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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『中阿含経』「念処経」 ―四念住の修習

原文

中阿含經卷第二十四

東晋罽賓三藏瞿曇僧伽提婆譯

中阿含因品念處經第二

我聞如是。一時佛遊拘樓痩在劍磨瑟曇拘樓都邑。爾時世尊告諸比丘。有一道淨衆生。度憂畏滅苦惱斷啼哭得正法。謂四念處。若有過去諸如來無所著等正覺。悉斷五蓋心穢慧羸。立心正住於四念處。修七覺支。得覺無上正盡之覺。若有未來諸如來無所著等正覺。悉斷五蓋心穢慧羸。立心正住於四念處。修七覺支。得覺無上正盡之覺。我今現在如來無所著等正覺。我亦斷五蓋心穢慧羸。立心正住於四念處。修七覺支。得覺無上正盡之覺。

云何爲四。觀身如身念處。如是觀覺心法如法念處。

云何觀身如身念處。比丘者行則知行住則知住坐則知坐臥則知臥。眠則知眠寤則知寤。眠寐則知眠寤。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者正知出入善觀分別。屈伸低昂儀容庠序。善著僧伽梨及諸衣鉢。行住坐臥眠寤語默。皆正知之。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者生惡不善念。以善法念治斷滅止。猶木工師木工弟子彼持墨繩用拼於木。則以利斧斫治令直。如是比丘生惡不善念。以善法念治斷滅止。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者。齒齒相著舌逼上齶。以心治心治斷滅止。猶二力士捉一羸人。處處捉旋自在打鍛。如是比丘齒齒相著舌逼上齶。以心治心治斷滅止。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身比丘者念入息即知念入息。念出息。即知念出息。入息長即知入息長。出息長即知出息長。入息短即知入息短。出息短即知出息短。學一切身息入。覺一切身息出。學止身行息入。學止口行息出。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者離生喜樂漬身潤澤普遍充滿於此身中離生喜樂無處不遍。猶工浴人器盛澡豆。水和成摶水漬潤澤。普遍充滿無處不周。如是比丘離生喜樂漬身潤澤普遍充滿於此身中離生喜樂無處不遍。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身有知有見有明見達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘。觀身如身。比丘者定生喜樂漬身潤澤普遍充滿於此身中定生喜樂無處不遍猶如山泉清淨不濁充滿流溢。四方水來。無縁得入。即彼泉底水自涌出。流溢於外漬山潤澤普遍充滿無處不周。如是比丘定生喜樂。漬身潤澤。普遍充滿。於此身中定生喜樂無處不遍。如是比丘觀内身如身觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

復次比丘觀身如身。比丘者無喜生樂。漬身潤澤普遍充滿於此身中無喜生樂無處不遍。猶青蓮華紅赤白蓮水生水長在於水底。彼根莖華葉悉漬潤澤。普遍充滿無處不周。如是比丘無喜生樂。漬身潤澤普遍充滿於此身中無喜生樂無處不遍。如是比丘觀内身如身。觀外身如身。立念在身。有知有見有明有達。是謂比丘觀身如身。

訓読

中阿含經ちゅうあごんきょう卷第二十四

東晋とうしん罽賓けいひん三藏瞿曇くどん僧伽提婆そうぎゃだいば

中阿含ちゅうあごん因品いんぼん念處經ねんじょきょう第二

れ聞くことかくの如し一時いちじほとけ拘樓痩くるしゅに遊び、劍磨瑟曇けんましちどん拘樓くる都邑とゆうましませり。の時、世尊せそんもろもろ比丘びくに告げたまはく。一道いちどう有り。衆生しゅじょうを淨め、憂畏ういを度し、苦悩くのうを滅し、啼哭だいこくを斷じて、正法しょうぼうを得る。謂く四念處しねんじょなり。若し過去に諸如來、無所著の等正覺とうしょうがく有れば、悉く五蓋ごがい、心のけがれ、慧のよわきを斷じて、心を立て正しく四念處に住して、七覺支しちかくしを修め、無上正盡覺むじょうしょうじんかくさとることを得ん。もし未來に諸如來、無所著の等正覺有れば、悉く五蓋、心のけがれ、慧のよわきを斷じて、心を立て正しく四念處に住して、七覺支を修め、無上正盡覺を覺ることを得ん。我れ今、現在の如來にして無所著の等正覺なり。我れ亦た五蓋、心のけがれ、慧のよわきを斷じて、心を立て正しく四念處に住して、七覺支を修め、無上正盡覺を覺ることを

