VIVEKAsite, For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

念(smṛti, sati)とは何か

念とは何か

日本語としての「念」

画像:念

「念」、それは仏教の修道において非常に重視される、誰しもの心に必ず備わる心の働きです。時にはこの一字をもって特定の修道法を示すなど、仏教では頻繁に使用される語の一つでもあります。

しかし、にも関わらず、世間はもとより現在の日本仏教界においてすら、仏教における「念」の意義が案外正確に理解されていないように思われます。これは、念という言葉が日本語として定着し、仏教にて用いられる意味以外にも用いられるようになったことにも起因するのでしょう。

そこでまた「念」とは、なにやら不可思議な力をもつ超常的精神の働き、あるいは毒電波の如きものを想起させるものであるかのように理解している者も世間にあるかもしれません。しかし、仏教の重視する念とは、そのような怪しげなものでは全くありません。

たとえば、現代日本語では、念について以下のような意味の言葉として用いられています。

ねん【念】
①〘造・名〙常に心の中を往来しているおもい。「悔恨の念」「念頭・心念・観念・断念・無念・残念・通念・怨念(おんねん)・疑念・懸念(けねん)・雑念・邪念・情念・概念」
②〘造・名〙気をつけること。注意すること。「念のため」(間違いがないように言っておく、という気持を表す言葉)「念が入る」(十分に注意する)「念には念を入れよ」(注意の上に注意せよ)「念を入れる」(十分に注意する)「念を押す」(確かめる)
③記憶して忘れない。深く思う。常に心から離れない。「念慮・念願・念仏・念力・記念・一念・失念・執念・放念・軫念(しんねん)・専念」
④口にとなえる。「念誦(ねんじゅ)・十念」
⑤「廿」(二十)の代用。「念八日」

『岩波 国語辞典 第五版』岩波書店

念とは、国語辞典では以上のような意味として解説されています。あるいはまた、『広辞苑』では以下のように解説されています。

ねん【念】
①おもい、考え。気持。日葡辞書「ネンヲチ(散)ラス」。「感謝の―」
②気をつけること。注意すること。「―のため」
③深く望むこと。深く思うこと。浄瑠璃、傾城酒呑童子「逢ひたいと思ふ―が届いて」
④(「廿」の俗音が「念」と同じであるから)日数を表すとき、「廿」の字の代りに用いる。「十月念八日」
⑤[仏](梵語smṛti)経験を明瞭に記憶して忘れない心の作用。憶。憶念。

『広辞苑 第六版』岩波書店

また参考までに、現代の支那・台湾において、念(支那語における発音はniàn)という語は、一般的に用いられる意味としては「声に出して読む・唱える」とされています。

あるいは念は、「学ぶ」・「(誰かを)寂しく思う」・「理想」・「記憶」・「廿(→発音がniànと同じであるため)」の意としても、彼の地では用いられることがあります。簡体字の場合、念は唸の省略形として用いられているのですが、台湾などで用いられる漢字本来の繁体字の念でも、現代にてその意味するところは同様で変わりありません。支那・台湾では基本的に、念という言葉単体としては、日本のそれと随分異なった意味の語として主に用いられているのです。

上に引いたように、『広辞苑』ではすでに仏教の術語として、「経験を明瞭に記憶して忘れない心の作用」の意味を挙げています。けれどもそこは一般的な辞典であるということもあり、それだけでは少々舌足らずであって、そのような意味だけに留まるものではありません。

そこでここであらためて、冒頭述べたように仏教における「念とは何か」、その意味がいかなるものであるかを明瞭に知り把握しておくことは仏道を修める上で大変重要なことですので、念の原語からもう少し詳しく見ていきましょう。

辞典における定義

仏教における念の原語、それはサンスクリットsmṛtiスムリティ、あるいはパーリ語のsatiサティです。ならばそれらsmṛti(sati)とは、どのような意味の語であるとされているのか知らなければなりません。

そこで以下しばらくの間、話が一般的でなくなって、少々込み入った専門的な内容に踏み込んでいきます。しかしこれは、ある程度英語を理解し、かつインド語に触れたことのあるような人でなければ、まるっきりチンプンカンプンの内容となってしまう可能性あるものとなってしまいます。けれども、冒頭述べたように、仏教で非常に重要な語である念のその原意を明確にするためには、どうしても必要なことなので敢えて続けていきます。

