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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『四十二章経』 ―仏教とは何か

訓読

《第十一章》
沙門しゃもん有て佛に問ふ。何の縁を以て道を奈何いかがして宿命しゅくみょうを知るや。佛言く、道に形無し。之を知らんとするに益無し。かならず當に志行しぎょうを守るべし。譬へば鏡を磨して垢去れば明在り、即ち自ら形を見るが如し。欲を斷じて空を守らば、即ち道眞どうしんを見、宿命を知らん。

《第十二章》
佛言く、何者か善とすや。だ道を行ずることのみ善なり。何者か最大なりや。こころ、道とかなふは大なり。何者か多力たりきなりや。忍辱にんにく、最もつよし。忍ぶ者に惡むこと無し。必ず人に尊ばる。何者か最明さいみょうなりや。心の垢除き、惡行滅し、内清淨しょうじょうにしてとが無く、未だ天地有らざるより今日にいたるまで、十方の所有あらゆること、未だ之のきざしを見ざるより、知らざること無く、見ざること無く、聞かざること無きを得、一切智を得るは明と謂ふべし。

《第十三章》
佛言く、人、愛欲あいよくいだいて道を見ざること、譬へば濁水じょくすい五彩ごさいを以て其の中に投じ、力を致して之をかきめぐらさば、衆人共に水の上にのぞむも能く其の影をる者無きが如し。愛欲、心中を交錯せば濁と爲るが故に道を見ず。水澄み、けがれしりぞき、清淨無垢なれば即ち自ら形あらはる。猛火を釜の下に著け、中の水涌躍ゆやくして布を以て上を覆へば、衆生照臨するも、また其の影を覩る者無し。心中、本三毒さんどくの踊沸して内に在る有り。五蓋ごがい、外を覆て終に道を見ず。惡心の垢盡きれば乃ち魂靈こんりょうの從來する所、生死しょうじの趣向する所を知る。諸の佛國土ぶつこくど道徳どうとくの在る所のみ。

《第十四章》
佛言く、夫れ道を爲す者は、譬へば炬火かがりびを持て冥室の中に入れば、其のみょう即ち滅して明猶ほ存るが如し。道を學びたいを見れば、愚癡すべて滅し、見ざること無きを得。

《第十五章》
佛言く、吾れ何をか念ずる。道を念ずるなり。吾れ何をか行ずる。道を行ずるなり。吾れ何をか言ふ。道を言ふなり。吾れ諦道を念じて須臾しゅゆも忘れざるなり。

《第十六章》
佛言く、天地を覩て非常ひじょうと念じ、山川を覩て非常と念じ、万物の形體ぎょうたい豐熾ぶしなるを覩て非常と念ず。執心しゅうしん、此の如くんば道を得ることはやし。

《第十七章》
佛言く、一日行ふに常に道を念じて道を行ずれば、遂に信根しんこんを得。其の福無量なり。

《第十八章》
佛言く、よくよく自ら身中の四大しだいを念ぜよ。自らを名けて名有れどもすべて無と爲す。吾我ごがは寄りて生ず。また久しからず。其の事、幻の如きのみ。

《第十九章》
佛言く、人の情欲に隨て華名けみょうを求むは、譬へば香を燒けば衆人しゅにん其の香を聞けども、然も香のかをりを以て自ら燒くが如し。愚者は流俗るぞくの名譽を貪り、道眞を守らず。華名は己を危くするわざわいなり。其のとがは後時に在り。

《第廿章》
佛言く、ざいしきの人に於けるや、譬へば小兒の刀をむさぼやいばの蜜をめるに一食いちじきよしに足らずして、然も舌をるのうれひ有るが如し。

《第廿一章》
佛言く、人の妻子さいしたからいえの患ひにつながるは、牢獄ろうごく桎梏しっこく郎當ろうとうよりも甚だし。牢獄は原赦げんしゃ有り。妻子の情欲は虎口ここうわざわい有りと雖も、己は猶ほ甘心かんしんもてこれに投ず。其の罪はゆるし無し。

《第廿二章》
佛言く、愛欲のしきより甚しきはし。色の欲爲る、其の大なることほかに無し。さいはひに一有るのみ。し其れ二あらば、普天ふてんの民、能く道を爲す者無からん。

《第廿三章》
佛言く、愛欲の人に於けるは、猶し炬火かがりびを執て風にさからひて行くに、愚者はともしびさず、必ず手を燒くわずらひ有るがごとし。貪婬・恚怒・愚癡の毒、人身に處在しょざいす。早く道を以て斯のわざわいを除かざれば、必ず危殃きおう有り。なほし愚貪はともしびを執て自ら其の手を燒くがごとし。

