『出家大綱』は、日本に初めて臨済禅を伝えた明菴栄西により著された書で、いわば「出家者のあるべきよう」が衣・食・戒・律の四章にわたって論じられている小著です。
栄西といえば、建久九年〈1198〉、五十九歳の時に著した『興禅護国論』および建保二年〈1214〉の最晩年に呈した『喫茶養生記』が一般によく知られるのみで、その他の著作は世間でほとんど注目されぬままであるように思われます。しかし、『出家大綱』を始めその他の著作は、『興禅護国論』のみでは知り得ない栄西の思想や行業を知るに不可欠のものが多くあり、またそれらは決していずれか宗旨宗派に限定される内容のものでもありません。
『出家大綱』はまさにそのような書の一つであり、遠く印度渡航を目指して果たせず、しかし宋において経験した律儀を保った禅院生活を経験した栄西が、鎌倉最初期において「出家とは何か」の大略を示したものとなっています。栄西が二度目となる入宋中の文治五年〈1189〉に初めて筆を起し、帰朝して六年後の建久六年〈1195〉にそれを加筆するなど改め、さらにその五年後の正治二年正月六日〈1199〉に再治してなったのが『出家大綱』です。
およそ十年にわたって手を入れ続けられたものであり、また晩年にかかる時期に著されたものであったことは、栄西が『出家大綱』に対して少なからぬ思い入れをもって世に示したものであることを表しています。実際、栄西は本書の結びにて、その目的を以下のように述べています。
予昔在唐之時粗書此略儀今再治以貽同門之初學
私が昔、唐〈宋〉に滞在していた時、この略儀〈『出家大綱』〉の原案を著した。今、これをさらに再治し、同門の初学者のために書きのこす。
栄西『出家大綱』結
この記述によって『出家大綱』とは、栄西がその同門、そして臨済宗の後学・初学者らが読むべきものとして位置づけた重要なものであったことが知られるでしょう。
ここで『出家大綱』の内容がどのようなものであるかの構成を、ごく簡略に表にし以下に示します。
| 第一 二衣法 | 俗衣 | 衣について |
|---|---|---|
| 法衣 | ||
| 第二 二食法 | 請食 | 出家者の食について |
| 乞食 | ||
| 第三 二戒法 | 比丘戒 | 大小乗の戒について |
| 菩薩戒 | ||
| 第四 二律法 | 俗律 | 道俗の律について |
| 道律 |
『出家大綱』はその内容からして、臨済宗徒に限らず、真言・天台・禅・浄土・律など日本の仏教徒らにとっても、特に初学者あるいは戒律についての一片の見識をも有せぬ者らには、現代においてもなお傾聴すべき内容に満ちたものとなっています。
栄西はこのうち「第一 二衣法」および「第二 二食法」に力を入れて記述しています。特に「第二 二食法」では日本仏教における食事作法の原型とも謂うべきものを伝え、また食に関連して歯磨きや水の取り扱い、そして便所の作法までがある程度細かに述べられています。それ以外の「第三 二戒法」・「第四 二律法」は、栄西の戒律観が端的に現れたものとなっており、最初期の臨済宗におけるそれを知る重要な手がかりともなるでしょう。
ところで、栄西は日本臨済宗の祖とされる人ではありますが、実は今の臨済宗は栄西が志向した在り方とは全くといっていいほど異なったものとなっています。これは栄西没後に続々やってきた宋代における禅一辺倒の支那僧ら、たとえば蘭渓道隆や無学祖元の影響が次第に強くなったことが先ずその理由の第一に挙げられます。支那から渡来した禅僧といっても、宋代の禅僧は律義を正しく備えた者は多くなく、すでにかなり乱れた流儀を日本にもたらしていたであろうことが、その頂相や残された袈裟衣などから知ることが出来ます。
そしてまた他に、日本の五山十刹制などその後の臨済宗における組織としての在り方の変化があり、さらには近世江戸期に臨済宗を中興したと言われる白隠慧鶴の思想に強く依るものであったと考えられます。