ここでまず、学術的・一般的な理解を一応示すのに、主にバラモン教の典籍での用例・用法を収録しつつ、仏教でのそれにも言及している梵英辞書を参照しましょう。

Smṛti f. remembrance, reminiscence, thinking of or upon (loc. or comp.), calling to mind (smṛtim api te na yānti, " they are not even thought of "), memory memory as one of the vyabhicāri-bhāvas, Memory (personified either as the daughter of dakṣa and wife of aṅgiras or as the daughter of dharma and medhā) the whole body of sacred tradition or what is remembered by human teachers (in contradistinction to śruti or what is directly heard or revealed to the ṛṣis ; in its widest acceptation this use of the term smṛti includes the 6 vedāṅgas , the sūtras both śrauta and gṛhya , the law-books of manu [see next]; the itihāsas [e.g. the mahābhārata and rāmāyaṇa] , the purāṇas and the nītiśāstras; iti smṛteḥ , "accord. to such and such a traditional precept or legal text"), the whole body of codes of law as handed down memoriter or by tradition (esp. the codes of manu, yājñavalkya and the 16 succeeding inspired lawgivers, viz. atri, viṣṇu, hārīta, uśanas or śukra, aṅgiras, yama, āpastamba, saṃvarta, kātyāyana, bṛhas-pati, parāśara, vyāsa, śaṅkha, likhīta, dakṣa and gautama; all these lawgivers being held to be inspired and to have based their precepts on the veda, symbolical N. for the number 18 (fr. the 18 lawgivers above) a kind of metre L. N. of the letter g Up. desire, wish.

Ed. Monier Williams. Sanskrit-English Dictionary
(* 原則として挙げられている用例の典拠は省略)

ここでは、smṛtiの基本的なその意味を、remembrance(追憶)・reminiscence(回想)・thinking of(考えてみること・想い起こすこと)・calling to mind(思い出すこと)・memory(記憶)等と記載しています。あるいは、smṛtiという語の他の目立った用例として、紀元前二世紀から後二世紀頃にかけて成立したと現在推測されている、古代印度の代表的法典たるManusmṛtiマヌ・スムリティ(『マヌ法典』/The codes of manu)のように、いわば記録・伝承を意味する語として用いられているのも挙げることが出来ます。

『マヌ法典』とは、人類の始祖たるManuから代々継承されたとされる、古来の教え・哲学、社会・人の義務や規定の記録で、印度の伝統・文化習慣を知るに非常に重要な書です。故にこの書を通読しておくことは、仏典を深く理解するのにも屹度役立ちます。

また、今からおよそ一世紀前にもなろうかという1925年に成ったものであるのにもかかわらず、以来いまだ世界で最も信頼され依用され続けている、サンスクリット(Vedic, Classcal, Buddhist Sanskrit)との対照もなしつつパーリ仏典の用例・用法そして典拠をも広範に示す、PTSのTHE PALI-ENGLISH DICTIONARYではどうか。

Sati (f.) [Vedic smṛti: see etym. under sarati2] memory, recognition, consciousness; intentness of mind, wakefulness of mind, mindfulness, alertness, lucidity of mind, self-possessioning, conscience, self-consciousness; upaṭṭhitā sati presence of mind, parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhāpetuṃ to surround oneself with watchfulness of mind, satiŋ paccupaṭṭhāpetuṃ to preserve self-possession, kāyagatā sati intentness of mind on the body, realization of the impermanency of all things, muṭṭhasati forgetful, careless, maraṇasati mindfulness as to death, asati not thinking of, forgetfulness, asatiyā through forgetfulness, without thinking of it, not intentionally, sati (sammā˚) is one of the constituents of the 8-fold Ariyan Path, -âdhipateyya (sat˚) dominant mindfulness, -indriya the sense, faculty, of mindfulness, -uppāda arising, production of recollection, -ullapakāyika a class of devas, -paṭṭhāna [BSk. smṛty'upasthāna] intent contemplation and mindfulness earnest thought, application of mindfulness there are four satipaṭṭhānas, referring to the body, the sensations, the mind, and phenomena respectively, -vinaya disciplinary proceeding under appeal to the accused monk's own conscience, -vepullappatta having attained a clear conscience, -saŋvara restraint in mindfulness, -sampajañña mindfulness and self-possession, -sambojjhanga see (sam)bojjhanga. -sammosa loss of mindfulness or memory, lack of concentration or attention,
Sarati2 [smṛ;, cp. smṛti=sati] to remember;

Ed. T.W. Rhys Davids and William Stede. THE PALI-ENGLISH DICTIONARY
(* 挙げられている用例の典拠は全省略)

このように、Rhys Davidsリス・デイヴィッズ らはその基本的な意味として、memory(記憶)・recognition(認識)・consciousness(意識)、あるいはintentness of mind(専念)・wakefulness of mind(用心深さ)・mindfulness(注意深さ)・alertness(用心深さ)・lucidity of mind(心の明晰さ)・self-possession(冷静)・conscience(良心)・self-consciousness(自意識)を挙げています。

