‘‘Kathaṃ bhāvitā ca, bhikkhave, ānāpānassati kathaṃ bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsā? Idha, bhikkhave, bhikkhu araññagato vā rukkhamūlagato vā suññāgāragato vā nisīdati pallaṅkaṃ ābhujitvā ujuṃ kāyaṃ paṇidhāya parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā. So satova assasati satova passasati.
‘‘Dīghaṃ vā assasanto ‘dīghaṃ assasāmī’ti pajānāti, dīghaṃ vā passasanto ‘dīghaṃ passasāmī’ti pajānāti; rassaṃ vā assasanto ‘rassaṃ assasāmī’ti pajānāti, rassaṃ vā passasanto ‘rassaṃ passasāmī’ti pajānāti; ‘sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī’ti sikkhati.
‘‘‘Pītipaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘pītipaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘sukhapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘sukhapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘cittasaṅkhārapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘cittasaṅkhārapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ passasissāmī’ti sikkhati.
‘‘‘Cittapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘cittapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘abhippamodayaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘abhippamodayaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati; ‘samādahaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘samādahaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati; ‘vimocayaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘vimocayaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati.
‘‘‘Aniccānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘aniccānupassī passasissāmī’ti sikkhati; ‘virāgānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘virāgānupassī passasissāmī’ti sikkhati; ‘nirodhānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘nirodhānupassī passasissāmī’ti sikkhati; ‘paṭinissaggānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘paṭinissaggānupassī passasissāmī’ti sikkhati. Evaṃ bhāvitā kho, bhikkhave, ānāpānassati evaṃ bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsā.
‘‘Kathaṃ bhāvitā ca, bhikkhave, ānāpānassati kathaṃ bahulīkatā cattāro satipaṭṭhāne paripūreti? Yasmiṃ samaye, bhikkhave, bhikkhu dīghaṃ vā assasanto ‘dīghaṃ assasāmī’ti pajānāti, dīghaṃ vā passasanto ‘dīghaṃ passasāmī’ti pajānāti; rassaṃ vā assasanto ‘rassaṃ assasāmī’ti pajānāti, rassaṃ vā passasanto ‘rassaṃ passasāmī’ti pajānāti; ‘sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī’ti sikkhati; kāye kāyānupassī, bhikkhave, tasmiṃ samaye bhikkhu viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Kāyesu kāyaññatarāhaṃ, bhikkhave, evaṃ vadāmi yadidaṃ – assāsapassāsā. Tasmātiha, bhikkhave, kāye kāyānupassī tasmiṃ samaye bhikkhu viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.
‘‘Yasmiṃ samaye, bhikkhave, bhikkhu ‘pītipaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘pītipaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘sukhapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘sukhapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘cittasaṅkhārapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘cittasaṅkhārapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ passasissāmī’ti sikkhati; vedanāsu vedanānupassī, bhikkhave, tasmiṃ samaye bhikkhu viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Vedanāsu vedanāññatarāhaṃ, bhikkhave, evaṃ vadāmi yadidaṃ – assāsapassāsānaṃ sādhukaṃ manasikāraṃ. Tasmātiha, bhikkhave, vedanāsu vedanānupassī tasmiṃ samaye bhikkhu viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.
‘‘Yasmiṃ samaye, bhikkhave, bhikkhu ‘cittapaṭisaṃvedī assasissāmī’ti sikkhati, ‘cittapaṭisaṃvedī passasissāmī’ti sikkhati; ‘abhippamodayaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘abhippamodayaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati; ‘samādahaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘samādahaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati; ‘vimocayaṃ cittaṃ assasissāmī’ti sikkhati, ‘vimocayaṃ cittaṃ passasissāmī’ti sikkhati; citte cittānupassī, bhikkhave, tasmiṃ samaye bhikkhu viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. Nāhaṃ, bhikkhave, muṭṭhassatissa asampajānassa ānāpānassatiṃ vadāmi. Tasmātiha, bhikkhave, citte cittānupassī tasmiṃ samaye bhikkhu viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.
‘‘Yasmiṃ samaye, bhikkhave, bhikkhu ‘aniccānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘aniccānupassī passasissāmī’ti sikkhati; ‘virāgānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘virāgānupassī passasissāmī’ti sikkhati; ‘nirodhānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘nirodhānupassī passasissāmī’ti sikkhati; ‘paṭinissaggānupassī assasissāmī’ti sikkhati, ‘paṭinissaggānupassī passasissāmī’ti sikkhati; dhammesu dhammānupassī, bhikkhave, tasmiṃ samaye bhikkhu viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ. So yaṃ taṃ abhijjhādomanassānaṃ pahānaṃ taṃ paññāya disvā sādhukaṃ ajjhupekkhitā hoti. Tasmātiha, bhikkhave, dhammesu dhammānupassī tasmiṃ samaye bhikkhu viharati ātāpī sampajāno satimā vineyya loke abhijjhādomanassaṃ.
‘‘Evaṃ bhāvitā kho, bhikkhave, ānāpānassati evaṃ bahulīkatā cattāro satipaṭṭhāne paripūreti.
