暦 | 齢 | 出来事 |
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天正四年 (1576) |
1歳 | 少内記中原康雄の次男として京都にて誕生。 幼名久松。 |
天正十年 (1582) |
7歳 | 高雄山神護寺に入り晋海僧正の元で修学。 |
天正十四年 (1586) |
11歳 | 3月17日、元服。少内記を継いで清原朝臣賢好と改名。 |
天正十九年 (1591) |
16歳 | 3月3日、右少史・少外記の両職に補任される。 |
慶長元年 (1596) |
20歳 | 晋海僧正の弟子として出家(戒山説)。僧名、俊正以白。 |
慶長二年 (1597) |
21歳 | 晋海僧正の弟子として出家(月潭説)。 |
慶長四年 (1599) |
24歳 | 4月18日、豊臣秀吉を祀る京都の新八幡社に「東山豊國明神廟」号を下賜する勅使に択ばれる。 晋海僧正の弟子として出家(不筌・元政説)。 |
慶長五年 (1600) |
25歳 | 11月15日、十八道を開白して四度加行を始行。 |
慶長七年 (1602) |
27歳 | 梅尾山高山寺の春日・住吉の祠の前にて好相を祈り、慧雲寥海・友尊全空・守理晋海・玉圓空渓と共に自誓受戒。諱を明忍と改める。 神護寺の管轄にあった槇尾山平等心王院を復興して拠点とする 。 |
慶長九年 (1604) |
29歳 | 2月11日より12月20日、南都の安養院・龍徳院・戒蔵院にて、慧雲と共に『行事鈔』を輪講。 |
慶長十一年 (1606) |
31歳 | 具足戒本来の授戒(別受)を受けるため、およびさらに律学を深めるために支那(明)への渡海を志し、平戸を経由して対馬に赴く。 |
慶長十三年 (1608) |
33歳 | 5月22日、渡海が叶わなくとも京都に帰らぬ決意であることを記す(『四分戒本』裏)。 11月29日、支那・朝鮮の仏教もまた頽廃して戒律も廃れており、求める価値などないと伝え聞いたことを、京にある慧雲らへの手紙にしたためる 。 |
慶長十五年 (1610) |
35歳 | 1月26日、「通受血脈図」製作。 6月2日、友尊全空、示寂。 6月5日、師の晋海宛に「末期状」を書く。 6月7日、対馬茅檀の草庵にて俊正明忍、示寂。 12月20日、対馬の宗家出身の賢俊良永、および対馬に随行して明忍の最期を看取った道依明全が慧雲を師として沙弥出家 。 |
慶長十六年 (1611) |
没後1年 | 3月2日、守理晋海、示寂。 3月2日、慧雲寥海、示寂(西明寺『自誓受戒同戒録』の記)。 3月、賢俊良永・道依明全ら十一人が自誓受戒 。 |
慶長十七年 (1612) |
没後2年 | 2月2日、慧雲寥海、示寂(西明寺の慧雲位牌の記)。 4月18日、玉圓空渓、示寂。 |
元和四年 (1618) |
没後8年 | 10月1日、明忍律師と親交のあった海岸寺中興の智順、示寂。享年89歳。 |
元和五年 (1619) |
没後9年 | 賢俊良永が、山口修理公重政の後援により高野山新別処跡地に霊岳山円通律寺を建立。高野山における律学の拠点となる。 |
寛永十八年 (1641) |
没後31年 | 3月7日、平等心王院にて慈忍慧猛が自誓受具。 |
正保四年 (1647) |
没後37年 | 6月6日、賢俊良永が河内国叡福寺にて示寂。享年63歳。 |
承応元年 (1652) |
没後37年 | 夏、槇尾山衆徒が評議して画師、木村徳應に明忍の頂相(肖像)製作を依頼。11月中旬に成る。 12月18日、堯遠不筌律師が『明忍律師之行状記』を編纂。 |
寛文四年 (1664) |
没後54年 | 元法華宗僧の省我惟空の依頼により、法華宗の日政(深草元政)が『槙尾平等心王院興律始祖明忍師行業記』を編纂。 |
寛文七年 (1667) |
没後57年 | 快円恵空が家原寺の快意和泉の神鳳寺を譲られ、その復興に着手。 |
寛文十年 (1670) |
没後60年 | 春、慈忍慧猛が槙尾山から退衆。巖松院を出て先年から復興に着手していた河内の野中寺に入る。 |
寛文十二年 (1672) |
没後62年 | 快円の師であり、賢俊の弟子であった真政円忍が神鳳寺に入って律院僧坊とする。 |
延宝三年 (1675) |
没後65年 | 3月21日、慈忍慧猛、野中寺にて遷化。享年62歳。 (*野中寺が律院僧坊となるのは慈忍が没してしばらくの後、弟子の慈門による。) |
延宝八年 (1680) |
没後70年 | 快円により神鳳寺が「真言律宗南方一派総本山」として幕府の認可を受ける。 |
貞享三年 (1686) |
没後76年 | 3月、建仁寺三百十一代長老、松堂宗植が対馬以酊庵の輪番僧(朝鮮修文職)に任じられる。 松堂は対馬赴任中、明忍の古跡を探り、一華庵の老僧以僊からかつての話を聞き取る。 |
貞享四年 (1687) |
没後77年 | 12月中旬、雲松實道の依頼により、黄檗僧月潭道徴が『槙尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』を編纂(刊行は元禄十六年)。 |
貞享五年 (1687) |
没後78年 | 明からの渡来僧、黄檗の高泉性潡が「槙尾山明忍律師伝」を編纂(『東国高僧伝』に収録)。 |
元禄二年 (1689) |
没後79年 | 近江安養寺の戒山慧堅が『槙尾平等心王院忍律師伝』を編纂(『律苑僧宝伝』に収録)。 |
元禄十三年 (1701) |
没後90年 | 槇尾山の住侶により『槇尾山略縁起』成立。 |
元禄十四年 (1701) |
没後91年 | 槇尾山十四代衆首、智本理澄が『槇尾山流記』を編纂。 |
元禄十六年 (1703) |
没後93年 | 智本理澄・雲松實道ら槇尾山衆僧が五智輪塔婆一基を明忍終焉の古跡に塔を造立して設置することを発願。月潭道徴がその銘文を撰し、その弟子蘭谷元定が篆額を記す。12月に対馬茅壇の地に建立。 |
宝永二年 (1705) |
没後95年 | 4月7日、海岸寺に納める明忍の頂相制作。松堂宗植がその画賛を撰す。 |
明治三十九年 (1906) |
没後294年 | 11月5日、釈雲照が朝鮮巡教の途上、明忍の墓墳(塔碑)が対馬にあることを知り、帰国の途上、釜山から対馬に立ち寄って土砂加持を修す。 |
昭和三十六年 (1961) |
没後351年 | 槇尾山西明寺にて明忍三百五十回忌厳修。 |
愚衲覺應 拝記