《第十一章》
沙門有て佛に問ふ。何の縁を以て道を得、奈何して宿命を知るや。佛言く、道に形無し。之を知らんとするに益無し。要ず當に志行を守るべし。譬へば鏡を磨して垢去れば明在り、即ち自ら形を見るが如し。欲を斷じて空を守らば、即ち道眞を見、宿命を知らん。
《第十二章》
佛言く、何者か善と爲すや。惟だ道を行ずることのみ善なり。何者か最大なりや。志、道と合ふは大なり。何者か多力なりや。忍辱、最も健し。忍ぶ者に惡むこと無し。必ず人に尊ばる。何者か最明なりや。心の垢除き、惡行滅し、内清淨にして瑕無く、未だ天地有らざるより今日に逮るまで、十方の所有こと、未だ之の萌を見ざるより、知らざること無く、見ざること無く、聞かざること無きを得、一切智を得るは明と謂ふべし。
《第十三章》
佛言く、人、愛欲を懷いて道を見ざること、譬へば濁水の五彩を以て其の中に投じ、力を致して之を捁さば、衆人共に水の上に臨むも能く其の影を覩る者無きが如し。愛欲、心中を交錯せば濁と爲るが故に道を見ず。水澄み、穢除き、清淨無垢なれば即ち自ら形見る。猛火を釜の下に著け、中の水涌躍して布を以て上を覆へば、衆生照臨するも、また其の影を覩る者無し。心中、本三毒の踊沸して内に在る有り。五蓋、外を覆て終に道を見ず。惡心の垢盡きれば乃ち魂靈の從來する所、生死の趣向する所を知る。諸の佛國土は道徳の在る所のみ。
《第十四章》
佛言く、夫れ道を爲す者は、譬へば炬火を持て冥室の中に入れば、其の冥即ち滅して明猶ほ存るが如し。道を學び諦を見れば、愚癡都て滅し、見ざること無きを得。
《第十五章》
佛言く、吾れ何をか念ずる。道を念ずるなり。吾れ何をか行ずる。道を行ずるなり。吾れ何をか言ふ。道を言ふなり。吾れ諦道を念じて須臾も忘れざるなり。
《第十六章》
佛言く、天地を覩て非常と念じ、山川を覩て非常と念じ、万物の形體豐熾なるを覩て非常と念ず。執心、此の如くんば道を得ること疾し。
《第十七章》
佛言く、一日行ふに常に道を念じて道を行ずれば、遂に信根を得。其の福無量なり。
《第十八章》
佛言く、熟く自ら身中の四大を念ぜよ。自らを名けて名有れども都て無と爲す。吾我は寄りて生ず。また久しからず。其の事、幻の如きのみ。
《第十九章》
佛言く、人の情欲に隨て華名を求むは、譬へば香を燒けば衆人其の香を聞けども、然も香の熏を以て自ら燒くが如し。愚者は流俗の名譽を貪り、道眞を守らず。華名は己を危くする禍なり。其の悔は後時に在り。
《第廿章》
佛言く、財色の人に於けるや、譬へば小兒の刀を貪て刃の蜜を甜めるに一食の美に足らずして、然も舌を截るの患ひ有るが如し。
《第廿一章》
佛言く、人の妻子・寶・宅の患ひに繋るは、牢獄・桎梏・郎當よりも甚だし。牢獄は原赦有り。妻子の情欲は虎口の禍有りと雖も、己は猶ほ甘心もて焉に投ず。其の罪は赦無し。
《第廿二章》
佛言く、愛欲の色より甚しきは莫し。色の欲爲る、其の大なること外に無し。頼ひに一有るのみ。假し其れ二あらば、普天の民、能く道を爲す者無からん。
《第廿三章》
佛言く、愛欲の人に於けるは、猶し炬火を執て風に逆ひて行くに、愚者は炬を釋さず、必ず手を燒く患有るがごとし。貪婬・恚怒・愚癡の毒、人身に處在す。早く道を以て斯の禍を除かざれば、必ず危殃有り。猶し愚貪は炬を執て自ら其の手を燒くがごとし。
《第廿四章》
天神、玉女を佛に獻じ、以て佛意を試み、佛道を觀んと欲す。佛言く、革嚢衆穢、爾來るも何をか爲さん。以て斯の俗、六通を動ずること難かるべし。去れ、吾れ爾を用ひずと。天神、踰よ佛を敬し、因で道意を問ふ。佛、爲に解釋す。即ち須陀洹を得たり。
《第廿五章》