「では比丘たちよ、アーナーパーナサティがどのように修習され、どのように習熟されたときには、大きな果報と大きな利益があるであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が、阿蘭若〈arañña. 閑かな林野〉に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くして面前に念を繫ける。彼はただ念じて入息〈āna〉し、ただ念じて出息〈apāna〉する」
「①長く入息しては『私は長く入息する』と、彼は明らかに知る。長く出息しては『私は長く出息する』と、彼は明らかに知る。②短く入息しては『私は短く入息する』と、彼は明らかに知る。短く出息しては『私は短く出息する』と、彼は明らかに知る。③『私は一切身〈sabbakāya〉を感知して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は一切身を感知して、出息しよう』と、彼は修練する。④『私は身行〈kāyasaṅkhāra〉を止息してして、入息しよう』と、彼は修練する。『私は身行を止息して、出息しよう』と、彼は修練する」
「⑤『私は喜〈pīti〉を感知して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は喜を感知して、出息しよう』と、彼は修練する。⑥『私は楽〈sukha〉を感知して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は楽を感知して、出息しよう』と、彼は修練する。⑦『私は心行〈cittasaṅkhāra〉を感知して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は心行を感知して、出息しよう』と、彼は修練する。⑧『私は心行を止息して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は心行を止息して、出息しよう』と、彼は修練する」
「⑨『私は心〈citta〉を感知して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は心を感知して、出息しよう』と、彼は修練する。⑩『私は心を満足して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は心を満足して、出息しよう』と、彼は修練する。⑪『私は心を統一して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は心を統一して、出息しよう』と、彼は修練する。⑫『私は心を解脱させて、入息しよう』と、彼は修練する。『私は心を解脱させて、出息しよう』と、彼は修練する。」
「⑬『私は無常〈aniccā〉を随観して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は無常を随観して、出息しよう』と、彼は修練する。⑭『私は離欲〈virāgā〉を随観して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は離欲を随観して、出息する』と、彼は修練する。⑮『私は滅〈nirodha〉を随観して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は滅を随観して、出息する』と、彼は修練する。⑯『私は捨離〈paṭinissagga〉を随観して、入息しよう』と、彼は修練する。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は修練する。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある」
「では比丘たちよ、アーナーパーナサティがどのように修習され、どのように習熟されたならば、四念処〈cattāro satipaṭṭhānā〉が完成するであろうか?どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は長く入息しては、『私は長く入息する』と知り、長く出息しては『私は長く出息する』と、彼は明らかに知る。短く入息しては『私は短く入息する』と知り、短く出息しては『私は短く出息する』と、彼は明らかに知る。『私は一切身を感知して、入息しよう』と、彼は修練し、『私は一切身を感知して、出息しよう』と、彼は修練する。『私は身行を止息して、入息しよう』と、彼は修練し、『私は身行を止息して、出息しよう』と、彼は修練する。その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、身における身随観〈kāye kāyānupassī〉に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。比丘たちよ、入息と出息、これを名づけて『諸々の身における或る種の身〈kāyesu kāyaññatara〉』であると、私は説く。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、身における身随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して」
「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は『私は喜を感知して、入息しよう』と修練し、『私は喜を感知して、出息しよう』と、彼は修練する。『私は楽を感知して、入息しよう』と彼は修練し、『私は楽を感知して、出息しよう』と彼は修練する。『私は心行を感知して、入息しよう』と、彼は修練し、『私は心行を感知して、出息しよう』と、彼は修練する。『私は心行を止息して、入息しよう』と、彼は修練し、『私は心行を止息して、出息しよう』と、彼は修練する。その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、諸々の受における受随観〈vedanāsu vedanānupassī〉に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。比丘たちよ、入息と出息によく意を用いること、これを名づけて『諸々の受における或る種の受〈vedanāsu vedanāññatara〉』であると、私は説く。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、諸々の受における受随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」
「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は『私は心を感知して、入息しよう』と修練する。『私は心を感知して、出息しよう』と、彼は修練する。『私は心を満足して、入息しよう』と、彼は修練し、『私は心を満足して、出息しよう』と、彼は修練する。『私は心を統一して、入息しよう』と、彼は修練し、『私は心を統一して、出息しよう』と、彼は修練する。『私は心を解脱させて、入息しよう』と、彼は修練し、『私は心を解脱させて、出息しよう』と、彼は修練する。その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、心におけ心随観〈citte cittānupassī〉に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。比丘たちよ、念を失って正知することがなければ、アーナーパーナサティの修習は無い、と私は説く。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、心における心随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」
