四十二章經序
昔漢孝明皇帝夜夢見神人身體有金色項有日光飛在殿前意中欣然甚悦之明日問群臣此爲何神也有通人傅毅曰臣聞天竺有得道者號曰佛輕擧能飛殆將其神也於是上悟即遣使者張騫羽林中郎將秦景博士弟子王遵等十二人至大月支國寫取佛經四十二章在第十四石函中登起立塔寺於是道法流布處處修立佛寺遠人伏化願爲臣妾者不可稱數國内清寧含識之類蒙恩受頼于今不絶也
四十二章經
後漢沙門迦葉摩騰共竺法蘭譯
《第一章》
佛言辭親去家爲道名曰沙門常行二百五十戒爲四眞道行進志清淨成阿羅漢者能飛行變化住壽命動天地次爲阿那含阿那含者壽終魂靈生十九天於彼得阿羅漢次爲斯陀含斯陀含者一上一還即得阿羅漢次爲須陀洹須陀洹者七死七生便得阿羅漢愛欲斷者譬如四支斷不復用之
《第二章》
佛言除鬚髮爲沙門受道法去世資財乞求取足日中一食樹下一宿愼不再矣使人愚弊者愛與欲也
《第三章》
佛言衆生以十事爲善亦以十事爲惡身三口四意三身三者殺盜婬口四者兩舌惡罵妄言綺語意三者嫉恚癡不信三尊以邪爲眞優婆塞行五事不懈退至十事必得道也
《第四章》
佛言人有衆過而不自悔頓止其心罪來歸身猶水歸海自成深廣矣有惡知非改過得善罪日消滅後會得道也
《第五章》
佛言人遇吾以爲不善善以四等慈護濟之重以惡來者吾重以善往福徳之氣常在此也害氣重殃反在于彼
《第六章》
有人聞佛道守大仁慈以惡來以善往故來罵佛默然不答愍之癡冥狂愚使然罵止問曰子以禮從人其人不納寶禮如之乎曰持歸今子罵我我亦不納子自持歸禍子身矣猶響應聲影之追形終無免離愼爲惡也
《第七章》
佛言惡人害賢者猶仰天而唾唾不汚天還汚己身逆風坋人塵不汚彼還坋于身賢者不毀過必滅己也
《第八章》
佛言夫人爲道務博愛博哀施徳莫大施守志奉道其福甚大覩人施道助之歡喜亦得福報質曰彼福不當滅乎佛言猶若炬火數千百人各以炬來取其火去熟食除冥彼火如故福亦如之
《第九章》
佛言飯凡人百不如飯一善人飯善人千不如飯持五戒者一人飯持五戒者萬人不如飯一須陀洹飯須陀洹百萬不如飯一斯陀含飯斯陀含千萬不如飯一阿那含飯阿那含一億不如飯一阿羅漢飯阿羅漢十億不如飯辟支佛一人飯辟支佛百億不如以三尊之教度其一世二親教親千億不如飯一佛學願求佛欲濟衆生也飯善人福最深重凡人事天地鬼神不如孝其親矣二親最神也
《第十章》
佛言天下有五難貧窮布施難豪貴學道難判命不死難得覩佛經難生値佛世難
昔、漢の孝明皇帝、夜夢に神人を見る。身體に金色有り、項に日光有て、飛んで殿前に在り。意中、欣然として、甚だ之を悦ぶ。明日、群臣に問ふ。此れ何の神なるやと。通人傅毅有て曰く、臣聞く、天竺に道を得たる者有り。號して佛と曰ふ。輕擧にして能く飛ぶ。殆どまさに其の神なるべしと。是に於て上悟し、即ち使者張騫、羽林中郎將秦景、博士弟子王遵等の十二人を遣して大月支國に至り、佛經を寫取せしむ。四十二章、第十四石函中に在り。登て塔寺を起立して、是に於て道法流布し、處處に修めて佛寺を立つ。遠人、化に伏し、願て臣妾たる者、稱て數ふべからず。國内清寧にして含識の類、恩を蒙り頼を受るは今に絶えず。
四十二章經
《第一章》
佛言く、親を辭して家を去り道を爲すを、名けて沙門と曰ふ。常に二百五十戒を行じて四眞道の行を爲し、志を進めて清淨たり。阿羅漢を成ぜば、能く飛行變化し、壽命に住して天地を動ず。次を阿那含と爲す。阿那含とは、壽終て魂靈、十九天に生じ、彼に於て阿羅漢を得。次を斯陀含と爲す。斯陀含とは、一たび上り一たび還て、即ち阿羅漢を得。次を須陀洹と爲す。須陀洹とは、七たび死して七たび生じ、便ち阿羅漢を得。愛欲斷ずるは、譬へば四支斷ずれば復た之を用ひざるが如し。
《第二章》
佛言く、鬚髮を除きて沙門と爲り、道法を受くれば、世の資財を去り、乞ひ求めて日中に足るを取て一食し、樹下に一宿して愼んで再びせず。人をして愚弊ならしむる者は、愛と欲となればなり。
《第三章》
佛言く、衆生、十事を以て善と爲し、亦十事を以て惡と爲す。身に三、口に四、意に三なり。身の三とは殺・盜・婬、口の四とは兩舌・惡罵・妄言・綺語、意の三とは嫉・恚・癡なり。三尊を信ぜず、邪を以て眞と爲す。優婆塞は五事を行じて懈退せず、十事に至ては必ず道を得るなり。