佛言く、夫れ道を爲す者は、猶し木の水に在て流を尋ねて行くがごとし。左は岸に觸れず、また右は岸に觸れず、人の取る所と爲らず、鬼神の遮る所と爲らず、迥流の住る所と爲らず、また腐敗せざれば、吾れ其の海に入るに保せん。人、道を爲して、情欲の惑はす所と爲らず、衆邪の誑はす所と爲らず、精進して疑無くんば、吾れ其の道を得るを保さん。
《第廿六章》
佛、沙門に告く、愼みて汝が意を信じること無かれ。意、終に信ずべからず。愼みて色と會すこと無かれ。色と會すれば即ち禍生ず。阿羅漢道を得て、乃ち汝が意を信ずべきのみ。
《第十一章》
ある沙門が仏に問うた、「どのような縁によって道を得、どのようにして宿命を知るのでしょうか」と。仏言く、「道に形は無い。それを知ろうとすることは無益である。要ずまさに志行〈意業〉を守るがよい。譬えば鏡を磨いて汚れを取り去れば輝き、たちまち自らの形を見るようなものである。欲を断じて空〈心に汚れの無い状態〉を守ったならば、たちまち道真〈真理〉を見、宿命を知るであろう」。
《第十二章》
仏言く、「何が善であろうか。惟だ道を行じることのみ善である。何が最も大事であろうか。志が道と合うのが大事である。何が多力であろうか。忍辱こそ、最上の健さである。忍ぶ者に惡むことは無い。(さすれば)必ず人に尊ばれる。何が最も明であろうか。心の垢を除いて悪行を滅し、内面が清浄であって瑕無く、未だ天地が無かったときから今日に至るまで、十方の所有ことが未だその萌をすら見えないころから、知らないことなど無く、見ていないこと無く、聞いていないことも無いことを得て、一切智を得ることを明と謂う」。
《第十三章》
仏言く、「人が愛欲〈渇愛〉を懐いて道を見ないことは、譬えば濁った水に五色(の物)をその中に投じ、力を尽くしてそれを捁したならば、人々が共に水の上から臨んだとしても、よくその影をすら覩る者は無いようなものである。愛欲が心中を交錯したならば濁りとなる為に道を見ることはない。水が澄み、穢れが除き、清浄無垢となれば自ずから(事物や心の本来の)形が見れるであろう。猛火を釜の下に著けて中の水が沸騰しても、布を以ってその上を覆い隠したならば、衆生がこれを見たとしても、またその(釜の底の)影をすら覩る者は無い。心(という釜)には本から三毒〈貪・瞋・癡〉が沸き踊って内に在る。五蓋〈貪・瞋・癡・掉挙・疑〉はその外を覆って終に道を見ることがない。悪心の垢が尽きたならば(自らの)魂霊が従来する所、生死の趣向する所を知る。諸々の仏国土は道徳ある所にのみ存する。
《第十四章》
仏言く、「そもそも道を為す者は、譬えば炬火を持って冥い部屋の中に入ったならば、その冥きはたちまち消えて明かりのみ存るようなものである。道を学び、諦〈真理〉を見たならば、愚癡(という闇)はすべて滅して、見えないことなど無くなる」。
《第十五章》
仏言く、「私は何を念ずるであろうか。道を念ずるのだ。私は何を行じるであろうか。道を行じるのだ。私は何を言うであろうか。道を言うのだ。私は諦道を念じて須臾〈わずかの間〉も忘れることはない」。
《第十六章》
仏言く、「天地を覩ては『常ならざるものである』と念じ、山川を覩ては『常ならざるものである』と念じ、万物の姿形が豊かで勢いが盛んな様を覩ては『常ならざるものである』と念じる。(すべてが無常であると)深く心にかけているのが、そのようであれば、道を得ることは疾い」。
《第十七章》
仏言く、「一日生活するのに常に道を念じて道を行じたならば、遂に信根を得る。その福は無量である」。
《第十八章》
