広略秘観の事
御口に云、真言の観門、多途と雖、詮を取り要を抽るに廣略の二観に過ぎず。先づ略観とは、大日経第一に云、祕密主、云何が菩提とならば、謂く実の如く自心を知ると文 此の文は大日に対して金剛薩埵問ひ給て、大日、知自心と答へ給ふなり。疏の七に云。若し本不生際を見る者は即ち是れ実の如く自心を知るなり。実の如く自心を知るは即ち是れ一切智智なり文 故に経に説く所の如実知自心とは、本不生際を見る也。本不生際を見るを一切智智と為す。一切智智とは即ち大日なり。故に真言教の即身成仏は本不生際を見るなり。本不生とは一切諸法は本従以來、不生不滅にして本有常住なり。煩悩も本来不生の煩悩なり。菩提も本来不生の菩提なり。是の如く知るを一切智智と名く。然るに我等が生滅去来は眼に当て知り易く、不生不滅は知らざる所なり。此の如く諸法本来不生不滅の義は顕教にも盛に之を談ず。故に此の不生不滅の名言は密教不共の談には不ず。然るに今、密教の規模は、凡夫の見聞覚知に及ばざる所。不生不滅の体を直に種子・三摩耶形に顕して之を知見せしめて之を修せしむ。是れ顕教の都て知らざる所なり。言ふ所の本不生際の体とは種子は字、三形は八葉蓮華なり。此の八葉蓮華とは、大日経に説く所のहृद心なり。हृद心とは即ち是れ衆生の八分の肉団なり。
大日経疏五に云、内心の妙白蓮とは、此は是れ衆生の本心の妙法芬陀利華、秘密の標識なり。華臺の八葉は円満均等にして、正く開敷せし形の如し。此の蓮華臺は是れ実相自然の智慧なり。蓮華葉は是れ大悲方便なり。正く此の蔵を以て大悲胎藏曼荼羅の体とす。その余の三重は是れ此の自証の功徳より流出せる諸の善知識入法界門なり。此の曼荼羅の極少の量は十六指に剤し。大なるは則ち無限なり文 今、此の文の内心妙白蓮とは此は是れ衆生の本心なり。妙法芬陀利華とは心なり。此の心蓮を観ずべきなり。其の観想する樣は心中に八葉の蓮華有と観ずべし。蓮華の形は世間の蓮花の形の如し。唯此の蓮花計でも観ずべきなり。又蓮花とはहृद心是れなり。心は此の蓮花に住す。此の二心は暫時も離れざるが故に蓮花の上に月輪を観ずべし。月輪とは心なり。心の形は実に月輪の形の如し。月輪の形の円形なる事は常の水精珠等の如し。又蓮花の種子は字なり。故に月輪の中に字を観ずべし。字の形は常に書ける形の如し。迴り四方に有るべきなり。常に書するは是れ一方の形計りなり。上下は別に其の形無し。一切梵字の形の四方なる事も字を以て之を准知すべし。今、此の阿字・蓮花・月輪の三の中に、若しは蓮花計り観じ、若しは蓮花と月輪とを観じ、若しは蓮花と字とを観ずべし。行者の意に任すべきなり。月輪の勢は一肘量なり。此の量を減ずべからず。
又此の略観に付て二樣有り。一には、先づ前一肘に八葉の蓮花を観じ、若しは月輪、若しは字等、此の如く彼此相対して歴然として之を観じ、その後に前一肘に観ずる所の蓮花を自身の中に召入すべし。是れ常の入我我入観の如くするなり云云。一には、先づ前一肘に蓮花を観じ、若しは月輪・字等、観念の退転無く、年月を経て之を勤修するに、所観の蓮花等を目を閉ぢ、目を開て見る程に観じて、自身に之を召入すべし。
問ふ。此の字蓮花とは本不生際の実体を顕す事なり。此の観を作す時は此の種子・三形の義理、之を観ずるや。
口に云く。観法の時は別に義理を思惟せず。唯其の形色を如法に歴然として之を観ずる計りなり。又云く、此の字を世間に多く之を書し置くが故に、人之を軽んじ常の事の樣に思ふ。大なる僻案なり。此の字は即ち淨菩提心の実体にして即身成仏の肝心なればなり。
已上、略観畢り。
次に広観とは、義釋に云く、行者、若し一切縁従起する法は、皆是れ毘盧遮那の法界身なりと見れば、爾時に十方通同して一仏国と為る。是を究竟の淨菩提心と名く文 今、此の釈の意は、一切縁起の諸法に対して皆、毘盧遮那法身と照すなり。其の故は一切の諸法は色・心の二法を出でず。色・心の二法は即ち是れ六大なり。六大は即ち是れ毘盧遮那法界身なり。爾時に十方通同して一仏国と為るとは、既に一切縁起の諸法を押へて直に毘盧遮那法身と照すが故に、十方の浄土と六道の穢所と差別有ること無く、同一法界宮なり云云 心、寂静なる時は略観に住し、心、散乱する時は広観に住すべし。此の二の観門は是れ極秘なり。行住坐臥に懈ること無く、精進修行して速に淨菩提心を開顕すべきものなり。
已上、秘観なり云云
広・略の秘観の事
(空海阿闍梨の)御言葉によれば、真言の観門は多岐にわたるとはいえ、これを詮じてその要を採ったならば、広・略の二観に過ぎないという。まず略観とは、『大日経』第一に、「『秘密主よ、何が菩提でしょうか』(との問いに)答えて曰く、『実の如く自心を知ることである』」とある。この一節は、大日如来に対して金剛薩埵が質問されると、大日如来が「自らの心を知ることである」とお答えになったものである。また、『大日経疏』第七には、「本不生際を見る者は、すなわち実の如く自心を知る。実の如く自心を知るとは、すなわち一切智智である」とある。故に、『大日経』に説かれる「実の如く自心を知る(如実知自心)」とは、本不生際を見ることである。本不生際を見ることを一切智智という。一切智智とは大日である。このようなことから、真言の教えにおける「即身成仏」とは、本不生際を見ることである。