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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

最澄 『山家学生式』

訓読

天台法華宗年分學生式一首

國寶こくほうとは何物なにものぞ。たからとは道心どうしんなり。道心有るの人を、名づけて國寶と爲す。故に古人こじんの言く、径寸けいすん十枚じゅうまい、是れ國寶こくほうに非ず。照千しょうせん一隅いちぐう、此れ則ち國寶なりと。古哲こてついはく、く言ひてく行うことあたはざるは、國の師なり。能く行ひて能く言ふこと能はざるは、國のゆうなり。能く行ひ能く言ふは、國のたからなり。三品さんぼんの内、唯だ言ふこと能はず行ふこと能わざるを、國のぞくと爲すと。すなはち道心有るの佛子ぶっしを、西には菩薩と稱し、東には君子と號す。惡事は己れに向へ、好事を他にあたへ、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。釋敎しゃっきょうの中、出家に二類あり。一つには小乘の類、二つには大乘の類なり。卽ちの類なり。

今我が東州とうしゅうには、ただ小像のみ有りて、未だ大類有らず。大道未だ弘まらざれば、大人興り難し。誠に願はくば先帝せんていの御願、天台年分、長く大類と爲し、菩薩僧ぼさつそうと爲んことを。然らば則ち枳王きおう夢猴むこう、九位つらなり落ち、覺母かくも五駕ごか、後の三、數を増さん。斯の心、斯の願、海を汲むことを忘れず。今を利し後を利して、こうを歴れどもきわまり無けん。

年分度者ねんぶんどしゃ二人 柏原先帝、新たに天台法華宗の傳法者を加ふ

《第一条》
凡そ法華宗天台の年分、弘仁九年より、永く後際ごさいを期して、以て大乘の類と爲す。其の籍名しゃくみょうを除かずして、佛子の号を賜加し、えん十善戒じゅうぜんかいを授けて、菩薩沙彌しゃみと爲さん。其の度縁どえんには官印かんいんを請はん。

《第二条》
凡そ大乘の類は、卽ち得度の年、佛子戒を授けて菩薩僧と爲し、其の戒牒かいちょうには官印を請はん。大戒たいかいを受け已らば、叡山に住せしめ、一十二年いちじゅうにねん、山門を出ずして、両業りょうごうを修學せしめん。

《第三条》
凡そ止觀業しかんごうの者は、年年毎日、法華・金光・仁王・守護、諸大乘等、護國の衆經を長轉長講せしめん。

《第四条》
凡そ遮那業しゃなごうの者は、歳歳毎日、遮那・孔雀・不空・佛頂、諸真言等、護國の真言を長念せしめん。

《第五条》
凡そ兩業の學生がくしょう、一十二年、所修所學、業に隨ひて任用せん。能く行ひ能く言ふは、常に山中に住して、衆の首と爲し、國の宝と爲す。能く言ひて行ふこと能はざるは、國の師と爲し、能く行ひて言ふこと能わざるは、國の用と爲す。

《第六条》
凡そ國師・國用、官符の旨に依りて、傳法及び國講師こくこうじに差任ぜよ。其の國講師は、一任の内、毎年安居あんご法服施料ほうぶくせりょうは、卽便ち当國の官舍に収納し、國司・郡司は、相対して検校けんぎょうし、將に國裏こくりの池を修し溝を修し、荒れたるを耕し崩れたるを理め、橋を造り船を造り、樹をからむし[艹+紵]を殖へ、麻を蒔き草を蒔き、井を穿うがち水を引き、國を利し人を利するに用んとすべし。經を講じ心を修めて、農商のうしょうを用いざれ。然れば則ち、道心の人、天下相續し、君子の道、永代に斷へざらん。

右六條の式は、慈悲門に依りて、有情うじょうを大に導き、佛法世に久しく、國家永く固ふして、佛種斷ざらん。慺慺るるの至りに任へず。圓宗えんしゅうの式を奉り、謹で天裁を請ふ。謹しんでまうす。

弘仁九年五月十三日

前入唐求法沙門㝡澄

現代語訳

天台法華宗年分學生式一首

国宝とは何でありましょうか。宝とは道心であります。道心ある人をこそ、国宝というのであります。故に古人こじん〈斉の威王〉は言ったものです、「(戦車の前後を明らかに照らしだす)径寸けいすん十枚じゅうまい〈直径一寸の宝玉十枚〉など国宝ではない。照千しょうせん一隅いちぐう、それこそまさに国宝である」と。また、古哲〈牟子〉はこのようにも言っています、「よく語ることが出来てもよく行うことが出来ない者は、国師である。よく行うことは出来ても語ることが出来ない者は、国用である。よく行なってよく語り得る者は、国宝である。これら三品さんぼん〈三種三様〉(の者)あるけれども、ただ語ることも行うことも出来ない者は国賊である」と。すなわち、道心ある仏子ぶっしをして、西〈印度〉では菩薩と称し、東〈支那〉では君子と号します。悪しき事柄は自らに向かわし、好ましき事柄を他者にあたえ、己を忘れて他を利することは、慈悲の極みというものです。釈尊の教えにおいて、出家修行者には二類の別があります。一つは小乗の類、二つには大乗の類です。そこで、この(忘己もうこ利他りたの)人こそ、この(大乗の)類であります。

