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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

『四十二章経』 ―仏教とは何か

訓読

《第廿七章》
佛、もろもろ沙門しゃもんのたまわく、愼みて女人にょにんること無かれ。若し見ても視ること無かれ。つつしみてともに言ふこと無かれ。若し與に言はば、心をいましめ行を正して曰く、れ沙門り。濁世じょくせおりて、まさに蓮花のどろの爲に汚されざるが如くなるべしと。老ひたる者は母と以爲おもひ、長じたる者は姉と以爲ひ、少き者は妹と爲し、幼き者は子として、之を敬ふに禮を以てせよ。こころことに當にあきらかにかんずべし。頭より足に至るまで自ら内を視よ。彼は何に有りや、惡露おろもろもろの不淨の種を盛るのみと。以て其の意をさとれ。

《第廿八章》
佛言く、人、道を爲して情欲を去ること、當に草に大火のきたるを見て、るが如くすべし。道人どうにん、愛欲を見て、必ず當に之を遠ざくべし。

《第廿九章》
佛言く、人有り。婬情いんじょうの止まざるをわずらへ、斧刃ふじんの上にうづくまりて、以て自ら其のおんを除く。佛、之に謂て曰く、し陰を斷つよりは、心を斷つに如かず。心は功曹こうそうり。若し功曹を止めば、從ふ者すべむ。邪心止まざれば、陰を斷て何の益かある。すべからく即ち死すべし。佛言く、世俗の倒見とうけん、斯の癡人ちにんの如しと。

《第卅章》
みだらなる童女どうにょ有て彼の男と誓ふ。期に至るも來ずして、自ら悔て曰く、

なんじの本を知らんと欲す。
そうを以て生ず。 
吾れ爾を思想せずんば、
即ち爾は生ぜず。

佛、道を行くに之を聞き、沙門に謂て曰く。之を記せよ。此は迦葉佛かしょうぶつなり。ながれ俗間ぞくけんに在りと。

《第卅一章》
佛言く、人、愛欲從り憂ひを生じ、憂ひ從り畏れを生ず。愛無くんば即ち憂ひ無し。憂ひ無くんば即ち畏れ無し。

《第卅二章》
佛言く、人の道を爲すは、譬へば一人と萬人と戰ふが如し。よろいて兵を操り、門を出て戰はんと欲するに、こころつたなくしてきも弱きは乃ち自ら退走し、或は半道はんどうにして還り、或は格鬪かくとうして死し、或は大勝を得て還り、國高くかはる。れ人、能く其の心を牢持ろうじし、精鋭しょうえい進行しんぎょうして流俗るぞく狂愚きょうぐの言に惑はざれば、欲滅して惡盡き、必ず道を得ん。

《第卅三章》
沙門有り、夜、經をじゅすことはなはだ悲し。こころ悔疑けぎ有て欲生じ、歸らんと思ふ。佛、沙門を呼で之に問ふ。汝、家に處してまさに何をか修めすやと。こたへて曰く、つねに琴をだんぜり。佛言く、げんかんなれば何如いかん。曰く、鳴らず。絃、きゅうなれば何如。曰く、こえ絶ゆ。急緩きゅうかん、中を得れば何如。諸音あまねし。佛、沙門にのたまはく。道を學ぶも猶ほしかり。心を執ること調適ちょうてきせば道は得べし。

《第卅四章》
佛言く、夫れ人の道を爲すは、猶しきたふる所のてつようやく深くして、あか棄去きこうつはを成さば、必ずきがごとし。道を學ぶこと以て漸く深くして、心垢を去り精進して道に就け。あらければ即ちからだ疲れ、身疲るれば即ちこころ惱む。意惱めば即ち行退しりぞき、行退けば即ち罪をしゅす。

《第卅五章》
佛言く、人、道を爲すはまた苦なり。道を爲さざるもまた苦なり。だ人、生より老に至り、老より病に至り、病より死に至る。其の苦、無量なり。心惱みて罪積めば生死しょうじまず。其の苦、説きがたし。

《第卅六章》
佛言く、夫れ人、三惡道さんあくどうを離れて人とるを得ることかたし。既に人爲ることを得るも、おんなを去て即ちおとこたること難し。既に男爲ることを得るも、六情ろくじょう完具すること難し。六情已に具はるも、中國ちゅうごくに生ずること難し。既に中國に處すも、佛道を値ひ奉ること難し。既に佛道を奉るも、有道うどうくんふこと難し。菩薩ぼさつの家に生ずること難し。既に菩薩の家に生ずるも、心を以て三尊を信じ、佛世ぶっせに値ふこと難し。

《第卅七章》
佛、諸の沙門に問ふ、人の命、いくばくの間に在りや。こたへて曰く、數日さくじつの間に在り。佛言く、なんじ、未だく道をさず。た一沙門に問ふ、人の命、幾くの間に在りや。對へて曰く、飯食ぼんじきの間に在り。佛言く、子、未だ能く道を爲さず。復た一沙門に問ふ、人の命、幾くの間に在りや。對へて曰く、呼吸こきゅうの間。佛言く、善いかな、子、道を爲す者といいつべし。