《第四章》
佛言く、人に衆の過有り。而に自ら悔ひて頓に其の心を止めざれば、罪來て身に歸すこと、猶し水の海に歸して自ら深廣と成るがごとし。惡有て非なるを知り、過を改めて善を得れば、罪、日に消滅して後、道を會得するなり。
《第五章》
佛言く、人、吾に遇ふに不善を爲すを以てせば、善く四等慈を以て之を護濟す。重て惡を以て來らば、吾重て善を以て往かん。福徳の氣、常に此に在り。害氣、殃を重れば、反て彼に在り。
《第六章》
人有り、佛道の大仁慈を守るを聞て、惡を以て來るに、善を以て往す。故に來て罵るも、佛は默然として答へず、之を愍みたまふ。癡冥狂愚をして然らしめ、罵ること止む。問て曰く、子、禮を以て人に從ふに、其の人、寶禮を納れずんば、之を如にするや。曰く、持て歸らん。今、子、我を罵る。我、また納れず。子、自ら持ち歸らば、子が身を禍す。猶し響の聲に應じ、影の形を追て終に免離すること無きがごとし。惡を爲すを愼め。
《第七章》
佛言く、惡人の賢者を害すは、猶し天を仰いで唾くに、唾、天を汚さず還て己が身を汚し、風に逆ひて人に坋るに、塵、彼を汚さず、還て身を坋るがごとし。賢者は毀らず。過、必ず己を滅ぼさん。
《第八章》
佛言く、夫れ人、道を爲すには務めて博く愛め。博く哀みて施せ。徳は施より大なるは莫し。志を守て道を奉ずれば、其の福、甚だ大なり。人の道を施すを覩て、之を助けて歡喜せば、また福報を得。質ねて曰く、彼の福、當に滅すべからざるか。佛言く、猶し炬火の數千百人、各炬を以て來り其の火を取て去り、食を熟て冥きを除くも、彼の火、故の如し。福もまた之の如し。
《第九章》
佛言く、凡人百に飯ふより一善人に飯ふに如かず。善人千に飯ふより五戒を持せる者一人に飯ふに如かず。五戒を持せる者萬人に飯ふより一須陀洹に飯ふに如かず。須陀洹百萬に飯ふより一斯陀含に飯ふに如かず。斯陀含千萬に飯ふより一阿那含に飯ふに如かず。阿那含一億に飯せるより一阿羅漢に飯ふに如かず。阿羅漢十億に飯せるより辟支佛一人に飯ふに如かず。辟支佛百億に飯ふより三尊の教を以て其の一世二親を度すに如かず。親千億を教ふるより一の佛を學び、佛を願求し、衆生を濟はんと欲するに飯ふに如かず。善人に飯ふは福、最も深重なり。凡人の天地鬼神に事ふるは其の親に孝なるに如かず。二親は最も神ければなり。
《第十章》
佛言く、天下に五難有り。貧窮にして布施する難、豪貴にして道を學ぶ難、命を判じて死せざらんとする難、佛經を覩ることを得る難、佛世に生れ値う難なり。
作者不明。梁代の僧祐『出三蔵記集』巻六に収録され、支那への仏教初伝の伝説を伝えるものとして古来しばしば挙げられる。
その内容として、西晋の王浮『老子化胡経』にある支那への仏教伝来説に倣ったものであることから、西晋(265-316)以降、梁代の僧祐(445-518)以前の間のいつ頃かに著されたものと考えられる。▲
明帝。支那後漢の第二代皇帝、劉荘。光武帝の第四子で字は厳。孝明皇帝は諡号。
支那に仏教が伝えられた際の皇帝として知られる。▲
伝説では、明帝の夢に現れた神々しい人を神人、あるいは金人と表現したとされる。仏教が未伝または伝来して間もない当初、仏陀とは蕃神(外国の神)であると見なされていた。▲
博識な人。物知り。▲
支那後漢の文人。明帝が賢者を厚遇しないことを諌めるため『七激』を著し諷諫(ふうかん)したことで知られる。▲
印度。当時、印度はまた身毒とも称されていたが、それはSindhuの音写であった。『後漢書』西域伝「天竺国一名身毒」。▲
支那前漢、武帝に仕えた武将。後漢から二世紀も前の前漢の張騫の名がここで出るのは時代が合わないため、古来これが杜撰な伝説と批判される。ここで張騫の名が出されるのは、西晋〈265-316〉の道士王浮によって偽作された『老子化胡経』に、そう描かれているのを無批判に踏襲したことによる。