「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は『私は無常を随観して、入息しよう』と、彼は修練し、『私は無常を随観して、出息しよう』と、彼は修練する。『私は離欲を随観して、入息しよう』と、彼は修練し、『私は離欲を随観して、出息しよう』と、彼は修練する。『私は滅を随観して、入息しよう』と、彼は修練し、『私は滅を随観して、出息しよう』と、彼は修練する。『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は修練し、『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は修練する。その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、諸々の法における法随観〈dhammesu dhammānupassī〉に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。彼は般若〈pañña〉により貪欲と憂いとの捨断を見、善く観てある。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、諸々の法における法随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」
「実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたならば、四念処が完成する」
[P]arañña ([S]araṇya). 閑静な森林。人気がなく静かで瑜伽を修めるのに適した地。空閑林・空閑処・寂静処などと漢訳される。支那では転じて寺院、精舎の意としても用いられた。
Paṭisambhidāmagga(以下、『無礙解道』)「araññanti nikkhamitvā bahi indakhīlā sabbametaṃ araññaṃ.(阿蘭若とは、[市街・集落の境界を示す石の]門柱から外に出た[場所]、その全てが阿蘭若である)」
Visuddhimagga(以下、『清浄道論』)「araññagatoti "araññanti nikkhamitvā bahi indakhīlā sabbametaṃ arañña"nti ca, "āraññakaṃ nāma senāsanaṃ pañcadhanusatikaṃ pacchima"nti ca evaṃ vuttalakkhaṇesu araññesu yaṃkiñci pavivekasukhaṃ araññaṃ gato."(阿蘭若に行きとは、「阿蘭若とは、門柱から外に出た[場所]、その全てが阿蘭若である」あるいは「阿蘭若と言われる住処は、直近でも五百弓である」と、このように特徴を説かれる阿蘭若において、どこであれ独坐による安楽の(得られる)阿蘭若に行き[という意味である])」
この中、ブッダゴーサは、まず最初に挙げた『無礙解道』ならびにVibhanga(『分別論』)の所説を引き、次にVinaya Pitaka, Pārājika(『パーリ律』「波羅夷」)の所説を引用して、その中でも独坐(遠離)によって安楽の得られる場所であると特定している。
なお、ここで『パーリ律』で言われる五百弓(pañcadhanusatika)の弓(dhanu)とは、古代インドにおける尺。一弓とは四肘(hasta)で、一肘は腕を曲げたときの肘から指の先までのこと。一般に約45cmとされるから、およそ180cm。故に五百弓とはおよそ900m。五百弓はまた一俱盧舍(krosa)とも言われる。▲
nisīdati pallaṅkaṃ ābhujitvā. 両足を組む坐法。坐法に関し、一部の例外を除きおよそすべての経典に説かれるのは、結跏趺坐(あるいは条件付きで半跏坐)に限られる。
結跏趺坐でなければならない、などとは言われないが、多くの仏教諸派がおよそ2500年の昔からずっと同じ坐法を伝えてきたことは一考すべきこと。背筋を伸ばして反らし過ぎぬようし、足は安定して股関節ならびに腰をねじらぬようにすること。すると結跏趺坐がもっとも安定した坐法となる。結跏趺坐が出来ない場合、半跏坐でも良いが、上手く座らなければ股関節ならびに腰に相当な無理が加わるため、坐法を確かなものとしておかなければ長時間坐すことは出来ない。▲
paṇidhāya parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā. parimukhaのpariは「遍く」・「完全に」を意味する接頭辞で、mukhaは「口」・「顔]・「入口」・「門」・「前」・「先」を意味する語。『雑阿含経』では「繋念面前」とあり、今は一応これに倣った。upaṭṭhapetvāは、upa(近くに)+√stha(立つ)からなるupaṭṭhahatiの使役動詞形(causative)upaṭṭhapetiの連続体(gerund)で、「付き従わせて」「仕えて」「供えて」の意。ここでは、これを「繋けて」と意訳した。ではそこで、「面前に念を繫ける」とはいかなることか。多くの論書では面前(parimukha)のmukhaを「上唇・鼻頭」であると解される。mukhaとは口・顔・入り口・正面を意味する語。安般念を修習する際の念を置く場所として必ず上唇あるいは鼻頭と指定されているのは、このような経説に根拠をもつ。
『無礙解道』「Parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvāti. Parīti pariggahaṭṭho. Mukhanti niyyānaṭṭho. Satīti upaṭṭhānaṭṭho. Tena vuccati – "parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvā"ti."(「面前に念を備えて」とは、pariとは把握の義、mukhaとは出口[出発]の義、satiとは随侍の義である。この故に(このように)言われる「面前に念を備えて」と)」
『解脱道論』「於是現前令學安者。謂繫念住於鼻端。或於口脣。是出入息所緣處。彼坐禪人以安念此處。入息出息於鼻端口脣。以念觀觸。或現念令息入。現念令息出。現於息入時不作意。於出時亦不作意。是出入息所觸。鼻端口脣。以念觀知所觸。現念令入現念出息」(T32, p.430a)
『清浄道論』「Parimukhaṃ satiṃ upaṭṭhapetvāti kammaṭṭhānābhimukhaṃ satiṃ ṭhapayitvā. Atha vā parīti pariggahaṭṭho. Mukhanti niyyānaṭṭho. Satīti upaṭṭhānaṭṭho. Tena vuccati "parimukhaṃ sati"nti evaṃ paṭisambhidāyaṃ vuttanayenapettha attho daṭṭhabbo. Tatrāyaṃ saṅkhepo, pariggahitaniyyānaṃ satiṃ katvāti.(「面前に念を備えて」とは、念を業処に向けて据え置いて[ということ]。あるいはまた、「pariとは把握の義。mukhaとは出口[出発]の義、satiとは随侍の義である。この故に(このように)言われる、『面前に念を備えて』と」と、このように『無礙解道』に説かれる方法によっても、この義は見られるべきである。そこでこの要略は「念に出口を把握させて」である)」