《第卅八章》
佛言く、弟子、れを離れ去ること數千里なるとも、こころ、吾がかいを念ずれば、必ず道を得。吾が左側さそくに在るとも、意、よこしまに在らば、つひに道を得ず。其の實はぎょうに在り。近くして行ぜざれば、何ぞ萬分にも益さんや。

《第卅九章》
佛言く、人の道を爲すこと、猶し蜜を食ふにうちはしも皆なあまきが若し。吾が經もまたしかり。其の義、皆なし。行ずれば道を得。

《第卌章》
佛言く、人の道を爲して能く愛欲の根を拔くこと、譬へば懸珠けんしゅむが如し。一一之を摘めば、かならくる時有り。惡盡きれば道を得るなり。

《第卌一章》
佛言く、諸の沙門の道を行ずること、當に牛の負ひて深き泥の中を行くに、疲極ひごくすれどもあえて左右かえりみおもむきて、泥を離れんと欲し、以て自ら蘇息そそくするが如くなるべし。沙門の情欲を視ること彼の泥より甚しく、心をなおくして道を念ずれば、衆苦をまぬがるべし。

《第卌二章》
佛言く、吾れ諸侯しょこうの位を視ること過客かきゃくの如く、金玉こんぎょくの寶を視ること礫石つばいの如く、じょううるわしきを視ること弊帛へいはくの如し。

四十二章經

現代語訳

《第廿七章》
仏が諸々もろもろ沙門しゃもんのたまはれた、「よく気をつけて、女人にょにんてはならない。もし見たとしても、視てはならない。よく気をつけて、共に会話してはならない。もし共に会話したとしても、心をいましめ、行を正して(自らに)言え、『私は沙門である。濁世じょくせにあって、まさに蓮華がどろによって汚されないようにあるべし』と。(女人を見、会話した時には)老いた者は母と想い、年上の者は姉と想い、年下の者は妹と想い、幼い者は子として、それらを敬して礼を以って接せよ。そのこころにおいて、殊更ことさらに、まさにあきらかに観察かんざつせよ。頭から足に至るまで、自らの内を視よ。そのはどのようなものであろうか、悪露おろ〈内分泌液や排泄物〉諸々もろもろの不浄な種〈骨や肉・筋、内蔵などの組織〉で満ちたものに過ぎない。これによってその意をさとれ」。

《第廿八章》
仏言く、「人が道を為して情欲を去ることは、まさに草原で大火がきたるのを見て、すぐさまそこから離れ去るようにせよ。道人は愛欲を見たならば、必ずまさにそれを遠ざけよ」。

《第廿九章》
仏言く、「ある者が婬情いんじょう〈性欲〉の止まないことをわずらい、斧刃ふじんの上にうづくまって、それで自らそのおん〈性器、男根〉を断ち切った。仏はこの者に言った、『陰を断き切ることは心(の愛欲)を断つことに及びはしない。心とは功曹こうそう〈人事官〉である。もし功曹(の権限を)を止めたならば、これに従う者はすべむ。(それと同様に)邪心が止まなければ、陰を断って何の益があろうか。むしろこれによってすべからく死ぬであろう』。仏言く、『世俗〈一般社会.凡人〉倒見とうけん〈倒錯した思考、理解〉は、この癡人ちにん〈性器を切り落とした愚か者〉(の浅はかな考えと行動)と同じようなものである」。

《第卅章》
あるみだら童女どうにょがあって男と(駆け落ちを)誓いあった。ところが約束した日となっても(男が)現れなかったため、自ら悔いて言った、

私はおまえの本を知ろうと思う。
こころそうを伴って生じる。 
私がおまえを思・想することがなければ、
すなわち、おまえが生じることはない。

仏が道すがらこれを聞いて沙門に言った、「これを記せ。これは迦葉仏かしょうぶつ〈偈頌.詩文〉である。(その昔から)流布るふして(今も)俗間ぞくけんに在るのだ」。

《第卅一章》
仏言く、「人は愛欲〈渇愛〉より憂いを生じ、憂いより畏れを生じる。愛が無ければ憂いは無い。憂い無ければ畏れも無い」。

《第卅二章》
仏言く、「人が道を為すことは、譬えば一人と万人とが戦うようなものである。よろいて兵を操り、門を出て戦おうとするも、こころつたなきもが弱ければ自ら退走し、あるいは(戦場への)道半ばにして還り、あるいは格闘かくとうして死に、あるいは大勝を得て還り国を強大にする。そもそも人が、よくその心を堅持し、精進してその行を高め、流俗るぞく狂愚きょうぐ(の者ら)の言葉に惑わなければ、欲は滅して悪は尽き、必ず道を得る」。