今、我が東州とうしゅう〈日本〉には、ただ小像〈小乗に類した教え。ここで最澄は法相宗や三論宗など南都六宗を卑下してそう言っている〉のみがあって、いまだ大類〈真の大乗の宗。最澄は自身の天台宗をのみそう見なした〉がありません。大道がいまだ広まらないでいるならば、大人が現れることは難しいでしょう。誠に願わくば、先帝〈桓武天皇〉の御願でもあった天台宗の年分度者をもって、以降は大類の僧として、菩薩僧とされんことを。そうすれば、枳王きおう〈訖哩枳王〉の夢に現れた(十匹の)猿のうち九匹〈乱暴狼藉を働く邪悪な猿.最澄はこれを南都六宗に類比した〉はまたたくまに追いやられ、文殊菩薩の五つの籠〈羊乗行・象乗行・月日神通乗行・声聞神通乗行・如来神通乗行〉のうち、(菩薩乗であって無上正等正覚を得ることが定まっている)後の三つは、その数をいよいよ増すことになるでしょう。この(私の)心、この(最澄の)願いは、(尽きること無い)海の水を汲み出しつづけるかのようなものであって、今の世を利し、後の世を利して、こう〈宇宙が誕生して滅するまでの時間〉を歴たとしても極まることがありません。

年分度者ねんぶんどしゃ二人 柏原先帝は、新たに天台法華宗の伝法者を加えられたのである

《第一条》
およそ法華宗天台の年分度者は、弘仁九年〈818〉より永く後際ごさい〈未来世〉のために、これを大乗の類とする。(民部省が管理する)その本籍の名を除かずに「仏子」の号を加え賜り、圓の十善戒を授けて(まずは)菩薩沙弥とする。その度縁には、(太政官の)官印を請う。

《第二条》
およそ大乗の類は、すなわち得度の年に、仏子戒を授けて菩薩僧とし、その戒牒には(太政官の)官印を請うこと。大戒を受け終わったならば、比叡山に住させ、十二年間、山門から出させること無く、(止観業と遮那業との)両業を修学させる。

《第三条》
およそ止観業しかんごうの者は、年々毎日、『法華経』・『金光明最勝王経』・『仁王般若経』・『守護国界経』など、諸々の大乗経典など護国の諸経典を長転・長講させる。

《第四条》
およそ遮那業しゃなごうの者は、歳歳毎日、大毘盧遮那佛〈大日如来〉・孔雀明王・不空成就・一字金輪仏頂など、護国の真言を長く念誦させる。

《第五条》
およそ両業の学生は、十二年間、その修行と修学する内容について、(年分度者として止観業か遮那業かいずれかの)業にしがたって任用させる。よく行い、よく語り得る者は、常に比叡山中に住み、衆僧の上首として、国宝とする。よく語って行うことが出来ない者は国師となし、よく行うけれども語ることの出来ない者は国用とする。

《第六条》
およそ国師・国用は、太政官符の旨に従って、伝法師および国講師こくこうじに任ずること。その国講師は、一任のうち、(国から支給される)毎年の安居における袈裟代としての布施は、ただちに当国の官舎に収納する。国司・郡司は、(それを)相対して管理・監督し、国中の池を修し、溝を修し、荒れた地を耕し、崩れた地を理め、橋を造り、船を造り、樹を殖え、 を殖え、麻を蒔き、草を蒔き、井戸を穿ち、水を引き、国を利し、人を利するために用いなければならない。(国講師は)経典を講じて心を修め、農業・商業に関わってはならない。そのようにすれば、道心の人は、天下世間に絶えること無く、君子の道は永代に絶えることはない。

右の六条式は慈悲門によるものであり、(これに基いたならば)衆生をおおいに導き、仏法をして世に久しく留め、国家は永く確固たるものとなって、仏教の命脈が尽きることは無いでありましょう。慺慺るる〈慎むこと〉の至りに任えず。円宗えんしゅう〈天台宗〉の式を奉り、謹んで天皇のご裁断を請いたてまつる。謹しんで申し上げます。

弘仁九年〈818〉五月十三日

前入唐求法沙門最澄