云何いかんが四と為す。身を身の如くに念處ねんじょ、是の如くかくしんほうを法の如くる念處なり。

云何が身を身の如くに念處ねんじょなる。比丘はかば則ち行くるを知り、じゅうせば則ち住せるを知り、すれば則ち坐するを知り、すれば則ち臥するを知り、ねむれば則ち眠るを知り、むれば則ち寤むるを知り、ねむむれば則ち眠り寤むるを知る。是の如く比丘、内身ないしんを身の如く觀じ、外身げしんを身の如くに觀じて、ねんを立てて身にき、有り、けん有り、みょう有り、たつ有り。是れを比丘の身を身の如くにることと謂ふ。

た次に比丘、身を身の如くにる。比丘はまさしゅつにゅうを知り、善く觀じて分別ふんべつし、くつしんていごう儀容ぎよう庠序しょうじょたり。善く僧伽梨そうぎゃり、及びもろもろ衣鉢えはつを著け、ぎょうじゅうめんもく、皆な正に之れを知る。かくの如く比丘、内身を身の如く、外身を身の如くに觀て、念を立てて身にき、知有り、見有り、明有り、達有り。是れを比丘の身を身の如くにることと謂ふ。

復た次に比丘、身を身の如くにる。比丘は、悪・不善の念をしょうぜば、善法の念を以て治斷ちだん滅止めっしす。ほ木工師と木工弟子、彼れ墨繩ぼくじょうを持ち、もって木にしたがへば、則ち利斧りふを以て斫治しゃくじなおくならしむるがごとし。是の如く比丘、悪・不善の念を生ぜば、善法の念を以て治斷・滅止す。是の如く比丘、内身を身の如く、外身を身の如くにて、念を立てて身にき、知有り、見有り、明有り、達有り。是れを比丘の身を身の如くにることと謂ふ。

復た次に比丘、身を身の如くにる。比丘は、齒齒ししひ著け、舌を上齶じょうがくせま、心を以て心をおさめ治斷・滅止す。ほ二力士、一羸人いちるいにんとらへて、處處に捉旋そくぜんし自在に打ちきたふるがごとし。是の如く比丘、齒齒を相ひ著け、舌を上齶に逼り、心を以て心を治め治斷・滅止す。是の如く比丘、内身を身の如く、外身を身の如くにて、念を立てて身にき、知有り、見有り、明有り、達有り。是れを比丘の身を身の如くにることと謂ふ。

復た次に比丘、身を身の如くにる。比丘は、入息にっそくを念じて即ち入息を念ずるを知り、出息しゅっそくを念じて即ち出息を念ずるを知る。入息、長ければ即ち入息の長きを知り、出息、長ければ即ち出息の長きを知る。入息、短かければ即ち入息の短きを知り、出息、短かければ即ち出息の短きを知る。一切身いっさいしんに息のるをがくし、一切身に息のいずるをさとる。身行しんぎょうんで息のるを學し、口行くぎょうんで息のいずるを學す。是の如く比丘、内身を身の如く、外身を身の如くにて、念を立てて身にき、知有り、見有り、明有り、達有り。是れを比丘の身を身の如くにることと謂ふ。

復た次に比丘、身を身の如くにる。比丘は、離生りしょうらく、身をひたして潤澤じゅんじゃくし、普遍ふへん充滿じゅうまんす。此の身に於て、離生の喜樂の遍からざる處無し。ほ工浴人の、うつわ澡豆そうずを盛るに、みずに和してだんを成せば、水にひたして潤澤じゅんじゃくし、普遍に充滿してあまねからざるところ無きがごとし。是の如く比丘、離生の喜樂、身を漬して潤澤し、普遍に充滿す。此の身に於て、離生の喜樂のあまねからざる處無し。是の如く比丘、内身を身の如く、外身を身の如くにて、念を立てて身にき、知有り、見有り、明有り、達有り。是れを比丘の身を身の如くにると謂ふ。