しかし、少なくとも栄西は新来の禅を称揚・宣布しつつも、「戒ならびに律の厳持を根本とした」天台・真言(そして浄土)を総合的に行う、いわば四宗兼学を指針としていました。これは栄西が比叡山出身であって最澄を敬愛していたことから、(あくまで「栄西による最澄観」に基づくものであって、必ずしも最澄の思想と行業を正しく捉えたものではなかったのですが、)その円・密・戒・禅の継承と復興を目指したものでもあったのでしょう。
実際、栄西自身、比叡山などで天台教学を修学しつつ、天台密教を受けてその一流〈葉上流〉を建てるまでとなり、またさらに真言密教の法統も受けています。また、退耕行勇や釈圓栄朝などの最初期の弟子や円爾など門流らも、臨済禅の広宣につとめつつも禅一辺倒などではなく、戒律の護持を前提とした真言・天台など諸宗兼学で法を説いています。
この傾向はさらに、鎌倉後期から室町期に『元亨釈書』や『聚分韻略』を著したことで知られる禅僧、虎関師錬にも見られるもので、世間にはあまり知られたことでないようですが、虎関も真言密教を受法しこれをしばしば行じています。といっても虎関の場合、密教も非常に優れたものであるけれども禅宗には及ばないものとし、戒律を等閑視している点で同時代の無住一円などとは立場を大きく異にしています。
さて、かえって現今の人々は、これは仏教として全く本末転倒というべき態度ですが、まず「我が宗派ありき」であって、それぞれ信奉する宗旨宗派という色眼鏡をもって仏教を眺めようとする傾向が強く見られます。浄土にしろ禅にしろ法華にしろ、一向というありかた、選択という思想こそあたりまえだと見る向きが非常に強くあるのです。そのことから、禅をもたらし広めたはずの栄西が真言を語り、あるいは天台を説き、また戒律を重視していたということがまるで理解できない、あるいは不純である、発展途上であるなどという所感を持つ人が往々にして現れます。
しかしながら、むしろ諸宗兼学こそ、いわば印度以来の大乗僧のありかたと言ってよいものです。けれども、平安中期以降の日本ではそれを行ってきたのは少数でした。特に鎌倉期に法然や親鸞、日蓮、そして道元など現代に「新仏教」の祖師といわれる者らが続々出て「これだけで良い」・「むしろこれのみ行うのが本道」というが如き態度をとって一宗を立てています。そして、それが時代の潮流などもあり、次第に公家や武家、そして大衆に支持されるようになっています。そのようなことから、今もなお諸宗兼学ということを理解できない者の多くあることも無理ない事かもしれませんが、諸宗兼学はほとんど持律持戒を旨とした僧によって行われてきたことでした。
栄西は、同時代に突出して優れていたといえる華厳僧、明恵上人との深い親交があったと伝えられています。
栄西の当時、それは平安末期から鎌倉期初頭にかけてのことですが、世間には戒律を持することの重要を説きつつ、当時流行しはじめていた法然の浄土教や日蓮の法華宗などのような一つの宗義に捕らわれて一向にこれを行うというのではなく、それとは全く対極的な四宗兼学・八宗兼学のいわば顕密双修を旨とする僧侶の出現が見られるようになっていました。
その僧侶とは、たとえば平安末期の南都において中川実範上人が出るに続いて笠置には解脱上人貞慶があり、そして主に北京にて名を馳せることとなる栂尾明恵上人ならびに本願僧正栄西です。また、栄西よりやや後に宋に渡り、南山律宗・天台・禅を学んで帰朝し、当初は栄西に非常に重用された我禅法師俊芿もそのうちの一人です。
そうして、それに続く流れとして、律宗を再興していった興正菩薩叡尊や大悲菩薩忍性、そして東大寺の円照律師や凝念大徳などがあります。その皆が一様に戒律の最重要性を説いて実践するとともに、密教や修禅などいわゆる瞑想を実際に修め、世に示そうとしています。
