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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

明忍律師

明忍律師とは

近世戒律復興の立役者

画像:木村徳應「明忍説戒図」西明寺蔵(無断転載厳禁 ©viveka.site)

明忍みょうにん律師とは、近世における日本仏教史に短いながらも重大な足跡を残した仏教僧です。あざな俊正しゅんしょういみなは当初以白いはくであったのが、後に明忍と改名。俗姓は平安期以来、朝臣あそんとして朝廷に仕える中原なかはら氏、俗の諱は賢好かたよしで、天正四年〈1576〉の洛中に生まれています。

ここで先ずいみなあざなについて述べておきます。それは元来、支那において行われた名に関する風習です。いみなとは「」であり、人の死後はその生前の名を口にすることを忌むという習慣から生じたものです。それがやがて生存中であっても人の実名を口にすることは不敬で避けるべきものとされるようになると、普段用いる通名としてあざながつけられるようになっています。

この習慣は支那の春秋戦国時代頃にはすでにあったものですが、それが日本では八世紀ごろの貴人において行われるようになります。仏教僧でも一般に行われるようになるのは平安末期から鎌倉期初頭のことで、以来、僧もまた諱と字を持つようになっています。僧の場合、諱はまた実名じつみょう、字は仮名けみょうあるいは房号ぼうごうとも言います。

例えば平安末期から鎌倉初頭における稀代の高僧、明恵みょうえ上人でいえば、明恵が字であり高弁が諱です。諱は「忌み名」ですから特別の場合を除き、普段は他者だけでなく自らも用いることはありません。その特別な場合というのは、仏教における諸々の儀式、たとえば受戒や灌頂を受けてその戒牒や印信・血脈などに名を記す際、あるいは何か書を著わした時です。それ以外の普段はあくまで字が用いられ、故に「明恵上人」といわれ決して「高弁上人」とは言われません。

明忍の場合、諱が明忍で字が俊正ですから、普通ならばその字である俊正を以て称すべきはずです。実際、在世当時は明忍ではなく俊正(俊正房、あるいは俊正法師)と呼称されていました。ところが俊正明忍の場合はその死後、諱の明忍をもって一般に称されるようになっています。これは明忍の師であった守理普海に対しても同じであったのですが、近世では次第に諱と字の厳密な区別がなされなくなっており、しばしば字が知られず諱のみが通用するようになったことによります。

そしてこれは現在も同様で、例えば中世の戒律復興の魁であった叡尊や忍性は、今その諱で呼ぶことが一般的となっていますが、当時はあくまでその字である子円(あるいは後に下賜された興正菩薩との諡号)や良観の称をもって呼ばれていました。そのようなことから、本来は僧の名を言う場合に字を以ってするべきではありますが、ここでは一応、近世以来の例に従って、俊正ではなく明忍の称を用います。

さて、明忍は、京都にあって代々朝廷に仕えた廷臣、中原なかはら氏の出です。その直系の祖先は中原康綱やすつな。吉田兼好の『徒然草』に「いみじかりけり」などと称賛されていた人です。

或人、任大臣の節會の内辨を勤められけるに、内記のもちたる宣命を取らずして、堂上せられにけり。きはまりなき失禮なれども、立ち帰り取るべきにもあらず、思ひ煩はれけるに、六位の外記康綱、衣被の女房をかたらひて、かの宣命をもたせて、忍びやかに奉らせけり。いみじかりけり。
ある人が、大臣を任命する節会せちえ〈天皇出席の宴〉内辨ないべん〈承明門で行事を司る公卿〉を勤めた時、内記〈公文書の編纂・記録を司る廷臣〉が持っている宣命せんみょう〈天皇の命令書〉を受け取らずに清涼殿しょうりょうでんに上がってしまった。これ以上ないほどの失態であったけれども、また戻って取りに行くわけにもいかずオロオロしていたところ、六位の外記げき 〈公文書の作成、儀式の奉行を司る廷臣〉康綱は、衣被きぬかずきの女房〈高位の女官〉に執り成してその宣命を持たせ、ひそかに手渡したのである。すばらしいことであった〈非常に気の利く人物である〉

吉田兼好『徒然草』第百一段(抜粋)

明忍はそのような、地下とはいえ朝臣であった家の次男として産まれており、長兄が中原氏を継いでいます。そこで明忍は、古代以来ともに太政官に属する官職、大外記を世襲して家格がほぼ同じでその関係も近かった、清原きよはら氏の養子となってその名を継ぐこととなっています。天正十四年〈1586〉のことです。そして、その五年後の同十九年〈1591〉、十六歳で正七位上相当の官職である太政官所属の少外記および右少史の両職を拝命していました。なお、当の清原氏の正嫡は、天正十六年〈1588〉秀賢ひでかたが昇殿を許されたのを機に舟橋氏に改姓しています。