《第廿四章》
天神てんじん玉女ぎょくにょを佛に獻じ、以て佛意を試み、佛道をんと欲す。佛言く、革嚢かくのう衆穢しゅえなんじ來るも何をか爲さん。以ての俗、六通ろくつうを動ずること難かるべし。去れ、吾れなんじを用ひずと。天神、いよいよ佛を敬し、ちなんで道意を問ふ。佛、爲に解釋げしゃくす。即ち須陀洹しゅだおんを得たり。

《第廿五章》
佛言く、夫れ道を爲す者は、猶し木の水に在てながれを尋ねて行くがごとし。左は岸にれず、また右は岸に觸れず、人の取る所と爲らず、鬼神きじんさえぎる所と爲らず、迥流ぎょうるとどまる所と爲らず、また腐敗ふはいせざれば、吾れ其の海に入るにまかせん。人、道を爲して、情欲の惑はす所と爲らず、衆邪しゅじゃまどはす所と爲らず、精進しょうじんして無くんば、吾れ其の道を得るをまかさん。

《第廿六章》
佛、沙門にのたまはく、愼みて汝がこころを信じること無かれ。意、ついに信ずべからず。愼みて色とすこと無かれ。色と會すれば即ちわざわい生ず。阿羅漢道あらかんどうを得て、乃ち汝が意を信ずべきのみ。

現代語訳

《第十一章》
ある沙門しゃもんが仏に問うた、「どのような縁によって道を、どのようにして宿命しゅくみょうを知るのでしょうか」と。仏いわく、「道に形は無い。それを知ろうとすることは無益である。かならずまさに志行しぎょう〈意業〉を守るがよい。譬えば鏡を磨いて汚れを取り去れば輝き、たちまち自らの形を見るようなものである。欲を断じて空〈心に汚れの無い状態〉を守ったならば、たちまち道真どうしん〈真理〉を見、宿命を知るであろう」。

《第十二章》
いわく、「何が善であろうか。だ道を行じることのみ善である。何が最も大事であろうか。こころが道とかなうのが大事である。何が多力たりきであろうか。忍辱にんにくこそ、最上のつよさである。忍ぶ者ににくむことは無い。(さすれば)必ず人に尊ばれる。何が最もみょうであろうか。心の垢を除いて悪行を滅し、内面が清浄しょうじょうであってとが無く、未だ天地が無かったときから今日に至るまで、十方の所有あらゆることが未だそのきざしをすら見えないころから、知らないことなど無く、見ていないこと無く、聞いていないことも無いことを得て、一切智いっさいちを得ることをみょうと謂う」。

《第十三章》
仏言く、「人が愛欲〈渇愛〉いだいて道を見ないことは、譬えばにごった水に五色(の物)をその中に投じ、力を尽くしてそれをかきめぐらしたならば、人々が共に水の上からのぞんだとしても、よくその影をすらる者は無いようなものである。愛欲が心中を交錯したならば濁りとなる為に道を見ることはない。水が澄み、けがれがしりぞき、清浄無垢となれば自ずから(事物や心の本来の)形があらはれるであろう。猛火を釜の下に著けて中の水が沸騰しても、布を以ってその上を覆い隠したならば、衆生がこれを見たとしても、またその(釜の底の)影をすら覩る者は無い。心(という釜)には本から三毒さんどく〈貪・瞋・癡〉が沸き踊って内に在る。五蓋ごがい〈貪・瞋・癡・掉挙・疑〉はその外を覆って終に道を見ることがない。悪心の垢が尽きたならば(自らの)魂霊こんりょうが従来する所、生死しょうじの趣向する所を知る。諸々の仏国土ぶつこくどは道徳ある所にのみ存する。

《第十四章》
仏言く、「そもそも道を為す者は、譬えば炬火かがりびを持ってくらい部屋の中に入ったならば、そのくらきはたちまち消えて明かりのみ存るようなものである。道を学び、たい〈真理〉を見たならば、愚癡(という闇)はすべて滅して、見えないことなど無くなる」。

《第十五章》
仏言く、「私は何を念ずるであろうか。道を念ずるのだ。私は何を行じるであろうか。道を行じるのだ。私は何を言うであろうか。道を言うのだ。私は諦道を念じて須臾しゅゆ〈わずかの間〉も忘れることはない」。

《第十六章》
仏言く、「天地を覩ては『つねならざるものである』と念じ、山川を覩ては『つねならざるものである』と念じ、万物の姿形が豊かで勢いが盛んな様を覩ては『つねならざるものである』と念じる。(すべてが無常であると)深く心にかけているのが、そのようであれば、道を得ることははやい」。

