セイロンをはじめ、東南アジア諸国に伝わった上座部(分別説部)が伝持してきたパーリ三蔵のSutta piṭaka(経蔵)では、Dīgha Nikāya(長部)・Majjhima Nikāya(中部)・Saṃyutta Nikāya(相応部)・Aṅguttara Nikāya(増支部)・Khuddaka Nikāya(小部)の五つのNikāyaに分類して、その全ての経を伝えています。
Nikāyaとは、集まり・部類・集団などを意味する語です。そのことから現代、すでに併記しておきましたが、これを日本語で「部」と訳し、例えばDīgha Nikāya(長い部類)は「長部」と呼称しています。なお、Sutta piṭakaのpiṭakaとは、古来漢訳で「蔵」と訳されてきました。現代で云うならば「かご」・「バスケット」を意味する語で、要するに「容れ物」のことです。
Caturāsīti sahassavidhā dhammakkhandhā 八万四千法蘊 |
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Tipiṭaka 三蔵 |
Dhamma 法 |
Sutta Piṭaka 経蔵 |
Dīgha Nikāya 長部 |
Majjhima Nikāya 中部 |
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Saṃyutta Nikāya 相応部 |
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Aṅguttara Nikāya 増支部 |
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Khuddaka Nikāya 小部 |
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Abhidhamma Piṭaka 論蔵 |
[七典籍] | ||
Vinaya 律 |
Vinaya Piṭaka 律蔵 |
[五部] |
(* 一般に経・律・論の順で言われるが、ここでは便宜上その順序を変更している。なお、第一結集の際に誦出されたのは律・法の順。)
ここで紹介しているMajjhima NikāyaのMajjhimaとは、「中間の」・「中程の」・「中くらいの」という意で、そのまま中と訳されます。なぜそのような名称であるのかといえば、中部が、内容的にそれほど長くも短くもない経典がひとまとめにされて編纂されたものであるためです。
- | Vagga 品 |
Sutta 経 |
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Mulapaṇṇāsa 根本五十 |
5 | 50 |
Majjhimapaṇṇāsa 中分五十 |
5 | 50 |
Uparipaṇṇāsa 後分五十 |
5 | 52 |
計 | 15 | 152 |
中部に収録されている経典は全部で152経ありますが、これが50経ずつひとまとめとしてpaṇṇāsaとされ、Mulapaṇṇāsa(根本五十)・Majjhimapaṇṇāsa(中分五十)・Uparipaṇṇāsa(後分五十)の三部構成となっています。もっとも、五十と言いつつも、最後のUparipaṇṇāsaには52経が収録されています。
また、それぞれのpaṇṇāsaでは、各々10経からなるVagga(品)が設けられ、故にそれぞれに五品あります。品とは、章のことです。最後のUparipaṇṇāsaの場合は、最後の品が12経となっています。それら品は、同一の主題に関して説かれている経がまとまっているものもあればまるで別というものもあり、一様ではありません。
ここではMajjhima Nikāya, Uparipaṇṇāsa, Anupadavagga(『中部』「後分五十」随句品)に収められているĀnāpānassati-sutta(Ānāpānasati-sutta / 『安那般那念経』)を、その原文に日本語訳を付して紹介しています。
なお、安般念についてほぼ同内容のことを、より広範囲に説く経典としてSaṃyutta Nikāya, Ānāpānasaṃyutta(『相応部』「安般相応」)があり、その中でも特にPaṭhamaānandasutta(『阿難経第一』)およびDutiyabhikkhusutta(『比丘経第二』)と内容的にほとんど同一です。そこでアーナーパーナサティについてより詳しく知りたい者は、相応部の経典群もまた学ぶことを勧めます。
漢訳では『雑阿含経』のNo.801から815までの都合十五経が『相応部』「安般相応」に対応しています。これは別項にて、やはりその原文に訓読文・現代語訳そして語注を付して紹介しています。
Ānāpānasatiは、数ある仏教の瞑想の中でも釈尊が菩提樹下にて成道されるときにまさしく修習されていたものと言われ、大乗小乗問わず古来重要視され、また修められてきた法です。しかしこのように言えば、「アーナーパーナサティだけ修めれば」、「アーナーパーナサティこそ行え」などと、これが唯一絶対の方法で最も優れたものである、これを行うのが最短最速の道である、他の方法など雑多なものである、などと言い出してしまう拙い粗忽者が続出するでしょう。しかし、それはあたかも熱病にかかった者が繰り返すうわ言のようなものです。
これだけ、唯一、オリジナル、純粋という言葉を人はとても好み、確かに時と場合によってはそのようであるからこそ価値のあることがあります。が、しかし、それを宗教関係のもの、いや多くの人の営みについて言い出すと、たちまち他との衝突、不毛の論争、愚かな口論の幕開けとなります。そして、実際のところ、そのようなものは幻想に過ぎない。
それは、自身が平安に達することに関して意義なく、また他者を利することに対してまるで関せず、むしろ障碍としかならないものです。そのようなことに血道をあげるのは時間の無駄で、「悟りを求める」という観点からすれば、愚かな者の為すことです。
大乗には一乗という教え・思想があり、それはそれで素晴らしいものであるのですが、人によってはそのような「唯一」といった方向でこれを捉えている人があります。が、それは誤った愚かな理解です。
けれども、確かに、アーナーパーナサティは四念処の修習に他ならず、これによって七覚支を成就し得る大変優れたものです。そこで上座部において、アーナーパーナサティは大変優れた法であるけれども、その故にむしろ困難なるもので、念と慧の強い者でなければ完遂することが難しいものとされています。誰でもが行って容易に達し得るものではないと(『清浄道論』)。
そのように、アーナーパーナサティは、立場によってその解釈や位置づけ、修習についての細かな異なりが存します。とは言えしかし、大乗小乗に通じて為されてきた通仏教の修習法です。実際、経説だけ見ても、細かい点で少々分かりかねる点などがあり、その故に往古の学匠らにより著された注釈書や修道書の助けを借りる必要がきっと生じることでしょう。そこでしかし、同様の経典に基づきながらも、部派や大乗の諸師によってその解釈が相違しています。
そこで、であるからこそ、ここでは個人的経験や解釈によってアーナーパーナサティを概説して紹介するという術を取らず、まずその根本的な経説がいかなるものであるかを世に知らしめるきっかけとなることを期し、敢えてその一連の経典すべての原文と日本語訳とを共に紹介した次第です。これによって、いやこれだけでなく、数々の仏陀の遺法のいずれかによって、法を現観する人がたとい少しでも現れ出んことを。
Bhikkhu Ñāṇajoti 稽首和南