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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

最澄 『山家学生式』

原文

天台法華宗年分學生式一首

國寶何物。寶道心也。有道心人。名爲國寶。故古人言。徑寸十枚。非是國寶。照于一隅。此則國寶。古哲又云。能言不能行。國之師也。能行不能言。國之用也。能行能言。國之寶也。三品之内。唯不能言不能行。爲國賊。乃有道心佛子。西稱菩薩。東號君子。惡事向己。好事與他。忘己利他。慈悲之極。釋敎之中。出家二類。一小乘類。二大乘類。道心佛子。卽此斯類。

今我東州。但有小像。未有大類。大道未弘。大人難興。誠願 先帝御願。天台年分。永爲大類。爲菩薩僧。然則枳王夢猴。九位列落。覺母五駕。後三増數。斯心斯願。不忘汲海。利今利後。歴劫無窮

年分度者二人柏原先帝新加天台法華宗傳法者

凡法華宗天台年分。自弘仁九年。永期于後際。以爲大乘類。不除其籍名。賜加佛子號。授圓十善戒。爲菩薩沙彌。其度縁請官印

凡大乘類者。卽得度年。授佛子戒爲菩薩僧。其戒牒請官印。受大戒已。令住叡山。一十二年。不出山門。修學兩業

凡止觀業者。年年毎日。長轉長講法華。金光。仁王。守護。諸大乘等。護國衆經

凡遮那業者。歳歳毎日。長念遮那。孔雀。不空。佛頂。諸眞言等。護國眞言

凡兩業學生。一十二年。所修所學。隨業任用。能行能言。常住山中。爲衆之首。爲國之寶。能言不能行。爲國之師。能行不能言。爲國之用

凡國師國用。依官符旨。差任傳法及國講師。其國講師。一任之内。毎年安居法服施料。則便收納當國官舍。國司郡司。相對檢校。將用國裏。修池修溝。耕荒理崩。造橋造船。殖樹殖■[艹+紵]。蒔麻蒔草。穿井引水。利國利人。講經修心。不用農商。然則。道心之人。天下相續。君子之道。永代不斷

右六條式。依慈悲門。有情導大。佛法世久。國家永固。佛種不斷。不任慺慺之至。奉圓宗式。謹請天裁。謹言

弘仁九年五月十三日

前入唐求法沙門㝡澄

訓読

天台法華宗年分學生式一首

國寶とは何物ぞ。寶とは道心なり。道心有るの人を、名づけて國寶と爲す。故に古人の言く、徑寸十枚、是れ國寶に非ず。照千一隅、此れ則ち國寶なりと。古哲又云く、能く言ひて能く行うこと能はざるは、國の師なり。能く行ひて能く言ふこと能はざるは、國の用なり。能く行ひ能く言ふは、國の寶なり。三品の内、唯だ言ふこと能はず行ふこと能わざるを、國の賊と爲すと。乃ち道心有るの佛子を、西には菩薩と稱し、東には君子と號す。惡事は己れに向へ、好事を他に與へ、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。釋敎の中、出家に二類あり。一つには小乘の類、二つには大乘の類なり。卽ち此れ斯の類なり。

今我が東州には、但小像のみ有りて、未だ大類有らず。大道未だ弘まらざれば、大人興り難し。誠に願はくば先帝の御願、天台年分、長く大類と爲し、菩薩僧と爲んことを。然らば則ち枳王の夢猴、九位つらなり落ち、覺母の五駕、後の三數を増さん。斯の心斯の願、海を汲むことを忘れず。今を利し後を利して、劫を歴れども窮り無けん。

年分度者二人 柏原先帝、新たに天台法華宗の傳法者を加ふ

凡そ法華宗天台の年分、弘仁九年より、永く後際を期して、以て大乘の類と爲す。其の籍名を除かずして、佛子の号を賜加し、圓の十善戒を授けて、菩薩沙彌と爲さん。其の度縁には官印を請はん。

凡そ大乘の類は、卽ち得度の年、佛子戒を授けて菩薩僧と爲し、其の戒牒には官印を請はん。大戒を受け已らば、叡山に住せしめ、一十二年、山門を出ずして、両業を修學せしめん。

