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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

実恵『阿字観用心口決』

原文

大日經疏五云。内心妙白蓮者。此是衆生本心妙法。芬陀利華祕密幖幟也。華臺八葉圓滿均等如正開敷之形。此蓮華臺是實相自然智惠也。蓮華葉者是大悲方便也。正以此藏爲大悲胎藏曼荼羅之體。其餘三重是從此自證功徳流出諸善知識入法界門耳。此曼荼羅極少之量劑十六指。大則無限也 今此文内心妙白蓮者。此是衆生本心也。妙法芬陀利華者हृद心也。此心蓮可觀也。其觀想樣心中可觀有八葉蓮花。蓮花形世間如蓮花形。唯此蓮花計可觀也。又蓮花者हृद)心是也。चित心住此蓮花。此二心暫時不離故蓮華上可觀月輪。月輪者चित心也。चित心形實如月輪形也。月輪形圓形事如常水精珠等。又蓮花種子अ字也。故月輪中可觀अ字。अ字形如常書形。迴四方可有也。常書是一方形計也。上下別無其形。一切梵字形四方事以अ字可准知之。今此अ字蓮花月輪三中。若蓮花計觀。若蓮花月輪觀。若蓮花अ字可觀。可任行者意也。月輪勢一肘量也。不可減此量 
又付此略觀有二樣。一先前一肘觀八葉蓮花若月輪若अ字等 如此彼此相對歴然觀之。其後前一肘所觀蓮花可召入自身中。是如常入我我入觀也云云 一先前一肘觀蓮花若月輪अ字等 觀念無退轉。經年月勤修之。所觀蓮花等閉目見程觀。自身可召入之 問此अ字蓮華者。本不生際實體顯事也。作此觀時此種子三形義理觀之乎 口云。觀法時別不思惟義理。唯其形色如法歴然觀之計也。又云。此अ字世間多書置之故。人輕之常事樣思是大僻案也。此अ字即淨菩提心實體即身成佛肝心者也 

己上略觀畢

訓読

大日経疏五に云、内心の妙白蓮と者、此は是れ衆生の本心の妙法芬陀利華ふんだりけ、秘密の標識なり。華臺 けだいの八葉は円満均等にして、正く開敷せし形の如し。此の蓮華臺は是れ実相自然の智慧なり。蓮華葉は是れ大悲方便なり。正く此の蔵を以て大悲胎藏曼荼羅の体とす。其余の三重は是れ此の自証の功徳従流出せる諸の善知識入法界門なり。此の曼荼羅の極少の量は十六指に剤し。大なるは則無限なり 今此の文の内心妙白蓮とは此は是れ衆生之本心なり。妙法芬陀利華とはहृद心なり。此の心蓮を観ずべきなり。其の観想する樣は心中に八葉の蓮華有と観ずべし。蓮華の形は世間の蓮花の形の如し。唯此の蓮花計でも観ずべきなり。又蓮花とはहृद心是れなり。चित्तしったは此の蓮花に住す。此の二心は暫時も離れざるが故に蓮花の上に月輪を観ずべし。月輪とはचित心なり。चित्त心の形は実に月輪の形の如し。月輪の形の円形なる事は常の水精珠等の如し。又蓮花の種子はअ字なり。故に月輪の中にअ字を観ずべし。अ字の形は常に書ける形の如し。迴り四方に有るべきなり。常に書するは是れ一方の形計りなり。上下は別に其の形無し。一切梵字の形の四方なる事もअ字を以て之を准知すべし。

今此の阿字・蓮花・月輪の三の中に、若しは蓮花計り観じ、若しは蓮花と月輪とを観じ、若しは蓮花とअ字とを観ずべし。行者の意に任すべきなり。月輪の勢は一肘量なり。此の量を減ずべからず。

