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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』

訓読

湖東安養寺後学釋慧堅えけん

律師、いみなは慧猛、あざなは慈忍。族姓は秦氏。かわ讃良郡さららぐん秦邑はたむらの人にして、秦川勝はたのかわかつ大臣おとど二十八葉の孫なり。祖の名は武國、武略を以て名を著す。父の名は宗伯。心佛門に歸す。母は濱氏。後に染薙ぜんちして名を天室と曰ふ。師を娠むに方り卽ち羶葷せんくんを惡み、或は之を食すれども則ち吐く。

慶長十八年五月朔日に誕れる。幼より沈毅、端慤として屹然なること成人の如くして、兒戲に事へず。佛菩薩像を見る毎に、則ち合爪して膜拜もはいし、香花を以て之に奉る。方に六七歳、智常童を越す。九歳、古詩の中に一道に達せば諸道に契ふの句を見て、心竊かに之を疑ひ、暁夕以て思ふ。一日庭中を經行して、仰ぎ虛空の博大なるを觀て、乃ち人に問て曰く、空は何從り生ずるや。人は何從り來るやと。答ふる者有ること無し。師、私に謂く、此の理は佛法に非ざれば知り難しと。遂に脱白だつびゃくの志有り。十七歳、懇に出家を求むも、親鍾愛して許さず。二十二歳、喜び聖德太子しょうとくたいし慧慈えじ法師に示さるの語を讀み、又講肆に遊で、普門品ふもんぼん明眼論みょうげんろん等を聽く。常に出家の緣の就かざるを慨き、獨り觀音大士像の前に詣て禮拜課經し、至心に禱祈す。

寛永十五年、師二十六歳。親、其の世網の爲に覊げられざることを知り、乃ち出家を許す。師大いに喜び、輒ち眞空阿しんくうあ律師に依て祝髪す。時に如周專にょしゅうせん律師、東山雲龍院うんりゅういんに開法す。學士、之を仰ぐこと卿雲けいうん祥麟しょうりんの如し。師、之に依て聽稟し、學業日進す。既にして槇阜まきのお心王律院しんのうりついんに詣て、息慈そくじ數に墮す。

十八年春二月、懴悔法さんげほうを修し、以て好相こうそうを求むる。或る夜、聖鐘鳴ること二聲、道場忽ち變じて空と成り、明きこと晝の如し。尋ねるに白煙有て現る。地を去ること一丈許り。煙の中に寶塔現ず。高さ若干、良久しくして滅す。又一夕、空中に鐘聲を聞くこと初めの如し。忽ち小竹數十竿、道場に現ず。其の葉黄金色なり。俄に淸風東より來て、竹葉風に隨て靡く。師則ち身心淸涼にして、凡世の樂、能く比べる所に非ず。自餘の好相、茲に贅せず。三月七日、通受法つうじゅほうに依て自誓受具じせいじゅぐす。下壇の時に方て大地震動だいちしんどうす。一衆、之の爲に駭嘆す、蓋し其れ得戒の相なりと。

時に師、年已に二十九。爾れより一家の諸書を取て、日夜に之を研磨す。暑きこと金を爍し寒きこと膠を折ると雖も、其の恆度を易へず。是に於て持犯精詣す。尤も弘律利生の意有り。嘗て十願を發す。其の一に曰く。我、未來際を盡すとも菩薩行を修し、一切衆生を度盡せざれば正覺を成ぜずと。其の餘の九願は此に例して知るべし。又誓して曰く、我若し所發の十願に於て退轉を生じ、又所修の萬行、己が福報と爲せば、當に阿鼻獄あびごくに入るべしと。

正保二年、十八契印じゅうはちげいいんを稟く。次に兩部大法りょうぶたいほうを修す。入觀中に於て屢瑞異を感ず。或は壇外に紅白色花芺蕖二朶を產して、長さ三尺許りなるべし。或は前供養ぜんくよう閼伽水あかすい、自ら搖動して器より溢出す。或は月輪、室内に現ず。或は火焔、指端に發す。或は寶蓋、空中に現ず。又、不動護摩法ふどうごまほうを修して、字輪觀じりんかんに入る時、忽ち不動明王、身を壇上に現じて、火爐かろを枕として臥す。又、輪壇有て現ず。壇中に火臺有り。光明煥爛にして、其の壇旋回すること數轉、久しくして後止む。師、感喜して已まず。指の血を爐中に滴して、以て本尊に供す。又、嘗て火觀かかんに入るに、忽ち其の身を忘れて猛火の中に在るが如し。胸中、洞然として明白、自笑自喜す。乃ち口に應じて偈を説く。至道を多年、外に向て求む。金剛寶刀、焔の中に之を得の句有り。

現代語訳

湖東安養寺後学釋慧堅 撰

律師の諱は慧猛えみょう、字は慈忍じにん、族姓は秦氏、河内の讃良郡秦村の人で、秦川勝大臣二十八葉の子孫である。祖の名は武國、武略によって名を残した人である。父の名は宗伯、仏門に深く帰依していた。母は濱氏の出であり、後に染薙して天室と名乗った。律師を妊娠すると羶葷を嫌うようになり、あるいはそれらを食したならばたちまち吐き出した。