凡そ止觀業の者は、年年毎日、法華・金光・仁王・守護、諸大乘等、護國の衆經を長轉長講せしめん。

凡そ遮那業の者は、歳歳毎日、遮那・孔雀・不空・佛頂、諸真言等、護國の真言を長念せしめん。

凡そ兩業の學生、一十二年、所修所學、業に隨ひて任用せん。能く行ひ能く言ふは、常に山中に住して、衆の首と爲し、國の宝と爲す。能く言ひて行ふこと能はざるは、國の師と爲し、能く行ひて言ふこと能わざるは、國の用と爲す。

凡そ國師・國用、官符の旨に依りて、傳法及び國講師に差任ぜよ。其の國講師は、一任の内、毎年安居法服施料は、卽便ち当國の官舍に収納し、國司・郡司は、相対して検校し、將に國裏の池を修し溝を修し、荒れたるを耕し崩れたるを理め、橋を造り船を造り、樹を殖へ■[艹+紵]を殖へ、麻を蒔き草を蒔き、井を穿ち水を引き、國を利し人を利するに用んとすべし。經を講じ心を修めて、農商を用いざれ。然れば則ち、道心の人、天下相續し、君子の道、永代に斷へざらん。

右六條の式は、慈悲門に依りて、有情を大に導き、佛法世に久しく、國家永く固ふして、佛種斷ざらん。慺慺の至りに任へず。圓宗の式を奉り、謹で天裁を請ふ。謹しんで言す。

弘仁九年五月十三日

前入唐求法沙門㝡澄

脚註

  1. 古人こじん

    斉の威王。

  2. 径寸十枚けいすんじゅうまい、是れ国宝に非ず...

    荊渓湛然によって著された、智顗『摩訶止観』の注釈書『止観輔行伝弘決』(『弘決』)にある『史記』の引用を孫引きした一節。
    現在、一般には「径寸十枚、是れ国宝に非ず。一隅を照らす、此れ則ち国宝なり」などと訓じられている。しかしながら現代、それは明らかに誤読であることが判明している。現存する最澄自筆の書(国宝・延暦寺蔵)を見ると、確かにそれは「照千一隅此則國寶」とどう見ても「千」であって、「于」(いわゆる置き字)では決してない(解題の画像を参照のこと)。これを「照于一隅此則國寶」と採って「一隅を照らす、これ則ち国宝なり」と読むのは、そもそも最澄が引用した原典に違い、よって当然最澄が意図したものとも異なった読みとなる。では正しい読みとは何か。上に示したように、「径寸十枚」と「照千一隅」とは最澄が敢えて対句とし、調子を整えるために文辞を略している。故に「径寸十枚、是れ国宝に非ず。照千一隅、此れ則ち国宝なり」と読むことが正しく、文章としても美しい。

  3. 古哲こてつ

    牟融(ぼうゆう)、あるいは牟子とも。後漢末の人で儒教や老荘及び神仙思想からの批判に対して『理惑論』を著し護教論を展開した人。仏教受容まもない支那における仏教理解、その後の仏教とその他支那の思想との関係を知る上でも非常に重要な書。『理惑論』自体は散失してないが『弘明集』にその全文が収録されている。
    ただし、ここで引用された一節は、『弘決』において引用された『理惑論』一節を引いたもの。最澄は『理惑論』も『荀子』も知らなかったのであろう。最澄の孫引きである。

  4. く言ひてく行うこと...

