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智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

月潭「中興槇尾山西明寺俊正明忍律師塔銘」

「中興槇尾山西明寺俊正明忍律師塔銘」解題

山中に佇む明忍の塔碑

画像:対馬茅壇の明忍塔碑(正面)©viveka 無断転載厳禁

中興槇尾山西明寺俊正明忍律師塔銘ちゅうこう まきのおさん さいみょうじ しゅんしょうみょうにん とうめい」(以下、「塔銘とうめい」)は、俊正明忍の伝記『槇尾山平等心王院故弘律始祖明忍和尚』(以下、行業曲記ぎょうごうきょくき』)の編者、月潭道徴げったん どうちょう〈1636-1713〉により撰された碑文です。

元禄十六年〈1703〉、明忍が対馬にて生活していたという山中の地に、没してから百年を経ようかという時に至っても未だ何らの塔も設けられていなかったことからその顕彰の碑を建てることが槇尾山の衆僧らによって発願・建議されています。結果、その碑文は『行業曲記』を撰述していた月潭に依頼され、月潭はそこで弟子の蘭谷元定に篆額と書丹を任せています。

そのように塔碑が造られたのは、明忍が没して九十年を経ても何一つとして故地に建てられていなかった、ということもさることながら、その数年前の元禄十二年〈1701〉から十四年〈1703〉にかけ第五代将軍徳川綱吉の生母桂昌院から平等心王院へ多大な寄進があり、併せて都合七十石というそれまでの御朱印地(三十五石強)のほとんど倍が加増されたことが非常に大きかったと考えられます。要するに、当時は平等心王院の衆僧が寺院の維持・経営以上のことに意識を向ける精神的余裕と、何か実現出来るほどの経済的余裕が生じていた時機でした。

画像:対馬茅壇の明忍塔碑(右正面)©viveka 無断転載厳禁

また、槇尾山を取り巻く当時の状況、雰囲気というものもその衆僧が塔碑を建てようとする動機を醸成したのに違いありません。

明忍の伝記としての体裁を持つものとしては初となる元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』が明忍没後五十四年となる寛文四年〈1664〉に成立。しかし、その不十分であることが不満であったため新たに月潭に筆させ『行業曲記』が成ったのは、それから二十三年を経た貞享四年〈1687〉のことです。そしてその間、明忍の名は巷においては興律の人としてよりもむしろ「近世において極楽往生した人」として注目されていたようですけれども、僧徒の間では着実に明忍の名と共に槇尾山平等心王院は知られ広まっていき、槙尾山にて受戒し律学した優れた僧が幾人か排出され、律宗ばかりでなく禅宗や天台宗などに持戒の風儀、律学の知識が伝播するようになっています。

そのような宗旨宗派を超えた一時代の流れを造った最初の人として、実際明忍一人で成し遂げたことでは決して無く、また明忍が弟子を実際に教育指導したなどということも無かったのですけれども、しかし対馬という僻地で悲劇的死を迎えた明忍こそがその象徴的存在となっていました。月潭はまさにそのような中で槇尾山に出入りしていた一人です。

対馬茅壇の明忍塔碑(背面)©viveka 無断転載厳禁

完成した石碑はただちに対馬に送られ、元禄十六年十二月に明忍が暮らしていた対馬の山中、茅壇の地に建てられています。その石碑の基壇には大石二個を用いた二段設けられていますが、これは対馬の宗家が塔碑を建立するに際し寄進したものです。おそらくは、塔碑の頂に据えられた笠石も宗家が寄進したものと思われます。その碑の大いさは礎石をあわせておよそ高さ九尺(270cm)、幅四尺(120cm)ほどの堂々たるものです。

明忍の碑は、今の長崎県津島市厳原町久田道の西に南北に連なる小高い山中、雑木が生い茂る間にひっそりと佇んでいます。これは『行業曲記』の記述からも想像できることで、また往時の日本の里山にはほとんど木など生えてなかったということを思えば、おそらくその中腹からは今の厳原の港を見渡せ、また対馬海峡あるいは日本海を遠望出来たことでしょう。

しかし今、雑木が鬱蒼と高く茂って日を遮り陰鬱とした林となったその地からは、麓の厳原港から広がる青海を垣間見ることすら出来なくなっています。また、明忍の塔碑が鎮座するその場所へ行く定まった道など無く、下草も生えずに痩せて雨風に削られる一方の土肌を見せるばかりで林藪が放縦するに任せたものとなっています。