ここにいわれるmukha(出口)とは、鼻頭もしくは上唇とされる。これは分別説部も説一切有部でも同様。なお、業処(kammaṭṭhāna)とは上座部独自の術語で、瑜伽を修める際の意識の対象とするものを云う。 アーナーパーナサティにおける初めの業処は入出息。すなわち、真には風大(vāyo-dhātu)であるけれども、必ずしも風大に限定されず呼吸ににまつわる諸行を対象とすることからアーナパーナサティと言う。▲
assasati. 彼は息を吸う。名詞としての入息はāna。▲
passasati. 彼は息を吐く。名詞としての入息はapāna。▲
pajānāti. pa(強意)+jānāti(知る)。自ら意識的に呼吸するのではなく、無意識になしている呼吸の状態をはっきりと理解すること。意図的に呼吸を操作することでは決して無いことに注意。念(sati)の対象を呼吸として亡失・失念することなく、すなわち意識というフレームに呼吸をのみ写し、その状態をはっきりと知ること。
『無礙解道』「kathaṃ dīghaṃ assasanto "dīghaṃ assasāmī"ti pajānāti, dīghaṃ passasanto "dīghaṃ passasāmī"ti pajānāti? dīghaṃ assāsaṃ addhānasaṅkhāte assasati, dīghaṃ passāsaṃ addhānasaṅkhāte passasati, dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhānasaṅkhāte assasatipi passasatipi. Dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhānasaṅkhāte assasatopi passasatopi chando uppajjati. Chandavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsaṃ addhānasaṅkhāte assasati, chandavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ passāsaṃ addhānasaṅkhāte passasati, chandavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhānasaṅkhāte assasatipi passasatipi. Chandavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhānasaṅkhāte assasatopi passasatopi pāmojjaṃ uppajjati. pāmojjavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsaṃ addhānasaṅkhāte assasati, pāmojjavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ passāsaṃ addhānasaṅkhāte passasati, pāmojjavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhānasaṅkhāte assasatipi passasatipi. Pāmojjavasena tato sukhumataraṃ dīghaṃ assāsapassāsaṃ addhā nasaṅkhāte assasatopi passasatopi dīghaṃ assāsapassāsāpi cittaṃ vivattati, upekkhā saṇṭhāti. imehi navahākārehi dīghaṃ assāsapassāsā kāyo. upaṭṭhānaṃ sati. anupassanā ñāṇaṃ. Kāyo upaṭṭhānaṃ, no sati; sati upaṭṭhānañceva sati ca. Tāya satiyā tena ñāṇena taṃ kāyaṃ anupassati. Tena vuccati – "kāye kāyānupassanāsatipaṭṭhānabhāvanā"ti.(どのように長く入息しては「私は長く入息する」と彼は知るのであろうか?どのように長く出息しては「私は長く出息する」と彼は知るのであろうか? 〈Ⅰ〉彼は、その[長き]時間について考量された長き入息を、入息する。〈Ⅱ〉彼は、その時間について考量された長き出息を、出息する。〈Ⅲ〉彼は、その時間について考量された長い入出息を、入息し、また出息する。(彼が)その時間について考量された長い出入息を、入息し、また出息したならば、(彼に)意欲が生起する。〈Ⅳ〉彼は、意欲によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長き入息を、入息する。〈Ⅴ〉彼は、意欲によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長き出息を、出息する。〈Ⅵ〉彼は、意欲によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長い入出息を、入息し、また出息する。彼が、意欲によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長い入出息を、入息し、また出息したならば、(彼に)喜悦が生起する。〈Ⅶ〉彼は、喜悦によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長き入息を、入息する。〈Ⅷ〉彼は、喜悦によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長き出息を、出息する。〈Ⅸ〉彼は、喜悦によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長い入出息を、入息し、また出息する。彼が、喜悦によって以前よりも微細なる、その時間について考量された長い入出息を、入息し、また出息したならば、(彼の)心は、長い入出息から転じ離れる。(そして彼に)平静[捨]が確立する。これら九種の行相による長き入出息が身体である。随侍[upaṭṭhāna/]が念[sati]である。随観[anupassanā]が智[ñāṇa]である。身体は随侍であるが、しかし念ではない。念は随侍であって、しかも念である。その念とその智(の義)によって、 彼は身体を随観する。この故に(このように)言われる「身体において身体を随観する念処の修習」と)」
この『無礙解道』の一節は、まるごと『清浄道論』に引用され、さらにブッダゴーサによって(少々蛇足的)解説が加えられている。よってここでは『清浄道論』の該当箇所を引かない。
なお、この〈Ⅰ〉から〈Ⅸ〉までの九種の行相は、「長い」との語句を「短い」に入れ替え、そのまま②にも適用される。▲
