《第廿七章》
佛、諸の沙門に告く、愼みて女人を視ること無かれ。若し見ても視ること無かれ。愼みて與に言ふこと無かれ。若し與に言はば、心を勅め行を正して曰く、吾れ沙門爲り。濁世に處て、當に蓮花の泥の爲に汚されざるが如くなるべしと。老ひたる者は母と以爲ひ、長じたる者は姉と以爲ひ、少き者は妹と爲し、幼き者は子として、之を敬ふに禮を以てせよ。意、殊に當に諦かに惟だ觀ずべし。頭より足に至るまで自ら内を視よ。彼身は何に有りや、唯だ惡露と諸の不淨の種を盛るのみと。以て其の意を釋れ。
《第廿八章》
佛言く、人、道を爲して情欲を去ること、當に草に大火の來るを見て、已て却るが如くすべし。道人、愛欲を見て、必ず當に之を遠ざくべし。
《第廿九章》
佛言く、人有り。婬情の止まざるを患へ、斧刃の上に踞て、以て自ら其の陰を除く。佛、之に謂て曰く、若し陰を斷つよりは、心を斷つに如かず。心は功曹爲り。若し功曹を止めば、從ふ者都て息む。邪心止まざれば、陰を斷て何の益かある。斯れ須く即ち死すべし。佛言く、世俗の倒見、斯の癡人の如しと。
《第卅章》
婬なる童女有て彼の男と誓ふ。期に至るも來ずして、自ら悔て曰く、
吾れ爾の本を知らんと欲す。
意は思・想を以て生ず。
吾れ爾を思想せずんば、
即ち爾は生ぜず。
佛、道を行くに之を聞き、沙門に謂て曰く。之を記せよ。此は迦葉佛の偈なり。流て俗間に在りと。
《第卅一章》
佛言く、人、愛欲從り憂ひを生じ、憂ひ從り畏れを生ず。愛無くんば即ち憂ひ無し。憂ひ無くんば即ち畏れ無し。
《第卅二章》
佛言く、人の道を爲すは、譬へば一人と萬人と戰ふが如し。鉀を被て兵を操り、門を出て戰はんと欲するに、意怯くして膽弱きは乃ち自ら退走し、或は半道にして還り、或は格鬪して死し、或は大勝を得て還り、國高く遷る。夫れ人、能く其の心を牢持し、精鋭進行して流俗狂愚の言に惑はざれば、欲滅して惡盡き、必ず道を得ん。
《第卅三章》
沙門有り、夜、經を誦すこと甚だ悲し。意に悔疑有て欲生じ、歸らんと思ふ。佛、沙門を呼で之に問ふ。汝、家に處して將に何をか修め爲すやと。對へて曰く、恒に琴を彈ぜり。佛言く、絃、緩なれば何如。曰く、鳴らず。絃、急なれば何如。曰く、聲絶ゆ。急緩、中を得れば何如。諸音普し。佛、沙門に告く。道を學ぶも猶ほ然り。心を執ること調適せば道は得べし。
《第卅四章》
佛言く、夫れ人の道を爲すは、猶し鍛ふる所の鐵の漸く深くして、垢を棄去し器を成さば、必ず好きがごとし。道を學ぶこと以て漸く深くして、心垢を去り精進して道に就け。暴ければ即ち身疲れ、身疲るれば即ち意惱む。意惱めば即ち行退き、行退けば即ち罪を修す。
《第卅五章》
佛言く、人、道を爲すはまた苦なり。道を爲さざるもまた苦なり。惟だ人、生より老に至り、老より病に至り、病より死に至る。其の苦、無量なり。心惱みて罪積めば生死息まず。其の苦、説き難し。
《第卅六章》
佛言く、夫れ人、三惡道を離れて人と爲るを得ること難し。既に人爲ることを得るも、女を去て即ち男たること難し。既に男爲ることを得るも、六情完具すること難し。六情已に具はるも、中國に生ずること難し。既に中國に處すも、佛道を値ひ奉ること難し。既に佛道を奉るも、有道の君に値ふこと難し。菩薩の家に生ずること難し。既に菩薩の家に生ずるも、心を以て三尊を信じ、佛世に値ふこと難し。
《第卅七章》
佛、諸の沙門に問ふ、人の命、幾くの間に在りや。對へて曰く、數日の間に在り。佛言く、子、未だ能く道を爲さず。復た一沙門に問ふ、人の命、幾くの間に在りや。對へて曰く、飯食の間に在り。佛言く、子、未だ能く道を爲さず。復た一沙門に問ふ、人の命、幾くの間に在りや。對へて曰く、呼吸の間。佛言く、善い哉、子、道を爲す者と謂つべし。
《第卅八章》
佛言く、弟子、吾れを離れ去ること數千里なるとも、意、吾が戒を念ずれば、必ず道を得。吾が左側に在るとも、意、邪に在らば、終に道を得ず。其の實は行に在り。近くして行ぜざれば、何ぞ萬分にも益さんや。
《第卅九章》
