明忍が没して三十七年を経た承応元年、これはおそらく平等心王院の地盤がある程度固まり、経済的余裕が少しばかり出たことによるのでしょうけれども、槇尾山の衆徒が明忍の功績を後世に残さなければとする思いから、後に『明忍律師之行状記』(以下、『行状記』)とされる伝記が初めて編纂されています。
『行状記』は明忍の消息やその伝承・伝聞などをただ集成しただけの荒削りな未編集のもので、資料集のようなものであり、伝記として体裁が整えられたてはいません。当時、槇尾山の衆徒には、寺に伝わる明忍に関する多くの資料をまとめる能力ある者がなく、またそれを伝記にするだけの文才や素養を備えた人が無かったのでしょう。とはいえ、いわゆる伝記としては一般に載せられぬであろう少々の事も記載されており、その第一のものとして貴重です。
しかしながらその十二年後の寛文四年、それではやはり伝記としてはよろしくなく、正しく伝記として世に出せるものを、ということであったのでしょう。元日蓮宗から転じて槙尾山に入衆し律僧となっていた 省我惟空が、当時第一級の文人としても名を馳せており、また旧知の仲であった日政〈1623-1668〉にその執筆を依頼しています。
日政とは、京都深草に称心庵(現:瑞光寺)を結んで住した日蓮宗僧で、一般に深草元政の名で親しまれている人です。そして深草とは京の伏見にある地名で、そこに日政が晩年庵を構えて住したことによる称です。
江戸詰めの彦根藩士であった元政は十九の時に病に伏し、療養のため一年の間、京の山科に移っていました。幼年から母親の影響によって『法華経』を信仰していた元政は、四宗兼学の律院、泉涌寺にて開かれていた正専如周による『法華経』の講筵に参加。これを聴講するために泉涌寺の門前に部屋を間借りしてまで続けていたところ、ついに正専の下で出家したいとの志を懐き、正専に直接会って訴えています。しかし正専は、元政がいまだ弱冠にも満たない若さであったことから、時期尚早であるとしてそれを断っていました。
現在の日蓮宗において、元政は最初から日蓮を信仰して日蓮宗にて出家を志したかのように伝えられていますが、元政自身の記からすると決してそうではありません。
それから七、八年を経てもなお元政は出家への思い絶ち難く、ついに藩に願い出て致仕し、京都妙顕寺(日蓮宗)の日豊の下で出家したのでした。その時、もはや正専は示寂してありませんでした。その後、これは弱冠の頃に正専から受けた薫陶の影響によるものと思われますが、元政は日蓮宗にありながらも持律持戒を旨としています。
遊泉涌寺記
泉涌寺之額者張即之之筆也至今泉涌二字秘在方丈墨滴淋漓如新離筆也壬寅之春携二三沙彌遊泉涌寺入門而遶舎利殿乃渉石磴至雲龍院登堂徘徊余昔甚少抱病於江府帰郷而養一年矣于時雲龍周律師會講法華余僦行者家於門前而日屛乎講座之後六月一日律師自雲龍院移居方丈預聽者彌衆僧徒殆千人白衣男女満庭擁門散日至當生忉利之文而引法藏師救母因縁半説之哽咽而已久之乃曰嗟乎如己者柰何為救親之若斯哉涕泣不已四座為之𣽽然今顧之辛巳之歳也余竊慕律師德儀嘗告律師言吾欲出家得否律師曰子甚少出家未晩也會裏有豪傑禅僧毎語人曰周公之履耶吾取之周公之𨤘耶吾除之人之所心服如此後経八年余遂出家律師沒既有年矣余毎遊泉涌必雲龍院則興懷舊之感既帰而語之童子側記偶客到也不得悉之
「泉涌寺に遊ぶの記」
泉涌寺の額は張即之による筆である。今は「泉涌」の二字は秘されて方丈にある。(その墨跡は)墨滴淋漓として、あたかも今しがた書き上げられたかのようであった。壬寅〈寛文二年(1662)〉の春、二、三の沙彌を携えて泉涌寺を訪れた。門を入って舎利殿を遶った後、石磴を登って雲龍院に至った。そして堂に上がってあちこちと徘徊した。
