『阿字観用心口訣』とは、伝説によれば平安初期の弘法大師空海〈774-835〉が口述したのを、その高弟の一人であった桧尾僧都実恵(実慧)〈786-847〉が筆記したものとされている書です。
また『阿字観用心口訣』とは、主として『無畏三蔵禅要』にて修禅について説かれた最後半部を下敷きに、『大日経』ならびにその注釈書である『大日経疏』・『大日経義釈』の所説に依拠して阿字などを対象とする観法、いわゆる「阿字観」を世に説いた初めてのものと云われている書です。
もっとも、『阿字観用心口訣』の文章には稚拙の感あって空海のものとは直ちに受け取り難く、またその典拠の一つとして挙げられている『大日経義釈』が空海存命時には未だ日本にもたらされていない書典であって、さらに『蓮花三昧経』なる出自不明の怪しい経典からの引用も一部されていることから、伝承通り海阿闍梨口説のものとは首肯しにくいものとなっています。そしてまた、本書には字以外に二つの語が悉曇で記述されているのですが、その綴りが一定程度でも梵語を理解していた者ならば決して犯し得ない、誤った綴りでなされている点も、空海および実恵が書いたとも思われぬものとなっています。
けれども、この書が空海の所説であるとして世に現れて以降、やがて平安後期頃から法相宗や真言宗でこの書に注目する人が現れ、例えば中川上人実範や興教大師覚鑁〈1095-1144〉など諸々の学僧により、様々な阿字観の解説書や次第〈修法の手順が書かれた書〉が著されています。それらはより後代に著されたものであるだけに、時に空理的な文言・思想が様々に付加され、より複雑あるいは迂遠な内容のものとなっている場合があります。
いずれにせよ、『阿字観用心口訣』とは、真言宗の瞑想を代表するものなどとして現在世に宣伝されている「阿字観」を初めて説いた書であり、阿字観を知らんとする者は須く読むべき最初のもの、根本の書典です。いや、この書を読む前にまず、そもそも「阿字とは何か」を確かに知っておかなければならない。そこでここでは、先ずそれから講じています。
阿字観の阿字、すなわち梵字悉曇のの音写である一字は、梵語(anutpāda)の頭文字です。
そもそも梵語におけるとは、これは阿字を理解するのに最も留意しておかなければならない点ですが、まず母音の最初の音であるのと同時に、「~で無い」・「非~」などといった否定を表す接頭辞です。阿字とはインド語における「最初の字であり音」、かつ「否定を表する字であり音」であるわけです。
音阿上聲呼 訓无也。不也。非也。阿字者是一切法教之本。凡最初開口之音皆有阿聲。若離阿聲則无一切言説。故為衆聲之母。又為衆字之根本。又一切諸法本不生義。内外諸教皆従此字而出生也。
音は阿上声で発音。その訓は無であり、不であり、非である。阿字というのは一切法教の本である。凡そ最初に口を開く音には、すべて阿の声がある。もし阿の声を離れたならば、すなわちあらゆる言説は無い。故に衆声の母とする。また、衆字の根本とする。また、一切諸法は本不生〈ādianutpāda〉の義である。内外の諸教は、すべてこの字より出生する。
空海 『梵字悉曇字母并釈義』(T25, p.106)
utpādaは出生、出現・生産を意味する語で、無・不・非を意味するを冠することにより、anutpādaすなわち不生あるいは無生と漢訳されます。そしてさらに、不生の意を強調するため、さらに始まりや原初を意味するādiを付してādianutpādaとし、これが漢訳されて本初不生(本不生)と言われます。
ところで、これは非常に多くの密教徒を自称する者が誤認していることですが、阿字がそのような意義あるものとされるのは、何も密教に始まるものでも密教に限られたものでもなく、大乗において常識的に説かれていることによります。
有陀羅尼。以是四十二字。攝一切語言名字。何者是四十二字。阿羅波遮那等阿提秦言初阿耨波柰秦言不生行陀羅尼菩薩聞是阿字即時入一切法初不生。如是等字字隨所聞。皆入一切諸法實相中。是名字入門陀羅尼。如摩訶衍品中説諸字門。