佛言く、人の道を爲すこと、猶し蜜を食ふに中も邊も皆な甜きが若し。吾が經もまた爾り。其の義、皆な快し。行ずれば道を得。
《第卌章》
佛言く、人の道を爲して能く愛欲の根を拔くこと、譬へば懸珠を摘むが如し。一一之を摘めば、會ず盡くる時有り。惡盡きれば道を得るなり。
《第卌一章》
佛言く、諸の沙門の道を行ずること、當に牛の負ひて深き泥の中を行くに、疲極すれども敢て左右顧ず趣て、泥を離れんと欲し、以て自ら蘇息するが如くなるべし。沙門の情欲を視ること彼の泥より甚しく、心を直くして道を念ずれば、衆苦を免るべし。
《第卌二章》
佛言く、吾れ諸侯の位を視ること過客の如く、金玉の寶を視ること礫石の如く、㲲・素の好きを視ること弊帛の如し。
四十二章經
《第廿七章》
仏が諸々の沙門に告れた、「よく気をつけて、女人を視てはならない。もし見たとしても、視てはならない。よく気をつけて、共に会話してはならない。もし共に会話したとしても、心を勅め、行を正して(自らに)言え、『私は沙門である。濁世にあって、まさに蓮華が泥によって汚されないようにあるべし』と。(女人を見、会話した時には)老いた者は母と想い、年上の者は姉と想い、年下の者は妹と想い、幼い者は子として、それらを敬して礼を以って接せよ。その意において、殊更に、まさに諦かに惟だ観察せよ。頭から足に至るまで、自らの内を視よ。その身はどのようなものであろうか、唯だ悪露〈内分泌液や排泄物〉と諸々の不浄な種〈骨や肉・筋、内蔵などの組織〉で満ちたものに過ぎない。これによってその意を釈れ」。
《第廿八章》
仏言く、「人が道を為して情欲を去ることは、まさに草原で大火が来るのを見て、すぐさまそこから離れ去るようにせよ。道人は愛欲を見たならば、必ずまさにそれを遠ざけよ」。
《第廿九章》
仏言く、「ある者が婬情〈性欲〉の止まないことを患い、斧刃の上に踞って、それで自らその陰〈性器、男根〉を断ち切った。仏はこの者に言った、『陰を断き切ることは心(の愛欲)を断つことに及びはしない。心とは功曹〈人事官〉である。もし功曹(の権限を)を止めたならば、これに従う者は都て息む。(それと同様に)邪心が止まなければ、陰を断って何の益があろうか。むしろこれによって須く死ぬであろう』。仏言く、『世俗〈一般社会.凡人〉の倒見〈倒錯した思考、理解〉は、この癡人〈性器を切り落とした愚か者〉(の浅はかな考えと行動)と同じようなものである」。
《第卅章》
ある婬な童女があって男と(駆け落ちを)誓いあった。ところが約束した日となっても(男が)現れなかったため、自ら悔いて言った、
私はおまえの本を知ろうと思う。
意は思と想を伴って生じる。
私がおまえを思・想することがなければ、
すなわち、おまえが生じることはない。
仏が道すがらこれを聞いて沙門に言った、「これを記せ。これは迦葉仏の偈〈偈頌.詩文〉である。(その昔から)流布して(今も)俗間に在るのだ」。
《第卅一章》
仏言く、「人は愛欲〈渇愛〉より憂いを生じ、憂いより畏れを生じる。愛が無ければ憂いは無い。憂い無ければ畏れも無い」。
《第卅二章》
仏言く、「人が道を為すことは、譬えば一人と万人とが戦うようなものである。鉀を被て兵を操り、門を出て戦おうとするも、意が怯く胆が弱ければ自ら退走し、あるいは(戦場への)道半ばにして還り、あるいは格闘して死に、あるいは大勝を得て還り国を強大にする。そもそも人が、よくその心を堅持し、精進してその行を高め、流俗狂愚(の者ら)の言葉に惑わなければ、欲は滅して悪は尽き、必ず道を得る」。
《第卅三章》
ある沙門が、夜に経を誦えていたが(その声は)甚だ悲しげなものであった。(その沙門の)意に悔疑があって欲を生じ、(還俗して家に)帰ろうと思っていたのである。仏はその沙門を呼んで問うた、「おまえは家にあった時、何をしていたのか」。(その沙門は)これに対えて云う、「恒に琴を弾じていました」。仏言く、「(琴の)絃が緩ければどうなるであろう?」。「鳴りません」。「絃が張り過ぎであればどうであろう?」「その(本来の美しい)音色が出ません」「緩すぎず、張りすぎでなく、その中間であればどうか?」「諸々の音は普く出ます」。そこで仏は沙門に告く、「道を学ぶこともまさに同じである。(精進するその)心の持ちようを(琴と同様に緩ならず急ならず)調えたならば道を得られよう」。