私が昔、甚だ若かった時、近江で病に罹った。そこで帰郷し静養して一年を過ごしていた時、雲龍院の如周律師がたまたま『法華経』を講義されていた。そこで私は行者の家で門前にあったのを借りて、日々その講座の末席に参加した。六月一日、律師は雲龍院から(泉涌寺の)方丈に居を移された。それで、(講座に)参加する聴衆はますます多くなり、僧徒の数は殆ど千人、白衣〈在家信者〉の男女に至っては庭に満ち、門を取り囲むほどであった。最終日となって(『法華経』巻八 普賢菩薩勧発品第二十八にある)「當生忉利」の一節に至って、法蔵師が母を救った因縁譚を引用して解説される半ば、突如(律師は)嗚咽されだした。そうしてしばらくの後、「嗚呼、私はどうして法蔵師のように親を救おうとしなかったのだろうか」と言われ、涙を流されてとめどなかった。四座〈すべての聴衆〉もまたこれを聞いて𣽽然〈涙を流す様子〉とした。今となって顧みたならば、それは辛巳の年〈寛永十八年・1641〉のことであった。私はひそかに律師の徳儀を敬慕し、かつて律師のこう申し上げたことがある。「私は出家いたしとうございます」と。すると律師は、「あなたはまだごく年若く、出家するには早い」とのお答えであった。
ところで(泉涌寺の)会裏〈衆中〉に豪傑の禅僧があった。事あるごとに人に対し「如周公の履物ならば、私はこれを丁重に取り扱う。如周公の糞尿ならば、私はこれを丁重に清掃する」と語っていた。(如周公が)人から心服されていたのは、まさにそのようであった。
この後、八年を経て私は遂に出家を果たした。その時、律師は既に没されてから数年が経ていた。私は泉涌寺を訪れる際には必ず雲龍院に参詣する。そして昔を懐かしむ思いに駆られるのである。(以上のことを寺に)帰って語るのを童子に側らで記させたが、ちょうどその時、来客があったため、これ以上詳しくすることは出来なかった。
『艸山集』第四巻 黄
元政の文や詩には飾り気など作為的な点が観られず、しかし優美なものとして知られていますが、このような短篇にもそれがよく現れています。元政がいかに正専を敬愛していたかが知られ、また往時を懐かしみながらも、すでに亡き律師への寂しさをも感じさせる静やかな文です。
元政は律宗や禅宗など諸宗の僧や儒者(熊沢蕃山)、そして幾多の詩人・俳人とも非常によく交流しており、文人としても当時第一級の人でした。
そのような元政であったからこそ、同じく元日蓮宗徒であった省我も、明忍の伝記を著すことを依頼したのでしょう。元政もまた、それが「いつ・どこで・誰によって」であったか今もまだよくわかっていないのですが、たしかに律(具足戒)を受けてその実践に努めていました。そのようなことから、元政をしてしばしば「草山律 」や「法華律」の祖などとも世に称されています。そんな元政の律学の素養は、槇尾山の省我を介して少なからずもたらされていたことが、元政の遺した詩文集『草山集』から知られます。
そこで槇尾山の衆徒は、すでに僧伝などもいくつか筆しており律にも一定の理解があった元政に白羽の矢を立て、旧知の中であった省我がその伝記を筆することを直接依頼した、という顛末であったと思われます。元政が明忍の伝記を書くにあたりその資料として預けられたのは、すでに平等心王院の衆徒により著されていた『行状記』でした。そして、『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』(以下、『行業記』)と題されたその伝記の編纂成ったのは、寛文四年〈1664〉六月四日のことです。
なお、元政に『行業記』の編纂を依頼した省我は、近世の戒律復興を見ていく上で現代はほとんど語られることのない人です。しかし、先に述べたように彼は元日蓮宗徒であり、その弟子には元浄土宗徒であった宗覚正直という当時非常に名の知れてた優れた律僧があるなど、近世前期における槇尾山に集った僧の動向やその宗派意識などを知る上で重要な人です。
『行業記』を著したその三年後、詩文を愛し多くの佳作を残した元政は、深草の地にて四十六年という短い生涯を終えています。その小さくつつましい墓は今も終焉の地、深草瑞光寺の傍にあります。