たとえば仏教の術語としての[S]Dharmaダルマ([P]Dhammaダンマ)、すなわち法という語の多義性には及びませんが、それでもsatiという語が比較的広範な意味を持つ単語であることが示されています。

だいたい言葉というものは単純に、一語一義というわけにはいきません。故にその訳には、その多義性を表し得るものを選択するのが好ましいのですが、それはそう簡単なことではありません。いま西洋の英語圏では一般に、仏教の修道法に関してのsmṛti(sati)の訳として、mindfulnessマインドフルネスがあてられています。近年の日本の文献学者には、これを特に訳さず「念」との旧来の漢訳を用いるか、あるいは「気をつけること」という日本語訳をつける人もあります。

ここで一応、日本語のものとしてはもっとも流通し一般的に用いられているパーリ語辞典ではどうかも示しておきましょう。

Sati f. [sk. smṛti.<sarati ②] 念、憶念、記憶、正念. satipaṭṭhānānaṃ upaṭṭhānaṭṭho 念住の近住の義. satibalañ ca samādhibalañ ca 念力と定力. satisampajaññena samannāgato 念正智を具足せる者. -a-sammuṭṭha 念覚不忘の念. -ākāra 念の行相. -indriya 念根. -uppāda 念の生起. -cariya 念行. -nepakka 念慧,念慮. -paṭṭhāna 念処,念住. -paṭṭhāna-bhāvanā 念処の修習. -bala 念力. -vinaya 憶念毘尼. -vepulla 念広大. -saṃvara 念律儀. -sacchikaraṇīya 念応証. -sampajañña 念正知,正念正知. -sambojjhaṅga 念等覚支. -sammosa, -sammoha 念忘失,忘念,失念

水野弘元『増補改訂 パーリ語辞典』春秋社(1968発行 / 2005改訂)

この辞典の編者たる水野弘元自身が言及している通り、この辞典は初学者のための小辞典に過ぎず、よって簡便な記述しかされていません。

では水野と同時代の人ながら、比較的最近出版されて以来、学者らの間でよく依用されている雲井照善『パーリ語佛教辞典』ではどうか。

sati (f.) 〔Vadic. smṛti,. see sarati〕 念、憶念、記憶、正念、注意.sammāsati 正念.(八支聖道中の一).
-âdhipateyya 増上念.
-ânusāri-viññāṇa 随念智.
-ākāra 念の行相.
-indriya 念根.
-ullapākayuka devatāyo サトゥラッパ天群.
-ullapakāyikā vagga (S.1,3, S.1. pp. 1-6~) サトゥラッパ天群品.
* -paṭṭhāna 念処.
* -paṭṭhāna-gocara 念処の境.
-paṭṭhāna-vibhaṅga 念処分別.
-paṭṭhāna-saṁyutta 念処相応.
-paṭṭhāna-sutta (N.) M. No.10 経;中.98 念処経(大正.1, 582 b).
-vepulla 念の広大.
-saṃvara 念律儀.
-sambojjhaṅga 念等覚支.
-sambojjhaṅga saṁyutta 念等覚支相応.
-sammosa 念消失,失念.
-sammoha 念亡失,失念.

雲井照善『パーリ語佛教辞典』山喜房佛書林(1997)

この辞典では水野の辞典に「注意」の語義を加えた以外、特に異なっておらず、同じく簡便なものとなっています。そして、これら現代の仏教学会においてもいまだ信頼され用いられている両博士による辞典においてもまた、satiを説明するにあたって、旧来の「念」という漢訳がそのまま用いられています。

ならばそこで、仏典における漢訳語としての「念」の有する意味を知らねばならない。いや、仏教以前に、そもそも漢語として念とはいかなる字であるかを知る必要がある。そこで上でそうしてきたように、先ずは現在用いられている代表的仏教辞典のいくつかを示し、その用とします。

では最初に、真宗の織田得能がその晩年ただ一人でその編纂を目指した驚異の書であり、現代流通するものでは最も古く明治に編纂され大正に出版されたものでありながら、今なお多くの仏教学者や研究者らが重用している『織田仏教大辞典』を示します。

ネン 念 [術語] 所對の境を記憶して妄れざるなり。【唯識論三】に「云何爲念。於曾習境。令心明記不妄。」【法界次第】に「念者。内心存意之異名也。」【大乗義章十二】に「守境爲念。」 又深く事を思ふなり。【法華經信解品】に「即作是念我財物庫藏今有所付。」 又心の發動して三世に遷流するを念と云ふ。前念、後念、念念など。