復た次に比丘、身を身の如くにる。比丘は、定生じょうしょうらく、身をひたして潤澤し、普遍に充滿す。此の身中に於て、定生の喜樂の遍からざる處無し。山泉さんせん清淨しょうじょうにして濁らず、充満・流溢るいつし、四方より水來たるも、縁より入るを得ること無く、即ち彼の泉の底より水自ら涌出ゆしゅつし、外に流溢して山をひたして潤澤し、普遍に充滿して周からざる處無きがごとし。是の如く比丘、定生の喜樂、身をひたして潤澤し、普遍に充滿す。此の身中に於て、定生の喜樂の遍からざる處無し。是の如く比丘、内身を身の如く、外身を身の如くにて、念を立てて身にき、知有り、見有り、明有り、達有り。是れを比丘の身を身の如くにると謂ふ。

復た次に比丘、身を身の如くにる。比丘は、無喜むきより生じる樂、身をひたし、潤澤普遍に充滿す。此の身中に於て、無喜より生じる樂、遍からざる處無し。青蓮華しょうれんげしゃく白蓮びゃくれん、水に生じ水に長じて水底に在り、彼のこんけいよう、悉くひたり、潤澤普遍に充滿して周からざる處無きがごとし。是の如く比丘、無喜より生じる樂、身をひたし潤澤普遍に充滿す。此の身中に於て、無喜より生じる樂、遍からざる處無し。是の如く比丘、内身を身の如く、外身を身の如くにて、念を立てて身にき、知有り、見有り、明有り、達有り。是れを比丘の身を身の如くにると謂ふ。

脚註

  1. 中阿含經ちゅうあごんきょう

    漢訳された四種の阿含経(四阿含)の一つ。分別説部所伝(パーリ三蔵)の経蔵のうちMajjhima Nikāya(中部)に相当。ただし、支那に請来された阿含経は、いずれか部派の経蔵が体系的に、総じてではなく、別個の部派のものが断片的にもたらされたもの。
    『中阿含経』は説一切有部の所伝のものであると、日本の近世以来見なされている。

  2. 東晋とうしん

    西暦317-420、晋王朝(西晋)が華北(洛陽)を放棄し、江南に遷って建康(南京)を都とした支那の古代国家。六朝の一。

  3. 罽賓けいひん

    西北印度に存した古代国家。現在のカシミール周辺。

  4. 瞿曇くどん僧伽提婆そうぎゃだいば

    [S] Gautama Samghadeva. 五胡十六国の前秦、東晋代の訳経僧。罽賓出身の印度僧。おそらくは説一切有部の人。慧遠に請われて廬山に入り『阿毘曇心論』および『三法度論』を訳した後、洛陽にて『中阿含経』を訳出した。

  5. 念處經ねんじょきょう

    特に四念住(四念処)について総じて説かれた経。パーリ経蔵におけるMajjhima Nikāya(中部)の第十経Mahāsatipaṭṭhānasutta(『大念住経』)に該当。

  6. れ聞くことかくの如し

    [S] evaṃ mayā śrūtam / [P]evaṃ me sutaṃの漢訳。漢語の文法として正しくは「我聞如是」であるが、特に鳩摩羅什以降、梵語の語順のままに「如是我聞」と訳すことが一般化した。ここでいわれる「我」とは、仏陀の諸々の作供養人(侍従)の中でも最も長く二十五年という年月を側仕えた尊者、阿難(Ānanda)。釈尊が入滅して三ヶ月後に開かれた第一結集において、まず律蔵が編纂されて後に、聴き憶えた釈尊の言葉を五百羅漢を前に誦出しようとした冒頭、阿難尊者が「evaṃ mayā śrūtam(このように私は聞いた)」と初めたことに由る定型句。

