが、その音写が三昧さんまい三摩地さんまじ、あるいは漢訳されてじょう等持とうじと言われます。

三昧(samādhi)という言葉は現代日本の一般社会でも比較的なじみのあるもので、「一つになったもの」という意味から「調和」・「統合」・「専心」という意味で用いられ、「勉強三昧」であるとか「釣り三昧」などのように用いられます。要は(何事か一つの対象に)深く集中した心の状態を言うものです。

止はまた、そのような状態に至るため、何らか特定の対象に意識を留めて集中していく修習、いわゆる瞑想法を分類して用いる語でもあります。止の修習に熟達して集中した者の精神は、確固として不動な、鏡のように澄み渡ったものとなり、それを深める過程において尋常ならざる恍惚感・多幸感、あるいは強い光を(「見る」のでなく)体験することになります。

ある程度深い三昧に入ったならばその現象は起こるべくして起こる、いわば精神の一反応に過ぎないのですが、これを不可思議・超常なる体験だと取り違えする者が比較的多くあります。あるいは感覚が普段より研ぎ澄まされ、微細みさいな物事の変化によく気づくようになったことで、自身が何か尊く、偉大なものになったかのような錯覚を得る者もあります。しかしそれは古来、魔境まきょうなどといわれた体験で、前もって注意しなければなりません。

観は、詳しく見ること、観察を意味する[S]vipaśyanāヴィパシュヤナーvipaśyanaヴィパシュヤナ)あるいは[P]vipassanāヴィパッサナーの漢訳で、毘鉢舎那との音写も用いられます。現代は特に英語圏にてパーリ語のそれに基づく瞑想が1960-70年代頃から流行したことにより、世界的にヴィパッサナーという称が定着し広く一般にも用いられるようになっています。それはまさに漢訳の示しているように、事物を「る」修習です。

ただし、ここで注意しなければならないのは、観(ヴィパッサナー)とはただ単純に何でも見ること、客観的に観察することをいうものではないことです。ところが、今巷の一部で取り沙汰され、時にマインドフルネスと言い換えられ行われているヴィパッサナー瞑想なるものは、その本来とは違った意味、すなわち「単純に観察する」意味合いで用いられています。

例えば、今よく行われているのは、呼吸にまつわる身体の動きや刺激に着目したものです。呼吸に伴い動く腹部に意識を向けて「ふくらんでいる」・「へこんでいる」とその動きを見たり、鼻腔周辺に意識を向けて「息を吸っている」・「息を吐いている」・「長い呼吸をしている」・「短い呼吸をしている」とその刺激を見たりすることです。またはより単純に、いわゆる瞑想の姿勢をとっている自分がいかなる刺激を感じているか、普段気づかないその身体の様々な感覚を対象として見させ、気づかせるというものもあります。

そこでそれらの修習を以てヴィパッサナー瞑想であると言い、あるいはマインドフルネスだとして行わせる者が非常に多くあるのです。しかしながら、実はそれらはまったく止の修習しゅじゅうに属するものであって観ではありません。それをヴィパッサナーだと人に教える者は、その行いの内容として何かを客観的に見る、観察する、と表現できるものであることからごく短絡的に、これはヴィパッサナーだと思ってそう言っているのでしょう。けれども、先に述べたように、ヴィパッサナーとは単純に客観的に何事かを観察することではない。

自ら知覚する対象が、その本質として無常であり、苦であり、空にして無我(非我)であるのを洞察する、その本質を智によって達観することを、特に観(ヴィパッサナー)といいます。それは、仏典にそう書いてあるから、あるいは師や友からそう聞いているからそのように見なければならないと、最初から決め込んで事物を見るというのでもありません。自ら実の体験として、事物がその本質として無常・苦・無我・空であることを、現に観ることです。

解脱の門

仏陀の法門には三学さんがくと言い、戒学かいがく定学じょうがく慧学えがくを残らず踏まえ修めることによってこそ、その目的が果たされます。そのうち定学と慧学とは、言うなれば止であり観です。

Yadā dvayesu dhammesu, pāragū hoti brāhmaṇo;
Athassa sabbe saṃyogā, atthaṃ gacchanti jānato.
婆羅門ばらもん〈brāhmaṇa〉が二つの法〈止観〉について完成したならば、彼は「知る者〈jānanta〉」でありそのすべての束縛は消え失せる。

