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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

慈雲 『数息観大要』

『数息観大要』 解題

安般念のすすめ

本稿にて紹介する『数息観大要』は、慈雲尊者の齢八十三のおり、西京は阿弥陀寺において衆人のために安那般那念(以下、安般念)、いわゆるānāpāna sati(安那般那念・持息念)を説いた際、それを是非とも文章にとの弟子からの懇請により、慈雲自ら著したという小篇です。実際、慈雲はこの小著にてその求めの如く、きわめて簡潔に記しています。

『慈雲尊者全集』の編者、長谷宝秀は本書を全集に編じたその跋に、以下のように記しています。

編者曰。右數息觀大要一巻は尊者の記なり。今鶏足寺小林正盛師所藏の古寫本雙龍遺稿幷に活版本法語集を以て校合して之を出す。埀示の時處等は雙龍遺稿に在りて活版本には無し。又活版本法語集に収むる不淨觀は安永四乙未年の埀示。今の數息觀大要は寛政十二年庚申の記なり。而るに活版本法語集に不淨觀及數息觀埀示と題して二篇を合して一とするは大なる誤なり

『慈雲尊者全集』, 巻, p.24

なお、題目は『数息観大要』となっているものの、その内容は数息観に併せて主として安般念の用心を説いたものであって、主題は数息観ではありません。

巷間、しばしば誤認している者がありますが、数息観は呼吸法の類では全くありません。そしてまた、これも非常に多く勘違いしている者がありますが、数息観と安般念とは同じでなく、異なったものです。数息観とは、安般念を修めるに際し、その粗く波打った心を鎮めるためだけに行う、いわば準備体操のようなものであって何か特別意味のある修習法でもない。

そしてまた、慈雲が大要として記したその内容は、すでに安般念とは何かをある程度承知した僧俗に対したものであり、それが何かを知らぬ全く初心の人が触れて何かを得心出来る類のものとなってはいません。

安般念だけが優れた道であって、その他これに勝る術など無い、などということはありません。しかしながら、安般念は、おそらくは誰人でも志あればその日からでも取り掛かれる、人をして涅槃へと導き得るきわめて優れた瑜伽法の一つです。そもそも、釈尊が成道されたのは四念処(四念住)を修められたことに依り、安般念とはその総体として四念処に他ならないものです。

これを正しく行うには、まず仏陀の教えに直に触れ、そしてインドから支那、日本と伝えられてきた優れた仏弟子らの著作の指南を助けとする必要があります。実際、多くの典籍が我々の元へと伝えられ、比較的容易にそれらに触れることが可能となっています。故にいきなり「ただ坐る」などというのではなく、いかにこの道を行くべきかをまずそれら典籍に依って知らなければなりません。

今世間で出版されている仏教の瞑想についての書などを読んで行ってみるのもよいでしょう。しかしながら、一般に、その手の書には不確実な事柄や、著者の誤解や恣意的な曲解に基づく記述がある場合が高い頻度であります。そのようなことから、やはり原書に触れておくのが確実です。

そこで、本書において慈雲が言うことの意味を知るには、まず安般念の根本典籍といえる『雑阿含経』、あるいはパーリ語のSaṃyutta Nikāya, Ānāpānasaṃyutta(相応部安般相応)にある一連の経典をよく読んでおく必要があります。そしてさらには、部派における阿毘達磨の書で、安般念について言及する書のいくつかでも触れておかなければなりません。

そして、これを知って後、自分が実際に安般念を修する過程で、もし不明な点や自ら迷う点が生じたならば、またその典籍に触れてその迷いを払拭するか、あるいは未だ触れたことのない新たな仏典をも渉猟することを勧めます。多聞博学であることを推奨するものでは決してありませんが、一つだけではなく、優れた複数の書に教えを訪ねることは、屹度自身に大きな利益をもたらすものとなるでしょう。

慈雲による本書は、我が身の不徳を省みずして不遜な言を振るったならば、大要などとあるものの、これだけ読んで安般念の何たるかを理解出来るものでは到底ありません。しかしながら、あるいは初心の者には安般念を知り行う一つのきっかけとして、あるいは已行の人には、すでに修めている安般念の理解を深める増上縁となるとなるに違いありません。

願わくば、少しでも多くの人が、仏陀が遺されたかけがえのない宝に触れて自らその勝れた価値のあることを体験し、また他者にその功徳を分かちあわんことを。

愚翁覺應 謹記

凡例

一.本稿にて紹介する『数息観大要』は、『慈雲尊者全集』第十四巻所収のものを底本としている。

一.原文および訓読にては、底本にある漢字は現代通用する常用漢字に改めず、可能な限りそのまま用いている。これにはWindowsのブラウザでは表記されてもMacでは表記されないものがある。ただし、Unicode(またはUTF-8)に採用されておらず、したがってWebブラウザ上で表記出来ないものについては代替の常用漢字などを用いた。

一.現代語訳においては読解に資するよう、適宜に常用漢字に改めた。また、読解を容易にするために段落を設け、さらに原文に無い語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は括弧()に閉じてそれが挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。そもそも現代語訳は訳者の理解が十分でなく、あるいは無知・愚かな誤解に由って本来の意から全く外れたものとなっている可能性があるため、注意されたい。

一.現代語訳はなるべく逐語訳し、極力元の言葉をそのまま用いる方針としたが、その中には一見してその意を理解し得ないものがあるため、その場合にはその直後にその簡単な語の説明を下付き赤色の括弧内に付している(例:〈〇〇〇〉)。

一.難読あるいは特殊な読みを要する漢字を初め、今の世人が読み難いであろうものには編者の判断で適宜ルビを設けた。

一.補注は、特に説明が必要であると考えられる人名や術語などに適宜付し、脚注に列記した。

一.本論に引用される経論は判明する限り、すべて脚注に『大正新脩大蔵経』に基づいて記している。その際、例えば出典が『大正新脩大蔵経』第一巻一項上段であった場合、(T1, p.1a)と記している。

懸命なる諸兄姉にあっては、本稿筆者の愚かな誤解や無知による錯誤、あるいは誤字・脱字など些細な謬りに気づかれた際には下記宛に一報下さり、ご指摘いただければ幸甚至極。

非人沙門覺應(info@viveka.site)