元政によって『行業記』が著されてから二十三年後の貞享四年〈1687〉、新たに明忍の伝記が臨済僧(黄檗派)の月潭道澄によって著されています。『槙尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』(以下、『行業曲記』)です。これは『行状記』および『行業記』を下地とし、さらに槇尾山に寺宝として保存された明忍の消息類および当時の対馬などで聞き集められた明忍の足跡を加味して、より詳細に描かれたものです。
どうやら当時の槇尾山の衆僧は、元政の『行業記』が簡潔なものでその行業を伝え尽くしていないことに甚だ不満を感じていたようで、省我と同時に通受自誓受して比丘となり、現光寺の住持となっていた雲松実道 がその執筆を月潭に依頼しています。そんな衆僧の不満ももっともな話で、実は元政自身が『行業記』の末に「吾れ憾むらくは文獻足らず、律師聲徳を述ぶるに堪へざることを」と嘆いている始末です。著述を依頼した省我が『行状記』ばかりでなく、明忍の消息類などもまたその資料として、その写しだけでも渡しておけばもう少し違ったものとなっていたことでしょう。
月潭の属した当時新来の臨済宗黄檗派(後に黄檗宗として独立)はもとより京における禅宗の僧徒は、明忍らにより創始された興律運動によく注目しており尊敬する者がありました。対馬で自ら明忍の足跡を辿り、当時の話を聞き集めたのは、槇尾山の僧ではなく建仁寺の長老です。したがって月潭としてもその伝記を新たに書くことは名誉なことであり、またその内容や文章にも自信を大きな持っていたようです。その題に付した「曲記」との語はそれをよく物語っています。曲記とは「曲細な記録」、すなわち極詳しいものであることを言った語であり、事実『行業曲記』は『行業記』よりよほど詳しいものとなっています。
そのようなことから、明忍の伝記としては『行業記』と『行業曲記』の二系統があり重要です。とはいえ、それらが同じく根本資料とした『行状記』は、前述したように普通は伝記類に載せられ表に出ることのない話や説が記されていることから、最も重要な資料の一つです。したがって、『行状記』・『行業記』・『行業曲記』の三本が、明忍伝における基礎資料となります。
また他にも、これらは基本的に表に出ることはないものですが、今も西明寺(平等心王院)には明忍の直筆の手紙や写本などが多数遺されています。
月潭が『行業曲記』を著した同年、明から来日していた黄檗の隠元の弟子、支那僧の高泉性潡によって日本の高僧伝『東国高僧伝』が著されていますが、それに明忍も取り上げられ、「槇尾山明忍律師伝」として掲載されています。その種本とされたのは、月潭の『行業曲記』でした。
またさらにその翌年の元禄元年、槇尾山平等心王から出て河内野中寺を律院僧坊とするべく中興した慈忍慧猛の弟子、戒山慧堅によって編纂された支那および日本の律師伝、『律苑僧宝伝』〈元禄二年刊行〉に「槇尾平等心王院俊正忍律師伝」として掲載されています。これも『行業曲記』を元に略したものですが、しかし高泉の「槇尾山明忍律師伝」もまた参照しており、その表現を所々に借り用いています。もっとも、戒山のそれは『行業曲記』などを踏襲していますが、やはり明忍を祖とする律僧であることからのことでしょう、細かいところで独自の説も述べているため、一応それらとは別物として考えたが良い書となっています。
さらに、これは特に「明忍伝」として筆されたものではありませんが、元禄十三年〈1700〉に西明寺(平等心王院)にて著された『槇尾山略縁起并流記』に、明忍律師の伝記が簡単に伝えられています。西明寺の『槇尾山略縁起』は、それまでの伝記とは若干ながら異なった(改変された)話が載せられている点に特色があり、それは特に近世の律宗における春日明神と戒律の相承に係わる伝承の元となるものとして重要です。