それほど高い官位ではなくとも由緒ある公家の庶子として生まれ、そうした中で自身も公家として身を立てる道筋も付けられていた明忍はしかし、幼少時から学問を授けらた高雄山神護寺の晋海しんかい僧正の薫陶忘れ難くあったようです。また、これがむしろ決定的な出来事であったと思われますが、明忍自身は兄にまつわる世間の苦しみを経験したことにより出家脱俗への憧憬いよいよ強まり、ついに僧正のもとで落飾したのでした。

興正菩薩と明恵上人の先蹤を追って

画像:西明寺本堂脇陣に祀られる明忍坐像(西明寺蔵)・無断転載厳禁

ところが、念願かなって僧となってみたものの、当時の日本には「本来の仏教僧」など存在しないこと、すなわち正しく戒律を受持する者など無く、ただ形ばかり名ばかりのものであることを、あるいは敬愛する僧正から聞かされ、知ることになっています。

事実、中世鎌倉期初頭の嘉禎かてい 二年〈1236〉に叡尊や覚盛ら四人により復興され、それぞれ西大寺と唐招提寺などを中心に展開していた戒律の伝統は、すでに室町期以降長く続いた戦乱によって全く途絶え、時を久しくしていました。したがって、たといどれほど人が望んだとして、これを受持することは不可能となっていたのです。そこで明忍は、みずから真の出家となるべく南都を訪れその術を探ったのでした。

伝えに拠れば、後に刎頸の友となる慧雲と出逢ったのは、明忍がたまたま三輪山を訪れていた時のことであったようです。それにしても何故、明忍にしろ慧雲にしろ三輪山にあったのか。

これはあくまで何らの史料に基づかない詮無い推測に過ぎませんが、そこは往時、大神神社を管轄する神宮寺として、平等寺・大御輪寺・浄願寺の三寺がありました。そしてそれらは、西大寺末の律宗寺院でした。そこで、当時そのいずれかの寺で戒律にまつわるなんらかの動き、たとえば律学の講義であるとか(形式ばかりであっても)受戒が行われていたなどの機会があり、明忍と慧雲とはその話を聞きつけて参加していたのではないか。または、そこに律学の典籍が蔵されていることで世に知られていたのではないか、と愚考しています。この後、二人が西大寺に向かったと伝えられていることからしても、彼らが出逢ったのは大神神社の神宮寺いずれか、特にその中心的な寺院であった平等寺であり、故にその本寺である西大寺に行けば何かがわかるとその寺僧から知らされたのではなかったか、と思うためです。

西大寺を訪れた二人は、さらにもう一人、慧雲に同じく元法華宗の僧でこれを脱宗した人であったという友尊なる同志を得ています。そして、その三人が西大寺に集まったことに依って、鎌倉期初頭になされた戒律復興の再現へと繋がっていきます。それは、西大寺に相伝されていた通受自誓受戒という、鎌倉期におなじく江戸期もまたそれ以外に選択肢の無かった方法により果たされたものでした。

明忍がその諱を以白から明忍に変えたのは、おそらく自誓受戒した直後のことであったと思われます。そして何故「明忍」との名にしたかは、自誓受戒の場を栂尾高山寺の春日・住吉の両社の前としていたことからも、明恵の事績を慕ってのことであったと考えて間違いない。明忍は、明恵が高山寺に残したその著のいくつかを筆写しており、その写本は今も西明寺(平等心王院)に蔵されています。

ところが明忍は、(実は本来の受戒法ではない)通受自誓受だけで比丘となったことに満足せず、正統な受戒法である三師七証さんししちしょう白四羯磨びゃくしこんまによる別受をも受け、さらに律学を深めるために支那に渡ることを決意しています。これも明恵がその昔、天竺に渡ることを志したことに影響され、それに倣ってのことであったかもしれません。しかし、当初は「我も、我も」と明忍に同行すると言う者が幾人もあったようですが、いざ彼の地に向かう段となると実際に道を共にする者は無く、明忍は結局、随行として在家信者一人を浄人として従えるのみで対馬に渡っています。

当時は秀吉による明への侵攻を目指した朝鮮征伐(文禄の役・慶長の役)があったばかりであり、明とも朝鮮とも国交断絶して渡航は厳しく禁止されていました。明忍はそこで何か渡航の術がないものかと機会を伺いつつ、支那や朝鮮にほど近い対馬の地にあって彼の地の仏教事情を聞き集めています。ところが、もはや海の向こうでも仏教は頽廃して往時の面影はすでに無く、渡航しても無益であることを知ったのです。その失意たるや計り知れません。

異國等法之盛衰ヲ聞及ニサノミ香ハシキ事モ無シ
(支那や朝鮮など)異国等の法の盛衰を聞き及んだところ、さして香ばしき事〈願い求めるほどのこと〉など無かった。

「明忍消息」(西明寺蔵)

明忍が対馬で掴んだそのような大陸あるいは半島での仏教事情は、極大雑把なものではあったでしょうが的確であったと言って良いものです。対馬からほど近い李氏朝鮮では朱子学がその思想界を支配しており、仏教は弾圧されて見る影もありませんでした。また、大陸はどうであったかというに、当時は明朝がまさに滅び行かんとする昏迷の時代であったのもさることながら、そもそも宋代以降は支那の仏教も衰退し、禅と念仏の残滓が混淆した念仏禅(いわゆる明代の黄檗禅)の上に、さらに諸々の土着信仰が習合し尽くしたようなのが主流となって、明忍の求めた律儀などすでに問題外となっていました。