(四十二文字の)陀羅尼〈dhāraṇī〉がある。その四十二字を以て、一切の語言名字〈言語と文字〉を包摂する。何が四十二字であろうか。阿〈a〉・羅〈ra〉・波〈pa〉・遮〈ca〉・那〈na〉等(の四十二)がそれであって、阿提〈ādi-〉は秦〈Cīna. 支那〉では「初」と言い、阿耨波柰〈anutpāda〉は秦で「不生」と言う。陀羅尼を行じる菩薩がこの阿字を聞いたならば、たちまち一切法の初不生に入る。これらの(四十二字からなる)字字は、(その音を)聞くに従って、皆な一切諸法の実相の中に入る。これを字入門陀羅尼と云う。「摩訶衍品」〈玄奘訳『大般若波羅蜜多経』巻五十三「辯大乗品」〉の中にて諸字門が説かれている通りである。
鳩摩羅什訳 龍樹『大智度論』巻ニ十八(T25, p.268a)
この『大智度論』の一節の最後にて挙げられている「摩訶衍品」とは、玄奘訳『大般若経』でいうところの「辯大乗品」のことです。そこで、このように言及されている以上は、その「摩訶衍品」の所説を知らなければならないでしょう。ではその「摩訶衍品」では、どのように説かれているのか。
復次善現。菩薩摩訶薩大乘相者。謂諸文字陀羅尼門。爾時具壽善現白佛言。世尊云何文字陀羅尼門。佛言善現。字平等性。語平等性。言説理趣平等性。入諸字門。是爲文字陀羅尼門。世尊。云何入諸字門。善現。若菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。以無所得而爲方便。入𧙃字門。悟一切法本不生故。入洛字門。悟一切法離塵垢故。入跛字門。悟一切法勝義教故。入者字門。悟一切法無死生故。入娜字門。悟一切法遠離名相無得失故。《中略》
善現。如是字門。是能悟入法空邊際。除如是字表諸法空更不可得。何以故。善現。如是字義。不可宣説。不可顯示。不可執取。不可書持。不可觀察。離諸相故。善現。譬如虚空是一切物所歸趣處。此諸字門亦復如是。諸法空義皆入此門方得顯了。善現。入此𧙃字等名入諸字門。
「善現〈Subhūti. 須菩提の漢訳名。解空第一といわれた仏弟子〉よ、菩薩摩訶薩〈bodhisattva-mahāsattva〉の大乗相とは、いわゆる諸文字陀羅尼門である」
その時、具壽〈āyusmat. 尊者・長老の意〉善現は仏陀にこう申し上げた。
「世尊、文字陀羅尼門とは何でしょうか」
そこで仏陀は善現に云われた。
「字平等性・語平等性・言説理趣平等性をもって諸字門に入る、これを文字陀羅尼門という」
「世尊、諸字門に入るとはいかなることでしょうか」
「善現よ、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜多を修行する時、無所得を以て方便と為し、𧙃〈a〉字門に入る。一切法が本初より不生なることを悟るが故に。次に洛〈ra〉字門に入る。一切法が塵垢より離れていることを悟るが故に。次に跛〈pa〉字門に入る。一切法の勝義教なることを悟るが故に。次に者〈ca〉字門に入る。一切法が死生無きことを悟るが故に。次に娜〈na〉字門に入る。一切法は名相を遠離して得失無きことを悟るが故に」 《中略》
「善現よ、これら字門によって能く法の空辺際に悟入することが出来る。これらの字が表する意義以外、諸法の空なることを求めても得ることは出来ない。何故ならば、善現よ、これらの字義は宣説出来ないものであり、顕示出来ないものであり、執取出来ないものであり、書持出来ないものであり、観察出来ないものである、諸々の相を離れているが故に」
「善現よ、譬えば虚空が一切の物の帰属する所であるように、この諸字門もまた同様である。諸法が空なることの義は、全てこの門に入ることによって、まさに完全に顕わとなる。善現よ、この𧙃字等の名に入ることが、諸字門に入ることである」
玄奘訳『大般若波羅蜜多経』巻五十三(T5, p.302c)
この『大般若経』の一節は、大乗の般若空、あるいは中観をいくらかでも学んでいなければ理解し難い文言に溢れたものとなっています。すなわち、これについては後述しますが、この一節が言わんしていることを理解するには、算数ができなければ数学など出来ないように、仏教の基礎的な理解、中でも大乗の般若空についての基礎的知識が不可欠となります。
なお、『大智度論』で「四十ニ字」であるとか「諸字門」と言われる、『大般若経』にて (a)・(ra)・(pa)・(ca)・(na)等の字義が述べられている諸々の字は、梵語の母音(の一部)と子音とを総じたもので、『華厳経』などにても説かれています。そして、そこでは四十二字を以て一応、「全ての音」を表するものだとされます。もっとも、梵字の母音と子音の総数については、四十二字と四十七字、四十九字、五十字、五十一字など諸説ありますが、四十七字説が根本であり標準です。