そして元禄十五年〈1702〉、臨済僧の卍元師蛮 により、なんと三十年あまりの歳月を費やしてそれまでの僧伝・史料を集大成し著された『本朝高僧伝』巻六十二には、戒山『律苑僧宝伝』のそれがやや改変され「洛西槇尾山沙門明忍伝」として収録されています。
また元禄十六年〈1703〉、徳川綱吉の生母、桂昌院が檀越となったことにより律院としての堂舎の再整備が進み、経済的に余裕の出来た平等心王院の衆僧は明忍の没した地に顕彰碑を建てることを発案。再び月潭にその碑文を著すことを依頼し、それを勒石してから対馬にまで運んで、明忍が没した地に建てています。その碑は今も対馬厳原の荒れた山中に、ほとんど地元の人にも知られずひっそりと立ちすくんでいます。
(現代、これを明忍の墓であると誤認している者が多く見られますが、墓ではなくあくまで塔碑であり、いわゆる顕彰碑のようなものです。墓は京都槇尾山西明寺境内にあります。)
なお、年代が多少前後しますが、元政の『行業記』は、元禄二年〈1689〉に浄土僧了智により編纂された往生伝、『緇白往生伝』巻中の初めに、元政『行業記』がほとんどそのまま載せられています。これは明忍の対馬での最期に、いわゆる極楽往生を思わせる奇瑞があったことに基づき収録されたものです。
明忍は、南宋代の支那における南山律宗中興の祖とされる元照 が律僧であると同時に浄土信仰も兼持していたことに倣っており、日頃から源信『往生要集』を読み、実際その死を迎える前には念仏していたようです。そんな明忍の末期がいかなるものであったかは、対馬まで伴して側仕え看取った道依により詳しく伝えられています。そしてまた、明忍自身が死の直前に朦朧とする意識の中で見た奇瑞を自ら筆を走らせた書があるのが、京の人々によく知らされ注目されています。
ここで明忍が世間一般に知らされるのに最初に注目されたのが、戒律復興した「興律の祖」としてなどでなく、極楽往生した人としてであった点はより注意すべきことです。
明忍は神護寺の晋海の弟子であって真言密教を一通り修めてはいましたが、彼には「真言宗こそ」などといったいわゆる宗派意識は皆目見られません。また明忍の同志は元法華宗や律宗の人でありますが、そんな彼等にも特に宗派意識というものは見られません。少なくとも最初期の彼等が戒律復興運動を展開したのは、ただ戒律だけに拘ってそうしたものでなく、仏教の復興を目指すその礎としてのことです。
そもそも律とは、そしてまたその復興は特定の宗派に限って行われるような性質のものではありません。実際、そんな彼等のもとに集ったのは、律宗、禅宗および浄土・法華など様々な宗派出身の僧達でした。そのようなことからも、明忍らに始まる戒律復興の動きは諸宗の学僧らから非常に注目され、尊敬されるところとなったのでしょう。
以上挙げた伝記は全て漢文によって著されたものですが、伝記に類するものとしてはただ二つのみ、例外的に仮名によるものがあります。その一つは、天和三年〈1683〉の西村市郎右衛門(未達)による御伽草子、『新御伽婢子』です。その最後の巻六末に唐突として「明忍伝」が記されています。これは往生の奇瑞があったとされる、明忍の最期が特に記されたものです。一体どうしてそのような書に明忍の伝記が収録されたのか不可解で、あるいは西村市郎右衛門が明忍律師を甚だ敬慕してのことであったか、または当時往生の奇瑞が怪異にすら感じられたことによるのかもしれません。
二つ目は江戸後期、明忍らが目指した戒律復興運動の果ての仏教復興を、一つの形として成し遂げたと言える慈雲による『律法中興縁由記』です。これはその師忍綱貞紀から聞いた、明忍がいかにして戒律復興を果たしたかを漢文でなく仮名で記した伝記というよりメモ書きのようなものあったのが、今は『慈雲尊者全集』に上記の題が付せられて収録されています。
以上、現在残された明忍伝の一覧を挙げたならば以下の通りとなります。
No. | 題目 | 編者 | 成立/刊行年 |
---|---|---|---|
1. | 『明忍律師之行状記』 |
尭遠不筌 (律宗) |
