漢訳四阿含のうち『雑阿含経』は、宋代の元嘉十二年から元嘉末までの間(435-453)に、印度僧求那跋陀羅の手によって漢訳された、いわゆる旧訳に属する経典です。その分量は五十巻、大正蔵経によれば1,362の小経によって構成されています。日本の近世以来、また現在の文献学者らによっても、説一切有部の伝持した阿含経の一つであろうと言われています。
『雑阿含経』は、上座部所伝のパーリ三蔵の経蔵五部のうち、Saṃyutta Nikāya(以下、『相応部』)に対応し、全同ではないものの多く共通しています。『相応部』は、五つの章(vagga)が立てられ、主題を同じくする経典を相応(Saṃyutta)としてまとめ編纂されています。しかしまた同時に、互いに無いものが存在したり、細かな語句に相違が見られるなどもしています。
ところで、仏陀の菩提樹下における成道、それは安那般那念、いわゆる[S]Ānāpāna-smṛti ([P]Ānāpāna-sati)によるものでした。
そこでここでは、『雑阿含経』のうち特に安那般那念(安般念)の修習を説き明かす漢訳経典における根本経典といってよい、そのNo.801から815までの都合十五経の原文に訓読、そして現代語訳を対訳としたものと、さらに語註を付し示しています。ただし、本講は学術的・文献学的に云々といったことを目的としたものではありません。あくまで道を求め、仏教に則って定学を修めようと望む者が、何者かが示した副次的、私的な解説書としてでなく、その確かな修禅の亀鑑とし得るよう示したものです。
もっとも、漢訳仏典は勿論、サンスクリットやプラークリットなど印度語から漢語に翻訳されたものであり、それをまた愚衲が訓読および現代語訳するなど日本語訳している時点ですでに本稿にて示したものは三次的なものです。しかしながら、しばしば杜撰で根拠不明な説を示しそれがさも伝統的であるかのようにさえ言うものがある、巷に溢れる「瞑想入門書」、「坐禅入門」の類などより本源的なものであり、必ず踏まえておくべきその根本です。
今は実にめぐまれた時代で、漢訳仏典はもとより上座部の経典で本経に対応するパーリ語の諸典籍も容易く読み得る環境となっています。上述の通り『雑阿含経』に対応するパーリ仏典の『相応部』には、やはり安般念について様々に説かれた経典群が収録されており、それはMahāvagga, Ānāpānasaṃyutta(大品 安般相応)といいます。また他にも、Majjhima Nikāya(中部)には、Ānāpānassati-sutta(Ānāpānasati-sutta / 『安那般那念経』)という一経が修められ、安那般那念や四念住についてよくまとめ説かれています。
そこで本サイトではそれをまた別項において日本語訳して示しています。我々が今、パーリ語と漢語の二種に触れ得、それによって安般念の真により迫ることが可能となっていることは、実に恵まれていると言うべきことです。
現代、欧米に始まり日本においてもそれに影響されてマインドフルネスであるとかヴィパッサナーなどと称して宣伝される諸々の修習は、まさに漢訳あるいはパーリ語の安般念を説く、いくつかの限られた経典を淵源とするものです。その根本の一つが本経です。したがって、世間でそれらを修め、あるいは興味を持つ者でありながら、本経を知らずんばあるべからず。少しでも多くの者が本経などに触れ、仏教の定学を確かな根拠に基づいて行えるように期待するものです。
安那般那念をどのように修めるべきか。それは本経において具体的に説き示されていますが、その構成がどのようなものとなっていかるかを、簡潔かつ明瞭にすれば以下のようなものとなります。
一法 → |
四法 → |
七法 → |
二法 | ||
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安般念 《十六特勝》 ↓ |
① | 念息長 | 身念処 | 念覚分 択法覚分 精進覚分 喜覚分 猗覚分 定覚分 捨覚分 |
明・解脱 |
② | 念息短 | ||||
③ | 覚知一切身 | ||||
④ | 覚知一切身行息 | ||||
⑤ | 覚知喜 | 受念処 | (七覚分) | ||
⑥ | 覚知楽 | ||||
⑦ | 覚知心行 | ||||
⑧ | 覚知心行息 | ||||
⑨ | 覚知心 | 心念処 | (七覚分) | ||
⑩ | 覚知心悦 | ||||
⑪ | 覚知心定 | ||||
⑫ | 覚知心解脱 | ||||
⑬ | 観察無常 | 法念処 | (七覚分) | ||
⑭ | 観察断 | ||||
⑮ | 観察無欲 | ||||
⑯ | 観察滅 |
安那般那念の修習を展開したならば、それは十六の身心の状態を対象とします。そしてそれはまた、大きく四つの範疇に分けられるものであって、それを四念処(四念住)といいます。そこでそのそれぞれの念処を成就したならば、その行者は七種の菩提の因子、すなわち七覚分(七覚支)を身に備えていく。そして四念処をすべて成就した者は、ついに明と解脱を得るというものです。