慶長十八年〈1613〉五月朔日に誕れた。幼い頃から落ち着いて物怖じせず、正直で孤高に振る舞う様は成人のようであって、幼稚な遊びをすることがなかった。仏菩薩像を見る毎に、合掌して跪いて礼拝し、香花を捧げた。六、七歳の頃、その智慧は並の子供に抜きん出でいた。九歳の時、古詩の中に「一道に達したならば、(それによって得た知見は)諸道にも通じる」という一句があるのを見て、心ひそかにその真偽を疑い、朝に晩に考えていた。ある日、庭をゆっくりと歩きながら上を仰ぎ、空の広大なることを見て、人に「空は何から生じたのですか?人は何処から来るのでしょう?」と問いかけた。けれども答えられる者など無かった。師は、心中に「この理は仏法でなければ知ることは出来ない」と考え、ついに脱白〈脱俗〉の志を持つようになった。十七歳の時、懇ろに出家の許しを請うたけれども、親は(師を)寵愛して許さなかった。二十二歳の時、喜んで聖徳太子が慧慈法師に示された言葉を読み、また講座に出かけて『法華経』普門品や『説法明眼論』等を聴いた。常に出家の縁が備わらないことを嘆き、独り観音菩薩像の前に詣でて礼拝・誦経し、至心に祈誓した。

寛永十五年〈1638〉、師が二十六歳の時、親は(師の出家の志堅くして)世網によって繋ぎ止めることが出来ないことを悟り、ついに出家を許した。師は大いに喜んで、すぐ眞空阿律師に従って剃髪した。当時、正専如周律師が東山雲龍院において法筵を開いており、学士らがその学徳を仰ぐこと卿雲祥麟のようであった。そこで師もまたこれに参じて聴講・稟承し、学業に日々精進した。それを終えた後、槇尾山平等心王律院に詣って、その沙弥の一員として交衆した。

十八年〈1641〉春二月、(三聚浄戒を受けるために)懴悔法を修めて好相を求めた。ある夜、聖鐘が二聲鳴るのを聞くと、道場が忽ち空に変わり、その明るいことあたかも昼のようであった。不思議に思っていると白煙が立ち上り、その高さは地面から一丈許りとなった。すると煙の中にそれほど高さのない宝塔が現れ、しばらくして消え去った。またある日の夕方、空中に初めと同じように鐘の聲を聞くや否や、たちまち小竹が数十竿、道場に現れた。その葉は黄金色である。俄に涼やかな風が東より吹き来て、竹葉が風に従ってなびいた。師は身心ともに清涼となって、俗世の楽など比べるべくも無いほどであった。その他の好相については、これ以上は蛇足となるであろう。三月七日、通受法に依って自誓受具した。戒壇から降りるまさにその時、まさに大地が震動した。槇尾一山の衆徒は皆、「得戒の瑞相に違いない」とこれを駭嘆した。

時に師の年は已に二十九歳。以降、一家の諸書〈諸律蔵及び律三大部など律宗の重要典籍〉を取て、日夜に研鑽した。金を溶かすほどに暑い時も、膠を折るほど寒い日も、その日課を変えることは無かった。果たして(律の)持犯について精詣〈深く達すること〉するまでとなった。そして何よりまして弘律利生の志があった。かつて十願を発起したが、その第一には「私は、未來際を盡くすとも菩薩行を修し、一切衆生を度し盡くさなければ正覚を成ぜす」とある。その他の九願はこれを例として知られるであろう。他にもまた、「もし私が発した十願を退転し、また自ら修めた六度万行を、我が為の福報としたならば、阿鼻地獄に落ちるだろう」とも誓われていた。

正保二年〈1645〉、十八契印を受法した。次に両部大法を修めた。これを修して観想する中、しばしば瑞異があった。ある時は密壇の外に紅白色の花芺蕖〈蓮華〉二朶が生えてき、その長さ三尺ほどであった。ある時には前供養の閼伽水が、自然に搖動して器から溢れ出した。ある時は月輪が道場内に現われ、あるいは火焔が指端から発せられ、あるいは宝蓋が空中に現れた。また不動護摩法を修する中で字輪観を行じる段となると、突如として不動明王がその身を壇上に現し、火炉を枕として臥した。また、輪壇が現れ、その壇中に火台があった。その光明は明るく鮮やかに輝き、壇を旋回すること数度して、しばらくすると消え去った。師は大いに喜びを感じ、指先を切ってその血を護摩炉の中に滴し、本尊への供養とした。また、かつて火観に入定する中では、たちまちその身を忘れ、あたかも猛火の中に在るかのようとなった。その時、胸中は洞然として明白となり、自ずから笑みがこぼれ、喜びに満ちた。そこで口にまかせて偈を説いた。「至道を多年、外に向て求む。金剛宝刀、焔の中にこれを得」という句である。