さて、その中の一人たる明恵上人には、その伝記として最も有名な『栂尾明恵上人伝』がありますが、そこには栄西禅師と明恵上人との逸話について伝えている箇所が数カ所あります。
建仁寺の長老より茶を進ぜられけるを、医者に是を問ひ給ふに、茶は困を遣り食気を消して快からしむる徳あり。然れども本朝に普からざる由申しければ、其の実を尋ねて、両三本植ゑ初められけり。誠に眠をさまし気をはらす徳あれば、衆僧にも服せしめられき。或人語り伝へて云はく、建仁寺の僧正御房、大唐国より持ちて渡り給ひける茶の子を進められけるを、植ゑそだてられけると云々。《中略》
建仁寺の開山千光法師、大唐国より帰朝して達磨宗を悟り究めて、此の国に弘め給ふべき由聞えけり。或時、上人対面の為に彼の寺におはしける時、折節此の僧正参内して帰られけるに、道にて行き合ひ給ひぬ。彼の僧正は新車の心も及ばぬに乗りて、誠に美々しき体なり。上人はやつれたる墨染に草履さしはき給へり。されば此の姿なるものをばよも目も見かけられじ、無益なりと思ひ帰り給ひけるを、僧正見知り給ひて、車より下りて人を進めて呼び帰し奉りて、対面あり。数刻問答して帰り給ひける。其の後は常に対面ありて法談あり。さる間、僧正此の上人を印可し奉りて云はく、此の宗を受けつぎて興隆すべき人、大切なり。上人其の器に当り給へり。枉て我が門下にましまして、共に興行し給へと申されけれども、さる仔細ありとて深く辞し給ひけり。然れども入滅近付きて御法衣をば奉らる。是れ先師東林の懐敞和尚の法衣なりと云々。《中略》
建仁寺開山の弟子に円空上座と云ふ僧、随分志深くして道行を修する聞えあり。禅定を修すべき様を彼の長老に問ひ申したりければ、栂尾の上人禅定を修すること功積り、已に成就し給へり。其に行きて問ひ奉りて、其の如くに修すべしと仰ありけり。然る間、上座、上人に相ひ奉り、禅定修すべきやうを尋ね申しければ、上人答へて云はく、禅定を修するに三つの大毒あり。是を除かざれば、只身心を労して年を経るとも成就し難しと仰ありけり。其の大毒は何れぞやと尋ね申されければ、一には睡眠、ニには雑念、三には坐相不正なりと云々。是を除きて一切求むる心を捨てて、只無所得の心ばかりを提げて、私に兎角あてがふことなく、徒者に成りかへりて、生々世々に終へんと云ふ永き志を立て給ふべし。私の望み心、穴賢持ち給ふべからず。只此の法師が申すこと、様こそあらめと思ひ給ふべし。是は高辨が私に申すにあらず。先年紀州苅磨の島にありし時、空中に文殊大士現じて予に示し給ひしままに申すなり。今の世には此の如くあてがふ人なきにや。末世末法の辺土の恨み、此の事にありと云々。
(明恵上人は)建仁寺の長老〈栄西〉より茶を進呈され、医者に茶について尋ねられた。(すると医者は)「茶は疲れを取り、食気〈食欲〉を消して爽快とする効能があります。しかし、我が国には普及しておりません」と言うので、その種を求めて得、(高山寺の一角に)二、三本の茶の苗を植えられたのであった。(茶には)誠に眠気をさまし、気を晴らす効能があったことから、衆僧も飲むようにせられたのである。ある人が語り伝えるのには、「建仁寺の僧正御房が、大唐国〈宋〉より持ち帰られた茶の種を贈ってくれたのを、(明恵上人が)植え育てたのである」ということである。《中略》
建仁寺の開山である千光法師〈栄西〉が、大唐国より帰朝して達磨宗〈禅宗〉を悟り究め、この国に弘めようとしているということを伝え聞いた。そこである時、上人は(千光法師と)対面するために彼の寺〈建仁寺〉へと赴かれていた時、ちょうど僧正は参内から帰ってくるところで、道にて行き合われた。かの僧正は新車〈牛車〉で想像もつかないほど豪華なのに乗っており、まこと美々しい姿であった。(それに対して)上人はやつれた墨染の衣に草履を履かれただけであった。(上人は)「このような姿の者など、(僧正が)とうてい関心を示すこともなかろう。(会いに行くのは)無駄なことか」と思われて帰ろうとされたのを僧正は気づき、車より降りて従者を走らせて呼び戻され、ついに対面することとなった。そして数刻も問答され、帰られたのであった。それから後には常々対面され、法談されるようになったのである。
