大唐ノ祖師ノ教誡本朝ノ上人ノ物語ワスルヽ事ナク𬼀。道人ノアルベキヤウヲワキマヘバ。人身ヲウケタル思出ナルベシ。古德ノ言。先達ノ誡メ識ニ熏シ神ニ染メ骨ニキザミ紳ニカクベシ。此ノ故ニ古人云神丹九轉點レ鐵成レ金至理一言轉レ凡成レ聖トイヘリ。先賢ノコトバヲロカニ思ハンヤ。故ニ東福寺ノ長老聖一和尚ノ法門談義ノ座ノスヱニ。ソノカミノゾミテ。時々聽聞スル事侍シニ。顯密禪教ノ大綱誠トニ目出ク聞ヘ侍キ。ソノ旨ヲエズトイヘドモ。意ノ及フ所ノ義門心肝ニ染テ。タトクオボヘ侍キ。恨ラクハ晩歳ニアヒテ。久ク座下ニアラザル事ヲシカレトモ。佛法ノ大意能々慈訓ヲカフリ侍キ。關東下向ノ時。海道ノ一宿ノ雜事營テ侍シニ。ヨノツ子ノ人ノ風情ニハ。イミシクナント色代スル事ニコソ侍ニ。何シニカヽル事營ミ給ヘルアルベカラヌ事也。初心ノ菩薩ハ事ニ渉テ紛動スレバ。道ノ芽ヲ破敗ストコソ申せトテ別ノ語ナシ。此ノ語ハ心肝ニソミ。耳ノ底ニトヾマレリ。此ハ玄義ノ中ニ侍ニヤ。觀行初心ノ行者ハ觀心ヲ專シテ。事ノ六度猶行セズ。マシテ世間ノ事心ニカケズ身ニイトナマズ。萬事ヲ休息シ。用觀ヲ専トスベシ。モシ事ニワタレバ。觀心ノ芽破ルトイヘル事ヲ示シ給キ。凡ソ機法ノアハヒ分明ニ教導有キ。法ノ體ハ無迷無悟無惑無智諸教ノ廢詮ノ不生不滅至理ノ言語道斷。コレ皆法ノ體ヲトク。此所ヲ達𬼀。事理無㝵ナラバ。萬法ヲツカヒ得テ。別ノ修行アルベカラズ。然ニ頓悟頓修ノ人ハ希也。龍女ガ菩提心ヲオコシテ。ヤガテ成佛シ無垢ノ成道ヲ唱シガゴトキコレ也。頓悟漸修ノ機ノミオホシ。故ニ經ニ云。理ハ則頓ニサトル。乗悟ニ併ラ消ス事ハ非ズ。頓ニ除クニ因テ。次第ニ尽スト云云。シカレバ法ハ頓ニサトルトイヘドモ。機情ハツキガタシ。風ハヤムト云ヘドモ。波ハ猶タチ。日ハイツト云トモ。霜ハヤウヤクキユ。境縁ニヒカレテ。萬法ヲ轉スル力ナキ時ハ。持律坐禪等ノ調伏ノ行ヲ修ル是ヲ機ト云。法體ニアヅカラズ。只機情ノ上ノ著相ヲ漸クノゾクナリ。此ノ分別ナキ人ハ。佛知見ノ照ス所ノ法ノ體ヲ。機情ヲモテ計度分別𬼀。不生也ト思テ。無礙ノ見ヲオコシ。空無ノ解ヲナシテ。無善無惡無凡無聖ト道理バカリヲ心得テ。妄業ヲバ。ホシ井マヽニツクリ。行モナシ修モナシトテ。善行ヲハ。モノウクナサズ。已ニ情量ノ中ニ取捨シ。分別ノ上ニ惡愛ス。イカデカ平等ノ一心ヲサトリ。無相ノ妙體ニ合ハン。機法ノ分別是也。佛法ニアヤマリナキ解行ヲワキマヘン事。真ノ善知識ノ力ナルベシ。能々用意𬼀大乗ノ修行ハゲムベキ事此生ニ有リ。彼ノ和尚ノ慈訓。心ノ底ニクタサシト思故ニ。書ツケ給フ所。教門ニ府合シテ。アヤマチナキ法門ナルベシ
沙石集巻第三下終 神護寺 迎接院
大唐の祖師の教誡、そして本朝の上人〈明恵〉の物語を忘れる事なく、「道人のあるべきよう」をわきまえたならば、人身を受けた思出〈一生涯の記念、生まれた甲斐〉となるであろう。
古徳は「先達の誡めを識に熏し、神に染め、骨にきざみ、紳に書け」と言った。この故に古人は「神丹九転せば鉄を點じて金と成す。至理の一言は凡を転じて聖と成す」と云っている〈延壽『宗鏡録』〉。(これらの)先賢の言葉を愚かしく思うであろうか。故に(私、無住が)東福寺の長老、聖一和尚〈鎌倉中期の禅僧。東福寺の開山〉の法門談議の座の末に、そのかみに望んで時々聴聞する事があったが、顕〈顕教〉・密〈密教〉・禅〈禅宗〉・教〈教宗、特に天台宗〉の大綱を、誠に目出度く〈喜ばしく〉聞いていた。その(和尚が語られた全ての)旨〈意図〉を得られなかったといえ、(私の)意〈理解〉の及びえる所での義門〈各宗義の要略〉が心肝に染み、尊く思われたのだ。恨しい〈残念な、未練な〉のは、(私、無住が)晩歳〈晩年〉となってから(聖一和尚に)逢ったため、久しく(聖一和尚の)座下にいられなかったことである。しかしながら、仏法の大意について、よくよく(和尚の)慈訓〈慈しみ溢れる教え〉を被ることができた。