一方、槇尾山に残った慧雲は、共に戒律復興を成し遂げたといってもまだ創始したばかりであり、あらゆる点でその基礎も固まっておらず全てが手探りの状態で後進の指導に煩悶しながら苦闘しており、明忍が早く京に戻ることを切実に願っていました。ところが、不退転の覚悟で京を後にしていた明忍には、最初から京に戻る気などありはしませんでした。

現代の学者には、明忍が対馬で大陸へ渡航することの機会を待つうちに客死した、と理解している者があります。確かに、明忍は渡海を全くは諦めておらず、支那および朝鮮が駄目ならば印度へ、などと真如や栄西、明恵などのようにその先を夢見ていた可能性は一応あります。しかし、支那および朝鮮の仏教に対する期待はもはや失っていたと見て間違いありません。

それでいてなお、明忍はいかなる想いをもって対馬に滞在し続けたのか。それは明忍だけの内に秘められたものであり、当時の親しい同志ですら知り得ませんでした。ましてや現代に生けるその精神性も背景もまったく異なる俗人が、明忍の心中を察することなど到底叶わぬことです。

そうして対馬に滞在し続けること足掛け五年、慶長十五年〈1610〉の夏に明忍は病を得てあっけなく逝去しています。享年35歳、比丘となって七あるいは八夏を過ぎようかという時でした。そればかりでなく、なんとしたことか槇尾山に遺した同志の一人、友尊はその五日前に亡くなっており、また最も頼みとしていた師の晋海と盟友である慧雲も翌年、翌々年に次々と示寂しています。

彼等が仏教を復興するためなした戒律復興の灯火は、早くもたち消えるかに見えましたがしかし、その志に賛同して槇尾山に集っていた十幾人かの後進の僧たちは奮闘。それにより、そのか細い火は消えること無く、むしろ次第に大きくなっていきます。

戒律復興は決して明忍独りの力によって成されたものではなく、また明忍が何らか著作を一つとして遺してもません。しかし、あまりに短く、また悲劇的な最期を迎えながらも清廉なるその生涯は、特にその最後に極楽往生の奇瑞があったなどという点で、まず当時の京にある人々の心を打ったのでした。それがやがて、槇尾山に集った学律の有志の力によって、明忍は近世における戒律復興の立役者でありその象徴的存在として尊敬を集めています。

なお、明忍は神護寺の晋海の弟子として出家し、真言密教を一通り修めたいわゆる真言僧ではありましたが、戒律復興後の彼に「真言宗こそ」などといったいわゆる宗派意識は皆目見られません。したがって、明忍をただちに真言宗の人であり、あるいは「今いうところの真言律宗」の僧であったなどと見ることは正しくない。そもそも、これを明治期以降に成立した「真言律宗」と同じものであるとする今までの学者らの試み、あるいは「真言律」などという概念や捉え方が、実は誤ったものです。

また明忍の同志は元法華宗や律宗の人でありますが、そんな彼等にも特に宗派意識というものをまるで見出すことは出来ないでしょう。少なくとも最初期の彼等が戒律復興運動を展開したのは、いずれかの宗派に拘り、あるいはただ戒律だけに拘ってそうしたものでなく、仏教の復興を目指すその礎としてのことです。

そもそも律とは、そしてまたその復興は特定の宗派に限って行われるような性質のものではない。実際、そんな彼等のもとに集ったのは、律宗、禅宗および浄土・法華など様々な宗派出身の僧たちでした。そのようなことからも、明忍らに始まる戒律復興の動きは諸宗の学僧らから非常に注目され、尊敬されるところとなったのでしょう。

結果、槇尾山平等心王院の名は、近世を通じて律学の根本道場として全国に知れ渡るに至っています。実際、槇尾山を起点とした戒律復興の波は近世における諸宗の教学や動きにも少なからぬ影響をあたえており、槇尾山に学んだ律僧・学僧がまた新たな運動を展開しています。

明忍らが戒律復興の拠点とした地である山城の平等心王院〈西明寺〉、そこから出た賢俊良永けんしゅん りょうえいの弟子真政圓忍しんしょう えんにんによって興された和泉の神鳳寺じんぽうじ〈明治の廃仏毀釈で廃寺〉、同じく槇尾山から出た慈忍慧猛じにん えみょうにより復興されその弟子により律院僧坊として整備された河内の野中寺やちゅうじ の三ヶ寺から数多の傑僧が輩出され、江戸期に「律の三僧坊」と讃えられています。特にそれら三僧坊に入衆することはなくとも、そこに属した律僧から受戒し、また律学を受けた僧の数は計り知れません。すなわち、江戸期における戒律に関して名を馳せた僧・律院で、明忍ら五人の初めた流れに預かっていない者など一人として無い、といって過言ではありません。