    同じく『弘決』に引用された『理惑論』を孫引きした一節。

  5. 今我が東州とうしゅうには

    最澄が入唐して帰朝する以前、平城京には華厳宗・法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・律宗の六宗があった。これらは今でいうような宗派ではなくむしろ学派であって、多くの場合兼学されていた。たとえば倶舎宗は法相宗に、成実宗は三論宗に、律宗は諸宗通じてと、それぞれ大乗の基礎学として、いわば付随して学ばれる宗であった。いわゆる「宗」として存在していたのは三論宗と法相宗のみであが、勢力として有力だったのは法相宗であった。その一方に偏った状況を打開し、またむしろ学派の如きものとなっているその他の宗が衰亡することを防ぐためとしてなされたのが、最澄の桓武帝への建言で、以降、南都六宗は各個に年分度者が加えられ、「宗派」として実態あるものとなった。それに併せて認められたのが、天台宗の年分度者二人の許可であり、その許可によって日本天台宗の立宗となった。
    そのようにむしろ最澄によって宗派として成立した南都六宗であったが、ここでの最澄による言は、その南都六宗に対する非常なる挑発的文言であった。なんとなれば、南都六宗の大乗の僧らに対して彼はこれを「小像」と言い、みずからをのみ「大類」と称しているのであるから。彼最澄にとっては、特に法相宗は、最澄が標榜する「法華一乗」思想に真っ向から反する宗派であると同時に、天台宗徒が東大寺戒壇院に受戒に行ったら最後、たちまち転向して帰ってこなくなってしまう受け皿であり、故に憎き敵であった。

  6. 先帝せんていの御願

    先帝とは、この時から十二年前の昔すでに延暦廿五年(806)三月十七日に崩御していた桓武帝。桓武帝の肝いりによって、最澄の天台宗が立宗が認められたことを殊更に主張している。桓武天皇は没後、宇治の柏原山陵に埋葬されたことから柏原帝とも言われる。

  7. 菩薩僧ぼさつそう

    大乗の比丘。もっとも、ここで最澄は先に自身が述べた「東州には但小像のみ有りて、未だ大類有らず」を受け、「大乗教によってのみ僧となった全く純粋な大乗の僧」が意図されている。実はインド以来支那にもそんなモノはどこにも存在しておらず、それは最澄の想像の産物、架空の存在に過ぎなかった。しかし、それをいかに(あくまで彼の空想した)「伝統に則って」生み出すべきかが以下に述べられる。

  8. 枳王きおう夢猴むこう

    枳王とは訖哩枳王(作事王)の略。「枳王の夢猴」とは、『守護国界主陀羅尼経』巻第十「阿闍世王受記品」第十にある一節を指す。「彼時有王名訖哩枳。於彼如來深生淨信。王於中夜得二種夢。一者夢見有十獼猴。其九獼猴攝亂城中。一切 人民妻妾男女。侵奪飮食破壞什物。仍以不淨而穢汚之。唯一獼猴心懷知足。安坐樹上不擾居人。時九獼猴同心惱亂。此知足者作諸留難。驅逐出於獼猴衆會」(T19, p.572b)
    過去七仏の一仏、迦葉仏の父であった訖哩枳王は二つの夢を見たが、そのうちの一つ。その夢とは、十匹の猿(獼猴)が登場するもので、九匹は城中にて人々に乱暴狼藉を働いたが、一匹の猿だけは樹の上で騒ぐこと無く満足し、人々を脅かすことが無かった。しかし、その一匹の猿は、ついに九匹の悪猿によって追い出されてしまう、という夢。訖哩枳王は、この夢の意味について迦葉仏に問う。すると迦葉仏は、十匹の猿とは、未来の「五濁悪世」に出現する釈迦牟尼仏の十種の弟子(沙門)であると言う。第一から九までの種の沙門は悪しく怠惰で仏教において不利益をなす「相似沙門」であって、第十の沙門こそは真正なる「真実沙門」である。が、他の九種の悪沙門から誹謗中傷され、国王など為政者にも讒言されて、ついに国外に追放されてしまう。けれども、釈迦牟尼の教法(を正しく伝える一匹の正しき猿)は、微塵もそのような悪沙門らや天魔によっても損なわれることはない、という話。
    最澄がこの話を引いて言わんとしているのは、「私最澄こそ、まさしくその他の猿から誹謗されているただ一匹の正しい猿であり、南都六宗の僧らは九匹の悪しき猿どもである」ということ。これも相当に南都六宗を挑発した言辞であるが、最澄の追い詰められた心情から吐き出された言に違いないものであった。