  7. 一時いちじ

    [P]ekaṃ samayaṃ. ある時。

  8. ほとけ

    [S/P] Buddhaの音写、佛陀の略。そもそもBuddhaとは、その語源が√bud(目覚める)+ta(過去分詞)→連声→buddhaであって「目覚めた人」の意。(それまで知られなかった真理に)目覚めた人、悟った者であるからBuddhaという。仏陀とはあくまで人であった。
    支那にとって外来語であったBuddhaは当初「浮屠」・「浮図」などとも音写されたが、後にBudhに「佛」の字が充てられ「佛陀」あるいは「佛駄」との音写も行われ、やがて略して「佛」の一文字で称するようになって今に至る。それら音写のいずれにも「屠」や「駄」・「陀」など、いわば好ましからざる漢字が当てられている。そこには当時の支那人における外来の文物を蔑視し、矮小化しようとする意図が明らかに現れている(この傾向はその後も比較的長く見られる)。 そもそも「佛」という一文字からも、当時の支那人におけるいわば「Buddha観」を見ることが出来る。『説文解字』では「佛」とは「見不審也(見るに審らかならず)」の意とする。また「佛」とは「人+弗」で構成されるが、それは「人にあらざるもの」・「人でないもの」を意味する。ここからも、当時の支那人にはBuddhaをして「人ではない」とする見方があったことが知られる。事実この『四十二章経』の序文にて「神人」と表現されているように、往時の彼らにとって佛とはあくまで超常的存在であって人ならざるものであった。
    なお、日本で「佛(仏)」を「ほとけ」と訓じるのは、「ふと(浮屠)」または「ぼだ(没度 / 没駄)」の音変化した「ほと」に、接尾辞「け」が付加されたものである。この「け」が何を意味するかは未確定で、「気」または「怪」あるいは「異」が想定される。それらはいずれもおよそ明瞭でないモノ、あるいは特別なモノを指すに用いられる点で通じている。日本語の「ほとけ」という語にも、漢字の「佛」に潜む不明瞭なものとする理解が含まれている。

  9. 拘樓痩くるしゅ

    [P] Kurus. または拘樓とも。釈尊在世当時の古代印度、仏教の文献において十六大国といわれた国々の一つ。

  10. 劍磨瑟曇けんましちどん

    [P] Kammāsadhamma. Kurusにあったという一集落。

  11. 世尊せそん

    [S] Bhagavat / [P] Bhagavant. 幸ある人、輝ける人。仏陀の異称、如来の十号の一。

  12. 比丘びく

    [S] bhikṣu / [P] bhikkhu.(食を)乞う者の意。仏教の正式な男性出家修行者。苾芻に同じ。女性は比丘尼。

  13. 一道いちどう

    [P] ekāyana magga. 「一つの(涅槃へ)導く道」もしくは「ある(解脱へ)進む道」。大乗にて主張される一乗ではない。

  14. 衆生しゅじょう

    [S] sattva / [P] satta. 存在、生けるもの。

  15. 正法しょうぼう

    [S] saddharma / [P] saddhamma. 善なる法(教え)。仏陀の教えの謂。ただし、中部に該当語句無し。

  16. 四念處しねんじょ

    [S] catvāri smṛtyupasthāna / [P] cattāro satipaṭṭhānā. 新訳では四念住。四念処は一般に、(1)肉体が不浄のものであると知る「身念住」・(2)感覚されるものは畢竟苦であると知る「受念住」・(3)心は無常であると知る「心念住」・(4)事物は無我であると知る「法念住」である、と説明される。けれども、本経など四念処を説く諸契経にはそのような説示はされていない。詳しくは別項「四念住(四念処)」を参照のこと。

  17. 等正覺とうしょうがく

  18. 五蓋ごがい

    [P] pañca nīvaraṇa. 五つの障害。すなわち貪欲・瞋恚・睡眠・掉悔・疑の五つの煩悩。心をおおって善法を生じさせないものであるから五蓋という。
    『倶舎論』では、五蓋について「諸煩惱等皆有蓋義。何故如來唯說此五。唯此於五蘊能為勝障故」と説明される。

  19. 七覺支しちかくし

    [S] sapta-bodhy-aṅga / [P] satta-bojjhaṅgā. 七覚分とも。菩提(bodhi)を構成する諸要素(aṅga)、諸々の心の徳性。
    念覚支([S] smṛti-saṃbodhyaṇga / [P] )・択法覚支([S] dharma-pravicaya-saṃbodhyaṇga / [P] )・精進覚支([S] vīrya-saṃbodhyaṇga / [P] )・喜覚支([S] prīti-saṃbodhyaṇga / [P] )・軽安覚支([S] praśrabdhi-saṃbodhyaṇga / [P] )・定覚支([S] samādhi-saṃbodhyaṇga / [P] )・捨覚支([S] upekṣā-saṃbodhyaṇga / [P] )。

