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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

実恵『阿字観用心口決』

原文

次所詮理者。此अ字有空有不生三義。空者森羅萬法皆無自性是全空也。然依因縁假體現萬法歴然而有之有也。譬如意珠湛七珍萬寶而如隨縁降寶。破玉見中一物無之。雖然隨縁生寶非無。是以知空有全一體也。是云常住。常住即不生。不生者不生不滅也。是名अ字大空當體極理。然我等胸中此字觀自然具足此三義。具此三義者即大日法身也。入此觀門行者雖初心生死輪迴永絶。行住坐臥無離皆是阿字觀也。易行易修而速疾頓悟也。若既座逹必非半跏法界定印行住坐臥悉अ字事思。我等聲生起事開口最初胸中從अ生而當喉腭舌齒唇。出此五處金界五部諸尊説法之聲也。喉舌唇云時胎藏三部也。如是知徒事無之。惡口兩舌妄語綺語皆經五處三内出音即大日如來海印三昧王眞言也。此理不知皆成惡業墮地獄受諸苦。知與不知差別也。蓮華三昧經云。胸中兩部曼荼羅坐烈各下轉神變其中西方無量壽如來掌説法談義徳常恒説法。其音自我口出成聲塵得脱利益也。然凡夫不知之我語思被封我物執情。恒沙萬徳無量密號名字功徳法門氣聲。只徒成惡趣業因事誠可悲也。是則自然道理陀羅尼性海果分法門本不生極理也。海如攝百川一切善根收此一字。故云海印三昧眞言也。依之一度觀此字八萬佛教同時勝讀誦功徳云云

訓読

次に所詮の理とは、此のअ字に空・有・不生の三義有り。空とは森羅萬法まんぽう は皆自性無く、是れ全く空なり。然れども因縁に依て仮りに体を現じて萬法歴然として之有るは有なり。譬へば如意宝珠に七珍萬宝を湛へて、而も縁に随て宝を降すが如し。玉を破て中を見れども一物も之無し。然りと雖、縁に随て宝を生じて無きにあらず。是を以て知る、空有全く一体なり。是を常住と云ふ。常住とは即ち不生なり。不生とは不生不滅なり。是をअ字大空の當体の極理と名く。然るに我等が胸中に此の字を觀すれば自然に此の三義を具足す。此の三義を具する者は即ち大日法身なり。此の觀門に入る行者は初心なりと雖生死輪迴永く絶して、行住坐臥に皆是の阿字観を離るること無し。易行易修にして速疾に頓悟するなり。若し既に座すること逹すれば、必ずしも半跏、法界定印に非れども行住坐臥悉くअ字なる事を思ふべし。

我等が声の生起する事は口を開く最初に胸の中にの生ずるに従て、喉・腭・舌・歯・唇に当て、此の五処より出るは金界五部の諸尊説法の声なり。喉・舌・唇と云ふ時は胎藏三部なり。是の如く知れば徒なる事之無し。悪口両舌妄語綺語、皆五処三内に経て出づる音なれば、即ち大日如来の海印三昧王真言なり。此の理を知らざれば皆悪業と成て地獄に堕して諸苦を受く。知ると知らざるとの差別なり。

蓮華三昧経に云、胸中に両部の曼荼羅坐烈して各々下転神変し玉へり。其の中に西方の無量壽如来は説法談義の徳をつかさどり、常恒に説法し玉ふ。其の音我が口より出でて声塵得脱の利益を成すなり。然るに凡夫は之を知らずして我が語と思ひ我物の執情に封せ被れて、恒沙の萬徳無量の密号名字の功徳法門の気声ては、只徒らに悪趣の業因と成す事、誠に悲むべきなり。是れ即ち自然道理の陀羅尼、性海果分の法門、本不生の極理なり。海に百川を摂するが如く、一切の善根は此の一字に収む。故に海印三昧の真言と云ふなり。之に依て一度此の字を観ずれば、八萬の仏教同時に読誦する功徳に勝れたり云云