sabbakāya. 単純に訳せば、sabba(すべての)+kāya(身体)で「身体全体」。けれどもkāyaという語は「集まり」・「多数」・「集積」が原意であって、そこから「身体」の意となったもの。実際、上座部ではこのsabbakāya(一切身)を、原意どおりの「集まり」・「集積」の意として捉えている。
『無礙解道』「kathaṃ "sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmī"ti sikkhati, "sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmī"ti sikkhati? Kāyoti dve kāyā – nāmakāyo ca rūpakāyo ca. katamo nāmakāyo? vedanā, saññā, cetanā, phasso, manasikāro, nāmañca nāmakāyo ca, ye ca vuccanti cittasaṅkhārā – ayaṃ nāmakāyo. Katamo rūpakāyo? Cattāro ca mahābhūtā, catunnañca mahābhūtānaṃ upādāyarūpaṃ, assāso ca passāso ca, nimittañca upanibandhanā, ye ca vuccanti kāyasaṅkhārā – ayaṃ rūpakāyo.(どのように「私は一切身を感知し、入息しよう」と彼は修練し、どのように「私は一切身を感知し、出息しよう」と彼は修練するのであろうか?身体には二種の身体がある。名身と色身とである。何が名身であろうか?受・想・思・触・作意・名・名身、これらはまた心行とも呼ばれるが、これらが名身である。何が色身であろうか?四大と四大所造色、入息と出息、相と結束、これらはまた身行とも呼ばれるが、これらが色身である)」
『解脱道論』「知一切身我入息如是學者。以二種行知一切身。不愚癡故以事故。問曰。云何無愚癡知一切身。答曰。若坐禪人念安般定。身心喜樂觸成滿。由喜樂觸滿。一切身成不愚癡。問曰。云何以事知一切身。答曰。出入息者。所謂一處住色身。出入息事心心數法名身。此色身名身。此謂一切身。彼坐禪人。如是以見知一切身。雖有身無眾生無命」(T32, p.430v)
『清浄道論』「sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmi…pe… passasissāmīti sikkhatīti sakalassa assāsakāyassa ādimajjhapariyosānaṃ viditaṃ karonto pākaṭaṃ karonto assasissāmīti sikkhati. Sakalassa passāsakāyassa ādimajjhapariyosānaṃ viditaṃ karonto pākaṭaṃ karonto passasissāmīti sikkhati...(「私は一切身を感知して出息しよう、乃至、出息しよう」と彼は修練するとは、「すべての出息身の初め・中頃・終わりを知り、理解することをなして、私は出息しよう」と、彼は学す。「すべての入息身の初め・中頃・終わりを知り、理解することをなして、私は入息しよう」と、彼は学すのである云々)」
ここでの一切身(sabbakāya)が何を意味する語であるかということについて、上に挙げたように『無礙解道』は名身と色身であるとし、その内容を逐一挙げている。『解脱道論』はこれを忠実に受け、「此色身名身。此謂一切身」とする。しかし、『清浄道論』にてブッダゴーサは、一切身とは息の初中後すなわち息全体であると、これを極々限定し、『無碍解道』の説を斟酌して全面的に採っていない。これは修道にあたってその他の理解を切り捨て易化し、単純化した結果であったろう。確かにそれで誰でも混乱せず実践しやすくはなったろうけれども、原意からかなり離れていることに注意が必要。▲
paṭisaṃvedī. 経験、感じている状態。▲
sikkhati. 一般に「学ぶ」と訳される語。しかし、これは現在一般に用いられるような単に「知識を得る」・「勉強する」ということではなくて「向上する」の義であるから、その本来の意で理解しなければならない。サンスクリットやパーリ語、そして漢語でも「学ぶ」ことの意味は同じである。人は、向上するために何事か己にとって新しきを知る、新しきを知って己が向上する。学ぶとは、知ること自体を目的とするものではなく、己が向上することを目的とするもの。
『解脱道論』「如是學者。謂三學。一增上戒學。二增上心學。三增上慧學。如實戒此謂增上戒學。實定此謂增上心學。如實慧此謂增上慧學。彼坐禪人此三學。於彼事以念作意學之。修已多修。此謂學之令滅身行。我入息如是學」(T32, p.430c)
『清浄道論』「Tattha sikkhatīti evaṃ ghaṭati vāyamati. Yo vā tathābhūtassa saṃvaro, ayamettha adhisīlasikkhā. Yo tathābhūtassa samādhi, ayaṃ adhicittasikkhā. Yā tathābhūtassa paññā, ayaṃ adhipaññāsikkhāti imā tisso sikkhāyo tasmiṃ ārammaṇe tāya satiyā tena manasikārena sikkhati āsevati bhāveti bahulīkarotīti evamettha attho daṭṭhabbo."(そこで彼は学ぶとは、このように彼は努力する、彼は励む[ことである]。あるいは、その如くここに[出入息の初中後を覚知する者]の律儀が、増上戒学である。その如くの三昧が、増上心学である。その如くの慧が、増上慧学である。これら三学を、その所縁において、その念において、その作為によって学し・習行し・修習し・習熟する。このように、この[彼は学ぶとの]意味が見られるべきである)」
したがって、sikkhatiにはまた「訓練する」・「鍛える」の意がある。そこでこれを「学ぶ」と単純に訳すのは文脈にもそぐわないので「修練」とした。訓練としても良かったが、語感として軽くなるため敢えて避けた。▲
passasissāmī. これ以前は「passasāmī(私は入息する)」と現在形であったのが、未来形となっていることに注意。③以下⑯まで、未来形にて「入息しよう」と説かれる。
現在形でなく未来形で説かれていることをブッダゴーサは強調する。『清浄道論』「Tattha yasmā purimanaye kevalaṃ assasitabbaṃ passasitabbameva, na ca aññaṃ kiñci kātabbaṃ. Ito paṭṭhāya pana ñāṇuppādanādīsu yogo karaṇīyo. Tasmā tattha assasāmīti pajānāti passasāmīti pajānāticceva vattamānakālavasena pāḷiṃ vatvā ito paṭṭhāya kattabbassa ñāṇuppādanādino ākārassa dassanatthaṃ sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmītiādinā nayena anāgatavacanavasena pāḷi āropitāti veditabbā."(そこで、前の[①と②との]方法においては、ただ出息・入息だけ為すべきである。そして他の事を少しであっても為してはならない。かたや、ここから[③以降]は、智を生起させる等の瑜伽[ヨーガ]が為されるべきである。その故に、そこでは「『私は出息する』と彼は知る」・「『私は入息する』と彼は知る」と、現在時にて聖典を説かれ、[しかし]ここからは、[出息・入息の他に]為されるべき、智を生起させる等の行相を示すために、「一切身を覚知して、出息しよう」等の方法によって、未来語にて聖典が作られたのであると、知られるべきである)」