  20. 無上正盡覺むじょうしょうじんかく

    [S] Anuttarā-samyak-saṃbodhi. この上ない悟り。阿耨多羅三藐三菩提。無上正等覚。

  21. 身を身の如くに念處ねんじょ

    [P] kāye kāyānupaśyanā smṛtyupasthāna. 身体について、その身体のままに観る念住、いわゆる身念住(身念処)。

  22. かく

    [S/P] vedanā. 受に同じ。感覚・感受作用。これに大きく楽・苦・不苦不楽(捨)の三種ある。楽はさらに精神的楽を別出して喜・憂として五種に細分する。ここではいわゆる受念住(受念処)の意。
    [P] vedanāsu vedanānupaśyanā smṛtyupasthāna. 感覚について、その感覚のままに観る念住。

  23. しん

    [S] citra / [P] citta. ここではいわゆる心念住(心念処)の意。
    [P] citte cittānupaśyanā smṛtyupasthāna. 心について、その心のままに観る念住。

  24. ほう

    [S] dharma / [P] dhamma. ここではいわゆる法念住(法念処)の意。
    [P] dharmeṣu dharmānupaśyanā smṛtyupasthāna. 法について、その法のままに観る念住。

  25. ねん

    [S] smṛti / [P] sati. 忘れないこと、注意深いこと。認識対象を把持して離さない心の働き。巷間、これを「気づき」の意であると喧伝する一類の者があるが誤謬。

  26. 儀容ぎよう

    風采。振る舞いなどその姿形。行儀。

  27. 庠序しょうじょ

    正しい姿。

  28. 僧伽梨そうぎゃり

    [S] saṃghāṭi / [P] saṅghāṭi. 大衣・重衣・外衣、あるいは入王宮聚落衣と漢訳される。比丘が(精舎などから外出し)王城や村落に入る時に必ず着用すべきとされる衣。

