先づ此の字を観ぜんと欲せば、天井も四方も強ちに迫らざる処にして、暗からず明ならずして坐すべし。暗ければ妄念起こり、明かなれば心散乱す。夜は燈を風かに挑げて火を後に向け、座に蒲団を敷き、結跏趺坐或は半跏坐すべし。法界定印を結び、眼は開ず閉ぢず。開かば散動し閉れば眠り沈む。唯細く見て瞬かずして両方の瞳にて鼻柱を守るべし。舌を腭に付れば心自ら静か也。腰は反らず伏せず唯直く坐して脈道を助くべし。脈道差へば病起り又心狂乱す。 此の如く用意して、先づ金剛合掌の五大願を唱へ、後に胎の五字の明を百遍誦し、其の後に観ずべし。 先づ能詮の字を観じ、次に所詮の理を思ふべし。
能詮の字とは、自身の胸中に月輪有り、秋夜の月の晴んが如し。其の中に阿字有り。阿字は月輪の種子、月輪は字の光なり。月輪と阿字と全く一なり。胸中に之を観ずれば、自身即ち字と成る。字は即ち自心なり。是の如く心境不二にして縁慮亡絶すれば、月輪の自性清浄なるが故に能く貪欲の苦を離る。月輪、清涼なるが故に瞋恚の熱を去る。月輪の光明の故に愚癡の闇を照す。 是の如く三毒、自然に清浄にして離散すれば心源湛然として自ら苦き事之無し。此の観に入る者は安楽を得て世間の苦悩を離る。是を解脱と名く。何かに況や観達するときは生死に於て自在なるべし。是を即身成仏と名く。 始は一肘に月輪の分齊を量て観じ、後には漸漸に舒て三千世界乃至法界宮に遍ずべし。
次に所詮の理とは、此の字に空・有・不生の三義有り。空とは森羅萬法は皆自性無く、是れ全く空なり。然れども因縁に依て仮りに体を現じて萬法歴然として之有るは有なり。譬へば如意宝珠に七珍萬宝を湛へて、而も縁に随て宝を降すが如し。玉を破て中を見れども一物も之無し。然りと雖、縁に随て宝を生じて無きにあらず。是を以て知る、空有全く一体なり。是を常住と云ふ。常住とは即ち不生なり。不生とは不生不滅なり。是を字大空の當体の極理と名く。然るに我等が胸中に此の字を觀すれば自然に此の三義を具足す。此の三義を具する者は即ち大日法身なり。此の觀門に入る行者は初心なりと雖、生死輪迴永く絶して、行住坐臥に皆是の阿字観を離るること無し。易行易修にして速疾に頓悟するなり。若し既に座すること逹すれば、必ずしも半跏、法界定印に非れども行住坐臥、悉く字なる事を思ふべし。
我等が声の生起する事は口を開く最初に胸の中にの生ずるに従て、喉・腭・舌・歯・唇に当て、此の五処より出るは金界五部の諸尊説法の声なり。喉・舌・唇と云ふ時は胎藏三部なり。是の如く知れば徒なる事之無し。悪口・両舌・妄語・綺語、皆五処三内に経て出づる音なれば、即ち大日如来の海印三昧王真言なり。此の理を知らざれば皆
まず、この字を観じようとするならば、天井も四方もひどく迫り来るほどに狭くはない処にて、暗すぎず、明るすぎないようにして坐れ。暗ければ妄念が起こり、明るすぎれば心は散乱する。夜は灯明をほのかに灯して、火を(自分の)後ろに置き、座蒲団を敷いて結跏趺坐あるいは半跏坐せよ。(手に)法界定印を結び、眼は開かず閉じず(半眼に)する。(眼を)開いたままならば散動し、閉じれば眠り落ちる。ただ(眼を)細くし瞬かぬようして、両方の瞳で鼻柱を見るようにせよ。舌を上顎の歯の付け根に付ければ、心は自ずから静まるであろう。腰は反り返らさぬよう、曲げぬよう、(姿勢を)ただ直ぐ(保ち)坐って血流・呼吸を助けよ。血流・呼吸が差し支えれば病が起こり、あるいは心が狂乱する。そのように用意してから、まず金剛合掌して五大願を唱え、のちに胎蔵の五字呪を百遍唱え、そうして後に観ぜよ。まず能詮の字を観じ、次に所詮の理を思え。