あるとき、僧正はこの上人を印可〈(禅の)悟りに達したと師が弟子を認めること〉され、「この宗〈臨済禅〉を受け継いで興隆させていく人(を選ぶこと)が、差し迫った問題なのです。上人はその器を具えられている。無理を承知で頼みますが、どうか我が門下に入られて、共に(禅を)興行していただけないでしょうか」と申されたけれども、「私にもある仔細がありますので」と深く謝して辞退されたのであった。しかしながら(僧正が自身の死期を悟り)、入滅近くなられた時にはその御法衣を(上人に)贈られた。それは先師たる虚庵懐敞和尚〈栄西が支那天台山にて師事して禅を学んだ臨済宗黄龍派の禅僧〉の法衣であるということであった〈*禅僧がその伝える袈裟衣を与えて遺すということは、嗣法の弟子と認めるということ〉。《中略》
建仁寺開山〈栄西〉の弟子に円空上座という僧があり、ずいぶん志の深いもので、道を熱心に修行していると評判であった。(円空は)禅定をどのように修すべきかを、かの長老にお尋ねしたところ、「栂尾の明恵上人は禅定を修することに功積り、すでに成就されている。上人のところに行ってお尋ねし、その言されるとおりに修すのがよかろう」との仰せであった。そこで上座は上人にお会いし、禅定の修すべきようをお尋ねしたところ、上人は「禅定を修するのに三つの大毒があります。それらを除かねばただ身心を疲れさせるのみであって、何年も修したところで成就することは無いでしょう」との仰せであった。そこで「その大毒とは何でしょうか」とお尋ねすると、「一つには睡眠〈不活発で沈んだ意識・眠気〉、二つには雑念〈念ずべき、集中すべき対象を失ってあれこれ妄想すること〉、三つには坐相不正〈座法・姿勢が正しくないこと〉です。これらを除き、すべて求める心を捨てて、ただ無所得の心ばかりをひっさげて、私的にあれやこれやとすることなく、徒者〈いたずらもの。明恵上人がしばしば逆説的に説いた仏教者としての取るべき態度〉になりきって生々世々〈生死流転すること〉するばかりとなろうとの永い志を立てられたらよいでしょう。自分勝手な望みなど、ゆめゆめ持たれることのないように。ただ、この法師が今申したことを「なるほどそうか」と思われるように。これは高弁〈上人の実名。明恵は房号〉が自分勝手に申していることではありません。先年、紀州の苅磨島にいた時、空中に文殊菩薩が現れて、私に説き示されたままに申しております。今の世にはそのように修行する人は無いようです。末世末法の辺土〈インドから程遠い辺境の地たる日本〉における残念なことは、このことにあります」ということであった。
『栂尾明恵上人伝記』巻下
栄西と明恵とは実に三十五歳ほども年が離れていました。しかし先に述べたように、伝えによれば禅師は上人を非常に認められており、互いに尊敬しあう存在であったと言われています。この『栂尾明恵上人伝記』にある逸話によれば、栄西はただ明恵をして、ただ他宗の学徳・行徳優れた若き存在としてだけではなく、自分が伝え広めんとした禅をすら託そうとした人物と見做していたとされています。
ただし、『栂尾明恵上人伝記』については、全体としてその伝えていることの全てが事実であったとはいい難いことが知られています。後代、上人存命の当時名の知られた僧(たとえば西行)や権力者が明恵との縁があったこととし、さらになんらか美談仕立てとして上人の徳を賞賛しようとする創作が一部なされていることが明らかとなっているのです。その故に、ここで伝えられている栄西との逸話すべてが事実であったとみることは必ずしも出来ません。
しかしながら、『栂尾明恵上人伝記』が鎌倉期から近世に至るまで非常に世に親しまれ、読み継がれてきたことは事実で、互いに遁世僧であった禅師と上人とを繋げて見てきた当時の人々の意志や仏教観を垣間見ることは、少なくとも出来るものです。
