『諸宗之意得 』は、その写本の奥書に依れば、仏教をいかに学ぶべきか、この国にはびこる諸宗に対していかに向き合うべきかを、慈雲が折りに触れ説いていたものの集成です。副題にある「雙龍尊者」とは慈雲の尊称、号の一つで、大阪生駒山の中腹に雙龍庵という草庵を構えて隠棲されていたことに因むものです。
此ノ遺稿現に高貴寺に在て存せり。御在世諸方來の狀を綴て本とし其裏に書玉へり。諸宗意得の一段などは墨を縦横に引て自ら消し玉ふ。由て今亦朱を以て之を拭へり。見ん人。故尊者の微志を仰ぎ察すべし。且其折節儉の高行を知れよと云フ
文政七年春三月寓高貴僧界 小比丘詮海誌
天保四巳年八月五日讃西光明山瑜伽乘佛子 重傳拜寫
『諸宗之意得』 長谷宝秀所蔵写本奥書(『慈雲尊者全集』, vol.14, p.40)
以上のことから、『諸宗之意得』はあちこちで慈雲が口説して弟子が筆受していたものを、後に慈雲自らまとめたものであったことが知られます。しかし、それがいつ頃なされたものであるかは不明です。
なお、『慈雲尊者全集』(以下『全集』)の編者長谷宝秀によれば、上掲の写本以外に高井田長栄寺にも写本が残されているようです。その両本を対照すると若干ながら語句に相異が見られるようですが、『全集』所載の『諸宗之意得』は「二本文句少々前後あり。今その善きものに從ふ」と両本を校訂したものとなっています。
慈雲にとって宗旨宗派なるもの、それぞれ独自に展開したその教学などといったものは二次・三次の副次的な、正法(仏教)を理解し実修するための参考程度に留めるべきものに過ぎません。それをしかし、自身の属する宗旨に固執してその祖師自身を神格化し、その見解・教学を絶対視するならば、むしろ仏道を修めるための害悪にしかならないと考えていました。
宗旨がたまりは地獄に堕するの種子。祖師びいきは慧眼を瞎するの毒薬。今時の僧徒多クは我慢偏執ありて。我祖は佛菩薩の化身なりと云ひ。天地の変陰陽の化をとりて。我祖師は不思議の神力なりと説き。愚痴の男女を誑す。佛説によるに。末法には魔力を興盛にして多くかくのごとき事ありと示し給ふ。若し真正の道人ありて真正の佛法を求メんと欲ハば。唯だ佛在世を本とすべし。佛世には今の様なる宗旨はなかりき
宗旨がたまりは地獄に堕ちる種子、祖師びいきは智慧の眼を害する毒薬である。今時の僧徒の多くには我慢・偏執あって、「我が祖師は仏菩薩の化身である」と言い、「天地の変、陰陽の化が取った我が祖師は不思議な神力である」と説いて、愚かで無知な(在家の)男女を誑している。仏説によれば、末法には魔力が盛んになって多くそのような事があると示されている。もし真正の道人があって、真正の仏法を求めようと欲するならば、ただ仏在世を本とせよ。仏世には今のような宗旨は無かったのだ。
『慈雲尊者短編法語集』
仏教を理解するのに、まずいずれかの宗旨宗派に属し、そこでの理解を通じてのみすること。それは現代もまったく当たり前に行われている日本仏教における姿です。実際それぞれの宗派で最初に行われることは、仏陀の生涯や言葉ではなく祖師の生涯と言葉をこそ学ぶことがほとんどです。
実際、ある宗旨宗派に全く染まりきった僧職の人で、その宗祖の生涯やそこ言葉、そしてそれがいかにすばらしいかを立板に水が如くに滔々と語り得るのは比較的多くとも、話が釈尊に及ぶやたちまち大人しくなってしまうようなのは珍しくありません。あるいは、その祖師の言説にそぐう仏陀の言葉だけ抜き取って知っており、それをまたその祖師の思想のみでもって講釈する者は五万とあります。それはもう仏教というよりむしろ祖師教というべきものです。
仏教を理解するのに宗旨宗派の理解を持ち出すことは、必要もないのにわざわざ宗旨という濃色に染めた、どぎつい度の入ってしかも時にレンズが歪んでさえいる眼鏡をかけるようなものです。
仏教、すなわち仏陀の教えというからには、なによりもまず仏陀の生涯とその言葉を学び知り、それに準じたものでなければならない。そこでもしわからないこと、理解しにくいことがあるならば、後の世の学徳あるいは行徳優れた仏弟子の理解に耳を傾け、参考にしたら良いことです。実際、これは特に阿毘達磨などを理解し、あるいは定・瑜伽を修習するのにほとんど必ず必要となることです。けれども、仏弟子といってもただ一人二人に限るのでなく、これはその人の知力・能力にも依りますが、諸徳の見解をなるだけ広く学び知る必要があるでしょう。
正法律復興を掲げて目指したその最初から、慈雲の指針は以下のようなものでした。
毎誡學徒曰。大丈夫兒出家入道。須具佛知見。持佛戒。服佛服。行佛行。躋佛位。切莫傚末世人師所行。須飮淳粋醍醐。莫歠雜水腐乳。此尊者終身所履践。
(慈雲尊者は)事ある毎に学徒を戒めて言われた、