承応元年成立 (1652) |
2. | 『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』 (後に『艸山集』に収録) |
日政〈深草元政〉 (日蓮宗) |
寛文四年成立 (1664) |
3. | 「槇尾山開律元祖明忍律師」 (『日本古今往生略伝』) |
道竹軒治斎 (浄土宗) |
延宝八年成立 (1680) 天和三年刊行 (1683) |
4. | 「明忍伝」 (『新御伽婢子』) |
西村市郎右衛門 |
天和三年刊行 (1683) |
5. | 『槇尾平等心王院故弘律始祖明忍和尚行業曲記』 | 月潭道澄 (黄檗) |
貞享四年成立 (1687) 元禄十六年刊行 (1703) |
6. | 「槙尾山明忍律師伝」 (『東国高僧伝』) |
高泉性潡 (黄檗) |
貞享五年刊行 (1688) |
7. | 『緇白往生伝』 | 了智 (浄土宗) |
元禄二年刊行 (1689) |
8. | 「槇尾平等心王院俊正忍律師伝」 (『律苑僧宝伝』) |
戒山慧堅 (律宗) |
|
9. | 「明忍」 ( 『律門西生録』) |
湛堂慧淑 (律宗) |
元禄五年成立 (1692) |
10. | 『槇尾山略縁起幷流記』 | 智本理澄 (律宗) |
元禄十四年成立 (1701) |
11. | 「洛西槇尾山沙門明忍伝」 (『本朝高僧伝』) |
卍元師蛮 (臨済宗) |
元禄十五年刊行 (1702) |
12. | 「中興槇尾山西明寺俊正明忍律師塔銘」 | 月潭道澄 (黄檗) |
元禄十六年 (1703) |
13. | 『律法中興縁由記』 (『瑜伽戒本』の裏の書付) |
慈雲飲光 (律宗) |
江戸後期 |
先にも触れたことではありますが、以上の諸々の伝記成立の経緯を見ても、明忍が世間に先ず興味を持たれ注目されたのは、興律の祖としてではなく「極楽往生した人」としてであったと言えます。
そして明忍が浄土信仰を有していたのはおそらく事実で、それは宋代において南山律宗を中興した大智律師元照の先蹤に倣ってのことであった考えて間違いありません。
元照は南山律宗を再興する際し、従来は法相宗義に基づいていたそれを天台教学から再解釈しただけでなく、それまで卑下していた浄土教に対し病を得たことを契機として信を持つようになった人、「生きては律範を弘め、死せば安養に帰らん」と常々言っていたという人として伝えられています。
明忍はそもそも近世における公家出身であり、なおさらよく故事・先蹤に倣わんとする人であったろうことがその伝記・伝承から看取されますが、浄土信仰もその一環であったのでしょう。また、明忍の伝記に関わった人に黄檗に繋がりを持つ僧が多くありましたが、明代の黄檗もまた禅と浄土教とが混交したものであるため、彼ら伝記の編者もその点をよく注目しています。
明忍が京を発った時に起していた誓願、それは以下のようなものでした。
已發誓願 欲於渡海 若遂不遂 必期命終
すでに(別受を求めて)渡海しようとの誓願を発したのである。もし(その誓願を)遂げられようとも遂げられなくとも、(決して京に戻らず、明あるいは対馬にて)必ず命終する心づもりである。
「慶長十三年五月廿二日付 『四分戒本』裏書」(『明忍律師之行状記』)
ここまでの不退転の決意をもって槇尾山を出た時、明忍は慧雲などその同志達の誰一人にも語っていませんでした。対馬にて数年を過ごしてなお渡海できない明忍に対し、慧雲らは帰京の催促を何度もしています。しかし、明忍は端から上記のような心づもりで京を離れていました。
明忍のそのような決意は、何故そこまでのものであったかと訝しく思い、あるいは理解不能であると言う人は現代にもあることでしょう。それは当時の明忍の同志ですら同様であったのであり、現代の世俗の人が想像だにしないもの、理解など到底出来ないものであることは極当たり前の話です。