Dhammapada, Brāhmaṇavaggo 384 (KN2-26)

ここで仏陀は二つの法と云われるのみであって止観とは説かれていません。しかし、注釈書(Dhammapada-aṭṭhakathāダンマパダ・アッタカター)にてこの偈について、「dve dhammāti kho, sāriputta, samathavipassanā vuccantī(サーリプッタよ、二つの法とは止と観のことを言う)」と説明されています。

では止観とは何か。仏陀ご自身はそれについてどのように説かれていたか。それはまた別の経においてより詳しく、以下のように説かれています。

Dve me, bhikkhave, dhammā vijjābhāgiyā. Katame dve? Samatho ca vipassanā ca. Samatho, bhikkhave, bhāvito kamattha manubhoti? Cittaṃ bhāvīyati. Cittaṃ bhāvitaṃ kamatthamanubhoti? Yo rāgo so pahīyati. Vipassanā, bhikkhave, bhāvitā kamatthamanubhoti? Paññā bhāvīyati. Paññā bhāvitā kamatthamanubhoti? Yā avijjā sā pahīyati. Rāgupakkiliṭṭhaṃ vā, bhikkhave, cittaṃ na vimuccati, avijjupakkiliṭṭhā vā paññā bhāvīyati. Iti kho, bhikkhave, rāgavirāgā cetovimutti, avijjāvirāgā paññāvimuttī'ti.
比丘びくたちよ、これら二つの法は智〈vijjā〉に連なるものである。何が二であろうか?止〈samatha〉と観〈vipassanā〉とである。比丘たちよ、何が止をしゅすることの果報であろうか?その心が陶冶とうやされる〈bhāvīyati〉。心が陶冶されたことの果報はなんであろうか?いかなるものであれ貪欲とんよく〈rāga〉が除滅される〈pahīyati〉。比丘たちよ、何が観を修することの果報であろうか?智慧〈paññā〉が陶冶される。智慧が陶冶されたことの果報はなんであろうか?いかなるものであれ無明むみょう〈avijjā〉が除滅される。比丘たちよ、貪欲に汚れた心では解脱することはない。無明にくらまされては智慧が陶冶されることもない。まさにこの故に、比丘たちよ、貪欲のないことが心解脱しんげだつ〈cetovimutti〉であり、無明のないことが慧解脱えげだつ〈paññāvimutti〉である。

Dukanipātapāḷi, Paṭhamapaṇṇāsaka, Bālavagga (AN 2.22-32)

このように経にあるからとは言え、実際のところ止と観とは具体的にどう修めれば良いかはわからない、というのが率直な感想であることでしょう。したがって、その他諸々の経や論書を学び、その細かな実際、具体的な術を自ら問わなければなりません。ただ、そうするに際し、上掲の経説を含め、止観の構造というかその大綱を知っておくことは非常に重要で有益です。

我々が普段生活している時、その心は種々の刺激、情報に翻弄ほんろうされ、また自らの諸々の欲望に騒ぎ立っており、それはあたかも人々が常にかき乱して波打ち濁った池のようなものです。けれども、実はその池には極小さくも極めて貴重な宝が底にあり、しかも絶え間なく動いてどこにあるかわかりません。そこでその宝を得たいと人が望んだ時、何をすべきか。それは先ず、人々がその水面をかき乱すことを止めさせ、ジッと息を潜めてその巻き上がった濁りが沈殿して水が澄むのを待つことです。そうして水が澄み渡ったならば、静かにその底をまた見つめ宝の所在を探り、ついにそれを見出みいだしてすくい上げる。止観とはそのようなものです。

止観とは

Śamatha

Vipaśyanā
対象 世俗諦せぞくたい
仮設けせつ施設せせつ
勝義諦しょうぎたい
(無常・苦・空・無我)
果報 三昧さんまい(三摩地)の獲得 般若はんにゃ(智慧)の獲得
貪欲とんよくの除滅 無明むみょうの除滅
境地 心解脱しんげだつ 慧解脱えげだつ

まず自らの身心の諸々の業を沈め澄まし、そうして鎮まった心でもって、自らの身心ばかりでなく諸々の事物・事象を観察し、その本質を見通す。それが止観です。

止観とはそのような仏教の核心的修習であることから、印度以来、声聞乗はもとより大乗の瑜伽行唯識派や中観派でも様々な理解・位置付けがなされてきました。それは支那においても同様で、諸宗諸派様々に止観についての所見が語られています。そんな中でも特に著名であるのは、天台宗の智顗ちぎによって打ち立てられた諸々の教学であり、そのため止観とは特に天台宗における修行法である、としばしば世間で誤認されています。