  9. 覚母かくも五駕ごか

    覚母とは文殊師利(Mañjuśrī)、いわゆる文殊菩薩のこと。出典が明瞭でないため定かではないが、五籠とはおそらく『不必定入定入印経』にある、釈尊が文殊師利に対して説かれた五種菩薩を譬えたもの。その五種とはすなわち、①羊乗行・②象乗行・③月日神通乗行・④声聞神通乗行・⑤如来神通乗行。前ニ者は小乗か菩薩乗か不確定のものであるが、後の三者は菩薩乗であって無上正等正覚を得ることが定まったものであると説かれている。
    「佛言。文殊師利。此中則有五種菩薩。何等爲五。一者羊乘行。二者象乘行。三者月日神通乘行。四者聲聞神通乘行。五者如來神通乘行。文殊師利。如是名爲五種菩薩。文殊師利。初二菩薩。不必定阿耨多羅三藐三菩提退無上智道。後三菩薩。必定阿耨多羅三藐三菩提不退無上智道」(T15, p.699c)。

  10. 海をむことを忘れず

    『賢愚経』巻八「大施抒海品」第三十五にある一節が意図された言葉。摩訶闍迦樊(大施)という名の太子(王子)が、国民を助けるために如意宝珠を得ようと海の水を汲み出そうと誓ったという話。
    「我今所願。欲辦大事。設復貪身。事何由成。以身布地。伏父母前。而自言曰。若必顧留。違我志願。伏身此地。終不復起。《中略》我今躬欲入海採寶。誰欲往者。 可共倶進。我爲薩薄。自辦行具。《中略》會當盡力抒此海水。誓心剋志」(T4, p.406b-408b)。

  11. 年分度者ねんぶんどしゃ

    年分とは年間、度者とは得度者。当時、各宗派から例年出家得度する員数は朝廷によって定められていたが、その定められた年間の得度者のこと。最澄の天台宗では一年に二人が定員として許されていた。

  12. 其の籍名しゃくみょうを除かず

    当時、僧籍を所管していたのは治部省であり、俗人の戸籍(籍名)は民部省所管であった。人が出家する際には民部省の管理していた戸籍から削除され、僧籍として治部省に移された。僧籍という言葉は、文字通り「僧侶としての戸籍」であって、それは国家に管理されていたからこそのものであった。しかし、最澄はその行政上の手続きについて、天台僧に関しては従来通りではない方法に変更することを求めている。
    何故か?何故、最澄はこのような行政上の戸籍・僧籍という制度について変更することをここで求めていたのか?それは、もし天台の年分度者となった者が他宗に転向しようとしたとしても、治部省に「僧の戸籍」が無ければ転向できなくなるためである。僧となった者は民部省から治部省に戸籍が移されたので、もし所属する宗が変わっても僧という立場は行政上、そのまま認められた。しかし、(他宗から天台に転向した者を除いて)新たに天台の年分度者として僧となった者が、従来のようにその戸籍を民部省から治部省に動かされず、民部省が所管する俗の戸籍名簿の上にただ「仏子」と加筆するのみであったならば、戸籍からいうと在俗者のままである。故に、その者が他宗に転向しようとしても、戸籍が「僧籍」では無いために出来無いのであった。
    最澄は、このような行政上の僧の戸籍手続きについて従来と変更することで、「天台宗からは絶対に逃さない」と、まず行政的に拘束しようとしたのである。しかも、これを第一条に挙げていることは、最澄にとってこれぞまさに「自宗の僧徒を縛る最大に有効なる一手」であると思っていたからこそのことであろう。最澄が何故にこのような行政上の手続きの変更を、天台の人々に言わせると「伝教大師さまの純大乗の僧を育成するための、すぐれた教育理念と具体的方策が書き連ねられた書」なるものの第一条に挙げて求めているのか、最初わたくしは全く理解できなかった。が、何の事はない。そもそも『山家学生式』とは、「最澄のスグレタ教育理念を表したもの」でも「最澄の純粋な大乗を希求する宗教的信条が発露したもの」などでも到底無く、それまで相次いだ天台僧徒の離散を防ぐ目的で表されたものであることを考えれば、たやすく得心のいくことであった。