①と②においては、ただその(無意識に行われている)呼吸を念じるのみで余事を行わないけれども、③以降は、ただ息を念ずるだけではなくなるのである。▲
kāyasaṅkhāra. saṅkhāraを単に近年の学者が作った「潜在的形成作用」あるいは「潜在的形成力」などと訳し、「身体の形成作用」などとしてしまってはまるで意味がわからないであろう。故に漢訳の身行のまま変えないことが賢明であろうと思う。とはいえ往古もこの身行という語には注釈が必要であったようで、何を意味するかの注釈がつけられている。以下まず身行が何かについての注釈を引き、続いてその注に対する疑義と、その解答を述べる一説とを、判別しやすいよう別々に挙げる。
『無礙解道』「katamo kāyasaṅkhāro? Dīghaṃ assāsā kāyikā. Ete dhammā kāyapaṭibaddhā kāyasaṅkhārā. Te kāyasaṅkhāre passambhento nirodhento vūpasamento sikkhati. Dīghaṃ passāsā kāyikā...... Rassaṃ assāsā rassaṃ passāsā. Sabbakāyapaṭisaṃvedī assāsā sabbakāyapaṭisaṃvedī passāsā kāyikā...... Yathārūpehi kāyasaṅkhārehi yā kāyassa ānamanā vinamanā sannamanā paṇamanā iñjanā phandanā calanā pakampanā – passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmīti sikkhati, passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmīti sikkhati. Yathārūpehi kāyasaṅkhārehi yā kāyassa na ānamanā na vinamanā na sannamanā na paṇamanā aniñjanā aphandanā acalanā akampanā santaṃ sukhumaṃ passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmīti sikkhati, passambhayaṃ kāyasaṅkhā raṃ passasissāmīti sikkhati.(身行とは何であろうか?長い入息は身体に属すもの[kāyika]である。これら身体に結びついた諸々の法が身行である。彼は諸々の身行を止息させつつ、停止しつつ、寂滅しつつ、学す。長い出息は身体に属すものである…[同上]…。短い入息、短い出息、一切身を覚知しての入息、一切身を覚知しての出息は身体に属すものである…乃至…。そのような諸々の身行によって、身体に後ろに曲げること[伸びること?]、横に曲げること、折れ屈むこと、先に屈むこと、揺動、震え、揺すり、振動があれば、「身行を止息して入息しよう」と彼は学ぶ。「身行を止息して出息しよう」と彼は学ぶ。そのような諸々の身行によって、身体に後ろに反ることが無く、横に曲げることが無く、折れ屈むことが無く、先に屈むことが無く、揺動無く、震え無く、揺すり無く、振動無ければ、「寂静で微細なる身行を止息して入息しよう」と彼は学ぶ。「(寂静で微細なる)身行を止息して出息しよう」と彼は学ぶ)」
「iti kira "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī"ti sikkhati, "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī"ti sikkhati. Evaṃ sante vātūpaladdhiyā ca pabhāvanā na hoti, assāsapassāsānañca pabhāvanā na hoti, ānāpānassatiyā ca pabhāvanā na hoti, ānāpānassatisamādhissa ca pabhāvanā na hoti; na ca naṃ taṃ samāpattiṃ paṇḍitā samāpajjantipi vuṭṭhahantipi.(「身行を止息して、私は入息しよう」と彼は学ぶ。「新行を止息して、私は出息しよう」と彼は学ぶ、と言われる。そのように、風(vāta)の[知覚の]獲得が起こることも増大することも無く、出息も入息もその増大することも無く、アーナーパーナサティもその増大することもなく、アーナーパーナサティ三昧もその増大することも無い。[その故に]諸々の賢者がその等至(samāpatti)に入定することも、出定することもない[であろう])」
「iti kira "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī"ti sikkhati, "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī"ti sikkhati. Evaṃ sante vātūpaladdhiyā ca pabhāvanā hoti, assāsapassāsānañca pabhāvanā hoti, ānāpānassatiyā ca pabhāvanā hoti. Ānāpānassatisamādhissa ca pabhāvanā hoti; tañca naṃ samāpattiṃ paṇḍitā samāpajjantipi vuṭṭhahantipi. Yathā kathaṃ viya? Seyyathāpi kaṃse ākoṭite paṭhamaṃ oḷārikā saddā pavattanti. Oḷārikānaṃ saddānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpadhāritattā niruddhepi oḷārike sadde, atha pacchā sukhumakā saddā pavattanti. sukhumakānaṃ saddānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpadhāritattā niruddhepi sukhumake sadde, atha pacchā sukhumasaddanimittārammaṇatāpi cittaṃ pavattati. Evamevaṃ paṭhamaṃ oḷārikā assāsapassāsā pavattanti; oḷārikānaṃ assāsapassāsānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpadhāritattā niruddhepi oḷārike assāsapassāse, atha pacchā