そのような決意を持って明忍の京を離れていたことの一端を示す行動として、幾度か寄せられていた母からの手紙をどのように扱っていたかの伝承があります。
此時京ナル悲母ノ御モトヨリ文ヲ遣シ給フニ執手慇懃ニ拜戴シテ披クコトナク頓而寺邊ノ小河にナカセシトナンイカナル御心ヤアリケン
この時、京にある悲母の御元より文を遣わされたのであるが、(明忍はその手紙を)ただ手に執り慇懃に頂戴するのみで開くことなく、すぐに寺の辺りの小河に流されてしまったという。それは一体どのようなお心でのことであったろうか。
『明忍律師之行状記』
これは対馬で側仕えていた道依により槇尾山に伝えられた話であったのでしょう。ならば、そのようにしていた明忍の心中を、京にあった同志達はもとよりその傍で見ていた道依でさえ計りかねていた。すなわち、明忍は内に秘めた自らの決意を、決して誰にも明かしていませんでした。
明忍の出た中原氏は代々、明経道すなわち『孝経』や『論語』など儒教の経典を研究し、時々に天皇・貴族などに講説してきた家です。そして実際、明忍が在俗時代、いまだ賢好であるときには、中原氏でなく清原氏としてですが、その官職に就いています。そんな明忍が、いくら仏教を志向していたとしても、儒教における伝統的な「孝」を重んじていなかったわけはなく、であるが故になおさらそんな行動には重い意味があったと見なければなりません。
明忍が居した厳原の山中、明忍の塔碑が建てられた地の側には、確かに小川があります。もっとも、その小川は現在まとまった雨が降ったときのみその姿を潤す涸れ川(右写真中央部)です。今はそんな涸れ川ですが、今もそのところどころに古い石積みの護岸が残っていることから、その流れは往時とさして変わらぬものと思われます。
明忍が京の母御からの手紙を流したその川は、幕末までの対馬の人々によって「文捨川」と称されるようになっていた、と幕末の対馬藩士中川延良が著した対馬における風俗・故実などの見聞集『楽郊紀聞』は伝えています。
久田路、今西山由兵衛 始和吉郎。由膳嫡子。今の四郎兵衛は其子也 居宅前の小川は 此川、唯心軒・泊船庵の藍塔場を流通りて、久田道中道の下に出て、海岸寺門前雁木の下の石橋より、夷崎の詰め、海に入也、文捨川といふ。昔明忍律師留寓の時、故郷の母儀より書状来るを、いつも開封せずして、此水に投入て流せしよりの名なりと、海岸寺先住 近比迠、夢伝庵に隠居、去年比遷化。藤野氏の人 話也とぞ 脇田政右衛門継母話。 志賀与五郎聞ける人も、川の名の事も、是に同じ。然るにセンマ川の事と承る由いへり。 嘉永三庚戊三月十一日、与五郎より聞。
今按に、センマ川は、道河帳にも見えて、北茅段の川と見えたり。明忍律師の寓居より隔たりければ、間違へ成べし。北茅段といふは、榎木橋手前より上る也。榎木橋、則其川に渡したり。下流を流芳院川と云。
久田路の今西山由兵衛 始め和吉郎といった。由膳の嫡子であり、今の四郎兵衛はその子である の居宅前を流れる小川は この川は唯心軒・泊船庵の藍塔場を流れ通って、久田道中道の下に出て、海岸寺門前雁木の下の石橋より夷崎の詰めにて海に流れ入る、「文捨川」という。昔、明忍律師が(久田道の奥、茅檀に)留寓していた時、故郷の母儀より書状が来たのをいつも開封することなく、この川の水に投げ入れて流していたことによる名であると、海岸寺の先代住職 近頃まで夢伝庵に隠居していたが、去年遷化した。藤野氏の人 の話とのことである これは脇田政右衛門の継母から聞いた話である。 志賀与五郎が聞いた人も川の名の事も、これに同じであった。そこで(その文捨川とは)センマ川の事であると承知しているという。 嘉永三庚戊〈1850〉三月十一日、与五郎より聞いた話である。
今、このことについて(私中川延良が)考えてみるに、センマ川とは「道河帳」〈幕府が各藩に命じて編纂させた領内の道・港湾・河川等の記録。道帳・道程帳に同じ〉にも載っているもので、北茅段の川のことであろう。(しかし、それは)明忍律師が寓居していた地から隔たったものであって、(文捨川をセンマ川に比定することは)認りに違いない。北茅段というのは榎木橋手前より上った処のことである。榎木橋はまさにその川に渡したものである。その下流は流芳院川という。