本不生とは、一切諸法は本来不生不滅であって本有常住であることを意味する。煩悩も本来、不生の煩悩である。菩提も本来、不生の菩提である。このように知ることを一切智智と名づける。しかしながら、我々にとって事物が生滅し去来することは目に見えて知り易いのにも関わらず、不生不滅は知り難い。そのように、諸法が本来不生不滅であることは、顕教でも盛んに論じられている。したがって、不生不滅という名言は密教不共〈独自〉の談ではない。ただし今、密教が語るところのそれは、凡夫の見聞覚知が及ぶものではない。不生不滅の本質を、直に種字・三摩耶形によって表して(行者に)知見させ、実体験させるものである。これは顕教において全くしられていないことである。言うところの本不生際の本体とは、種字は字であり、三摩耶形は八葉の蓮華である。この八葉の蓮華とは、『大日経』に説かれるहृदय〈hṛdaya. 心臓〉心である。हृदय心とは、衆生の「八分の肉団〈心臓〉」である。
『大日経疏』巻五には、「内心の妙白蓮とは、衆生の本心の妙法なる芬陀利華〈白蓮花〉、秘密の標識〈目印・象徴〉である。華台の八葉は円満均等であって正く開敷している形である。この蓮華台は実相自然の智慧、蓮華葉は大悲方便である。正しくこの蔵をもって大悲胎藏曼荼羅の本質とする。その他の三重は、この自証の功徳より流出する、諸々の善知識入法界門である。 この曼荼羅の極少の大きさは十六指〈約33cm〉に等しい。最大は無限である」とある。今この一節にある「内心の妙白蓮」とは、衆生〈生命あるもの〉の本心である。妙法芬陀利華とは、〈hṛta. 誤字。正しくは hṛd. 心臓の意〉心である。この心蓮を観じなければならない。これを観想する際には、「心中に八葉の蓮華がある」と観ぜよ。蓮華の形は世間の蓮花の形と同様である。ただこの蓮花ばかりを観ぜよ。また、蓮花とは〈sita. 誤字。正しくは citta. 心・意識〉心である。心とはこの蓮花に住するものである。これら(心臓と意識との)「二つの心」は、一瞬足りとも離れることない不可分のものであることから、蓮華の上に月輪を観想せよ。月輪とは心である。心の形は、まったく月輪の形と同様である。月輪の形が円形であることは、水晶珠などのよう(に平面の円ではなくて球形)である。また、蓮華の種字は字である。このことから、月輪の中に字を観想せよ。の字形は常に書く形と同じである。(球形の月輪の)まわり四方に(字)が有ると(観想)せよ。普段(月輪の中に阿字が)書かれているのは、ただ一方の形だけに過ぎない。上面・下面には、別段その形はない。(他の観想の対象とすべき)すべての梵字の形が四方にあることも、字によって准知せよ。今、これら字・蓮華・月輪の三つにおいて、あるいは蓮華だけを観じ、あるいは蓮華と月輪とを観じ、あるいは蓮華と字とを観ぜよ。行者の意に任せるべきことである。月輪の大きさは一肘量である。この大きさから小さくしてはならない。
また、この略観について二様ある。一つは、先ず(胸の)前から一肘の所に八葉の蓮華を観じ、あるいは月輪、あるいは字を観じる。このように、彼此相対して、(眼を閉じたとしてもありありとそれが見えるほどに)歴然としてこれを観じ、その後に(胸の)前一肘に観じていた蓮華を、自身の中に召入する。これは常の入我我入観と同様にする、といわれる。また一つには、(胸の)前一肘に蓮華を観じ、あるいは月輪・字を観じる。観念をゆるがせにせず、年月を経てこれを勤めて修行して、観ずる所の蓮華などが、眼を閉じていても眼を開いて見ているかのように観じて、自身にこれを召入する。
問:この字・蓮花とは、本不生際の実体を顕すことである。この観法を修する時は、これら種字・三摩耶形の意義を観じなければならないのか。
答:(大師の)口訣では、「観法を修する時は特にその意義を思惟しない。ただその形・色を、経説の通りに明らかに観じるだけのことである」と云う。またこうも言われる、「この字を世間にて多く書き記していることによって、人はこれを軽視して世俗・日常のことのように考えるが、大いに誤った考えである。この字とはすなわち、浄菩提心の実体であって即身成仏の肝心なのであるから」と。
以上、略観おわり。
次に広観とは、『大日経義釈』に「行者がもし、一切の縁に依って生起する法は、すべて毘盧遮那〈Vairocana. 大日〉の法界身であると見たならば、その時、十方通同して一仏国となる。これを究竟の浄菩提心と名づける」とある。今、この『義釈』における註釈の意は、一切縁起の諸法をすべて毘盧遮那の法身であると見極めること。その故は、一切の諸法は色・心の二法に過ぎないためである。色・心の二法とは、(地・水・火・風・空・識の)六大である。六大とは、毘盧遮那法界身である。「その時、十方通同して一仏国となる」とは、既に一切縁起の諸法をして毘盧遮那法身であると見極めていることから、十方の浄土と六道の穢所とに異なりはなく、(浄土も穢土も)同じく一法界宮である」と説かれている。
心が寂静である時は略観を修め、心が散乱している時は広観を修めたらよい。この(略観と広観との)二つの観門は極秘である。行住坐臥に怠ること無く、精進修行して速やかに浄菩提心を開顕すべきものである。
以上、秘観である。