後代、その明らかな誤りは気づかれ、『魏書』釈老志では、このとき派遣されたのは張騫でなく蔡愔(さいいん)とし、その派遣した先も大月氏でなく天竺であったと修正されている。▲
羽林は天子の宮殿を警護する近衛府の唐名で、羽林中郎將は近衛中将。▲
未詳。陳寿『三国志』巻三十「魏志」に「天竺又有神人、名沙律。昔漢哀帝元壽元年、博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受浮屠經曰復立者其人也」とある中の「博士弟子景盧」の誤伝であろう。すなわち、前漢の哀帝の時、支那人はすでに仏教をなんらかの形に触れ伝えていたが、その話が『老子化胡経』などで採用されるほどに巷間にすでにあり、それがまた『四十二章経』請来の話に転用されたものと考えられる。▲
18歳以上の優秀な若者で五経博士の元で一年間学を積んだ後、射策という試験を通過した者は官僚に取り立てられた。いわば官僚候補生。試験に落ちた者は地方の役人として派遣された。▲
未詳。▲
紀元前三世紀から一世紀頃まで中央アジアに存在した民族による国家。ソグディアナを中心とした地域を支配していたらしい。仏経を大月氏国にて受けたとするここでの話は、前掲の『三国志』倭人伝にある「受大月氏王使伊存口受浮屠經」というのに仮託したものであろう。『三国志』で大月氏王使の伊存なる人が博士弟子景盧に仏経を口受したというのが、やがて大月氏において仏教を写取したという話となったのであろう。▲
蘭台(鸞台)とは支那の皇帝の書庫。その第十四に本経が収蔵されていたという。僧祐『出三蔵記集』「藏在蘭臺石室第十四間中」(T55, p.5c)。▲
支那における最初の仏教寺院は白馬寺と言われる。それはもと洛陽の城外にあった鴻臚寺であって、当時「寺」とは官の施設、役所を意味した。そして鴻臚とは外交を司る施設であった。そこに初めて到来したとされる外国僧二名を置き、また仏像などを祀ったことから、寺とは仏教にまつわる施設を意味する語として使用されるようになった。鴻臚寺が白馬寺と言われるようになるのは、經典と仏像を白馬に乗せてきたということに因むとされる。▲
遠方・遠国の人。地方・辺境の者。▲
家来とめかけ、または服従する者。ここでは後者で、仏教を信仰して従う者の意。▲
[S]bhautika、またはsattvaの漢訳. 意識を有するもの、命あるもの。衆生、有情に同じ。▲
[S]Kāśyapamātaṅga. 支那に初めて仏教を伝えた中印度出身とされる僧。生没年未詳。▲
[S]Dharmarakṣa(?). 迦葉摩騰と共に支那に初めて仏教を伝えた中印度出身とされる僧。生没年未詳。当初、『四十二章経』の翻訳に関わる人として伝えられていなかったが、梁代の宝唱からその訳者として名が挙げられ、その後に摩騰と法蘭との共訳とされるようになったと思われる。▲
『長阿含経』巻二「遊行経」または巻十七「沙門果経」の抄。▲
[S/P]Buddhaの音写、佛陀の略。そもそもBuddhaとは、その語源は√bud(目覚める)+ta(過去分詞)であって「目覚めた人」の意である。(それまで知られなかった真理に)目覚めた人、悟った者であるからBuddhaという。仏陀とはあくまで人であった。
外来語であったBuddhaは当初「浮屠」・「浮図」などとも音写されたが、後にBudhに「佛」の字が充てられ「佛陀」あるいは「佛駄」との音写も行われて今に至る。それら音写のいずれにも「屠」や「駄」・「陀」などのいわば好ましからざる漢字が当てられているが、そこに当時の支那人における外来の文物を蔑視し、矮小化しようとする意図が明らかに現れている(この傾向はその後も比較的長く見られる)。やがて略して「佛」の一文字でもそれを称するようになった。