  13. えん十善戒じゅうぜんかい

    最澄は、支那の天台宗の祖師たる智顗がそうしたのに倣って、何かの語に完全・最高を意味する「円」を付してしばしば表現している。しかし、最澄の場合、率直に言ってそれは要するに「自分が認めた」・「自分の宗こそが至高」といわんとするに過ぎない、極めて独善的な用法であった。
    現代、ここに最澄がいう十善戒を、『梵網経』の十重禁戒であると見る学者や僧職者がある。しかし、そうすると最澄が主張するところの「大戒」である十重四十八軽戒との兼ね合いがつかなくなり、彼の言う菩薩比丘と沙弥の違いの根拠が失われるため、そのような理解は誤りである。そもそも、沙弥となるための十戒は、これは大乗であろうが小乗であろうが、十善戒でも十重禁戒でもない十戒である。故にここでの最澄の主張もやはり、仏典になんら根拠の無い独自説にすぎない。したがって、そのような最澄の比丘どころか沙弥としても仏教の正規の方法でなることを捨ててしまおうという主張を認めたならば、もはやそれを出家と称することすら出来なくなる。
    このような最澄の主張には仏典の裏付けなど全く無いが、その主張の背後には一つの強烈な彼の意思があったことを読み取れる。それは、「とにかく旧来のやり方は全部捨て、南都六宗など伝統的な従来のあり方と共通する行事はすべて排除し、日本天台宗だけの独自路線をとる。それによって、たとえまた天台宗の年分度者となった者が他宗に転向しようとしたとしても、決して転向できぬようにする」という執念である。が、これはしかし、少々ヒステリー気味な主張であった。この主張も、それだけ彼が追い詰められていたことの証といえる。

  14. 沙弥しゃみ

    具足戒を受けていない男性出家者。小僧、雛僧。見習い僧であり、僧伽の成員には入らない。
    当時の日本では、いかなる宗の年分度者であろうとも沙弥出家はそれぞれの寺院ではなく、毎年正月八日から十四日に行われた宮中の御斎会の最終日に行われていた。それをすら最澄は変更させ、新たに天台宗僧となる者を他宗から全く遮断し、「絶対に他宗に転向させない」ようにすることを望んだのであった。
    宗派など一切関係なく、仏教僧となるための標準、それは仏陀以来変わりなく故に国際的に統一されたものでなければならない。それが得度及び具足戒がある。しかし、それは自宗が存亡の危機に立たされた最澄によってすこぶる都合の悪いもので、それが標準・共通してものであるからこそ「転宗」が可能となるのだと考えたのであった。ならばその標準から抜け、自宗のみそのあり方を根本的に変えてしまえば、転宗の仕様がなくなるであろう、という実に政治的発想である。それを行政的に変えて縛り付ければ、もはや天台の年分度者に限って転宗できなくなる。そのような最澄の目的と意図を読み取らなければ、ここで彼が何を言っているのかまったく理解できないであろう。

  15. 度縁どえん

    得度(沙弥出家)した者に、朝廷(太政官)から発行され玄蕃寮を通して交付された出家証明書。得度の師の名・寺院・俗名ならびに僧名と日付が書かれる。もっとも、その形式は時代によってかなり異なる。度牒とも言われる。公験の一種。

  16. 官印かんいん

    太政官印。なぜ最澄が押印の種類まで指定しているかといえば、その所管を天台宗に関しては太政官が直接することを最澄は求めたのである。これもまた行政上、天台僧だけ他宗と異なる独自の制度としておけば、その者は他宗に転向することが不可能となる。

  17. 戒牒かいちょう

    出家後、具足戒を受けて比丘となった者に、朝廷(太政官)から発行され玄蕃寮を通して交付された受戒証明書。鑑真の渡来によって始められた受戒制度に伴って発行されるようになったが、その際には度縁および公験は廃棄された。
    沙弥は具足戒を受戒することによって正式な仏教の出家者、比丘となるが、戒牒はその公的証明書。授戒の師(三師七証の名)・戒壇(場所)・僧名ならびにその日付(年月日と時間)が書かれる。ただし、解題で述べたように、度縁を廃棄して戒牒のみの発給は不正の温床になりかねないものであったため、最澄の当時は度縁の他に戒牒を発行せず、度縁自体に受戒の日時等を追加記入することに由って戒牒とするよう法改正された。