さて、幼い頃から漢籍に親しみ、漢文を綴るに巧みであった禅僧らしく、月潭によるその銘は衒学的修辞を重ねた如何にもなものではありますが、明忍の遺徳を最大限讃える文辞を尽くした格調高いものとなっています。また、上部に刻まれた篆書による題字を記したのは月潭の弟子で、特に篆刻や書画に秀でて優れた作品を幾つか遺している蘭谷元定らんこく げんじょう〈1653-1707〉です。

画像:対馬茅壇の明忍塔碑(背面・銘の題字と上部)©viveka 無断転載厳禁

明忍塔碑をめぐって

明忍の塔碑は、少なくとも明治期から大正期そして昭和初期まではその存在が地元の人に知られ、守られ続けていました。

戦前の昭和三年、対馬教育委員会から発刊せられた『対馬島誌』には、厳原の久田道萱檀に明忍律師の塔があることが記され、その銘の撰者が月潭であることも述べられています。故に少なくとも戦前の対馬において、明忍という人の存在、そしてその終焉の地が対馬であったことは行政においても一定の認識があったことが知られます。しかし、現在においては、これは2019年および2020年、現地にて自ら確認した上で述べることですが、長崎県や対馬市の行政も教育委員会も観光協会もその存在や価値をほとんど知らず、知らせても興味を持たずにあるままとなっています。

もっとも、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた近代から、ただ祖霊信仰や俗人の詮無い俗信に漬け込み煽りさえする空虚な祈祷を稼業とするに成り果てた現代に至るまでの間の日本仏教の大勢に於いて、しかし辛うじて近世の興律の祖たる俊正明忍の存在を知って尊崇し、またその塔が対馬の山中に在る事を知って思慕し顕彰せんとする者が、それは拙も含めてのことですが、幾人か現れています。

まず近代では明治期を代表する高僧の一人、釈雲照しゃくうんしょう〈1827-1909〉があります。

雲照はその晩年の八十歳の時、「満韓戦場彼我戦死者回向」のため訪れていた朝鮮から帰国の途につかんとした際、ある在家居士から対馬に明忍律師の墓墳(実際は墓ではない)があることを聞かされて初めて知っています。それを聞いた雲照は喜び、その帰途予定を変更して釜山から対馬に立ち寄り、地元対馬の人々らに呼びかけ共に土砂加持の法要を行っています。

  明忍律師墓前祭文
別解脱戒は滅後の大師にして尊重なること世尊慇懃に敎勅し給へることは経律に明晰なり、
我大日本國聖武天皇大毘盧遮那佛像を興建し給ひしより、日夜木叉を渇仰し、戒壇を築き具戒を全ふせんことを軫念し給ひ、遂に大唐國鑑眞大和尚勅請に答へて來應し、。南都大佛の殿前、及び筑紫下野に三戒壇を建設し、通受羯磨を秉し、茲に初めて本朝に於て三寳を完全し、戒光善く輝くことを得たり、然るに星月漸く移り、時非に人劣にして戒光輝きを収め其人を見ず、茲に嘉禎ニ年の秋大悲興正の諸賢同志要約して通受自誓受羯磨を秉して再び律幢を建て、海内其戒德に霑ふことを得たるは實に優曇も喩へにあらず、然り而其後應仁元龜の際英雄四方に蜂起して千戈休む時なし、爲に海内一の護戒持律の者を見ざるに至れり、慶長七年の秋高雄山晋海大僧正の資明忍大德あり、深く戒脉の絶緒を嘆き悶絶して地に倒る、師主大僧正懇に諭して南都春日の神殿に參籠せしむること五十日夜、滿願の暁に至り神宣に依て再び律幢を揚ぐることを得たり、
神宣に曰く、『戒十善、神道句々之敎ナリ』と、爾りしより以來茲に三百の星霜を經、律幢未だ全く地を拂ふに至らざるは實に大德の賜也、小僧雲照深く大德の恩惠に感じ日夜忘るることなし、然るに大德は更に雄志を鼓し、大明國に入り戒脉を明にせんことを發願し、錫を杖て對馬國に到り給へり、然るに時恰も鎖國の制嚴密にして航を明韓の地に發するの機を得ず、居ること五歳にして遂に空く身命を捨て給へり、小僧其志の雄大にして護戒の堅きを慕ふこと茲に六十餘年、斯歳夏偶大韓國釜山に到り、檀越福田居士の談に依て初めて大德墓墳の地を了知することを得たり、今韓國より歸朝に際し、親く墓前に伏し恭く華水香燈を供じ、散砂の典を修するを得、生前の怡悅何物か之に比せん、茲に聊報恩の微衷を陳べ、焚香黙禱す、伏て冀くは大德尊靈來降尙くは饗し給へ、
 明治三十九年十一月五日              密宗沙門苾蒭雲照敬白