そもそも「佛」という一文字からも、当時の支那人におけるいわば「Buddha観」を見ることが出来る。『説文解字』では「佛」とは「見不審也(見るに審らかならず)」の意とする。また「佛」とは「人+弗」で構成されるが、それは「人にあらざるもの」・「人でないもの」を意味する。ここからも、当時の支那人にはBuddhaをして「人ではない」とする見方があったことが知られる。事実この『四十二章経』の序文にて「神人」と表現されているように、佛とはあくまで超常的存在であって人ならざるものであった。
なお、日本で「佛(仏)」を「ほとけ」と訓じるのは、「ふと(浮屠)」または「没度(ぼだ)」の音変化した「ほと」に、接尾辞「け」が付加されたものである。この「け」が何を意味するか未確定で、「気」または「怪」あるいは「異」が想定される。それらはおよそ明瞭でないモノあるいは特別なモノを指すに用いられる点で通じている。▲
「道」とは何か。仏教において道とは[S]mārgaの訳であり、それは涅槃・解脱への道であり、そこを歩むための術であり具体的策である。あるいはその道の到達点である[S]bodhiすなわち菩提(悟り)、または.dharmaすなわち真理としての達磨(法)をも「道」との概念に含む場合もある。
しかしながら、支那人において道という概念は複雑となる。なんとなれば、仏教伝来以前から支那人のいう道とは儒教の云う道であって、それは先王(古の聖人)の道であり、その教えであった。儒教はしばしばその思想を自ら「道教」とも称している。また、老荘思想(後代成立の道教の元)において、道とは老子の云う「無為」であって、そこに達する道として自らを道教と称した。後漢の牟子は「道とは導くものである」(『理惑論』)と定義しており、それは仏教における道を表現するに良いものであったが、牟子は仏教の涅槃・菩提と道教の無為とを混交して言ったものであった。
そして、往古の支那思想を色濃く今に至るまで継承している日本人は、これらの概念を混交・混同して漠然と捉えている。したがって、「道」とある時、それが何を意味するか、自身がいかなる文脈で理解しているかを意識しなければ、道という言葉・概念はただ曖昧模糊とした無意味なものとなる。▲
[S]śramaṇaの音写。仏教僧。元は印度正統派(バラモン)の権威を否定した自由思想家全般を指す語であるが、仏教では特にその出家者である比丘を指して言うものとして定着した。桑門とも音写され、また勤息・貧道と漢訳される。▲
[S]catvāri-āryasatyāni. 四聖諦。仏教の核心。苦聖諦(一切が苦であるという聖なる真理)、苦集聖諦(苦の生起についての聖なる真理)、苦滅聖諦(苦の滅についての聖なる真理)・苦滅道聖諦(苦の滅にいたる道についての聖なる真理)。▲
[S]arhat(arhan)の音写。「(供養するに)相応しい者」の意。修行階梯の最高位。もはや学ぶべきことが無いことから「無学」と訳され、また供養するに相応しいことから応供と訳される。通俗的語源解釈として、ari(敵=煩悩)+ hant(殺したもの)とすることから殺賊とも。▲
[S]anāgāminの音写。欲界の煩悩を断じ尽くした阿羅漢に次ぐ聖者。死後は二度と人として生を受けず、ただ天に転生して残りの煩悩を断じて阿羅漢を得ることから、不還または不来とされる。▲
霊魂。霊あるいは魂といわれるモノが人の核としてあるという見方は古今東西の人が有する素朴なものである。ところが仏教では霊魂の存在することは説かれない。しかし、仏教はまた無我および輪廻を説く。そこで、無我であるならば「何が輪廻するのか」という、その主体についての疑問がたやすく生じた。仏教はこれに常に生滅流転しつつ業果によってその自己同一性を保つ「心相続」または「微細な五蘊」が輪廻すると応える。けれども、仏教が伝来した当初の支那において、一般に霊魂(心神・魂魄)の存在すると信じられており、心相続であるとか五蘊であるというより、魂霊(霊)が輪廻するという表現がわかりやすく受け入れられ易いことのことであろう、よく「霊」をもってする表現が用いられた。