そんな支那において十二世紀、南宋の学僧法雲ほううんによって編纂された梵漢辞典『翻訳名義集ほんやくみょうぎしゅう』では、止観について以下のように説明しています。

奢摩他。此云止。涅槃經云。奢摩他名爲能 滅。能滅一切。煩惱結故。又名能調。能調諸根 惡不善法故。又曰寂靜。能令三業成寂靜故。 又曰遠離。能令衆生離五欲故。又曰能清。能清貪欲瞋恚愚癡三濁法故。以是義故。故名定相
毘婆舍那。此云觀。涅槃云。毘婆舍那名爲正見。亦名了見。名爲能見。名曰遍見。名次第見。名別相見。是名爲慧
憂畢叉。此云止觀平等。涅槃云。憂畢叉者。名曰平等。亦名不諍。又名不觀。亦名不行。是名爲捨。止觀云。若用兩字共通三徳者。止即是斷。斷通解脱。觀即是智。智通般若。止觀等者。名爲捨相。捨相即是通於法身。起信論云。所言止者。謂止一切境界相。隨順奢摩他觀 義故所言觀者。謂分別因縁生滅相。隨順毘鉢舍那觀義故。永嘉集云。以奢摩他故。雖寂而常照。以毘婆舍那故。雖照而常寂。以優畢叉故非照而非寂。照而常寂故。説俗而即眞。寂而常照故説眞。而即俗。非寂而非照故。杜口於毘耶。長者子六過出家經佛告僧伽羅摩比丘。汝當行二法。止觀是也。僧伽摩羅白佛言。甚解世尊。佛言我取要而説。云何言甚解耶。僧伽摩羅言。止者諸結永盡。觀者觀一切法。佛言善哉
奢摩他しゃまた〈śamatha〉
ここ〈支那〉ではと云う。『涅槃経ねはんぎょう〈曇無讖訳『大般涅槃経』〉に、「奢摩他しゃまたを名づけて能滅のうめつという。よく一切の煩惱結を滅するためである。また能調のうちょうと名づける。よく諸根〈諸感覚器官〉の悪・不善法を調伏ちょうぶくするためである。また寂静じゃくじょうという。よく三業さんごう〈身体・言葉・心の行い〉をして寂静とさせるためである。また遠離おんりという。よく衆生しゅじょう〈生命あるもの〉をして五欲ごよく〈色欲・声欲・香欲・味欲・触欲〉を離れさせるためである。また能清のうしょうという。よく貪欲とんよく瞋恚しんに愚癡ぐち三濁さんじょくの法〈三毒〉を清ませるためである。これらの意義により、(奢摩他とは)定の相と名づける」とある。
毘婆舍那びばしゃな〈vipaśyanā〉
ここではかんと云う。『涅槃経』〈曇無讖訳『大般涅槃経』〉に、「毘婆舍那びばしゃなを名づけて正見しょうけんという。または了見りょうけんと名づける。名づけて能見のうけんとする。名づけて遍見へんけんともいう。次第見しだいけんとも名づける。別相見べっそうけんと名づける。是を名づけて慧と爲す」とある。
憂畢叉うひっしゃupekṣā
ここでは止観平等しかんびょうどうと云う。『涅槃経』〈曇無讖訳『大般涅槃経』〉に、「憂畢叉うひっしゃを名づけて平等びょうどうという。または不諍ふじょうと名づける。または不観ふかんとも名づける。または不行ふぎょうとも名づける。是れを名づけてしゃとする」とある。『止観しかん〈智顗『摩訶止観』〉に、「もし両字を用て共に三徳に通じたならば、止は即ち断であり、断は解脱げだつに通じる。観は即ち智であり、智は般若はんにゃに通じる。止観等を名づけて捨相しゃそうとする。捨相は即ち法身に通じる」とある。『起信論きしんろん〈馬鳴『大乗起信論』〉には、「言うところの止とは、謂わく一切の境界相きょうがいそうの止むものである。奢摩他観に隨順する義の故に。言うところの観とは、謂わく因縁生滅いんねんしょうめつの相を分別するものである。毘鉢舍那観に隨順する義の故に」とある。『永嘉集えいかしゅう〈玄覚『禅宗永嘉集』〉には、「奢摩他を以ての故に、寂であっても常照である。毘婆舍那を以ての故に、照であっても常寂である。優畢叉を以ての故に、照にも非ず寂にも非ず。照にして常寂の故に、俗と説いて即ち真である。寂にして常照の故に、真と説いて即ち俗である。寂に非ずして照に非ざるが故に、口を毘耶びや〈方丈〉じる」とある。『長者子六過出家経ちょうじゃしろくかしゅっけきょう』には、「仏が僧伽羅摩そうぎゃらま比丘に告げられた。「汝、まさに二法を行ぜよ。止観である」と。僧伽摩羅は仏に白しあげた、「よく解りました、世尊よ」と。そこで仏は言われた、「私はただ要を取って説いたのみである。どうしてよく解ったと言うのか」と。すると僧伽摩羅は言う、「止とは諸々の結を永くつくすこと、観とは一切の法を観ることです」。仏は言われた、「善いかな」と」とある。