(文殊菩薩の五字呪は、日本で「あらはしゃのう」などと訛りに訛って誤り唱えられ、全く意味を為さないものとなっています。が、それは本来、この四十二字門の最初の五文字「ア・ラ・パ・チャ・ナ」であって、それぞれの音が一切法の本初不生などを象徴的に表したものです。)
『大智度論』において鳩摩羅什は、(a)と(ā)のいずれも単に「阿」と音写しています。しかし、それらは別の、別といっても短音か長音かの違いなのですが、異なった音(字)です。梵語では十二あるいは十六の母音が数えられ、それぞれ別個の字とされているのです。なお、悉曇とは本来、梵字の文字体系全てを意味する語ではなくて、その「母韻」をのみ指した言葉です。そして、その母韻を示す記号、これを点画というのですが、摩多囉〈mātṛ〉あるいは略して摩多と云います。そしてその子音を体文〈vyañjana〉、あるいは字母と言います。
往古の梵字・梵語の基本を伝えようとした印度や胡地の訳経僧や支那の学僧らは、短母音の阿と長母音である阿の違いを、たとえば短音ならば「短阿字」あるいは「阿上聲呼」、長音を「長阿字」もしくは「阿去聲長引呼」などと表記して、その異なることを漢語によって表す様々な努力をしています。しかし、やはり漢字でその発音を正確に写し取るには無理があり、しかも漢語は時代によって発音がかなり異なってきたために、印度僧など梵語の話者と接する機会の無かった支那の後代の人や日本など異邦の人は、梵字の発音が正確にいかなるものであったかを窺い知ろうと、非常な努力を払うことになっています。
では、ここで不生(生じたものでない)、無生(生まれたものでない)とは一体どういうことか。阿字が表するという「本初不生」の意味は何であるのか。
それはすなわち、この世にある全ての事象・存在〈一切諸法〉は、その中にはもちろん我々人も含まれますが、誰か創造神や根源などといったものから「生み出されたものでは無い」・「作り出されたものでは無い」、もしくは「それ自ら生み出たものでは無い」ということ。延いてはそれは、多くの宗教でその存在が主張され、信仰されるような「創造神や根源的存在など存在しない」、ということをも表する語ともなっています。
阿字が意味する本初不生、または単に不生とは、仏教の核心たる縁起〈pratītyasamutpāda〉・縁起生〈pratatya-udbhava〉、空〈śūnya〉または無自性〈asvabhāvatā〉と同義です。なお、本稿で紹介する『阿字観用心口訣』において、阿字には「空」・「有」・「不生」の三義があるとされています。
此字有空有不生三義。空者森羅萬法皆無自性是全空也。然依因縁假體現萬法歴然而有之有也。譬如意珠湛七珍萬寶而如隨縁降寶。破玉見中一物無之。雖然隨縁生寶非無。是以知空有全一體也。是云常住。常住即不生。不生者不生不滅也。是名字大空當體極理。
この字に、「空」・「有」・「不生」の三つの意義がある。「空」とは、森羅万象にはすべて自性〈恒常不変の実体〉など無く、全く空っぽであること。しかしながら、因縁〈原因と条件〉によって仮にその姿を現し、あらゆる事象が歴然として有る(ように見える)ことから「有」である。それは譬えば、如意宝珠〈印度以来「意のままに願いを叶える」とされる伝説的宝玉〉が七珍万宝を内包しており、縁に従って宝を降らすようなもの。けれども如意宝珠を壊して中を見たとしても何も無い。(宝珠は)縁に従って宝を降らせるのである。この譬えによって知るであろう、「空」と「有」とは全く一体であることを。これを常住と言う。常住とは即ち「不生」である。不生とは不生不滅のことである。これを字が意味する、「大空の当体の極理」と名づける。
伝:空海述 実恵筆『阿字観用心口訣』
ここで「有」とは、「依因縁假體現萬法歴然而有之有也(因縁によって仮にその姿を現し、あらゆる事象が歴然として有ることから「有」である)」とされます。すなわち森羅万象の「有」とは「仮に有る」ということであって、一切は因縁によって生じたもの〈因縁生起・縁起生〉であると。それにしても、ここで「有」ということを説明するために持ち出されている如意宝珠の譬えはまったく上手くなく、全然喩えになっていません。