又此の略観に付て二の樣有り。一には先づ前一肘に八葉の蓮花を観ず若月輪若अ字等。此の如く彼此相対して歴然として之を観じ、其後に前一肘に観ずる所の蓮花を自身の中に召入すべし。是れ常の入我我入観の如くするなり云云。一には先づ前一肘に蓮花を観じ若月輪अ字等、観念の退転無く、年月を経て之を勤修するに、所観の蓮花等を目を閉ぢ目を開て見る程に観じて、自身に之を召入すべし。

問ふ。此のअ字蓮花とは本不生際の実体を顕す事なり。此の観を作す時は此の種子・三形の義理之を観ずるや。

口に云く。観法の時は別に義理を思惟せず。唯其の形色を如法に歴然として之を観ずる計りなり。又云く、此のअ字を世間に多く之を書し置くが故に、人之を軽んじ常の事の樣に思ふ。大なる僻案なり。此のअ字は即ち淨菩提心の実体にして即身成仏の肝心なればなり。

以上略観畢

脚註

  1. 大日経疏五 『大日経疏』巻五「内心妙白蓮者。此是 衆生本心。妙法芬陀利花祕密摽幟。花臺八葉。圓滿均等如正開敷之形。此蓮花臺是實相自然智慧。蓮花葉是大悲方便也。正以此藏。言大悲胎藏漫荼羅之體。其餘三重。是從此自證功徳流出。諸善知識入法界門耳。《中略》 故此漫荼羅。極小之量劑十六指。 大則無限也」(T39, P631c)
  2. 芬陀利華 puṇḍarīkaの音写。白蓮華のこと。『大日経』および『大日経疏』では、胎蔵曼荼羅の中台八葉院は白蓮華に描くべきと説かれているが、ここではその所説をそのまま受けている。
    もっとも、空海が唐で伝授され請来した、いわゆる胎蔵の「現図曼荼羅」には中台八葉院の蓮花は赤色となっている。典拠に反して白ではなく赤に描かれているのは相応の理由あってのことであったが、近世前期の浄厳はこれを誤りであるとして白蓮花にした胎蔵曼荼羅を描かせた。しかし、これを江戸後期の慈雲は、なぜ敢えて赤蓮花として描かれてきたのかの理由を浄厳は全く理解していないと批判している。
  3. 華臺 蓮のうてな。
  4. 大悲方便 悲(karunā)とは、「自他に苦しみ無くあれ」という思いのことであって、自他を害せんとする思いのないこと。すなわち抜苦・無害をその意味内容とする。その思いに実効性を伴うか伴わないかによって、大悲と小悲とに区別される。大悲とは、ただそう思うだけでなく実効性を伴うものであって、仏陀や大菩薩の心情であるとされる。一般に慈悲という語で表されることが多いが、慈と悲とは異なる。慈とは「自他が安楽であれ」という思いであって、怒りの無いこと。
    方便(upāya)とは手段の意。特に悟道に到るための、あるいは導くための手段のこと。『大日経』では「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟とする」という、いわゆる三句の法門が説かれる。『大日経疏』に説かれる「大悲方便」はそれを踏まえてのものであろう。
  5. 十六指 一指とは古代印度における長さの単位で指の横幅。一肘は二搩手、一搩手は十二指とされる。今仮に一肘を一尺八寸としたならば、一搩手は九寸で、一指は七分五厘。よって十六指とは一尺二寸となり、およそ36cm。
  6. चित्त心 質多心。質多とはcittaの音写であり、いわゆる心・意識のこと。
    声聞乗や中観派では衆生の識には、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識のみを認めるのに対し、瑜伽行唯識では意識の下にさらに末那識および阿頼耶識という二種の潜在意識があることを説き、特に阿頼耶識が全ての存在を内包し支えるものである、いや、真に存在するのは阿頼耶識のみである、とされる。
    日本の密教は唯識の八識説(さらには支那の九識説)を踏襲している為、唯識の教義をもって意識について説明され、また事相においてもその教義が持ち出されるが、ここではそのような唯識的理解は全く関しない。
  7. 月輪の形の円形云々 観想すべき月輪の形は、平面の円形ではなく立方体の円形であること。