中川延良『楽郊紀聞』巻六
なお、国土地理院が蔵する近世の「対馬国絵図」では、明忍が暮らした府中から久田の近傍、そして明忍がその景色を愛して茅壇からしばしば散歩していたという夷崎の位置関係は以下のように描かれています。
この地図で久田村に描かれている三筋の川のいずれに上に写真で示した「文捨川」が該当するか、あるいはそもそも描かれていないかなど判断が尽きかねますが、『楽郊紀聞』でも問題にされていたように、久田にはそれに比定すべき川が複数あったことは確かです。
しかし今や、その「文捨川」なる称を知る人は対馬にも無く、またその遺跡が久田道の山中にあることを知る人もほとんど絶えて無くなっています。もっとも、少なくとも戦前、昭和初期には明忍が当地にあったことは対馬の人にも知られており、その塔碑も守られていたようです。
近代では明治期を代表する真言宗の僧であり、廃仏毀釈の暴風に孤軍奮闘して立ち向かって国に掛けあった釈雲照〈1827-1909〉は、その弟子らと行った朝鮮巡教を終えようとする際、ある在家居士から対馬に明忍律師の塔碑があることを初めて聞いています。そこで急遽その帰途予定を変更して釜山から対馬に立ち寄り、地元対馬の人々に呼びかけ共に法要(土砂加持)を行っています。明治39年11月5日のことです。上に示したのはその折の記念写真であり、当時の人々の様相や晩年の釈雲照の様子を伺い知りえる価値あるものとなっています。
しかし、大東亜戦争も終わり、昭和後期までには、対馬において明忍に対する知識・伝承も興味もほとんど失われたようです。
俊正明忍律師の墓は、現在、厳原町久田道浄土宗海岸寺において菩提の供養がなされている。海岸寺本堂須弥壇右脇には律師の彩色木像座像と位牌が祭られ、毎年六月七日の祥月命日には宝永年間に画かれた大幅座像掛軸も揚げられ供養されている。
このお墓といい、座像軸物・木彫座像といい、何れもが、史蹟、文化財として指定をして大切に永く保存可然ものと思われるが如何なるものであろうか。広く江湖に訴えたい。
また墓塔碑石は二百五十年を経過しているので石碑文は薄れつつあり今のうちに拓本をとって歴史資料館に保存することも意義あることと思われる。
馬場筋通りに「洗髪お妻」とか、女郎上りのくだらぬ女が対馬女の代表でもあるかの如く思わせるような高札を出す愚より、遥かに価値有る史蹟高札を揚げようと思う対馬人はいないのであろうか。
竹村 正『京都槇尾山真言宗西明寺中興の祖 俊正明忍律師の墓』 (内山茂、1977)
昭和後期の対馬厳原町の人、竹村正はその当時すでに明忍を知るものが島に無いことを嘆いています。ここで注目したいのは、当時海岸寺には明忍の彩色木像座像があったとされていることです。海岸寺には他に、明忍の珍相で松堂宗植が讃を筆した図像が一幅あったのですが、いずれも韓国の匪賊に盗まれ、今やまったく行方知れずとなったままです。
近世における興律の祖として世に広く知られ尊崇された明忍は、しかし明治維新を迎えた後に急速に衰退していった仏教と共に、次第に忘れ去られ、今やをその名をすら知る者もほとんど無くなっています。
大東亜戦争後、仏教は主に学問の分野で再び脚光を浴びるようになり、奈良・平安・鎌倉期の日本仏教は盛んに研究がなされたものの、仏教学会からすると近世の日本仏教は堕落した仏教で見るべきものはない、という見方が大勢を占めていました。また、学者の間においてすら戒律など前時代の遺物であって現代には無用の長物とする思想が強かったため、なおさらそれを近世に復興した明忍に着目して深掘りする人が現れることは極稀でした。