織田得能『織田佛教大辞典』大蔵出版

ここでは念の原語などには触れずただ漢語として、またただ大乗の典籍をのみその根拠として示すことにより、「所対の境を記憶して忘れないこと」と「深く事を思うこと」、そして「心が相続すること」をもってその意としています。それが果たして大乗特有の定義であるか通仏教のものであるかなどについては、後に示す諸仏典や仏教諸派における定義を知ることに依って確かめることが出来るでしょう。

水野より一世代後の人であり、同じくインド学仏教学に多大な功績を残した中村元により編纂された辞典ではどうか。

【念】ねん
①おもい出す。また記憶すること。記憶作用。対象を記憶して忘れないはたらき。明らかに記憶し、忘れない心の作用。憶念ともいう。過去を追念ずること。→憶念おくねん [P]sati〈『那先経』A・B (大)三二巻七〇一上、七一六下〉[S]smṛti〈AK.Ⅰ, 33〉:〈『倶舎論』二五巻一二ウ:AK.Ⅵ, 69 〉〈『百五十讃』五一頌〉[S]smṛti〈=[S]ālambana-asaṃpramoṣa〉〈『倶舎論』四巻三ウ:AK Ⅴ. p.127〉[S]smaraṇa〈『観音経』:SaddhaP. p.372〉[S]saṃ-√smṛ〈『百十五讃』八四頌〉。〈『瑜伽論』一巻 (大)三〇巻二八〇中〉〈『往生要集』(大)八四巻六一中〉〈『八宗綱要』九一〉
②専念。意当念諸善事ともいう。善事の一つ。[P]sati〈『那先経』A・B (大)三二巻六九七上・下、七〇七中、七〇八中〉
③心の中でおもう(口には出さない)。常念不忘。[S]manasi-kāra〈『阿弥陀経』(大)一二巻三四七上: SSukh. 6〉。〈『四教儀註』中本二三〉〈『要集』二八〉「但念而已」〈『上宮維摩疏』下一 (大)五六巻四八上〉「有念」(注意がそそがれる。) [P]samanāhāro hoti〈『中阿含経』七巻 (大)一巻四七六上:MN.Ⅰ, p.191〉
④考える。思考すること。「彼作是念」 [P]so evaṃ pajānāti〈『中阿含経』七巻 (大)一巻七六四下:MN.Ⅰ, p.185〉「所念」(心に思考すること。) [P]cetaso parivitakka〈『増壱阿含経』一〇巻 (大)二巻五九三中: SN. Ⅰ, p.139〉「非心所念」 [S]atarkika〈『正法華』一巻 (大)九巻六八中:SaddhaP. p.31〉「念善悪之事」[P]dhammavicaya 七事学(七覚支)の一つ。→七事學しちじのがく
⑤観ずる智慧。〈『四教儀註』中本一〇〉
⑥心のおもいを正すこと。〈『維摩経』(大)一四巻五三七上〉
⑦十大地法の一つとしての記憶作用。[S]smṛti〈AK. Ⅱ, 24〉
⑧唯識説では、五別境の心所の一つとしての記憶。習熟した事物についての不忘失([S]saṃstute vastuny asaṃpramoṣaḥ, Sthiramati)。[S]smṛti [T]dran(pa)〈『唯識三十頌』(大)三一巻六〇中〉。〈『成唯識論』(大)三一巻二七中〉
⑨意思作用。[P]cetanā〈『増壱阿含経』四六巻 (大)二巻七九七中-下:SN. Ⅱ, p.3〉
⑩意のこと。[P]manas〈『那先経』B (大)三二巻七一二上〉。〈『要集』三一三〉
⑪おもい。慕う心。[S]citta〈『無量寿経』(大)一二巻二六八中〉
⑫妄念。〈『一遍語録』上、偈頌和歌〉
⑬刹那に同じ→刹那せつな [S]kṣaṇa〈AK. Ⅱ, 44〉。〔心のはたらきという意味と、一瞬という二つの意味が重なっている語であるが、仏教では、心のはたらきから独立した時間を認めないから、要するに同じことになる。〕〈『盤珪語録』〉
⑭念仏すること。〈『要集』三七七〉
⑮「念じて」。がまんして。〈『宇治拾遺物語』〉
⑯聖仙の著述になる聖典。聖伝書。バラモン教で第二次的な聖典をいう。天啓聖典([S]Śruti)に対する。[S]smṛti〈『金剛針論』 (大)三二巻一六九中:Vajras, 2〉
[S]smṛti [T]dran pa〈Mayut. 4596〉 *[S]smṛti 〈MSA.〉〈MAV. (真)(玄)〉 *[S]anusmṛti *[S]medhā *[S]sanaratā 〈MSA.〉*「念子」(子をいつくしむ。)*[S]sneha〈『仏所行讃』一巻 (大)四巻三上: Buddhac. Ⅰ, 61〉
*[解釈例] 念の心所とは経て過ぎし事を心の内に明に記して忘れぬ心也。〈『唯識大意』本一二ウ〉 物忘れせぬこと。〈『円乗』五一八〉 深信すること。〈『円乗』七六八〉 観想功徳を念ずること功徳たのみの念なり。〈『円乗』三七三四〉 信ずること。〈『香月』七八二、七八六〉 (仏が衆生を)護念す。〈『香月』八〇一〉 明記不忘で心に持ちて不忘事。〈『香月』二一二一〉 心に覚えて忘れぬこと。〈『香月』三一〇〇〉 明記不忘。〈『皆往』三八四四〉 おもふ。〈『一枚起請文梗概聞書』下〉 おもふ唱ふる。〈『一枚起請文講説』上〉