「大丈夫児〈立派な男子〉として出家入道したのだ。(であるからには、)すべからく仏陀の説かれた知見をそなえ、仏陀の説かれた戒をたもち、仏陀が制された衣服を着し、仏陀の説かれた修行を行じて、仏陀の境地に到らなければならない。決して末世の人師が(恣意的な独自説をふるって)行っていることに倣ってはならない。すべからく淳粋な醍醐〈純粋な仏陀の教え〉をこそ飲むべきである。雑水の腐乳〈後代の説を含んで濁り淀み腐った仏陀の教え〉をすすってはならない」
と。これは尊者が終生実践されていたことである。
明堂『正法律興復大和上光尊者伝』(『慈雲尊者全集』, vol.1, p.45)
この「須飮淳粋醍醐。莫歠雜水腐乳(須く淳粋の醍醐を飮むべし。雜水の腐乳をすすること莫れ)」という表現は、もちろん「雑水の腐乳」とは様々な後代の仏弟子による独自の説や解釈すなわち宗派それぞれの教学として良いものですが、人によってはひどく強烈で、行き過ぎた言葉に聞こえるかもしれません。
しかし、この『諸宗之意得』を実際読めばわかることですが、慈雲はすでに形成されて久しい日本の宗旨宗派を頭ごなしに否定などしてはいません。とはいえ、それらはあくまで仏滅後、しかも相当の時を隔てて出来上がったもの。仏陀の教えを乳とするならば、それは乳はなく水など何か他のものです。そして慈雲はここで乳を仏陀の教えに喩えながら、しかし乳とは云わず醍醐を飲めと言っています。醍醐とは、乳(ミルク)・酪(ヨーグルト)・生酥(バター)・熟酥(チーズ)・醍醐(ギー/サルピス)という乳を精製していくと出来る五味の最上であり、乳の精髄です。これはまた涅槃の喩えとして用いられる語です。
自ら仏教の信奉者であると見なし言うならば、やはりその根本を以て基準とし准じることに如くものではありません。これは本来ごく当たり前の考え方というべきことながら、当時もうすでにまったく当たり前でなくなっていたことです。それを慈雲は正そうと自ら実践したのでした。仏教という乳を求めるならば、それを飲まず水を飲んでいかがする。また、乳を飲もうというのにわざわざ水で薄めることはない。ましてや水が混じって腐った乳など飲むべきでなく、また乳を飲むならばその最上のものを求めて飲め、というのです。
このような営みもやはり、特に「道」などを求めるものでなくとも、本来当たり前のことの筈です。人が何かを真摯に追求し極めんとする時、その根源をこそ求め探る態度はむしろ自然であるように思われます。しかし、どうやら世間はそうでない者が著しく多くあります。あるいはそのような者は端から大して求めてなどおらず、ただ一時の利潤を得ることと保身とがその実なる目的であるのか。
甚だしく遺憾なことに、慈雲の当時はその門弟と周辺にまさしく醍醐をこそ飲む者があったでしょうが、今に至るやそのような宗派主義・派閥主義は日本仏教に蔓延ったままで、何ら変わっていません。そして、それに対する反省の声がその内からも外からも挙がることはまずない。それは現代における一般社会にとって、仏教の思想的価値などほとんど認められず、ただ観光と文化財の維持、そして葬送儀礼や祖霊崇拝を機能させるための装置としてのみと存在するようにほとんどなっていることもその原因であるのでしょう。もはや日本において仏教は、思想としては死に体となっています。
実は、仏教がまともに説かれず、もはやその法灯は風前の灯火であるという見方や意識があるのは今に始まったことでなく、中世から近世において生じた浄土や法華などを狂信する者でない至極真っ当な僧俗によって嘆かれ続けてきたことです。そのようなことからすると、日本においてまともに仏教が説かれ行われた時期などほとんど無いと言ってよい。
若し近代の学生の云ふ様なるが実の仏法ならば、諸道の中に悪き者は、仏法にてぞ有ん。
もし近代の学生〈学僧〉らの言うようなのが本当の仏教なのだとしたら、諸々の道〈諸宗教〉の中で悪しきものは、他ならぬ仏教であるのに違いない。
高信『栂尾明恵上人遺訓(阿留辺畿夜宇和)』
しかしながら、世相はそのような状況にあるとはいえ、慈雲以前と以降とは何が違うかといえば、その業績と言葉が多く遺されていることにあります。
今もなお、仏教に興味・関心を持って学ばんとする人はあり、詮無い神秘主義や迷信に関わらること無く、これを真に我が道として行わんとする者もわずかばかりでもあることでしょう。そのような人にとって、近世というわずかニ、三百年前の時代に一等輝いた稀代の高僧、慈雲飲光という大人物の遺した言葉は、仏道を踏みゆくその導師、その師範として、そのかけがえのない指針となるに違いありません、
この『諸宗之意得』は、まさしくそのような書の一つです。
Ñāṇajoti 稽首和南