脚註

  1. 空・有・不生の三義 『大日経疏』の「阿字自有三義。謂不生義。空義。有義。如梵本阿字有本初聲。若有本初則是因縁之法。故名爲有。又阿者是無生義。若法攬因縁成。則自無有性。是故爲空。又不生者即是一實境界。即是中道(阿字自らに三義がある。それは不生の義、空の義、有の義である。梵本の阿字には本初〈ādi-〉の声がある。もし本初が有るならば、それはすなわち因縁の法である。故に有という。また阿には無生の義がある。もし法が因縁によって成立するものであるならば、それは則ち自性〈恒常不変の実体〉など有りはしないということである。この故に空という。また、不生とは即ち一実の境界であって、これを中道という)」との一節を受けての言。空海はこの一節をその著『吽字義釈』にて丸ごと引き、阿字の意義として示している。
  2. 如意宝珠 サンスクリットcintā-maṇiの漢訳。その音写、振多摩尼との語も稀に用いられる。印度以来、「意の如くに願いを叶える」とされる伝説的宝珠。古来、仏舎利すなわち駄都〈dāthu〉は、如意宝珠であるとも見なされている。
  3. 不生不滅 『中論』などにおいて、空とはいかなることかを表現するのに用いられた「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去」、いわゆる八不中道のこと。
  4. 大日法身 法身とは、本不生という真理そのもの。空海『吽字義』「法身有अ義。所謂法身者諸法本不生義。即是實相(法身にअの義がある。いわゆる法身とは本不生の義であって、すなわちそれが実相である)」
  5. 易行易修にして云々 この一説を根拠として、現在も巷に「阿字観は易行易修にして達しやすい」などと宣伝し、人々に実修を進める者がある。しかし、果たしてその言が真であるか偽であるかは、そのように宣伝する者を見たならば瞭然となる。あるいは自ら試しに一刻でも阿字観を修してみたならば、到底「易行易修にして達しやすい」ものでは無いことを知るであろう。
  6. 金界五部 『金剛頂経』系の密教経典に説かれる、金剛界における五仏を中心として説かれた五つの範疇の総称。すなわち、大日如来の仏部・阿閦如来の金剛部・宝生如来の宝生部・無量寿如来の蓮華部・不空成就如来の羯磨部。
    ここで金剛界の五部尊について、「我等が声の生起する事は口を開く最初に胸の中にअの生ずるに従て、而して喉・腭・舌・歯・唇に当て、此の五処より出るは金界五部の諸尊説法の声なり」などと当てているがまず根拠不明であり、また曖昧かつ不合理な説である。よって、ここでこのように言われていたとしても、この一節については一先ず気に留める必要は無い。
  7. 胎藏三部 『大日経』系の密教経典に説かれる、大悲胎蔵生曼荼羅における仏部・蓮華部・金剛部の領域を総称した語。
    先の金界五部のそれに続き、「喉・舌・唇と云ふ時は胎藏三部(の諸尊説法の声)なり」とあり、それはいわゆる独自の説であろうけれども、やはり修習において注意を払う必要など今は認められない。
  8. 悪口 粗暴な言葉。一般に悪口とは、文字通り「わるぐち」の意として理解されるが、本来悪口とは(他を罵倒する語も含まれるが)粗暴で下品な発言の類のこと。
  9. 両舌 二枚舌。あるいは他者を誹謗・中傷すること。いわゆる悪口、陰口を言うこと。
  10. 妄語 事実でないことを意図的に言うこと。虚言、嘘を言うこと。
  11. 綺語 無駄口をたたくこと。意味の無い発言、下らない内容の会話。綺語とは「綺麗事を言うこと」ではない。
  12. 海印三昧王真言 海印三昧陀羅尼とは、経説に従えば『守護国界主陀羅尼経』巻三に説かれる、婀〈a〉・囉〈ra〉・跛〈pa〉・者〈ca〉・娜〈na〉を始めとする諸字門(四十二字門)陀羅尼のこと。もっとも、空海は『声字実相義』において「雖云眞言無量差別。極彼根源不出大日尊海印三昧王眞言。彼眞言王云何。金剛頂及大日經所説字輪字母等是也。彼字母者。梵書阿字等乃至呵字等是。此阿字等則法身如來一一名字密號也(真言には無量の差別があるとは言え、その根源を極めたならば大日尊の海印三昧王真言に過ぎない。その真言王とは何かと言えば、『金剛頂経』および『大日経』所説の字輪・字母である。その字母とは梵書の阿字から呵字などのことである。この阿字などは則ち法身、如来の一々の名字・密号である)」と述べて、大日尊海印三昧王真言とは『金剛頂経』および『大日経』所説の字輪字母、すなわち五十字門であるとしている。
    五十字門と四十二字門とではその所説の経典など系統が異なるが、結局は等しく諸法本不生を示すものとしていることに変わりないから、今はいずれの説をとっても大差ない。
  13. 此の理を知らざれば 自他によって放たれる言葉が、たとい悪口などいわゆる十悪として数えられる悪しきものであったとしても、その言葉、いや音自体はすべて仏教の開示する諸法の真理を開陳したものである、ということが、ここでの「この理」の意。無論、悪口など元よりなすべきでないものであるが、そのような音・字に対する理解を持っているかいないかによって、その者の見る世界はまったく異なる。真言密教とは、この世のあらゆる音・字に対する見方を全く転換させた、尋常ならざるものであることからも密教と言われる。
  14. 蓮華三昧経 『妙法蓮華三昧祕密三摩耶経』のことか。ここで引用される文言に該当するものは、現存する当該経典のうちには見出せない。
  15. 両部の曼荼羅 『大日経』所説の大悲胎蔵生曼荼羅と『真実摂経』など『金剛頂経』所説の金剛界曼荼羅の二種を合した称。前述したとおり、これを「両界曼荼羅」あるいは「両界」などと称し、また胎蔵曼荼羅を「胎蔵界曼荼羅」などと言うことは全く誤った中世以来の習慣であって、今は正すべきもの。
  16. 無量壽如来 阿弥陀如来の別称。

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