もっとも、支那人の仏教理解は伝来当初、仏教の説く神通・神変や出家生活など外的・些末な点に興味が集中しており、無我や縁起・空といった仏教の核心思想を深く掘り下げ批判する言説は少なかった。輪廻についても無我・非我説との整合性より、それ自体を疑ったため、議論が深まることは無かったようである。▲
色界の諸天を総じて言った語。ただし、色界は初禅天(三天)・第二禅天(三天)・第三禅天(三天)・第四禅天(九天)で本来十八天であるが、これに無色界の四天を総じて一天として加え、十九天とされる。▲
[S]sakṛd-āgāminの音写。欲界における九品惑のうち、前の六品惑を断じた、阿那含に次ぐ聖者。死後、残りの欲界の三惑を断じるために天界あるいは人界にもう一度だけ転生した後に解脱することから、一来と訳される。▲
[S]srotāpannaの音写。聖者の階梯の最初。見惑を断じたことにより、初めて聖者の流れに入った者であることから、預流と訳される。その死後、七度転生する間に必ず阿羅漢果を得るとされる。▲
[S]tṛṣṇā. 渇愛。喉が乾いて水を欲しがるように、性的欲求に限られず、事物を求めて果てしない欲望。一般的な欲求(chanda)とは異なることに注意。
須陀洹以上に達した者を仏教では聖者と云い、その直前の境地にあるものを賢者という。しかし、聖者であるからといって愛欲が全く断たれているということはない。ここで愛欲を渇愛と特定せず、欲貪および無色貪など貪欲一般を含めて言ったものとしたならば、須陀洹に至ってもいまだ性欲・色欲は断たれていない。須陀洹に至った者が断っているのは、五下分結および十結でいうならば有身見と疑および戒禁取であり、七随眠でいうならば見随眠と疑随眠のみである。したがって、いまだ欲貪や瞋恚は強く残されており、故に七死七生とされる。▲
具足戒。仏教の正式な修行者たる比丘となるために受けるもの。比丘として為すべきでない行為規定(律)を支那では概数として二百五十戒との造語で表した。▲
沙門としての生活の根本指針(四依法)のうち常乞食(じょうこつじき)を表した一節。沙門は午前中に乞食して正午までに食事を済まし、午後から翌日の日の出まで固形物を摂ることが出来ない。これを不非時食という。
ただし、原則として一日一食ではあるが、例外として早朝に粥を取ることは許されている。▲
沙門としての生活の根本指針(四依法)のうち樹下坐臥(じゅげざが)を表する一節。仏教が成立した当初、沙門は特定の土地や施設を持たず、樹下にて寝泊まりしつつ遊行した。ここで「一宿して慎んで再びせず」とは、同じところに再び寝ず、常に遊行して果てないことを云う。しかし、信者が増え土地や精舎が寄進されるようになると、これは釈尊在世中から、比丘には常に遊行する者と一処に留まる者が出るようになり、四依法のうち特に樹下坐下の一条はほとんど空文化している。▲
『長阿含経』巻九「十上経」または巻廿二「世記経」などからの抜粋。▲
[S]sattva. (意識もって)存在するもの、命あるもの。有情、含識に同じ。▲
十善、または十善業道。不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見。▲
十悪、または十悪業道。殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見。▲
生けるものを殺意・害意をもって殺すこと。▲
他者のものをその許可を得ず、意図的に我がものとすること。▲
不倫、売買春、生理中・妊娠中の性交。▲
二枚舌。他を仲違いさせる言葉を言うこと。▲
粗暴な、汚い言葉使いをすること。これを悪口(あっく)というが、今一般に言われる悪口(わるぐち)は両舌に含まれる。▲