  18. 大戒たいかい

    大僧戒の略。本来、具足戒(二百五十戒)のことであるが、最澄はその独自の主張により梵網戒(十重四十八軽戒)をもって大戒であるとした。最澄はこれが正規の菩薩僧の大戒であって、大乗としてインド以来の正統であると主張している。しかし、実際にはそれは事実に基づかない虚言であって、世界的にみても極めて異常な主張であった。最澄が唐で受けた際にもそのようなことは決して説かれておらず、また実行もされていない。最澄の主張を支えるまともな根拠はどこにも無いが、最澄はむしろ僧綱こそモノを知らず、一切経を読まず理解もしていないと激しく批判している。

  19. 一十二年いちじゅうにねん

    天台の年分度者が一人前になるため比叡山に籠山しなければならないと最澄がした期間。
    最澄によれば、これを十二年間としたのは『蘇悉地羯羅経』(密教経典)に基づいてのことという。最澄は、僧綱などから「十二年籠山させる根拠は何か」と問われ、そう答えている。僧綱が最澄の主張に対して一一その根拠を質しているのは、最澄が「国家の制度としての認定」を求めているためでもあった。仏教として何事かを行うのであれば、仏教の典拠が求められるのは当然のことであるが、国家の制度として定めるにもやはりその主張のすべてに根拠が要求される。
    最澄『顕戒論』「開示住山修學期十二年明據四十六 謹案。蘇悉地羯羅經中卷云。若作時念誦者。經十二年。縱有重罪。亦皆成就。假使法不具足。皆得成已上 經文明知。最下鈍者。經十二年。必得一驗。常轉常講。期二六歳。念誦護摩。限十二年。然則。佛法有靈驗。國家得安寧也」(T74, p.614a-b)
    最澄が発案した「十二年間、拘束された状態で天台もしくは密教を修学しなければ天台の僧徒として正式に認めない」という対策。十二年間、強制的に拘束。これも考えてみれば、かなり異常なことである。実際、当時もこれが「異常である」と見られたからこそ僧綱に批判され、またその仏教としての根拠が求められたのである。おそらく最澄自身、弱冠の頃から桓武帝に内供奉十禅師として召し抱えられるまで、およそ十二年間比叡山にあったことに事寄せたのであろう。しかし、それは「根拠」にはならない。事実、そこで最澄が『顕戒論』で挙げた密教経典の一節は、その根拠としては附会したものと言わざるを得ないが、しかしそれ以外に出しようもなかったのであろう。
    結局、十二年間他律的に籠山させて教育しなければ、また再び逃げ出す者が出てしまうのではないか、という最澄の強い不安と恐れがあったからのことであったろう。少なくとも最澄自身は自主的に比叡山に籠もっているが、彼がここで主張している方策は、僧の自主性・自立性など全く顧みられない、まったく非仏教的なものである。これを一体どうして「教育的」などと言えるであろうか。日本ではそのような自主性・自立性の排除を「教育」あるいは「しつけ」などと言うのであろうか。
    現代の日本仏教における諸宗派のほとんどの僧堂で行われる修行・加行などというものでは、およそ自主性・自立性そしてまた個性などまったく顧みられず、ひたすら僧を均一化・没個性化させるために暴力的ですらある「しごき」が繰り返される淵源は、最澄のこのような籠山行を強制することを良しとした精神にあると言えるかもしれない。

  20. 両業りょうごう

    止観業と遮那業。ここでの業とはいわば専門課程のこと。すなわち『摩訶止観』を始めとする天台の諸典籍(顕教)を専らに修学する課程と、『大日経』ならびに『金剛頂経』(後に『蘇悉地経』が加えられる)など密教の経論を専ら修学する課程。最澄による日本天台宗は、そのはじめから天台と密教とを併せ志向したものであった。ここで最澄は「国家鎮護のため天台宗の年分度者二名にはそれぞれ斯く斯く然々のことをさせます」と朝廷に訴えているのである。後代、鎌倉期になると、日本天台宗が密教至上主義を取り出したのは円珍以降であって「円珍・安然などは邪教徒である」と批判する者すなわち日蓮が出てくるが、それは誤認というものであって、そもそも最澄は密教と天台を同列に見なしており、実際そういった言葉を遺している。