仏言く、「熟く自ら身中の四大〈物質を構成する四種の性質.地大・水大・火大・風大〉を念ぜよ。自らを名づけた名はあるけれども、都て(その実体としては)無い。吾我〈自我〉とは(諸々の原因と条件が)集まって(仮に)生じたもの。また恒常不変のものではない。それは、幻のようなものに過ぎない。
《第十九章》
仏言く、「人がその情欲に隨って華名〈美名.良い評判〉を求めることは、譬えば香木を燒けば衆人はその香を聞くけれども、しかし香木は熏(を出すこと)の変わりに自らを燒くようなものである。愚か者は流俗〈世間〉の名誉を貪り、道真を守らない。華名は己を危くする禍である。その悔は後の時に在る」。
《第廿章》
仏言く、「財〈財産〉と色〈性欲・情欲〉に対する人というものは、譬えば幼児が(蜜で粘ついた)刀を貪り、その刃の蜜を甜めるのに一度舐めて得た甘さに満足することが出来ず、(何度も刃をねぶって)ついには舌を截る患いがあるようなものだ」。
《第廿一章》
仏言く、「人が妻子や財産、宅の患いに繋縛されることは、牢獄や桎梏〈手枷・足枷〉、鋃鐺〈鎖〉よりも甚だしい。牢獄〈懲役〉には原赦〈恩赦など減刑〉がある。しかし、妻子への情欲には虎口の禍〈虎に喰われること〉があるにも関わらず、己はなお自ら甘心〈納得すること〉してその(虎口の)中に身を投じていく。その罪〈業果〉は(逃れがたいものであって)赦など無い」。
《第廿二章》
仏言く、「愛欲〈欲望〉の中でも色欲〈物質的欲求、特に性欲〉より甚しいものはない。色〈性的対象〉への欲〈欲求、衝動〉たるや、その大なること外に比べるものが無い。幸いにも(それほど大なる欲求は)一つあるのみ。もしこれに二つ(以上)もあったならば、普天〈全世界〉の民でよく道を為す者など無いであろう」。
《第廿三章》
仏言く、「愛欲の人における有り様とは、あたかも炬火を持ちながら風に逆って行くのに、愚か者は炬を消さず、必ず(自らの)手を燒く患いがあるようなものである。貪婬・恚怒・愚癡という毒が、人の身に在る。早く道を以ってその禍を除かなければ、必ず危殃〈恐るべき災厄〉を生じる。あたかも愚貪な者が炬を持って自らその手を燒くように。
《第廿四章》
天神〈魔波旬〉が玉女〈美女〉を仏に献じ、(それに対しどのように反応するか)仏意を試し、仏道(とは如何なるものか)を観ようとした。(天神の差し出した玉女に対し、)仏言く、「衆々の穢の詰まった革袋よ、お前はここに来て何をしようというのか。その俗でもって、六通〈六神通〉(ある私)を動揺することなど出来はしない。去れ、私がお前を用いることはない」と。そこで天神はますます仏を敬い、因みに道の意義を問うた。仏は(天神の)為に解釈されると、(天神は)たちまち須陀洹を得た。
《第廿五章》
仏言く、「そもそも道を為す者とは、あたかも木が水に浮かび、その流れに従って行くようなものである。その左側は岸に触れることなく、またその右側も岸に触れることなく、人に拾い上げられることもなく、鬼神に遮られもせず、迥流〈渦流. うず〉で住ることもなく、また(水によって)腐敗することもなければ、私はその木が海にまで必ず至ると保証する。人が道を為して、情欲に惑わされず、衆々の邪な事物に誑わされず、精進して(四聖諦など真理に対して)疑い無ければ、私はその者が必ず道を得るのを保証する」。
《第廿六章》
仏が、ある沙門に告れた、「よく気をつけて、おまえ自身の意を信じてはならない。意は終に信じれらるものではない。よく気をつけて、(自ら見聞覚知する)色〈ものごと〉に翻弄されることの無いように。色に翻弄されたならば、必ず禍を生じる。阿羅漢道を得て、はじめておまえの意は信ずべきものとなろう」。