中村元『佛教語大辞典』東京書籍(1981)

この『佛教語大辞典』では、念という漢訳語の意味が、その原語であるサンスクリットやパーリ語、チベット語、およびその典拠を挙げ、また日本における典籍の用例をもいくつか言及することによって、広範に示されています。もっとも、その挙げ方が整理されておらず、やや雑多の感が否めません。しかし、これによって支那にて念という語が、様々な語の訳として用いられていたことが知られます。

とはいえ、念という語の主たる意味は、『織田仏教大辞典』に同じく、おおよそ「忘れないこと」と「思うこと」、そして「刹那」とされていると言えましょう。その念の「忘れないこと」の原語は、smṛti (sati)です。そして、上来示したサンスクリットやパーリ語の英語辞書とそれを照らし合わせたならば、何ら齟齬をきたすものではありません。

さらにもう一冊、西洋(英国)の仏教学者におけるsatiの定義を示すものとして、Damien Keownダミアン・キーオン による仏教辞典の一項もまた紹介しておきます。

smṛti (Skt.: Pāli, sati).
Mindfulness or awareness. An alert state of mind that should be cultvated constantly as the foundation for understanding and insight (*prajñā). Many meditational practices exist to help develop mindfulness, notably the four Foundations of Mindfulness (*smṛti-upasthāna). Smṛti features in many formulations of virtues: it is the third of the Five Powers (*bala), the first of the Factors of Awakening (*bodhyaṅga), and the seventh of the eight factors of the *Eightfold Path.

Damien Keown, DICTIONARY OF BUDDHISM, OXFORD, 2003

これは比較的最近、末木文美士の監訳として出版されています。

念 ねんsmṛti (Skt.: Pāli, sati)
注意深さ.怠りなく注意している心の状態のことであり,ものごとの理解や洞察(*智慧)の基礎をなすものとして,たえずこれを修養すべきであるとされる.念を向上させるために,四*念住をはじめとする多くの瞑想法が考案されている.念は,徳のさまざまな列挙において言及されており,たとえば五*力の第三番目,*覚支の第一番目,*八支聖道の第七番目とされている.

Damien Keown 『オックスフォード 仏教辞典』朝倉書店(2016)

やはりsmṛti (sati)すなわち念とは、「注意深さ」・「怠りなく注意している心の状態」であるとされています。

さて、smṛti (sati)の訳として諸々の仏典において主として用いられてきた語は、旧訳以来の「念」です。あるいは「憶」・「意」との語も用いられています。また、古訳の仏典では、「念」という語が用いられているのと同時に、「守意」との訳が用いられていることがあります。しかしこの「守意」なる訳は、いま見てきたsmṛti (sati)の意味とは大きく異なったもののように思われるかも知れません。が、何故そのように訳されたについては後ほど触れます。

しかしなんといっても、すでに先程から私も専ら用いているわけですが、それらの中では「念」という語が一般的に用いられるものです。では、先程述べたように、仏教の術語としてではなく、そもそも「念」という漢字自体はどのような意味のものであったかを確認しなければなりません。それは果たしてsmṛti (sati)の訳として適切なものであったでしょうか。

…いや、いやいやいやいや!それらは古今東西の先徳・碩学らが様々な困難を乗り越えて果たした偉大な業績であり、愚劣極まりない私がその可否を云々するなど甚だおこがましいというもの。それらは屹度、適切であるに違いない。違いないものではあります。が、各自が確かにその意を把握するためには、やはり各自がその適切であることを確認しなければなりません。