sukhumakā assāsapassāsā pavattanti. Sukhumakānaṃ assāsapassāsānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpa dhāritattā niruddhepi sukhumake assāsapassāse, atha pacchā sukhumakaassāsapassāsānaṃ nimittārammaṇatāpi cittaṃ na vikkhepaṃ gacchati. Evaṃ sante vātūpaladdhiyā ca pabhāvanā hoti, assāsapassāsānañca pabhāvanā hoti, ānāpānassatiyā ca pabhāvanā hoti, ānāpānassatisamādhissa ca pabhāvanā hoti; tañca naṃ samāpattiṃ paṇḍitā samāpajjantipi vuṭṭhahantipi. Passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assāsapassāsā kāyo upaṭṭhānaṃ sati anupassanā ñāṇaṃ. Kāyo upaṭṭhānaṃ, no sati; sati upaṭṭhānañceva sati ca. Tāya satiyā tena ñāṇena taṃ kāyaṃ anupassati. Tena vuccati – "kāye kāyānupassanāsatipaṭṭhānabhāvanā"ti.(「身行を止息して、私は入息しよう」と彼は学ぶ。「新行を止息して、私は出息しよう」と彼は学ぶ、と言われる。そのように、風(vāta)の[知覚の]獲得が起こって増大し、入出息とその増大があり、アーナーパーナサティとその増大があり、アーナーパーナサティ三昧とその増大がある。[その故に]諸々の賢者はその等至(samāpatti)に入定し、出定する。譬えばどのようなことであろうか?それはあたかも、銅鑼が打たれたとき、はじめに諸々の麁なる[大きな]音が起こる。麁なる音が滅する際にも、麁なる音の相(nimitta)がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、諸々の微細な音が起こる。微細な音が滅する際にも、微細な音の相がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、微細な音の相を対象[境]とする心が起こる。まさしくこのように、はじめ諸々の麁なる入出息が起こる。麁なる入出息が滅する際にも 麁なる入出息の相がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、諸々の微細な入出息が起こる。微細な入出息が滅する際にも、微細な入出息の相がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、諸々の微細な入出息の相を対象とするために、心が錯乱に赴かない。そのように、風の[知覚の]獲得が起こって増大し、入出息とその増大があり、アーナーパーナサティとその増大があり、アーナーパーナサティ三昧とその増大がある。[その故に]諸々の賢者はその等至に入定し、出定する。身行を止息しての入出息とは身体(kāya)であり、随侍(upaṭṭhāna)が念(sati)であり、随観(anupassanā)が智(ñāṇa)である。身体とは随侍であるが、しかし念ではない。念は随侍であって、しかも念である。その念とその智によって、 彼は身体を随観する。この故に[このように]言われる「身体において身体を随観する念処の修習」と)」
『解脱道論』「云何名身行者。此謂出入息。以如是身行。曲申形隨申動踊振搖。如是於身行現令寂滅。復次於麁身行現令寂滅。以細身行修行初禪。從彼以最細修第二禪。從彼最細修行學第三禪。令滅無餘修第四禪。問曰。若無餘滅出入息。云何修行念安般。答曰。善取初相故。以滅出入息。其相得起成修行相。何以故。諸禪相」(T32, p.430c)
身行が諸々の身体の動きならびに呼吸であるとし、人は第四禅に至ると呼吸がなくなるとする諸経典の説(通仏教的理解)を顧慮したならば、この④「身行を止息して入息しよう」の行相は第四禅を獲得することを全く前提としたものとなる。実際、その如くである。しかし、そうであるとすると、この④の達成によって呼吸が全く無くなっているのにも関わらず、行者は入出息を念じるという、非常に奇妙で不可解な状況が想定されてしまう。故にその不合理な解釈を解消するため、『無礙解道』では上に挙げたような問答を設定する。まず先に述べたような不審を立て、それに答えて入出息はなくなるけれども、それまで入出息を念じたことによって得られた相を把持する心を対象とするのであるとの解答を、銅鑼(kaṃsa)の響きの喩えを用いてひねり出している。しかし、この喩えは問に対するまともな応答になっておらず、「入息しよう」「出息しよう」という経文がまるで意味をなさないものとなることに変りない。
とは言え、実際問題、いくら瑜伽行者が第四禅に達したとしても、呼吸が全く無くなるなどということは無いため、(至極当たり前の話であるがそれでは死んでしまうのである、)呼吸が細く非常に微細で覚知しがたいほどのものとなることを言っている。この『無礙解道』の一説は、『解脱道論』そして『清浄道論』共に引用されている。この解釈文については、他から容易に疑問が持たれるものであることが意識されていたのであろう。この解釈に従えば、⑤以降、安般念を修習する瑜伽行者は初禅から第四禅の間を行ったり来たりすることとなる。▲
passambhayaṃ. passambhati(静まる・落ち着く)の連続体。▲
pīti. 文字通りの喜び。心の底から沸き上がる嬉しく好ましい感情。
『無礙解道』はpītiの同義語・類義語を挙げ連ねる。『無礙解道』「yā pīti pāmojjaṃ āmodanā pamodanā hāso pahāso vitti odagyaṃ attamanatā cittassa – ayaṃ pīti.(あらゆる喜び、悦び[pāmojja]・喜悦[pamodana]・愉悦[hāsa]・愉快[pahāsa]・幸福[vitti]・歓喜[odagya]・心の満悦[attamanatā]、これが喜である)」
『解脱道論』「知喜為事知我入息。如是學者。彼念現入息念現出息。於二禪處起喜。彼喜以二行成知。以不愚癡故。以事故。於是坐禪人入定成知喜。不以愚癡以觀故。以對治故。以事故成」(T32, p,431a)▲
sukha. 楽しい気持ち。身行(または心行)が鎮まった時に得られる安楽さ、快適さ。
『無礙解道』「sukhanti dve sukhāni – kāyikañca sukhaṃ, cetasikañca sukhaṃ. Katamaṃ kāyikaṃ sukhaṃ? Yaṃ kāyikaṃ sātaṃ kāyikaṃ sukhaṃ, kāyasamphassajaṃ sātaṃ sukhaṃ vedayitaṃ, kāyasamphassajā sātā sukhā vedanā – idaṃ kāyikaṃ sukhaṃ. Katamaṃ cetasikaṃ sukhaṃ? Yaṃ cetasikaṃ sātaṃ cetasikaṃ sukhaṃ, cetosamphassajaṃ sātaṃ sukhaṃ vedayitaṃ, cetosamphassajā sātā sukhā vedanā – idaṃ cetasikaṃ sukhaṃ.(楽とは二種の楽である。身体的楽[身楽]と精神的楽[心所の楽]である。身体的楽とは何であろうか?あらゆる身体的喜び[sāta]と身体的安楽[sukha]、身体の接触より生じた喜びと安楽として感受したもの、身体の接触より生じる喜びと安楽の感受、これが身体的楽である。精神的楽とは何であろうか?あらゆる精神的喜びと精神的安楽、心より生じた喜びと安楽として感受したもの、心より生じた喜びと安楽の感受、これが精神的楽である)」