  8. 迴り四方に云々 観想した円形の月輪のうちの前後左右に布置すべきこと。そしてなんであれ種字を観想する際には、いずれのときも同様にすべきこと。
  9. 入我我入観 密教における身口意の三密瑜伽において、特に身密に関する観法。観想の対象として心に想起した本尊の姿形などと自身とを合一融会、すなわち瑜伽〈yoga. 繋ぎとめること〉させること。
  10. 観法の時は云々 阿字観の修習時には、阿字・月輪・蓮花の象徴する本不生について思惟してはならないこと。
    行者が瑜伽を修するにはまず普段の騒ぎ波立つ心を沈め、念を強めて三摩地(三昧・定・等持)を得ることから始めなければならない。ここで「義理を思惟せず」とあるが、そもそも思惟とは何であろうか。仏教において思惟とは、尋(vitarka / vitakka)または伺(vicāra)という心所(心の働き)であり、それは初禅を得るまでは活動しえるものではあるが、二禅以上に至ると停止する。したがって修禅とは「思惟すること」・「沈思すること」ではない。修禅・瑜伽行を「思惟することである」などと考えていたならば、決して深い定を得ることは出来ないであろう。ここで「唯其の形色を如法に歴然として之を観ずる計りなり」と説かれているように、まずはその色形を対象とし、それを心に把持することに努め、念を強めることから始めなければならない。
    阿字観であれ何であれ、まず自身が行う修習が前提としていることを具体的に、そして確かに知っていくことは必須である。しかし、実際にその修習を行ずる際には、もはやそのような知的理解は一旦かなぐり捨て、アレコレと思いを巡らすということから離れなければならない。
    とはいえ、二禅に至るまでは、心はその性として、自身が「考えまい」としても「考えよう」とするものである。そもそも「考えまい」とする時点で考えてしまっている。よって、「義理を思惟せず」などとあるからといって、強いてそのように努めようとすることは、むしろ虚しい努力となる。まず瑜伽・観想の対象を出来るだけ長く、そして強く明らかに把持すること、すなわち念を強めることから始めることがその基礎となる。念が強まっていけば、自ずから定も深まっていくであろう。思考が生じること、時に念を失って心が散漫となることを恐れてはならない。誰も決して、その最初から完璧に物事を行うことなど出来はしないのだから。
  11. अ字を世間に多く云々 अ字が世間一般に多く用いられていたならば、世間の人はこれを(その真意など知らずとも)ごく当たり前、日常のものであると考えて重要視しないことを危惧しての言。
    しかし、この『阿字観用心口決』が空海の口述を実恵が筆記したものであったならば、当時の日本で阿字が「世間に多く之を書し置く」ことなどなかったであろう。また、そもそもअ字とは印度における聖語であるとはいえ、世俗の日常に用いられた文字であって、それこそ印度では「世間に多く之を書し置く」ものであった。さらにまた、真言とは日常一般の音・文字の一つ一つが、実は真理を開示したものであるという、密教の思想からいって、このように言うことは筋の通らない。
    空海は『吽字義釈』において「若知實義則名真言。不知根源名妄語」といっているが、この点からも『阿字観用心口決』が空海口説のものと直ちに承服し難い。
    もっとも、常識的に言えば、何事かが世間であまりに通用してしまったならば、あるいは日常のものとしてしまったならば、人がそれを軽んじて深く考えることも丁重に扱うこともなくなろうことは確かに云える。そのような危惧があったからこそ、往古の支那に梵語・胡語で伝わった仏典を漢訳する際には、五失本三不易や五種不翻という原則が立てられ、敢えて従来の語に翻訳せず音写して通常ではない特殊な語、仏教独自の特殊な術語が次々作られていったのであろう。
  12. 僻案 誤った考え。偏向した思想。
  13. 淨菩提心 心の本性は無自性空であって本不生なるものであること。自性清浄心に同じ。

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