栄西についての逸話あるいは人物評を伝えるものに『愚管抄』と『沙石集』とがあります。
『愚管抄』は、天台宗比叡山の座主を勤めた慈円僧正(慈鎮和尚)による歴史書で、日本三大史書の一つとされるほどの名著です。慈円は栄西より十四歳年少であっただけの同時代の人です。しかし、慈円の出自は栄西などより遥かに高く、摂政藤原忠通の子であったため、出家しても最初から高位となることが約束されていました。実際、その兄兼実(九条兼実)が後鳥羽天皇の摂政となるや、自身は推されて三十七歳という若さで天台座主に就いています。当時、公卿の庶子が出家することは処世の一手段となっており、これは慈円に限ったことではなく、公卿の庶子が出家し俗界の出自に物を言わせて仏教界に権勢を誇ることなど珍しい話ではありませんでした。
そんな慈円は宋にて禅を学び還った栄西に対し、天台宗として激しく非難し、種々の妨害を図っていた人でもあります。
葉上ト云上人ソノ骨アリ。唐ニ久クスミタリシ者也トテ、葉上ニ周防ノ國ヲタビテ、長房宰相奉行シテ申サタシタリケリ。塔ノ焼ヲ見テ執行章玄法印ヤガテ死ニケリ。年八十ニアマリタリケル。人感ジケルトカヤ。サテ第七年ト云ニ、建暦三年ニクミ出テ、御供養トゲラレニケリ。其時葉上僧正ニナラントシイテ申テ、カネテ法印ニハナサレタリケル、僧正ニ成ニケリ。院ハ御後悔アリテ、アルマジキ事シタリト仰セラレケリ。大師號ナンド云サマアシキ事サタアリケルハ、慈圓僧正申トゞメテケリ。猶僧正ニハ成ニケルナリ。
葉上〈葉上阿闍梨.栄西〉と云う上人は、その骨があり、唐に久しく住んでいた者だとして、葉上に(東大寺の料国である)周防の国〈山口県東武〉を任せると、長房〈藤原長房〉宰相が(東大寺東塔造営について)奉行し申し沙汰した。(ところで、法勝寺の)塔が焼けるのを見て執行章玄 法印がやがて死んだ。年八十あまりであった。(その死について)人々は感心したということである。さて、(法勝寺の九重塔再建を起工して)第七年となり、建暦三年〈1213〉に組み上げ(落慶の)御供養を遂げられた。その時、葉上は(自ら)僧正になろうと強いて申請して、かねてから法印〈本来は僧位では僧正に該当する僧階の最上位.しかし栄西の当時はすでに乱発され、大して権威ある位でなかった〉には叙されていたが、僧正〈朝廷から下される官位としての僧位の最上位。ただし、栄西は権僧正〉に成ったのである。院〈後鳥羽上皇〉は(葉上を僧正に任じたことを)御後悔され、「あるまじき事をしてしまった」と仰せられていた。(葉上は僧正位ばかりでなく)大師号〈日本では一般に、特別な高僧の死後に送られる諡〉などをすら(自ら欲しいと)云う、様悪しき事の沙汰があったため、慈円僧正は(帝に)申し上げてお止めした。しかし、それでも(葉上は)僧正には成ったのである。
慈円『愚管抄』巻六(『日本古典文学大系』86, p.297, 岩波書店)
これは栄西が京都にあった六勝寺の中でも最大規模にして権威最も高かった寺、法勝寺の塔が消失したのを栄西(葉上阿闍梨)がその監督を任されて再建した際の逸話を伝える中にある一節です。慈円によれば、栄西は再建の賞として自ら僧正位に任じられることを求めて許されたといい、そればかりか自ら大師号を下賜されるよう求めたとされています。
まず、日本では生前に大師号を贈られた僧など過去例が無く、しかもそれを自ら望んで求めるなど常識外れどころか狂気の沙汰とすらいえる振る舞いです。したがって、そのような栄西の突拍子もない行為は当時あちこちで話題とされ種々の史料に記録されています、もちろん悪い意味で。そもそも慈円は栄西に対し決して良い感情を持ってはいなかったでしょうが、それでも慈円がこのように栄西を苦々しく思って批判し、また栄西に大師号が下賜されることを妨害したのは、当時の常識からすれば当然と言えることであったでしょう。