『解脱道論』「知樂我入息。如是學者。彼現念入息現念出息。於三禪處起樂。彼樂以二行成知。以不愚癡故。以事故。如初所說」(T32, p.431a)▲
cittasaṅkhāra. 呼吸にまつわる刺激への受(感受)とそれへの想(表象)。
『無礙解道』「katamo cittasaṅkhāro? dīghaṃ assāsavasena saññā ca vedanā ca cetasikā – ete dhammā cittapaṭibaddhā cittasaṅkhārā.(心行とは何であろうか?長い入息による表象[想;saññā]と感受[受;vedanā]とは心所である。それら心に結ばれた法が心行である)」
『解脱道論』「知心行我息入。如是學者說心行。是謂想受。於四禪處起彼彼心行。以二行成知。以不愚癡故。以事故。以如初說。令寂滅心行我息入。如是學者說心行。是謂想受。於麁心行令寂滅。學之如初所說」(T32, p.431a)▲
citta. こころ。
『無礙解道』「yaṃ cittaṃ mano mānasaṃ hadayaṃ paṇḍaraṃ mano mānayatanaṃ manindriyaṃ viññāṇaṃ viññāṇakkhandho tajjā manoviññāṇadhātu – idaṃ cittaṃ.(あらゆる心[citta]・意[mana]・心意[mānasa]・心臓[hadaya]・明晰なる意[paṇḍara mana]・意処[mānayatana]・意根[manindriya]・識[viññāṇa]・識蘊[viññāṇakkhandha]・意識界より生起したもの[tajjā manoviññāṇadhātu]、これが心である)」
『解脱道論』「知心我入息。如是學者。彼現念入息現念出息。其心入出事以二行成所知。以不愚癡以事故。如初所說」(T32, p.431a)▲
abhippamodayaṃ. abhippamodati(満足する・嬉しがる)の連続体。
『無礙解道』「Yā cittassa āmodanā pamodanā hāso pahāso vitti odagyaṃ attamanatā cittassa – ayaṃ cittassa abhippamodo.」
『解脱道論』「令歡喜心我入息。如是學者說令歡喜說喜。於二禪處。以喜令心踊躍。學之如初所說」(T32, p.431a)▲
samādahaṃ. samādahati(集中する・一つにする)の連続体。▲
vimocayaṃ. vimoceti(開放させる・自由にさせる)の連続体。▲
aniccā. 恒常でないこと。不変でないこと。▲
anupassī. 「観察している」・「見ている」、あるいは「観察者」・「追従者」(anu+√dis+a+ī)。
『無礙解道』「anupassatīti kathaṃ taṃ kāyaṃ anupassati? Aniccato anupassati, no niccato. Dukkhato anupassati, no sukhato. Anattato anupassati, no attato. Nibbindati, no nandati. Virajjati, no rajjati. Nirodheti, no samudeti. paṭinissajjati, no ādiyati. Aniccato anupassanto niccasaññaṃ pajahati. Dukkhato anupassanto sukhasaññaṃ pajahati. Anattato anupassanto attasaññaṃ pajahati. nibbindanto nandiṃ pajahati. Virajjanto rāgaṃ pajahati. Nirodhento samudayaṃ pajahati. Paṭinissajjanto ādānaṃ pajahati. Evaṃ taṃ kāyaṃ anupassati.(「彼は随観する」とは、彼はどのようにその身体を随観するのであろうか?彼は(身体を)無常なるものとして随観する、常なるものとしてでなく。苦なるものとして随観する、楽なるものとしてでなく。非我なるものとして随観する、我なるものとしてでなく。彼は(身体に対して)厭離する、歓喜するのではなく。彼は(身体に対して)貪りより離れる、貪るのではなく。彼は滅ぼす、生じるのではなく。彼は捨離する、掴み取るのではなく。(身体について)無常なるものとして随観したならば、彼は常なるものとの想い[常想]を放棄する。苦なるものとして随観したならば、彼は楽なるものとの想い[楽想]を放棄する。非我なるものとして随観したならば、 彼は我なるものとの想い[我想]を放棄する。(身体について)厭離したならば、彼は歓喜を放棄する。貪りより離れたならば、彼は貪りを放棄する。滅ぼしたならば、彼は生じることを放棄する。捨離したならば、彼は掴み取ることを放棄する。このように、彼はその身体を随観する)」▲
virāgā. 執着から離れていること。rāgāは色・色合い・染色の意で、転じて執着とされる。心が何色にも染まっていない状態。▲
nirodha. 抑圧・制圧。心のいかなる汚れをも制した状態。▲
paṭinissagga. 放棄・廃棄。心のいかなる汚れも捨てて無い状態。▲
ātāpī.▲
sampajāno. saṃ(正しく)+pa(強意)+jāna(知る)で、正しく明らかに知る。▲
satimā. satimant(注意深い・思慮深い)。意識を向けている対象を失わず、よく気をつけていること。▲
kāye kāyānupassī. 直訳すれば「身体における身体の観察」。なぜ「身体における身体」などと言われるのか?ここにいわれる「身体(kāya)」とは何か?それは後に続く一節において説明される。▲
kāyesu kāyaññatara. ここでkāyesu、すなわちkāyaが処格(locative)の複数形であることに注意。この「諸々の身体におけるある種の身体」という直ちに理解しがたい表現。それはまず、前述したようにkāyaとは集積の意でもあるが、「身体という諸々の部位・器官・組織の集積における、ある種の身体」ということ。では「kāyaññatara(ある種の身体)」とは何か?それは入息と出息、すなわち呼吸である、と云われる。▲
vedanāsu vedanānupassī. 身随観の場合、kāyaは処格単数形であったのに対し、vedanāが処格の複数形となっていることに注意。それは何故か?それは受には苦・楽・捨の三、あるいは苦・楽・憂・喜・捨の五つの別があるため。▲
vedanāsu vedanāññatara. ▲
citte cittānupassī. cittaは一つであるため、citteすなわち処格単数形となっている。▲
dhammesu dhammānupassī. ここでのdhammaは諸々の事物・存在するものであり、故に複数形。▲
pañña. 智慧▲
sādhukaṃ ajjhupekkhitā hoti. ▲