法雲 『翻訳名義集』巻四 止観三義篇第四十七(T54, p.1118b-c)

支那においてはただ「止観」というだけでなく、「止・観・捨」との三法をもってしばしば理解されてきました。これは大乗の『大般涅槃経』の所説に基づいた理解であったものです。もっとも、「捨」という止観以外の何か別の修習があることを言ったものではありません。それは止と観とのいずれにも偏らず、その双方を修めるべきことのいわば強調で、いわゆる止観双修しかんそうしゅ止観双運しかんそううんに同じです。

『翻訳名義集』の一節で引かれる大乗の典籍からの引用は、一般には「何いってんだこれ?」と感想されるであろう文言に溢れているといえるでしょうか。特に禅に属する典籍である『永嘉集えいかしゅう』の一節など、禅者らしい表現にあふれており、一般には全く意味不明と思われるかもしれない。しかし、後代になるにつれ、そして特に文辞ぶんじを過度に装飾そうしょくすることを文化的性癖とした支那においてはなおさら、このような仰々ぎょうぎょうしく持って回ったような表現がされています。けれども実際のところ、大したことは言っていないことが多くあり、その過度の文飾に振り回されないようにする注意、慣れが必要です。

しかし、前述した止観とはなにかの基本的な点を確かに踏まえておけば、それら典籍でいわんとしてることの大枠を外すこともなく有益な理解、修習の助けになる言葉を得ることも出来るでしょう。

如実知見

仏教とは、ただその経論を読み学んだならば理解出来る、というようなものでは決してありません。いくらサンスクリットやパーリ語、チベット語、漢語などで書かれた幾多の経論を読み込み、その文言を記憶し、様々な知識を頭の中に集積したとしても、それだけであるならば仏教を理解することは決して出来ないでしょう。

たとえば現在、一昔前からしても更に恐ろしく便利になったもので、昨今の技術革新やそれに伴う情報公開により、漢語・チベット語・パーリ語の三蔵すべてとサンスクリット語の経論の一部、さらにそれらの注釈書などの数々の仏典を、至極簡単にそして安価に、PCなどのハードディスクに記憶することが出来るようになっています。場合によってはここのPCに記憶するまでもなく、インターネット上でも瞬時に検索・参照、比較することが出来るようになったものもあります。

しかしながら、それらPCやインターネット上にある膨大な情報が仏陀や菩薩・阿羅漢などである、などということはありません。それらが特別尊い、神聖であるということもない。いや、いやいや、その昔は特に一切経を収蔵するための建造物としての経蔵を造ってそれを神聖視してきました。そして今も経本は一般的な書よりもさらに粗末にしてはならない教えられます。それを思えば、経論を記憶したハードディスクもまたそうしたとしても不思議では全くない。そのようにするのは「知」というもの、そしてそれを積み上げてきた「時」と「先人」に対する深い敬意の表出でもあるでしょう。

けれども、経論をよく読むことが出来る者、経論をよく整理整頓し分類する人が聖者であるなどということはありません。完全に記憶している、多くを知っている、そしてそれらを上手く操作できたとして、それで悟れるなどということはありません。。