草繁全宜『釋雲照』上編

雲照が塔碑の前で読んだ祭文の中に言う明忍の伝記は、その後しばらくして編纂された『慈雲尊者全集』に『律法中興縁由記』と題され収録されたものに依ったものです。雲照は、慈雲尊者が亡くなった時ニ歳であって、当然直接知ってはいませんでしたが非常に尊敬して私淑し、大阪にいまだ存したその弟子筋から受戒・受法していました。廃仏毀釈の逆風が吹く中、自ら奮闘して盛んに興律運動を展開していた雲照が、朝鮮半島からほど近い対馬に明忍の墓があると聞いて行かない訳は無かったことでしょう。

以下に示したのはその折の記念写真ですが、明忍塔碑の大きさはもとより、当時の周囲の様子ばかりでなく人々の様相や晩年の雲照の姿を伺い知りえる、価値あるものとなっています。

画像:明忍塔碑前に土砂加持法要を執行した釈雲照一行記念写真(©viveka 無断転載厳禁)

この写真により、雲照らが法要を営んだ明治末期と現在ともその周囲の様子は随分変わっていることが確認できます。今はこのような環境にはありません。なお、この写真に映る塔碑の裏に建てられた角塔婆は現在、麓の海岸寺本堂の入り口の長押に、やや朽ちてはいますが横に架けられて保存されています。

明忍の塔碑は、少なくとも明治期から大正期そして昭和初期まではその存在が地元の人に知られ、守られ続けていました。しかし、大東亜戦争後となって明忍は対馬の人からも次第に忘れさられていったようです。たとえば昭和五十二年、対馬厳原町の竹村正なる人が、明忍三百六十七年の忌日に『京都槇尾山真言宗西明寺中興の祖 俊正明忍律師の墓』なる書を私家出版した中、以下のように明忍について述べています。

 俊正明忍律師の墓は、現在、厳原町久田道浄土宗海岸寺において菩提の供養がなされている。海岸寺本堂須弥壇右脇には律師の彩色木像座像と位牌が祭られ、毎年六月七日の祥月命日には宝永年間に画かれた大幅座像掛軸も揚げられ供養されている。
 このお墓といい、座像軸物・木彫座像といい、何れもが、史蹟、文化財として指定をして大切に永く保存可然ものと思われるが如何なるものであろうか。広く江湖に訴えたい。
 また墓塔碑石は二百五十年を経過しているので石碑文は薄れつつあり今のうちに拓本をとって歴史資料館に保存することも意義あることと思われる。
 馬場筋通りに「洗髪お妻」とか、女郎上りのくだらぬ女が対馬女の代表でもあるかの如く思わせるような高札を出す愚より、遥かに価値有る史蹟高札を揚げようと思う対馬人はいないのであろうか。

竹村 正『京都槇尾山真言宗西明寺中興の祖 俊正明忍律師の墓』 (内山茂、1977)

ここで竹村氏もまた塔碑を墓であると誤認していますが、あれは墓ではなく、あくまで明忍の古跡を後世に伝え、またその行業を顕彰するための塔碑です。対馬の塔碑を明忍の墓であると誤認していたのは釈雲照も同様で、今の学者にも少なからずあります。しかし、明忍の墓は西明寺境内にあって、それは遷化して間もなくして建てられたものです。

惜しむらくは、対馬にて若くも没した清冽な聖僧の古跡を、その存在をすら人々が忘却して一向知らず、その山の荒れるに任せたままとなっている雑木林の中に埋没していることです。そこに至る道もまた廃れ、その途上は近世の庶民の墓地がありますが、これも捨て去られて墓石が散乱するばかりとなり、その道を塞いで常人の立ち入り難いものとなっているのには憤慨の念を禁じえません。

今、碑石の一部には欠損が見られ、また剥落も始まっており、すぐにでも周囲の環境を整え、これを保存する手を打たず放置したならば、早晩摩滅瓦解して人の記憶からのみならず、物としても消滅してしまう危機にあります。そこで明忍の塔碑のいまだ対馬の山中にあることを改めて啓発し、国や自治体に文化財としても認め保存するべきことを諸方に働きかけてはいるものの、拙が如き小人の微力によっては至らぬこと多く、遅々として事が進まないのが現状です。そこで併せてその来由をここに示し、懸命なる諸兄諸姉の助力・智慧を借りたいと請うばかりであります。

願わくは遠くない将来、明忍が独り金剛不壊なる誓願をいだきつつ没した対馬の地に、今もその行業を黙して語る塔碑のあることを世人が知り、色心ともに光をあてて、はるか未来際にまで守り伝えるようにならんことを。

愚衲覺應 拝記