おそらく、これは『大日経疏』で如意宝珠を用いた譬喩がしばしばなされているのに倣おうとしたのであり、あるいはまた地・水・火・風・空の五大を象徴した五輪塔のその最上部にあるように、空大を如意宝珠の形に擬していることにも依るのでしょう。しかし、もし人がこの喩えを聞いたとしても、特に現代に於いてならばなおさら、「是以知(これによって知るであろう)」ことなど誰も無いと思われます。
そこで、ここで言わんとされていることを確かに知るには、このような主張が何に基づいたものであったか、その典拠を知らなければなりません。
ところで、『阿字観用心口訣』が伝説通り空海口説のものではないとしても、空海は阿字の意義について同様のことを、その著『吽字義』において述べています。
一吽字相義分ニ。一解字相ニ釋字義。初解字相者又分四。四字分離故。金剛頂経釋此一字具四字義。一賀字義。ニ阿字義。三汗字義。四麼字義。《中略》
阿字義者訶字中有阿聲。即是一切字之母。一切聲之體一切實相之源。凡最初開口之音皆有阿聲。若離阿聲則無一切言説。故為衆聲之母。若見阿字則知諸法空無。是為阿字字相。《中略》
阿字實義者有三義。謂不生義。空義。有義。如梵本阿字有本初聲。若有本初則是因縁之法。故名為有。又阿者無生義。若法攬因縁成則自無有性。是故為空。又不生義者即是一實境界即是中道。故龍猛云因縁生法亦空亦假亦中。又大論明薩婆若有三種名。一切智與二乗共。道種智與菩薩共。一切種智是佛不共法。此三智其實一心中得。為分別令人易解故作三種名。即此阿字義。
一つの吽字〈हूँ / hūṃ〉について、相〈形態・特徴〉と義〈意義〉とのニつに分かち、第一には字相を解釈し、第二に字義を解釈する。初めに字相を解釈するには、またさらに(吽字を)四つに分かつ。(吽字は)四字に分離することが出来るためである。『金剛頂経』では、この一字を解釈して四字の義が具わるとされる。一つには賀字〈ह / ha〉の義、ニつには阿字〈a〉の義、三つには汗字〈ū〉の義、四つには麼字〈ma〉の義である。 《中略》
阿字の義について。訶字〈ह / ha〉の中に阿〈a〉の音がある。すなわち、それはすべての字の母であり、すべての音の本体であり、すべての実相の根源である。およそ最初に口を開いた時の音には皆、阿の音が有る。もし阿の声を離れたならば、あらゆる言説は存在し得ない。故に(阿をもって)様々な声の母とする。もし阿字を見たならば、則ち諸法〈諸々の事物・事象・存在〉が空無であることを知る。これを阿字の字相とする。《中略》
阿字の実義には三義がある。それは「不生」の義・「空」の義・「有」の義である。梵本に従ってこれを言えば、阿字には本初〈ādi-〉の声がある。もし本初が有るならば、それはすなわち因縁の法である。故に「有」という。また阿には無生の義がある。もし法が因縁によって成立するものであるならば、それは則ち自性〈恒常不変の実体〉など有りはしない、ということである。この故に「空」という。また、「不生」の義とは、即ち一実の境界であって、これを中道という。故に龍猛〈Nāgārjuna. 龍樹〉は(『中論』において)「因縁生の法は空であり仮であり中である」と説いている。また『大智度論』においては、薩婆若〈sarva-jña. 一切智〉について説明するのに三種の名を以てしている。一切智は二乗と共通するものであり、道種智は菩薩と共通するものであり、一切種智はただ仏陀のみ有するものであると。これらの三智は、実に一心の中において得られるものである。(しかしながら、本来一つのものであるけれども)そのように分別することによって人々に理解し易くさせるために、三種の名が立てられている。すなわち、これらもまた阿字の義である。
空海『吽字義釈』(『定本 弘法大師全集』, vol.3, pp.55-56)
ここで空海は、阿字には「不生」・「空」・「有」の義があるといい、またそのそれぞれが「中道」・「無自性空」・「因縁之法」を意味するものであるとして、それが龍樹の『中論』・『大智度論』に基づいた言であるとしています。そして、またその上でこの一節に続き、それが『大日経疏』巻七にある一節であることを明示してはいないものの、阿字についての註釈をまるごと引いて阿字の表する一切諸法本不生〈あらゆる事物・存在は縁起生なるものであって、無自性空にして仮有なるもの〉という普遍の真理に、〈阿. あ〉という音を抜きにしてはいかなる言語も成立しないことを重ね、それがあらゆる存在の根底であるとしています。