「能詮の字」とは、自身の胸中に月輪あって、それは秋夜の満月が清清としているようなものである。その中には阿字がある。阿字は月輪の種子であり、月輪は字の光である。月輪と阿字とは全く同一(の意味・象徴)である。胸の中にこれを観じたならば、自身がすなわち字となる。字はすなわち自心である。このように心境不二にして縁慮亡絶すれば、月輪とは自性清浄であるが故に、よく貪欲の苦しみを離れるであろう。月輪は清涼であるが故に、瞋恚の熱を去るであろう。月輪の光明によって愚痴の闇を照らす。このように三毒は自然に清浄となって離散したならば、心源湛然となって自ずから苦しきことは無い。この観に入る者は、安楽を得て世間の苦悩を離れるであろう。これを解脱と名づける。ましてや(阿字)観に達した時には、生死輪廻において自在となる。これを即身成仏という。始めは(その直径)一肘の月輪の大きさばかりを観想し、後には漸漸と広げて、ついには三千世界乃び法界宮に遍満せよ。
次に「所詮の理」とは、この字に空・有・不生の三つの義があることを言う。空とは、森羅万法はすべて無自性であって、それは全く(本質を欠いた)「空」である。しかしながら、因縁によって仮に現象し、この世のありとあらゆる事物が歴然としてあって「有」である。それは譬えば、如意宝珠が七珍万宝を湛え、縁に従って宝を降らすようなものである。宝珠を壊して中を見たとしても何も無い。けれども、(宝珠は)縁に従って宝を生じて(何も)無いのでない。このことから知られよう、空と有とは全く一体であることを。これを常住と言う。常住とはすなわち不生である。不生とは不生不滅である。これを「字大空の当体の極理」と名づける。そこで我らが胸中にこの字を観じたならば、自然にこの三義を具足する。この三義を具える者は、すなわち大日法身である。この観門に入る行者は、初心であっても生死輪廻を永く絶し、行住坐臥の常時にこの阿字観を離れる事はない。行ないやすく、修しやすく、速疾に頓悟する。もしすでに座すことに熟達したならば、必ずしも半跏坐して法界定印を結ばなくとも、(日常の)行住坐臥全てが字であることを思え。
我々が声を発するのには、口を開く最初に胸の中にが生じ、そして喉・腭・舌・歯・唇へと伝わるが、この五処から発せられるのは金剛界五部の諸尊が説法する声である。喉・舌・唇と言った場合は、胎蔵の三部(の諸尊の説法する声)である。このようであることを知れば、(日常なされるありとあらゆる言葉・音の一つとして)空虚なことは無い。悪口・両舌・妄語・綺語、それら全ては(金剛界の)五処・(胎蔵の)三内を経て出でる音であるから、すなわち大日如来の海印三昧王真言である。この理を知らなければ、(日常なしているところの口業は)すべて悪業となって地獄に堕し、諸々の苦しみを受けるであろう。(真理を)知ると知らないとの差別である。『蓮華三昧経』に、「胸中に(金剛界と大悲胎蔵の)両部の曼荼羅が並びあって、それぞれ真理を開示している。その(曼荼羅の)中、西方の無量壽如来〈阿弥陀如来〉は、説法談義の徳を司って常に説法されている。その(説法の)音が、我が口より出でて声塵得脱の利益をもたらす。しかしながら、凡夫はこれを知らず、(全ての音・言葉は如来の開示された真理を表するものであるのに)我が言葉と思い、我が物という執着に絡められて、恒沙の万徳・無量の密号・名字の功徳の法門を聞いたとしても、ただ虚しく(地獄・餓鬼・畜生の)悪趣への業因としていることは、誠に悲むべきことである。これはすなわち自然道理の陀羅尼、性海果分の法門、本不生の極理である。海が全ての川を包摂するように、一切の善根はこの(字という)一字に包摂される。故に(字をして)海印三昧真言と言う。このようなことから、一度であってもこの字を観ずることは、すべての仏の教えを同時に読誦する功徳に勝る」と説かれている。