対して栄西からすれば、なんらか大きな功績を果たした僧に大師号が生前与えられることは支那において多く先例のあることであり、ほとんど全てに渡って支那の先例を踏襲してきた日本でその例が無いことのほうがおかしい、といった程の認識であったのかもしれません。そして、栄西の合理的かつ型破りな性格からすれば、仏教の復興を果たすために、世間で一定以上の地位を獲得することを利用し、その目的を達成する一手段としようとしたといっても不思議ではない。
とは言え、大師号にしろ僧正位にしろ、みずから強いてそれを望むことは、やはり普通の人の所業ではありません。しかし、栄西は普通の人ではなかった。かといって、栄西は狂人などでもなく、真っ当な仏教者たろうとつとめる当時として極稀な人でした。
普通の者が普通でない人の振る舞いを理解すること、凡庸な者が抜群の人の志を諒解することなどほとんど不可能です。とは言え、栄西が自らの詮無い虚栄心を満たすため、あるいは政治的野心を膨らましてそのような暴挙に至ったとは考えにくいことです。そのような敢えて常識外の行動を取ったことは、栄西が『興禅護国論』や『出家大綱』等々の中で書き記した自らの思想、理想を実現するための一つの手段であったと見るのが理に叶ったことであるでしょう。けれども、栄西は自ら何故そのようなことをしたのか、何ら書き残しても語ってもいません。
そのことから、我々は栄西に対する二つの相反した人物評を史料の中で目にすることなります。『愚管抄』における慈円の記述とは真反対を伝えているのが『沙石集』です。
『沙石集』とは、鎌倉中後期の遁世僧、無住一円(無住道暁)によって著された、非常に優れた仏教説話集です。鎌倉期における僧侶らがいかなる有り様を呈していたかをかなり批判的に、そして時にそれを滑稽に伝えており、また様々な仏教にまつわる逸話、そして編者無住自身の仏教に対する鋭い認識が書き綴られています。それは、従来一般的であった漢文によってではなく、鎌倉期より次第に増えていた仮名文字まじりの、貴族らだけにでなく庶民などに対しても説かれたより平易なもので、かつその語り口も文学性高いものです。
編者の無住が三論宗や真言宗、そして禅など諸宗を広くそして深く学んでいた兼学の人であったことは、その著書の内容から伺い知ることが出来ます。三十過ぎて身体を壊すまではかなり厳しく律を守り修禅に励む日々をおくっていたこともその述懐から知られます。しかし、自身がどの宗派(本寺)に所属していたかはよくわかっていません。臨済僧であったと見る人もあるようですが、実際の所不明です。
『沙石集』が仮名で著されたものであるとはいえ、現代人からするとやや読解に難を伴うものとなっている感は否めないものです。しかし、それでも現代においてもなお大きな価値ある仏教説話集として広く読まれるべき書の一つです。その『沙石集』の後半にて特に五人の僧侶についてそれぞれ章を設けられている中に、栄西について述べられています。
建仁寺ノ本願僧正ノ事
故建仁寺ノ本願僧正。戒律ヲ學シ。威儀ヲ守リ。天台真言禪門。イヅレモ學シ行シ給ヒ。念佛ヲモ人ニスヽメラレケリ。遁丗ノ身ナガラ。僧正ニナリ給ケル事ハ。遁丗ノ人ヲバ非人トテ。イフ甲斐ナク名僧ノ思アヒタル故ニ。佛法ノタメト思給テ。名聞ニハアラズ。遁丗ノ光ヲケタジトナリオホカタハ。三衣一鉢ヲ持シ。乞食頭陀ヲ行スルコソ。佛弟子ノ本ニテ侍レ。釋尊スデニ其ノ跡ヲノコス釋子ト𬼀。本師ノ風ヲソムカンヤ。サルマヽニ。名僧ノ 振舞。カヘテ在家ノ行儀ヲタトヘス。大ニ佛弟子ノ儀ニソムケリ。然レドモ末代ノ人ノ心。乞食法師トテ。イフカヒナクオモヒ。佛法ヲ輕シムル事ヲカナシミテ。僧正ニナリ出仕有ケレバ。丗モテカルクセズ。菩薩ノ行時ニシタガフ。サタマレル方ナシ。コレスナハチ。格ニカヽハラヌ振舞也。《以下略》
建仁寺の本願僧正の事