  29. もろもろ衣鉢えはつ

    僧伽梨以外の衣。鬱多羅僧(上衣)・安陀会(下衣)および僧祇支(覆肩衣)・涅槃僧。

  30. 齒齒ししひ著け、舌を上齶じょうがくせま

    口を閉じて上下顎の歯を(噛み締めること無く自然に)合わせ、舌を上顎の前歯の裏の元あたりに付けること。いわゆる瞑想における常識的行儀。

  31. 入息にっそく

    [S/P] āna. これを入息とするか出息と解するか古来諸説あって不確かであるが、ここでは入息とした。

  32. 出息しゅっそく

    [S/P] apāna. これを入息とするか出息と解するか古来諸説あって不確かであるが、ここでは出息とした。

  33. 一切身いっさいしん

    [P] sabbakāya. 単純に訳せばsabba(すべての)+ kāya(身体)で身体全体の意。けれどもkāyaという語は「集まり」・「多数」・「集積」が原意であって、そこから「身体」の意となったもの。実際、上座部ではこのsabbakāya(一切身)を、原意どおりの「集まり」・「集積」の意として捉えている。
    『無礙解道』「kathaṃ "sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmī"ti sikkhati, "sabbakāyapaṭisaṃvedī passasissāmī"ti sikkhati? Kāyoti dve kāyā – nāmakāyo ca rūpakāyo ca. katamo nāmakāyo? vedanā, saññā, cetanā, phasso, manasikāro, nāmañca nāmakāyo ca, ye ca vuccanti cittasaṅkhārā – ayaṃ nāmakāyo. Katamo rūpakāyo? Cattāro ca mahābhūtā, catunnañca mahābhūtānaṃ upādāyarūpaṃ, assāso ca passāso ca, nimittañca upanibandhanā, ye ca vuccanti kāyasaṅkhārā – ayaṃ rūpakāyo.(どのように「私は一切身を感知し、入息しよう」と彼は修練し、どのように「私は一切身を感知し、出息しよう」と彼は修練するのであろうか?身体には二種の身体がある。名身と色身とである。何が名身であろうか?受・想・思・触・作意・名・名身、これらはまた心行とも呼ばれるが、これらが名身である。何が色身であろうか?四大と四大所造色、入息と出息、相と結束、これらはまた身行とも呼ばれるが、これらが色身である)」
    『解脱道論』「知一切身我入息如是學者。以二種行知一切身。不愚癡故以事故。問曰。云何無愚癡知一切身。答曰。若坐禪人念安般定。身心喜樂觸成滿。由喜樂觸滿。一切身成不愚癡。問曰。云何以事知一切身。答曰。出入息者。所謂一處住色身。出入息事心心數法名身。此色身名身。此謂一切身。彼坐禪人。如是以見知一切身。雖有身無眾生無命」(T32, p.430v)
    『清浄道論』「sabbakāyapaṭisaṃvedī assasissāmi…pe… passasissāmīti sikkhatīti sakalassa assāsakāyassa ādimajjhapariyosānaṃ viditaṃ karonto pākaṭaṃ karonto assasissāmīti sikkhati. Sakalassa passāsakāyassa ādimajjhapariyosānaṃ viditaṃ karonto pākaṭaṃ karonto passasissāmīti sikkhati...(「私は一切身を感知して出息しよう、乃至、出息しよう」と彼は修練するとは、「すべての出息身の初め・中頃・終わりを知り、理解することをなして、私は出息しよう」と、彼は学す。「すべての入息身の初め・中頃・終わりを知り、理解することをなして、私は入息しよう」と、彼は学すのである云々)」
    ここでの一切身(sabbakāya)が何を意味する語であるかということについて、上に挙げたように『無礙解道』は名身と色身であるとし、その内容を逐一挙げている。『解脱道論』はこれを忠実に受け、「此色身名身。此謂一切身」とする。しかし、『清浄道論』にてブッダゴーサは、一切身とは息の初中後すなわち息全体であるとこれを極々限定し、『無碍解道』の説を斟酌して全面的に採っていない。これは修道にあたってその他の理解を切り捨て易化し、単純化した結果であったろう。確かにそれで誰でも混乱せず実践しやすくはなったろうけれども、原意からかなり離れていることに注意が必要。