(私が、聖一和尚に随行して)関東に下向した時、海道〈東海道〉のある宿場にて雜事〈雑用〉を営んでいたところ、世の常の人の風情ならば「立派なことですね」と色代〈過剰な称賛。お世辞〉する事こそあるだろうが、「何の為にそのようなことを営まれたのか。(行者として)『あるべからぬ』ことである。初心の菩薩は、事に触れるにつけ紛動〈乱れ動うこと〉するものであるから、(そのような雑事にかかずらえば)道の芽を破敗する」と申され、別に何も語られなかった。この語は心肝に染み入り、(今も)耳の底に留まっている。これは『玄義』〈智顗『法華玄義』〉の中にある(言葉)であろうか。「観行が初心の行者は、(勧行を修める期間は)観心を専らとして、事の六度〈六波羅蜜〉であったとしても行じないのだ。まして世間の事など、心にもかけず身に営まず、万事を休息し、用観を専らとせよ。もし(世俗の)事に渉ったならば、観心の芽を破る」といった事を示されている。およそ機と法との間〈相関〉については分明な教導がある。
法の躰〈真理それ自体〉とは無迷・無悟・無惑・無智なるものだが、諸教の廃詮〈廃詮談旨〉の不生・不滅、至理の言語道断、これらはすべて法の躰を説き示したものである。この所〈境地〉に達して事理無碍〈行解相応〉となったならば、万法をつかい得て、別の修行などありはしない。ところが、頓悟頓修〈直ちに理解し、それをそのまま日々の理解に反映すること〉の人は希である。(『法華経』提婆品に説かれた)龍女が菩提心を起こしてやがて成仏し、無垢の成道を唱えたようなのは、まさにこれ〈頓悟頓修の人〉であった。(しかしながら、現実には)頓悟漸修〈直ちに理解し、しかしそれを直ちに実行はできず、次第に実践していくこと〉の機のみが多い。故に経〈『首楞厳経』〉には、「理はすなわち頓に悟る。乗・悟に併ら消す事ではない。頓に除くに因って、次第に尽くすのだ」とある。ならば、法は頓に悟るものであっても、機情〈生来の情意・人情〉は尽き難いものである。風が止んだとしても波はなお起ち、日が出でたとしても霜は漸く消える。境縁に惹かれて万法を転じる力の無い時は、持律や坐禅等の調伏の行を修めるのだ。これを「機」と云う。法躰に関わらず、ただ機情の上の著相を漸く除くのだ。この分別の無い人は、仏知見の照らす所の法の躰を、機情をもって計度分別し、「不生である」と思って、無碍の見を起こし空無の解をなして、無善無悪・無凡無聖などと道理ばかりを心得て、妄業をこそ恣に作り、「行も無し、修も無し」などと、善行をこそ物憂くしてなさない。すでに情量の中で(アレヤコレヤと)取捨し、分別の上に(諸々の事物を)悪愛する。それでどうして平等の一心を悟り、無相の妙躰に合うことがあろうか。「機法の分別」とはまさにこのことである。
仏法に誤りなき解行を弁える事が、真の善知識の力である。よくよく用意〈用心〉して大乗の修行に励むべき事は、この生においてこそ有る。かの和尚の慈訓を心の底にて腐さぬようにと思ったことから書きつけてくださった所は、教門に符合し誤ちない法門である。
沙石集巻第三下終 神護寺 迎接院
本話の主題である「明恵上人の物語」、ひいては明恵上人が生涯通じて遺した言葉を云ったものであろう。▲
生涯のうち記念となること。生まれてきた甲斐のあること。それ自体で満足し得ること。▲
具体的に誰を意図して云ったものか未詳。宋代の支那僧、延壽による『宗鏡録』の一節(「是先聖誠言。實爲後學龜鏡可以刻骨可以。書紳今遍搜揚深有。意矣」)を引き意図したものであろうが、ここに云われる「先聖」が何者か不明。▲
優れた先人。▲
昔の人。具体的に誰かは未詳。▲
延壽『宗鏡録』にある一節(「神丹九轉點鐵成金。至理一言轉凡成聖」)の孫引き。▲
円爾弁円〈1202-1280〉。鎌倉中期の禅僧。死後、花園天皇より聖一国師と諡号された。元天台僧で、入宋して臨済禅を受学。帰国後に九条道家に招聘されて京に入り、東山に東福寺を開いた。東福寺は、栄西が建仁寺にてそうしたように、禅・真言・天台の三宗兼学の道場であったが、円爾はより禅に重きを置いた。▲
顕教と密教、禅門と教門(特に天台教学)。宋代の支那では密教は(雲南を除いて)ほとんど滅び、禅院と教院、そして律院が盛んであったという。平安末期から鎌倉初頭の日本僧は、栄西を先駆けとして盛んに入宋し、宋代の寺院様式や法式・規矩、そして宋代の発音(宋音)を最新の知識としてもたらした。▲
大要、要略、梗概。▲
ある宗の教義。ここでは特定の宗義でなく、顕密禅教それぞれの梗概をいったものであろう。▲
晩年。▲
慈心に基づいた訓戒。慈しみ溢れる教え導きの言葉。▲
海沿いの道。ここでは特に東海道の略。▲
雑用。特に重要でない、細々としたこと。
しかし、ここで「一宿ノ雜事營テ侍シニ」の主体は誰か、本文にその主語が無いために明瞭でない。おそらくは無住が聖一(円爾弁円)に随行して関東に赴いていた時における、自身の経験談であろう。▲
お世辞。過剰な称賛の言葉。▲
関わることを意味する「渉る」の連用形に接続助詞「て」を付した形。ここでは特に「係う」、あるいは「触れる」の意で用いられている。▲
乱れ動くこと。紛は「乱れる」・「ゆるむ」・「まがう」等の意。▲
唐代の支那僧で天台教学を大成した智顗による『法華経』の注釈書の一つ、『法華玄義』の略。▲
止観の修習。止観とは仏教におけるいわゆる瞑想法を総称した語で、心の働きを止める「奢摩他([S] śamatha)」と事物の無常・苦・無我なる真理を達見する「毘鉢舎那([S] vipaśyanā)」の二法からなる。。▲
六波羅蜜。布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧からなる、菩薩が無常菩提に達するため必要な福徳を得るための具体的実践法。
観行を専らとする期間は、最低限身の回りの掃除以外のことは学問・誦経・雑用・説法など何であれ、すべて止息して行うべきでないとされるのは、声聞乗・菩薩乗に通じて云われるいわば常識。たとえばVisuddhimagga(『清浄道論』)や『倶舎論』、そして支那の典籍としては『修習止観坐禅法要』(いわゆる『天台小止観』)に通じて云われている。▲
一般に機は衆生、法は教えとされるが、ここで機は未達の者が持戒し観法を修めること、法は真理を意味する。▲
あわい、間合。ここでは相互の關係の意。▲
真理そのもの、真理それ自体。法体。▲
廃詮談旨の略。事物の真相を示すこと。真理とは言葉を超えたものであって言語で表現し尽くすことが出来ず、最終的にはただ智慧によってこそ直感的に知り得るものであること。▲
一般に、事(種々に相違・差別ある事物・現象)と理(無自性空で一相・平等なる事物・現象の真相)とは別のものでないことの意。事理不二に同じ。ただし、ここではその真理を悟達し、その理解と自身の有り様・行動とが矛盾なくあること、いわゆる行解相応の意であろう。▲
知り得た真理を直ちに理解し、その理解をそのまま直ちに日々の生活に反映して修めること。▲
『法華経』提婆品に説かれる竜王、沙伽羅の娘。龍女は『法華経』に説かれる教えによって八歳にして悟り、釈尊の御前で男子に変成して無上菩提を得たという(いわゆる変成男子による龍女成仏)。▲
知り得た真理を直ちに理解はするものの、しかしその理解を日々の生活に直ちには反映出来ず、時間を掛けて次第に実践して現実のものとすること。▲
般剌蜜帝訳『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』いわゆる『首楞厳経』の一節「理則頓悟乘悟併銷。事非頓除因次第盡」。
明恵をはじめ、当時の禅僧らは『首楞厳経』の所説を信受し、重用していた。▲
生来の情意。人情。▲
既出。法の體(法の体)に同じ。真理それ自体。▲
与らず。与るは①関わる、関係を持つ・②蒙る、受ける。ここでは①の意で、関わらない。▲
散乱した心の状態における智慧をもって認識対象について推量する心作用。認識対象について漠然とあれこれ思いはかること。
『大毘婆沙論』から『阿毘達磨倶舎論』などに説かれる三分別(①自性分別・②計度分別・③随念分別)の一。▲
智慧でなく情意(人情)によってあれこれ思いはかること。▲
霊妙なる(真理)自体。法體(法体)に同じ。▲
朽ち果てさせない、損なわせないの意。
「腐す」の使役形の否定「腐さじ」。▲