《第卅四章》
仏言く、「そもそも、人が道を為すことは、あたかも鍛いて鉄を次第に深くし、その垢〈不純物〉を除きつつ器に成形したならば、必ず好い物となるようなものである。道を学ぶことも、次第に深くして心の垢を除き、精進して道に就くがよい。激しすぎたならば身は疲れ、身が疲弊したならば意は悩む。意が悩んだならば行は退き、行が退いたならば罪〈悪業〉を修す」。
《第卅五章》
仏言く、「人が道を為すことは苦である。道を為さないこともまた苦である。惟だ人は、生まれてから老い、老いて病み、病んで死に至る。その苦しみたるや、無量である。心が悩み罪を積んだならば、生死(流転して果てしない輪廻)が息むことはない。その苦しみたるや、説き難い」。
《第卅六章》
仏言く、「そもそも人が、三悪道〈地獄・餓鬼・畜生〉から離れて人として生まれ得ることは難しい。すでに人となることを得ても、女でなく男として生まれることは難しい。すでに男となる得ても、六情〈六根.五体および精神〉が完全であることは難しい。六情すでに完備したとしても、中国〈文明国〉に生まれることは難しい。すでに中国にあっても、仏道に値って奉じることは難しい。すでに仏道を奉じていても、有道の君〈悉地を得た聖者〉に値うことは難しい。菩薩〈仏陀を目指して修行する人〉の家に生じることは難しい。すでに菩薩の家に生まれても、心から三尊〈三宝〉を信じ、仏の在世に値うことは難しい」。
《第卅七章》
仏が諸々の沙門に問うた、「人の命とは幾くの間、在るであろう?」。対えて曰く、「数日の間に在ります」。仏言く、「おまえは未だ能く道を為していない」。復た一人の沙門に問うた、「人の命は、幾くの間、在るであろう?」。対えて曰く、「食を摂っている間に在ります」。仏言く、「おまえは、未だ能く道を為していない」。また一人の沙門に問うた、「人の命、幾くの間、在るであろう?」。対えて曰く、「呼吸の間です」。仏言く、「善い哉、おまえこそ道を為す者である、と謂うべきである」。
《第卅八章》
仏言く、「弟子たちよ、私を離れ去ること数千里であったとしても、その意に、私の(説き示した)戒〈教誡〉を念じたならば、必ず道を得る。私の左側に在ったとしても、その意が邪であれば、終に道を得ることはない。その実〈本質〉は行にある。(たとえ私に)近くあっても(我が教誡に従い道を)行じることがなければ、どうして露ほどの益があろうか」。
《第卅九章》
仏言く、「人が道を為すことは、あたかも蜜を食べるのにその中も辺もすべて甜いようなものである。我が経〈教え〉もまた同様である。その義はすべて快い。行じたならば道を得る」。
《第卌章》
仏言く、「人が道を為してよく愛欲の根を抜くことは、譬えば懸珠〈吊り下げられた宝玉〉を摘み取るようなものである。一つ一つそれを摘んでいけば、必ず尽きる時がある。悪が尽きれば道を得るのだ」。
《第卌一章》
仏言く、「諸々の沙門が道を行じることは、まさに牛が(重い荷を)背負って深い泥の中を行くのに、極めて疲れていたとしても、敢て左右を顧ることなく進んで泥から離れようし、(そこから離れてようやく)自ら蘇息〈休息〉するようであれ。沙門が情欲を視ることその(牛にとっての)泥よりも甚しく、心を直くして道を念じたならば、衆々の苦を免るであろう」。
《第卌二章》
仏言く、「私にとって諸侯〈領主・豪族〉の位を視ることは過客〈旅人〉のようなものであり、金玉の宝を視ることは礫石〈小石〉のようなものであり、㲲〈上質の毛織物〉や素〈素絹〉の好いのを視ることは弊帛〈破れいたんだ絹〉ののようなものである」。
『四十二章経』
現代語訳 貧道覺應