人は、一般に、博識で口の達者な人間を好むものですが、それは確かに一つの徳であり、そのようなことも社会的には必要で極めて有益なものです。しかし、それを個としてみた時、ただ博識であることは悟りを得ることに関係は無く、無益なものです。時としてこれを良しとする思考が、障碍しょうげとすらなることがあるでしょう。

知の真の価値を知るには、その知の開示する内容を確かに、自らが試行錯誤して理解しなければならない。

修行者は、止と観の修習を通してこそ、具体的には止によって定を得て煩悩の魔を伏し、観によって智慧をて無明の闇を破し得ます。人は止観によってこそ、仏陀が説かれた「すべては無常であり、苦であり、空であって無我である」ということが確かに真理であることを、ただ言葉の上の情報としてでなく体験として、みずから真に知るのです。

もっとも、止観とは戒学という土壌の上にのみ為し得るものであり、日常の暮らしにおいてそれぞれ自身の立場・分に応じた学処を守り、その身に戒を備えていかなければなりません。そこで行者は、「あるがまま」や「諸法実相」などと同じように、しばしば浪漫的な、まったく意味をはき違えて用いられているこの言葉の意味する真を初めて「見る」でしょう。

止観を実際に修めるのに一番の近道は、善き師いわゆる善知識に出会い、その膝下に入って十分な時間をこれに当てることです。

ならば「善き師のもとに付き、その勝れた人格に感化され、また優れた教導に依って自らを少しでも高めていきたい」、誰もがそう望むことでしょう。しかしながら、それは現実的には非常に難しいことです。まず在家出家関係なく、善き師にめぐり逢うということ自体が想像以上に難しいことです。いや、難しいなどというより、この末世にあって善き師などというものは望むべくもない。

仮にその優れた良き師なるものが存在しているとして、果たしてこの自分に、幸運にも宿善によって人間に生まれ仏教に遇う幸には浴してはいるものの、そのような自ら理想とするような優れた師に値遇し、その膝下に身を置きえるほどの器量があるのか。そう自問したとき、さてその答えがいかなるかを考えることも必要です。

また、解脱を求めて止観を修習する者には、それに適切な環境と相応に長い時が必要です。その前提として、それまで自身が愛好していた世間的な物や習慣などと、少なくともその相当期間離れる必要もあります。求めるモノにふさわしいだけの犠牲、つまり相当の時間・労力を費やさなければ、得られるモノはありません。

最初にたった一週間でも十日でも良いので、隔絶された静かな環境で修禅に集中し得る生活を送り得たならば、その後の進み具合は随分違ってきます。その十日ほどであっても、実際に止観を修めたことによる自らの身心の変化は劇的なものであることを実体験できるためです。

しかしながら在家者にとって、時間を瞑想などという物質的には極めて非生産の活動に費やすと言うことは、経済的にも相当な負担となり、ゆえに困難なことである場合が多いにちがいありません。もちろん、止観を修めるのに長時間をその生活において当てることが出来なくとも、一日一時間であっても、これを行うことに意味はあります。ですが、それで足ることは「決してない」ことは、知っておかなければならない。

現代の人には、最小の努力と時間によって、相当の結果を性急に求める者が多いようです。いや、鎌倉初頭の明恵みょうえ上人は、それとまったく同様のことを言って嘆いておられますから、現代の人であるからそう思う、などということでもないのでしょう。けれどもそう考える程度が、比較すれば非常に高くなっているに違いない。

人によって境遇や能力はまったく様々です。ある優れた能力を持った人の中には、たちまちに相当の果を得る者もあるようですが、ほとんどの人はまったくそうではありません。したがって、何か技術の習得にも同じ事が言えると思いますが、「どの程度やれば、どの程度進む」などと言えず、こればかりは人によって相当違い、誰かと比較してどうということは言えません。

止観を修めて得られるであろう結果について、どれくらいでどうのなどとは決して言えはしませんが、まずは焦らず、自身の能力と境遇に応じて、それぞれ懸命に励めば良いことです。実はそうこうしながらアレコレ失敗すること、時に挫折し自身に失望することは、先へ進む大きなかてとなります。

火をるように炎を得られまで決して諦めず、伝統に則してそれを自ら咀嚼しながら創意工夫し続けたならば、それは決して楽なことではありませんが、得られるものは実に大きく、他では得難いものとなるに違いありません。、

Ñāṇajoti 敬識