  34. 身行しんぎょう

    [P] kāyasaṅkhāra. saṅkhāraを単に近年の学者が作った「潜在的形成作用」あるいは「潜在的形成力」などと訳し、「身体の形成作用」などとしてしまってはまるで意味がわからないであろう。故に漢訳の身行のまま変えないことが賢明であろうと思う。とはいえ往古もこの身行という語には注釈が必要であったようで、何を意味するかの注釈がつけられている。以下まず身行が何かについての経説を引く。さらに論書における見解を引き、続いてその注に対する疑義と、その解答を述べる一説とを、判別しやすいよう別々に挙げる。
    本経において身行とは具体的に何か明らかにされていないが、『雑阿含経』に「出息入息名爲身行」とあり、出入する息をして身行であると理解される。ただし、これは仏説による理解でなく伽摩比丘(Kāmabhū)による説示を伝えるもの。そこで、ならば「身行の止んで息の入るを学す」とする本経の一節と撞着する。
    『無礙解道』「katamo kāyasaṅkhāro? Dīghaṃ assāsā kāyikā. Ete dhammā kāyapaṭibaddhā kāyasaṅkhārā. Te kāyasaṅkhāre passambhento nirodhento vūpasamento sikkhati. Dīghaṃ passāsā kāyikā...... Rassaṃ assāsā rassaṃ passāsā. Sabbakāyapaṭisaṃvedī assāsā sabbakāyapaṭisaṃvedī passāsā kāyikā...... Yathārūpehi kāyasaṅkhārehi yā kāyassa ānamanā vinamanā sannamanā paṇamanā iñjanā phandanā calanā pakampanā – passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmīti sikkhati, passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmīti sikkhati. Yathārūpehi kāyasaṅkhārehi yā kāyassa na ānamanā na vinamanā na sannamanā na paṇamanā aniñjanā aphandanā acalanā akampanā santaṃ sukhumaṃ passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmīti sikkhati, passambhayaṃ kāyasaṅkhā raṃ passasissāmīti sikkhati.(身行とは何であろうか?長い入息は身体に属すもの[kāyika]である。これら身体に結びついた諸々の法が身行である。彼は諸々の身行を止息させつつ、停止しつつ、寂滅しつつ、学す。長い出息は身体に属すものである…[同上]…。短い入息、短い出息、一切身を覚知しての入息、一切身を覚知しての出息は身体に属すものである…乃至…。そのような諸々の身行によって、身体に後ろに曲げること[伸びること?]、横に曲げること、折れ屈むこと、先に屈むこと、揺動、震え、揺すり、振動があれば、「身行を止息して入息しよう」と彼は学ぶ。「身行を止息して出息しよう」と彼は学ぶ。そのような諸々の身行によって、身体に後ろに反ることが無く、横に曲げることが無く、折れ屈むことが無く、先に屈むことが無く、揺動無く、震え無く、揺すり無く、振動無ければ、「寂静で微細なる身行を止息して入息しよう」と彼は学ぶ。「(寂静で微細なる)身行を止息して出息しよう」と彼は学ぶ)」
    「iti kira "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī"ti sikkhati, "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī"ti sikkhati. Evaṃ sante vātūpaladdhiyā ca pabhāvanā na hoti, assāsapassāsānañca pabhāvanā na hoti, ānāpānassatiyā ca pabhāvanā na hoti, ānāpānassatisamādhissa ca pabhāvanā na hoti; na ca naṃ taṃ samāpattiṃ paṇḍitā samāpajjantipi vuṭṭhahantipi.(「身行を止息して、私は入息しよう」と彼は学ぶ。「新行を止息して、私は出息しよう」と彼は学ぶ、と言われる。そのように、風(vāta)の[知覚の]獲得が起こることも増大することも無く、出息も入息もその増大することも無く、アーナーパーナサティもその増大することもなく、アーナーパーナサティ三昧もその増大することも無い。[その故に]諸々の賢者がその等至(samāpatti)に入定することも、出定することもない[であろう])」
    「iti kira "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assasissāmī"ti sikkhati, "passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passasissāmī"ti sikkhati. Evaṃ sante vātūpaladdhiyā ca pabhāvanā hoti, assāsapassāsānañca pabhāvanā hoti, ānāpānassatiyā ca pabhāvanā hoti. Ānāpānassatisamādhissa ca pabhāvanā hoti; tañca naṃ samāpattiṃ paṇḍitā samāpajjantipi vuṭṭhahantipi. Yathā kathaṃ viya? Seyyathāpi kaṃse ākoṭite paṭhamaṃ oḷārikā saddā pavattanti. Oḷārikānaṃ saddānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpadhāritattā niruddhepi oḷārike sadde, atha pacchā sukhumakā saddā pavattanti. sukhumakānaṃ saddānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpadhāritattā niruddhepi sukhumake sadde, atha pacchā sukhumasaddanimittārammaṇatāpi cittaṃ pavattati. Evamevaṃ paṭhamaṃ oḷārikā assāsapassāsā pavattanti; oḷārikānaṃ assāsapassāsānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpadhāritattā niruddhepi oḷārike assāsapassāse, atha pacchā sukhumakā assāsapassāsā pavattanti. Sukhumakānaṃ assāsapassāsānaṃ nimittaṃ suggahitattā sumanasikatattā sūpa dhāritattā niruddhepi sukhumake assāsapassāse, atha pacchā sukhumakaassāsapassāsānaṃ nimittārammaṇatāpi cittaṃ na vikkhepaṃ gacchati. Evaṃ sante vātūpaladdhiyā ca pabhāvanā hoti, assāsapassāsānañca pabhāvanā hoti, ānāpānassatiyā ca pabhāvanā hoti, ānāpānassatisamādhissa ca pabhāvanā hoti; tañca naṃ samāpattiṃ paṇḍitā samāpajjantipi vuṭṭhahantipi. Passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assāsapassāsā kāyo upaṭṭhānaṃ sati anupassanā ñāṇaṃ. Kāyo upaṭṭhānaṃ, no sati; sati upaṭṭhānañceva sati ca. Tāya satiyā tena ñāṇena taṃ kāyaṃ anupassati. Tena vuccati – "kāye kāyānupassanāsatipaṭṭhānabhāvanā"ti.(「身行を止息して、私は入息しよう」と彼は学ぶ。「新行を止息して、私は出息しよう」と彼は学ぶ、と言われる。そのように、風(vāta)の[知覚の]獲得が起こって増大し、入出息とその増大があり、アーナーパーナサティとその増大があり、アーナーパーナサティ三昧とその増大がある。[その故に]諸々の賢者はその等至(samāpatti)に入定し、出定する。譬えばどのようなことであろうか?それはあたかも、銅鑼が打たれたとき、はじめに諸々の麁なる[大きな]音が起こる。麁なる音が滅する際にも、麁なる音の相(nimitta)がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、諸々の微細な音が起こる。微細な音が滅する際にも、微細な音の相がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、微細な音の相を対象[境]とする心が起こる。まさしくこのように、はじめ諸々の麁なる入出息が起こる。麁なる入出息が滅する際にも 麁なる入出息の相がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、諸々の微細な入出息が起こる。微細な入出息が滅する際にも、微細な入出息の相がよく把握され、よく注意され、よく理解される。そしてその後には、諸々の微細な入出息の相を対象とするために、心が錯乱に赴かない。そのように、風の[知覚の]獲得が起こって増大し、入出息とその増大があり、アーナーパーナサティとその増大があり、アーナーパーナサティ三昧とその増大がある。[その故に]諸々の賢者はその等至に入定し、出定する。身行を止息しての入出息とは身体(kāya)であり、随侍(upaṭṭhāna)が念(sati)であり、随観(anupassanā)が智(ñāṇa)である。身体とは随侍であるが、しかし念ではない。念は随侍であって、しかも念である。その念とその智によって、 彼は身体を随観する。この故に[このように]言われる「身体において身体を随観する念処の修習」と)」
    『解脱道論』「云何名身行者。此謂出入息。以如是身行。曲申形隨申動踊振搖。如是於身行現令寂滅。復次於麁身行現令寂滅。以細身行修行初禪。從彼以最細修第二禪。從彼最細修行學第三禪。令滅無餘修第四禪。問曰。若無餘滅出入息。云何修行念安般。答曰。善取初相故。以滅出入息。其相得起成修行相。何以故。諸禪相」(T32, p.430c)
    身行が諸々の身体の動きならびに呼吸であるとし、人は第四禅に至ると呼吸がなくなるとする諸経典の説(通仏教的理解)を顧慮したならば、この④「身行を止息して入息しよう」の行相は第四禅を獲得することを全く前提としたものとなる。実際、その如くである。しかし、そうであるとすると、この④の達成によって呼吸が全く無くなっているのにも関わらず、行者は入出息を念じるという、非常に奇妙で不可解な状況が想定されてしまう。故にその不合理な解釈を解消するため、『無礙解道』では上に挙げたような問答を設定する。まず先に述べたような不審を立て、それに答えて入出息はなくなるけれども、それまで入出息を念じたことによって得られた相を把持する心を対象とするのであるとの解答を、銅鑼(kaṃsa)の響きの喩えを用いてひねり出している。しかし、この喩えは問に対するまともな応答になっておらず、「入息しよう」「出息しよう」という経文がまるで意味をなさないものとなることに変りない。
    とは言え、実際問題、いくら瑜伽行者が第四禅に達したとしても、呼吸が全く無くなるなどということは無いため、(至極当たり前の話であるがそれでは死んでしまうのである、)呼吸が細く非常に微細で覚知しがたいほどのものとなることを言っている。この『無礙解道』の一説は、『解脱道論』そして『清浄道論』共に引用されている。この解釈文については、他から容易に疑問が持たれるものであることが意識されていたのであろう。この解釈に従えば、⑤以降、安般念を修習する瑜伽行者は初禅から第四禅の間を行ったり来たりすることとなる。

  35. 口行くぎょう

    本経において口行とは何か明らかではないが、『雑阿含経』(T2, p.150b)に「有覺有觀名爲口行」とあることから、覚([S] vitarka / [P] vitakka / 尋)と観([S/P] vicāra / 伺)すなわち粗雑・微細な思考がそれと解されていたことが知られる。ただし、その理解は身行に同じく、仏説でなく伽摩比丘(Kāmabhū)による理解であることに一応注意が必要。
    Mahāsatipaṭṭhānasuttaには該当する一節無し。

  36. 離生りしょうらく

    初禅に達した行者に生じる喜([S] prīti / [P] pīti)と楽([S] śuṣka / [P] sukkha)。

  37. 定生じょうしょうらく

    第二禅に達した行者に生じる喜と楽。

  38. 無喜むきより生じるらく

    第三禅に達した行者に生じる、喜びを伴わない楽。なお、第四禅以上に達すると心にもはや喜・楽が生じることはない。

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