  21. 安居あんご

    仏教の出家者(比丘)が一箇所に留まって修禅・修学に励む一年の内の雨季の三ヶ月間を言う言葉。これを[S]varsa/[P]vassaというが、その意は雨季。安居はその内容をとって意訳された語。
    古代インド歴でのその三ヶ月を現代の太陽暦にて言えば、おおよそ七月から十月で、まさしくインド亜大陸から東南アジアのモンスーン(雨季)の時期。本来的には全世界において同時に行われなければ様々な齟齬をきたしてしまい大きな問題となるのであるが、インドから程遠く、その暦も気候も知らない支那および日本では、旧暦の四月十五日から七月の十五日に安居が行われた。
    安居は仏教の出家者にとって甚だ重要な期間であり、仏教の出家者の席次は、この安居を具足戒を受けた後にどれほど重ねたかにのみよる。そしてその出家者としての年齢のこと、すなわち具足戒を受けてから何回の安居を過ごしたかを、法臈あるいは戒臈という。なお、梵網戒を受けただけでは比丘となれないため、安居に参加することは出来ない。また、万一参加したとしても、それで法臈が重ねられることもない。

  22. 法服施料ほうぶくせりょう

    法服とは袈裟衣のこと。当時、僧は治部省玄蕃寮に管轄され、国講師(講師・読師)に任じられた者は一種の官人であったため、毎年の安居の際には国からそれら僧侶に対して高級布(絹や綿など、実質的には金銭)および食料の給付が定められていた。たとえば時代が少々下るが、その一例として『延喜式』巻二十六 主税上に「凡諸国金光明寺安居者三宝布施絲卅斤。講読師法服各絁五疋。布施講師絁十疋。綿廿斤布廿端。《中略》其供養。講読師日米各六升四合。飯料二升。●粥四合。雑餅四升。大豆小豆各五合。油二合。醤酢未醤各一合。海藻滑海藻於期菜各三両。大凝菜芥子各一両。紫菜二合。塩一合ニ勺。」と定められている。官僧は国からかなり手厚い待遇を受けていたことが知られるであろう。
    最澄は、この国から支給される物品の内、法服料として支給される絁をのみ国庫に納め、国司はそれをもとに公共のために使うことを求めている。

  23. 農商のうしょうを用ひざれ

    仏教僧は、いかなる農耕・商売もしてはならない。巷間、例えば禅宗の一部に自給自足的生活を送る者らがあってこれを尊しとする見方がある。しかしながらそれは、実は仏教僧としては非法の習いであり、それは道教的ありかたであって、僧としては尊べたものでない。そのような支那における自給自足のありかたが生じたのは、増大しすぎた仏教勢力・寺院への寄進が規制される中のことであり、特に唐代の禅宗においてのことであった。たとえば百丈懐海の「一日なさざれば一日喰らわず」という言葉は、そのような社会情勢において、また道教的天然無為の思想の影響も受けてであろうけれども、自給自足生活を開始して独自の寺院規則・宗制を初めて謳った『百丈清規』の中で見られる。そのようなあり方はあくまで当時の支那における限定された情勢におけるものである。農耕や牧畜などして自給自足することが尊く、素晴らしいと思うのであれば、僧ではなくみずから在俗にて畜産家か農家などになって性を出し、あくまで在家信者として暮らしていけば良い。もっとも、ここでわざわざ最澄が農・商を禁止する文言を入れているのは、当時の日本でもそれを為している者らが少なからずあったためであろう。

  24. 圓宗えんしゅう

    日本天台宗。最澄は頻繁に「圓」(完全)という形容を自身の宗派に関する語頭に冠して用いているが、それは智顗による教相判釈「五時八教説」に基づく。智顗は、すべての仏教経典を分類して五つの段階(五時)で説かれたものとし、その内容を化儀四教と化法四教との八種類(八教)に分類した。そこで圓教とは、化法の四教のうち最高のもの、すなわち仏教において究極のもので、それこそが天台の教えであると主張した。しかし、それはあくまで智顗という個人が、一定の合理性をもったものではあっても、あくまで自身の理解のうちに建てた私的見解に過ぎない。これを金科玉条とするのは愚かしいことであったが、天台系の人はこれを真実絶対の見方であるとした。

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