故建仁寺の本願僧正〈栄西〉は、戒律を学び、威儀〈律儀。戒律の具体的条項〉を守り、天台・真言・禅門のいずれも学び行じられ、念仏をも人にお薦めになられていた。遁世僧の身でありながら僧正になられたことは、遁世の人を「非人〈世捨て人〉」と言う甲斐なく〈語る価値もない見苦しいもの〉名僧〈高名な僧〉らが見なしているために、むしろ仏法のためを思われ、自らの名聞(を求めてのこと)ではなかった。遁世の光を消すまい、とされたのだ。
概略して言えば、三衣一鉢を持し、乞食・頭陀を行ずることこそ仏弟子の本来である。釈尊はすでに(弟子たちが辿り行くべき)跡を残されたのだ。釈子として本師の風儀にどうして背けようか。そうであっても、名僧らの振る舞いは、かえって在家の行儀に倣っており、おおいに仏弟子の儀に背いている。しかしながら、末代の人の心が(遁世僧を)「乞食法師」などと言う甲斐なく思い、仏法を軽んじていることを悲しんで、(遁世僧でありながら)僧正となって(宮中に)出仕するようになったならば、世間も(遁世僧を)軽んじはしない。菩薩の行とは、時に従うものであって定まったものではない。それはすなわち、格〈形式・常識〉に拘らない(しかし菩薩としての)振る舞いであった。《以下略》
無住『沙石集』巻第十下 「建仁寺の本願僧正の事」
無住は栄西とは二世代から三世代離れた人であって、無住は栄西を直接知った人ではありません。しかし無住のこの記述は、栄西に対する敬意に満ちたものであり、遁世僧でありながら(自ら欲して)僧正となったことについても非常に好意的積極的に捉えており、慈円のそれとは全く相反したものとなっています。
なお、栄西についての伝記には他に、同じく鎌倉期の臨済僧、虎関師錬(1278-1346)によって編ぜられた『元亨釈書』に載せられたものがあり、その全てが史実に則ったものであるかどうかは別として、それはまさに伝記であって栄西の出自から幼年時代、没年までの詳細が記されています。
本稿はそんな栄西によって著された『出家大綱』を紹介するものです。
これは「仏教僧」とはそもそも何か、その「あるべきようわ」を示す一資料としてであり、またそれぞれの人が信奉する宗旨宗派の在り方、つまりは自身らの在り方を見直すための恰好の書であろうと考えてのことであります。
今、禅を信奉する者は他宗を知らず、例えば自己流の行儀・思想を戒律としつつも、しかしそれも一向守らず、阿毘達磨も密教も知らず、ために禅のその真価を見いだせていません。それは密教を奉ずる者についてもまったく同じで、戒律もまるで持せず、阿毘達磨も中観も禅についてもほとんど知らず学ばないがため、その思想も行いもまるきり外道、下賤な拝み屋に他ならない状況となっています。
戒と律とを修道の根幹に置くのは仏教通じて当然のことであります。が、それが当然のことではまったく無くなっている日本仏教諸宗の僧職者らは、その認識を持つことから始めなければならない。そこで是正するというのであれば、まず何が「正しい」のかの基準を明確とし、それをよく知らなければなりません。仏教において、その「正しい」の基準、根拠となるのは第一に律蔵であり、諸経論の所説がそれに続くものです。また律蔵や経論の所説ではその詳細が解し難い場合、歴代の渡天した僧たちの記録や、往古の支那の史書などが、その有益な参考書として活用され得ます。
そこで支那以来、日本仏教史上においても、やはりその「正しい」について様々に論じられて、議論が積み重ねられてきました。そして、『出家大綱』は、栄西によって鎌倉期に著された小著であるとはいえそのうちの一書に間違いなく数えられるべきものです。
現代の日本仏教界においては、いずれの宗派であろうとも、もはやそのようなことを考える者などほとんど絶無となっているでしょう。けれども、しかしもし、仏陀の教えを苦海を脱する唯一の術と奉じ、けれどもその日本での在り方に疑惑を持っている人がいまだあるならば、本書はその疑惑を晴らす小さくも一つの手がかりとなるに違いありません。
貧衲覺應 拝記