意図的に事実でないことを言うこと。虚言。▲
無駄口。意味のない、中身の無い会話をすること。▲
ねたみ、そねみ。一般にはこれを慳貪といい、貪欲で吝嗇であることを充てる。▲
怒ること。瞋恚(しんに)。▲
無知であること。学・教養がないこと。特に無常・苦・無我であることや四聖諦について無知であること。▲
三宝。仏(仏陀)・法(仏法)・僧(僧伽)の三種の敬すべき対象。▲
[S]upāsakaの音写。仏教の在家男性信者。漢訳は近事男あるいは信士。女性信者は優婆夷(upāsikā)。▲
一般的には在家信者の日常生活における五つの行動指針である五戒というべきであるが、ここでは善なる十事のうち五事であろう。ただし、その五事が何かは明示されていない。▲
業果。自らの行為の結果として受ける苦しみ。
仏教では、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教が想定する唯一神、支那で信仰された天道なるものの存在を認めない。したがってこの世に誰か「審判者」や「罰を下す存在」など有りはしないと説く。そこで仏教は、自らの行為の結果として苦しみをもたらすものが悪であり、安楽をもたらすものが善であるとし、それが十悪あるいは十善である。それはどこまでも自業自得であると考える。▲
四無量心。慈(怒らないこと)・悲(害さないこと)・喜(自他の幸いを喜ぶこと)・捨(自他に対して慈・悲・喜の想いを持ちつつ、しかし執着しないこと)の四種の想い。▲
空気のように目に見えず、しかし天地万物に満ちてそれを形成しまた変化させるものであり、また生命・精神の力の根源、という古代支那人の世界観の一端を支える語。気を具体的に説明しようとしたのが陰陽の気であり、また木火土金水の五行説であった。この一節は仏典に基づくものでなく、仏教の説く因果応報、自業自得、善因楽果、悪因苦果を、支那人に説明するために加えられたものであろう。
古代支那人は「業」を彼らが従来有していた「気」の概念を以って理解しようとしていたことが、ここから知られる。▲
慈は[S]maitrīの漢訳. 自他に対して安楽であれと願う想い、または怒りのない心の状態。古代支那人は仏教の慈を、儒教が強調した「仁」と同じものと理解し、「仁慈」と重ねた語としたのであろう。
仁とは恕に同じで、『論語』衛霊公「子曰問曰、有一言而可以終身行之者上乎。子曰、其恕乎。己所不欲、勿施於人」とあるように、「己の欲せざる所、人に施す勿れ」というものであって、確かに慈と共通したものであった。ただし、儒教の仁は特にその親子と親族など血縁者に対して最も持つべきものとされ、その点において仏教の慈、四無量心と大きな隔たりがある。実際、支那でも儒教の仁について墨子は偏愛であって狭量なものと激しく批判した。▲
『雑阿含経』巻四十二 [No.1152](T2, pp.306c-307a)。▲
『雑阿含経』巻四十二 [No.1154](T2, p.307b-c)。▲
『中阿含経』巻三十九 梵志品「須達哆経」 [No.155](T1, pp.677a-678a)。▲
[S]pratyeka-buddhaの音写。師に依ることなく悟り、あるいは自ら縁起を観じて悟りに至り、他にその悟りを開示することの無い者。独覚・縁覚と漢訳される。阿羅漢より高い悟りを得たものとされるが、他にその知見を説かず、共有しないことから、仏陀に劣る存在とされる。▲
父母、両親。▲
度は渡に通じ、「教え導く」・「救う」の意として用いられる。▲
死者、特には自らの祖先の霊。支那における儒教の信仰に基づいた一節。この章の最後半部は支那の「孝」とそれに強く結びついた祖霊崇拝にまつわる習俗について言及したもので、印度の経典にあったものでは決してなく、支那人の性情に合わせるための加筆であろう。▲
失訳『般泥洹経』巻上(T1, p.179c-)以下に本章と全同ではないものの似た五難が説かれる。▲