《第卅三章》
ある沙門が、夜に経をとなえていたが(その声は)はなはだ悲しげなものであった。(その沙門の)こころ悔疑けぎがあって欲を生じ、(還俗して家に)帰ろうと思っていたのである。仏はその沙門を呼んで問うた、「おまえは家にあった時、何をしていたのか」。(その沙門は)これにこたえて云う、「つねに琴をだんじていました」。仏言く、「(琴の)げんゆるければどうなるであろう?」。「鳴りません」。「絃が張り過ぎであればどうであろう?」「その(本来の美しい)音色が出ません」「緩すぎず、張りすぎでなく、その中間であればどうか?」「諸々の音はあまねく出ます」。そこで仏は沙門にのたまはく、「道を学ぶこともまさに同じである。(精進するその)心の持ちようを(琴と同様に緩ならず急ならず)調えたならば道を得られよう」。

《第卅四章》
仏言く、「そもそも、人が道を為すことは、あたかもたたいててつを次第に深くし、そのあか〈不純物〉を除きつつうつわに成形したならば、必ずい物となるようなものである。道を学ぶことも、次第に深くして心の垢を除き、精進して道に就くがよい。激しすぎたならばからだは疲れ、身が疲弊したならばこころは悩む。意が悩んだならば行は退しりぞき、行が退いたならば罪〈悪業〉しゅす」。

《第卅五章》
仏言く、「人が道を為すことは苦である。道を為さないこともまた苦である。だ人は、生まれてから老い、老いて病み、病んで死に至る。その苦しみたるや、無量である。心が悩み罪を積んだならば、生死しょうじ(流転して果てしない輪廻)がむことはない。その苦しみたるや、説きがたい」。

《第卅六章》
仏言く、「そもそも人が、三悪道さんあくどう〈地獄・餓鬼・畜生〉から離れて人として生まれ得ることは難しい。すでに人となることを得ても、女でなく男として生まれることは難しい。すでに男となる得ても、六情ろくじょう〈六根.五体および精神〉が完全であることは難しい。六情すでに完備したとしても、中国ちゅうごく〈文明国〉に生まれることは難しい。すでに中国にあっても、仏道に値って奉じることは難しい。すでに仏道を奉じていても、有道うどうくん〈悉地を得た聖者〉うことは難しい。菩薩ぼさつ〈仏陀を目指して修行する人〉の家に生じることは難しい。すでに菩薩の家に生まれても、心から三尊〈三宝〉を信じ、仏の在世に値うことは難しい」。

《第卅七章》
仏が諸々の沙門に問うた、「人の命とはいくばくの間、在るであろう?」。こたえて曰く、「数日さくじつの間に在ります」。仏言く、「おまえは未だく道をしていない」。た一人の沙門に問うた、「人の命は、幾くの間、在るであろう?」。対えて曰く、「食を摂っている間に在ります」。仏言く、「おまえは、未だ能く道を為していない」。また一人の沙門に問うた、「人の命、幾くの間、在るであろう?」。対えて曰く、「呼吸こきゅうの間です」。仏言く、「善いかな、おまえこそ道を為す者である、とうべきである」。

《第卅八章》
仏言く、「弟子たちよ、私を離れ去ること数千里であったとしても、そのこころに、私の(説き示した)かい〈教誡〉を念じたならば、必ず道を得る。私の左側に在ったとしても、そのこころよこしまであれば、ついに道を得ることはない。その実〈本質〉ぎょうにある。(たとえ私に)近くあっても(我が教誡に従い道を)行じることがなければ、どうして露ほどの益があろうか」。

《第卅九章》
仏言く、「人が道を為すことは、あたかも蜜を食べるのにそのうちはしもすべてあまいようなものである。我が経〈教え〉もまた同様である。その義はすべてい。行じたならば道を得る」。

《第卌章》
仏言く、「人が道を為してよく愛欲の根を抜くことは、譬えば懸珠けんしゅ〈吊り下げられた宝玉〉み取るようなものである。一つ一つそれを摘んでいけば、必ずきる時がある。悪が尽きれば道を得るのだ」。

《第卌一章》
仏言く、「諸々の沙門が道を行じることは、まさに牛が(重い荷を)背負って深い泥の中を行くのに、極めて疲れていたとしても、あえて左右をかえりみることなく進んで泥から離れようし、(そこから離れてようやく)自ら蘇息そそく〈休息〉するようであれ。沙門が情欲を視ることその(牛にとっての)泥よりも甚しく、心をなおくして道を念じたならば、衆々の苦をまぬがるであろう」。

《第卌二章》
仏言く、「私にとって諸侯しょこう〈領主・豪族〉の位を視ることは過客かきゃく〈旅人〉のようなものであり、金玉こんぎょくの宝を視ることは礫石つばい〈小石〉のようなものであり、じょう〈上質の毛織物〉〈素絹〉うるはしいのを視ることは弊帛へいはく〈破れいたんだ絹〉ののようなものである」。

『四十二章経』

現代語訳 貧道覺應