《第十七章》
仏言く、「一日生活するのに常に道を念じて道を行じたならば、遂に信根を得る。その福は無量である」。

《第十八章》
仏言く、「よくよく自ら身中の四大しだい〈物質を構成する四種の性質.地大・水大・火大・風大〉を念ぜよ。自らを名づけた名はあるけれども、すべて(その実体としては)無い。吾我ごが〈自我〉とは(諸々の原因と条件が)集まって(仮に)生じたもの。また恒常不変のものではない。それは、幻のようなものに過ぎない。

《第十九章》
仏言く、「人がその情欲に隨って華名けみょう〈美名.良い評判〉を求めることは、譬えば香木を燒けば衆人しゅにんはその香を聞くけれども、しかし香木はかおり(を出すこと)の変わりに自らを燒くようなものである。愚か者は流俗るぞく〈世間〉の名誉を貪り、道真を守らない。華名は己を危くするわざわいである。そのとがは後の時に在る」。

《第廿章》
仏言く、「ざい〈財産〉しき〈性欲・情欲〉に対する人というものは、譬えば幼児が(蜜で粘ついた)刀をむさぼり、そのやいばの蜜をめるのに一度舐めて得た甘さに満足することが出来ず、(何度も刃をねぶって)ついには舌をうれいがあるようなものだ」。

《第廿一章》
仏言く、「人が妻子さいしや財産、いえうれいに繋縛けばくされることは、牢獄ろうごく桎梏しっこく〈手枷・足枷〉鋃鐺ろうとう〈鎖〉よりも甚だしい。牢獄〈懲役〉には原赦げんしゃ〈恩赦など減刑〉がある。しかし、妻子への情欲には虎口ここうわざわい〈虎に喰われること〉があるにも関わらず、己はなお自ら甘心かんしん〈納得すること〉してその(虎口の)中に身を投じていく。その罪〈業果〉は(逃れがたいものであって)ゆるしなど無い」。

《第廿二章》
仏言く、「愛欲〈欲望〉の中でも色欲しきよく〈物質的欲求、特に性欲〉より甚しいものはない。色〈性的対象〉への欲〈欲求、衝動〉たるや、その大なることほかに比べるものが無い。幸いにも(それほど大なる欲求は)一つあるのみ。もしこれに二つ(以上)もあったならば、普天ふてん〈全世界〉の民でよく道を為す者など無いであろう」。

《第廿三章》
仏言く、「愛欲の人における有り様とは、あたかも炬火かがりびを持ちながら風にさからって行くのに、愚か者はともしびを消さず、必ず(自らの)手を燒くわずらいがあるようなものである。貪婬・恚怒・愚癡という毒が、人の身に在る。早く道を以ってそのわざわいを除かなければ、必ず危殃きおう〈恐るべき災厄〉を生じる。あたかも愚貪な者がたいまつを持って自らその手を燒くように。

《第廿四章》
天神てんじん〈魔波旬〉玉女ぎょくにょ〈美女〉を仏に献じ、(それに対しどのように反応するか)仏意を試し、仏道(とは如何なるものか)をようとした。(天神の差し出した玉女に対し、)仏言く、「衆々もろもろけがれの詰まった革袋かわぶくろよ、お前はここに来て何をしようというのか。その俗でもって、六通ろくつう〈六神通〉(ある私)を動揺することなど出来はしない。去れ、私がお前を用いることはない」と。そこで天神はますます仏を敬い、ちなみに道の意義を問うた。仏は(天神の)為に解釈げしゃくされると、(天神は)たちまち須陀洹しゅだおんを得た。

《第廿五章》
仏言く、「そもそも道を為す者とは、あたかも木が水に浮かび、そのながれに従って行くようなものである。その左側は岸にれることなく、またその右側も岸に触れることなく、人に拾い上げられることもなく、鬼神きじんさえぎられもせず、迥流ぎょうる〈渦流. うず〉とどまることもなく、また(水によって)腐敗ふはいすることもなければ、私はその木が海にまで必ず至ると保証する。人が道を為して、情欲に惑わされず、衆々もろもろよこしまな事物にまどわされず、精進しょうじんして(四聖諦など真理に対して)うたがい無ければ、私はその者が必ず道を得るのを保証する」。

《第廿六章》
仏が、ある沙門にのたまはれた、「よく気をつけて、おまえ自身のこころを信じてはならない。意はついに信じれらるものではない。よく気をつけて、(自ら見聞覚知する)色〈ものごと〉に翻弄されることの無いように。色に翻弄されたならば、必ずわざわいを生じる。阿羅漢道あらかんどうを得て、はじめておまえの意は信ずべきものとなろう」。