なお、巷間しばしば七覚分を修行法の一つ、などと考えているものがあります。しかしそれは全くの誤認です。本経でもそう示されているように、またその原語([S]saptabodhyaṅga / [P]sattabojjhaṅga)がその実をそのまま示している(「覚」〈bodhi. 菩提〉 + 「分」〈anga. 支〉)ように、七覚支は修行法などではなく、修道の結果としてその心身に備える諸々の徳です。
以上のように、安那般那念とは、いわゆる瞑想法として、それ自身で完結したものです。もっとも、その者が日頃、学処を護持して戒を実現していることがその大前提としてあります。持戒の上にこそ安那般那念という、定学と慧学とがあるのです。
先に本経に対応する上座部のパーリ経典に相応部大品「安般相応」があることを触れておきましたが、ここで簡単に、それら経典でどのようにとかれているかを比較出来るよう示しておきます。もっとも、『雑阿含経』の一節として以下に示したものは、そのうちその特徴をよく示した一語のみを抽出したのであって、ただ以下のように極短く説かれているのではありません。
No. | 『雑阿含経』 | Saṃyutta Nikāya | No. |
---|---|---|---|
① | 念息長 | Dīghaṃ vā assasanto dīghaṃ assasāmīti pajānāti. Dīghaṃ vā passasanto…pe… (あるいは長く出息しては「私は長く出息する」と彼は知る。あるいは長く入息しては「私は長く入息する」と彼は知る) |
① |
② | 念息短 | Rassaṃ vā assasanto…pe… rassaṃ vā passasanto rassaṃ passasāmīti pajānāti (あるいは短く出息しては「私は短く入息する」と彼は知る。あるいは短く入息しては「私は短く出息する」と彼は知る) |
② |
③ | 覚知一切身 | Sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmīti sikkhati. Sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmīti sikkhati. (「私は身体全体を覚知して出息しよう」と彼は学び行う。「私は身体全体を覚知して入息しよう」と彼は学び行う) |
③ |
④ | 覚知 一切身行息 |
Passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmīti sikkhati. Passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmīti sikkhati. (「私は身行を止息させて出息しよう」と彼は学び行う。「私は身行を止息させて入息せん」と彼は学び行う) |
④ |
⑤ | 覚知喜 | Pītipaṭisaṃvedī… (「私は喜びを感知して…) |
⑤ |
⑥ | 覚知楽 | Sukhapaṭisaṃvedī… (「私は安楽を感知して…) |
⑥ |
⑦ | 覚知心行 | Cittasaṅkhārapaṭisaṃvedī… (「私は心行を感知して…) |
⑦ |
⑧ | 覚知心行息 | Passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ… (「私は心行を止息させて…) |
⑧ |
⑨ | 覚知心 | Cittapaṭisaṃvedī… (「私は心を感知して…) |
⑨ |
⑩ | 覚知心悦 | Abhippamodayaṃ cittaṃ… (「私は心を大いに喜ばせて…) |
⑩ |
⑪ | 覚知心定 | Samādahaṃ cittaṃ… (「私は心を統一させて…) |
⑪ |
⑫ | 覚知心解脱 | Vimocayaṃ cittaṃ … (「私は心を解脱させて…) |
⑫ |
⑬ | 観察無常 | Aniccānupassī… (「私は無常を観察して…) |
⑬ |
⑭ | 観察断 | - | - |
⑮ | 観察無欲 | Virāgānupassī… (「私は貪欲の無いことを観察して…) |
⑭ |
⑯ | 観察滅 | Nirodhānupassī (「私は滅を観察して…) |
⑮ |
- | - | Paṭinissaggānupassī assasissāmīti sikkhati. Paṭinissaggānupassī passasissāmīti sikkhatī (「私は捨て去ることを観察して出息せん」と彼は学び行う。「私は捨て去ることを観察して入息せん」と彼は学び行う) |
⑯ |
このように、その極一部において双方一致していない点があるものの、おおよそ同じ内容となっています。ただし、これは漢語であれパーリ語のものであれ、これを実際に修めた時には、その細かい点において不明点、疑問点などが「必ず」、しかも少なからず出てきます。出てこなければおかしい。そこでそれを自分でアレコレ考えたところで、自分でアレコレ工夫することは必要ではあるのですが、その答えを出すことはまず出来ません。
そうした時、次に学ぶべきはこれらを注釈する論書、すなわち往古の先徳の智慧であり、その言葉です。しかし同時に、「ずいぶん難しいことをいうな…」と思われることでしょうけれども、細かい点にあまり拘り過ぎると、そこでつまづき留まって、修禅が進まなくなるという落とし穴があるため注意が必要です。