とは、あらゆる音声・言語に欠くべからざるものであり、その故に一切万物のあり方に透徹する無自性空(本不生)という真理を表する音・文字であって大いなる真理の象徴、いや、真理と等同なるものとされます。そしてその背後には声、いや、音・響きというものに対する密教の見方がある。あらゆる事物、我々は響きとして、無自性空として揺らぎつつ有るようにして有る。そしてそれを完全に知り抜くことが、まさに『大日経』の説く「如実知自心」であって、仏陀に等しい智慧すなわち一切智智であることを示しています。
ここで一点、極めて当たり前のことではあるのですが、よくよく注意しておかなければならないことがあります。
「阿字とは真理の象徴」であるとか「阿字は真理に等同」であるとしても、それを闇雲にありがたがっても意味などありません。阿字がそのように真理を表したものであることは、例えば万有引力の法則や相対性理論もまた真理であって、それは数式で極めてシンプルに美しく表現されているようなものです。
言うまでもなく、その数式を崇拝したり祈念などしても、その意味を理解など出来はしません。また、それを伏し拝むことによって、その真理・法則を自らが駆使あるいは捻じ曲げることなど「絶対に」出来はしません。それと全く同様に、阿字が真理の象徴あるいは仮に真理そのものだとして、それを「本尊」だといって祭り上げ、なにもわからぬまま盲信の対象とすることなど、愚の骨頂以外の何者でもない。
しかし、その愚の骨頂が具現化したような手合こそ阿字や阿字観について積極的に語るばかりとなっているのは、どうしたことでしょうか。阿字が本不生を意味するものであるからといって、それを説こうとする本人がまるでその基礎を固めても踏まえてもいない、中身のない「空っぽ」であってはいけない。それとこれとは話が全く別です。
仏教において、阿字の一字・一音によって真理を表するもの(象徴)だと示されているのは、たとえば先に示した『般若経』のような、その元・根拠となる思想・言葉がまずあるからこそです。そして『般若経』が前提としているのは、諸々の阿含経にて説かれた縁起・空の教説です。それはたしかに仏陀釈迦牟尼によって初めて悟られ開示され、さらにはその後代の偉大な弟子・先徳によって伝承され、敷衍展開されたものです。そのような種々の前提を、ただ一字・一音にて表するのはまこと便利であって、そのゆえに優れた方法であります。が、それは無論、「拝む」ためのものでなくて、自らが目の当たりに理解、体得するためのものです。それを拝んでどうしようというのか。
それを確実に理解するのには、その基礎・根本から確かに学び重ねていなければなりません。これは数学を学ぶ前にはまず四則演算など算数を確実に習得しておらねばならず、数学を学ぶと言ってもその初等から段階的に学び理解していなければ、高等数学には触れることすら出来ないようなものです。あるいは、物理学を修めるには最低でも数Ⅰ・数Ⅱを習得していなければ、無論それだけでは全く不十分ですけれども、そもそも手のつけようが無いようなものです。
仏教においてはしかし、ただ座学・机上において全うできるものではなく、戒を身口の上でも実現した上で、心神を陶冶するための修習、瑜伽を修めなければなりません。そのような段階を踏むことを、仏教では戒学・定学・慧学の三学といいます。
なんであれ、その基礎からの積み重ねがなければ何にも達することは出来はしません。そのような極めて「当たり前」をまったく理解せず、いきなり「なんだか知らねぇけれども阿字とはありがてぇものなのだ。はい、礼拝~」とただ伏し拝むことに自ら終始し、他にも推奨・強制しているのだとすれば、それは救いようのない阿呆でありましょう。しかし、そのような手合こそ真言や天台の僧職者にいまだ多くあります。
「ありがたや」・「これも、ご縁だね?」・「我々は生かされているのだ!」・「おかげさま」・「ぼーさんの仕事は拝むことに尽きる」などと愚かなことを慣習的に言うに終止し、今示したような肝心の仏教自体は知らず学ばず、にも関わらずいかにも僧徒面する禿頭の類を見聞きしたことのない者など、今の世によもやありますまい。故に世間はその手合こそが「仏教の僧侶とはこういうものであろう」などと理解されているのだと思われます。そしてその故に、もはや日本の仏教に課せられているのは、仏教にまつわる文化財・文物の保護と、伝統芸能と化した法要の類を見世物として継続することくらいでありましょう。誠に詮無いことです。