しかし、大正から昭和にかけて盛んにあらゆる史料の収集と編纂がなされていたことにより、明忍の伝記やその伝記が収録されている諸本は、様々な叢書類に編纂されて今に伝えられています。それらは、その意志さえあれば今でも比較的容易に閲覧できるものです。もっとも、そのほとんど全てが漢文によって書かれたものであるため、まず漢文を読む能力を要し、さらに仏教に関する一定程度以上の素養がなければその意味を理解することは困難です。
したがってそれらは仏教学者や史学者、国文学者らのごく一部が、ただその生業の一つとして稀に触れ、あれこれ学会の内でのみ言うだけのことであって、一般に親しめる様態とは到底なっていません。そのいずれもが世間の目に触れることのまず無い、むしろその存在をすらほとんど知られぬものに載せられたままとして、これをいくらかでも世に知らしめんとする人は絶無のままです。
古代日本に律をもたらした鑑真、中世鎌倉期初頭に戒律復興を果たした西大寺の思円叡尊や唐招提寺の窮情覚盛、極楽寺の良観忍性らに比すれば、まったくと言っていいほど世に知られていないのが俊正明忍です。これは極めて遺憾なことと言わざるを得ません。
もっとも叡尊や忍性そして覚盛すらも、寺家にはある程度その名を知る者があったでしょうけれども、現代社会においてはそれほど前から世に知られた人で無かったようです。昭和のバブル期頃にようやく一部の人の不断の努力に依って着目されるようになり、それをきっかけに史学者および仏教学者など多方面からの研究が進められ、今や当たり前によく知られる人となっています。
そのように明忍らが世に知られず、今までの学者らに興味も持たれなかった要因は、明忍およびその同志たる慧雲や友尊らが、戒律復興を果たした後十年に届こうかという時に次々と、矢継ぎ早に早逝してしまっていたことがまず第一にあると思われます。そして彼等のうち一人として何ら著述を残していないということが大きな要因としてあるのでしょう。すなわち、これでは今の学者らの飯の種には全然ならない。
実際問題、彼らは律を復興して間もない頃にあって、それを現実に行い定着させていくことは容易でなくてその暇など無く、また経済的余裕も無かったとも考えられます。その故に、明忍以降の、実はその流れを汲む諸宗諸派の僧こそがよく知られ、しかしその源流がいずこにあるか確かには知られていないために、そんな僧らもそれぞれ曖昧に理解されてきたのであろう、と愚考しています。
しかしながら、事を始めんと欲すれば、その基を知らずんばあるべからず。
単に明忍の生涯ばかりいくらか知ったところで、それはただ歴史の一幕をめくったに過ぎません。明忍およびその後の律僧らや興律運動を正しく掴むのには、彼らが模範とし敬慕したその源を知らなければなりません。故に明忍の行業を知ることをきっかけに、叡尊や忍性、さらには明恵や貞慶、そして鑑真、道慈などへと遡り辿り、彼等が何を見、何を求めていたかを知る必要があります。
実は、明忍らによって近世なされた戒律復興運動を理解するのには、中世における叡尊や覚盛の思想や事績を知ることが不可欠です。さらにいえば、これは案外根の深い問題であるため、平安期初頭の最澄によって巻き起こされた大乗戒壇問題、そしてまた鑑真渡来直後に生じていた南都での自誓受戒問題を踏まえておかなければなりません。
それらを知り理解したときには、そこには縷のようであったとしても明らかな一つの流れを見て取ることができるでしょう。そしてその源泉は間違いなく釈迦牟尼の説かれた法と律とにあることを知り、終には仏教の真に何たるかを知るに至るでしょう。
現在、日本仏教では再三にわたって戒も律もその伝統は「完全に」途絶え、一部の外国僧や留学僧を除いては、ほとんど全くまともな仏教僧が存在しない、真に仏教を説く僧が無い、という事態を迎えています。この明忍の短くも真摯なその生涯に触れることを機縁とし、この扶桑の地に再び興律の志を持ち、現実としてそれを成し遂げんとする幾ばくかの人の現れることを願んでやみません。
非人沙門覺應 稽首和南