そこでまた、これが極めて重要となるのですが、実際に安般念であれなんであれ修禅の実際をよく知り、経験あり、また人を導く徳ある師や善友の存在が必要となります。知的にあれこれ知り、「なるほどそうか」「これは良さそうだ」と思って坐ったところがまるで駄目。そもそも坐ること自体が我慢できない、あるいは自分が正しく修められているのか自信が持てず、やればやるほど希望も興味も失ってしまうことがよくあります。そんな時、すでにそうした紆余曲折を経験した、先達の存在が不可欠となります。
しかしながら、これがまた人の営みというものであるでしょうが、人より少しばかり経験した者で、たちまち一端の師匠面・指導者面をしてアレコレいうのがあります。したがって、その師を選ぶのはよくよく注意しなければならず、またその師に依存してはいけない。いや、真に道を進むには、師に依存してその指導を仰がなければならないことが殆どです。
もし、宿世の果報あり縁あって、良き師、善き友に巡り会えたのであれば、道はすでに半ば達せられたようなもの。共に切磋琢磨して道を進むのがよいでしょう。
安般念を示すついでに本経の訳者について述べておきます。
その訳者、求那跋陀羅の伝記がいうところによれば、『雑阿含経』は初めての仕事であったものです。ここで求那跋陀羅について、その略伝を記している僧祐『出三蔵記集』と慧皎『高僧伝』の記事によって簡単に触れます。
求那跋陀羅、その漢訳名は功徳賢で、本来の名は[S]Guṇabhadra(Guṇabhadda)。中インドのバラモン階級出身であったといいます。幼い頃から広く諸の学問に親しみ通じていたけれども、ある時偶然にも説一切有部の論書の一つ、法救『阿毘曇雜心』(『雑阿毘曇心論』)に出逢います。そして、これを読み進めていくうちにその内容に驚愕し、以来仏教を深く信じるようになったのであると伝えられます。
しかし、代々の外道(バラモン教)を奉じる彼の家にあっては、沙門の教えは許されるものではありませんでした。そこで、家を捨てて遠路はるばる師を求め、(有部の論書に触れて発心した経緯、また有部所属と言われる『雑阿含経』を訳出していることからすると説一切有部であったのでしょうが)ついに出家受戒して比丘となり、その三蔵を広く学んでいます。
求那跋陀羅は慈しみ深く、恭順でよく師に仕えていたものの、しかし、やがて師のもとを辞して大乗に転向しています。大乗の師は彼の資質を試すため、経箱の中から経典を探り取らせると、彼が手にしたのは『大品般若経』と『華厳経』。師は彼が大乗と深い縁があると賛嘆します。そこで彼にそれら経典を読誦講義させてみると右にでる者はありませんでした。彼は菩薩戒を受けてのち、両親を仏教に改宗させています。
その後、求那跋陀羅はインドからセイロンに渡っています。しかし、東方に向かう縁があったことから、海路支那は広州に渡って祇洹寺に入ります。その途中、風止み水尽きる難に遭うも、十方の仏と観音菩薩を念じたことによって風雨を得、難を逃れたとされています。
時に元嘉十二年(435)、南海から遠路はるばる支那に到来した求那跋陀羅を、宗の第三代皇帝たる文帝は厚遇しています。ほどなくして支那の衆僧は、祇洹寺にある彼に経典の訳出を要請。最初に訳出されたのが『雑阿含経』五十巻でした。以降次々と訳経に携わり、『法鼓経』・『勝鬘経』・『楞伽経』等々、総じて 十三部七十三巻の仕事をしています(しかし、その多くが現存していません)。
その後、求那跋陀羅三蔵は政変に巻き込まれ、決して平穏無事な生涯を送りえたわけではありませんでした。しかし、それでも時々の皇帝は彼を厚遇し、第六代皇帝太宗のとき、その生を終えたのでした。享年七十五歳。ただ訳経に携わっただけの人というのではなく、ある時は祈祷によって衆僧を悩ます鬼神を寺院から退散させ、ある時は民が旱魃に苦しむに際して三宝を念じて雨を乞いて功あったという一面もあったと伝えられています。そして、これはバラモンの血統出身であったということもあったのかもしれませんが、幼い頃から生涯菜食を貫き、また食事の残りを鳥たちに手ずから施す人であったといいます。
宋代の支那の人々は求那跋陀羅に対し、敬意を込めてMahāyānaの音写、すなわち大乗を意味する語で摩訶乗、摩訶衍と呼称していたようです。
我々が今触れえる仏典、それは漢訳であれパーリ語であれなんであれ、有名無名の幾千幾万もの先人たちの大小さまざまな努力あってこそのもの。こうしてそのうちの一人の伝記や業績に、それが後代の人の敬意などによる粉飾や創造を含むものであったとしても、こうして今も触れ得ることは実に幸いです。
安那般那念はまた、まさに仏陀釈尊の遺教の具体であり、四念処(四念住)そのものです。それを価値あるものとするのは、その価値を見出すことが出来るのは、他でもないそれぞれ自身のみです。願わくはその価値を、磨けば必ずや光るその宝の輝きを、磨いて見出すことが一人でも多く現れることを、この極拙いものでありはしますが本稿がその機縁になることを、ここに芯から願うばかり。この苦海から自ら出る人の、智慧の輝きを得る人のあることを。
沙門覺應 稽首和南