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Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』

訓読

明年春、槇阜に至る。師、巖松を結界けっかいせんと欲して、已に年有り。緣礙有るを以て、願ひの如くすること能はず。因て又、衆を集めて告るに其の事を以てす。時に衆中しゅちゅうほ之にしょする者有り。師、卽ち巖松に還て、顧して徒に謂て曰く、我、初め茲の寺を興して、未だ始めより已の爲とせず。片瓦一木、悉く之れ四方僧しほうそうに屬すものなり。他時の結界、正法を弘通せんと欲するものなり。而るに今、志す所遂げること能はず。我奚ぞ爲にして復た之に居するや。遂に諸徒を率ひて、徑を野中に届けんとす。出山の時、白衣の弟子、門を塡ぎ道を遮す。眷眷として捨すること能はず、以て殞涕の者之れ有るに至る。師、慰喩して曰く、汝等、誠を竭して三寶に歸すれば、則ち常に我に逢ふが如くして、異り有ること無しと。遂に行く。時に野中の艸堂、數椽僅にして風雨を蔽ふ。而も朝粥・午齋、或は繼ぐこと能はず。師、安然として之に處すこと、萬鐘の祿を享ける者の若し。衣を殺ぎ食を黜けて修建の計と爲す。未だ幾ならずして瑠璃光殿及び棲僧の舎成る。師、常に毘尼を以て演導して、傾嚮の者日に多く、巖松の時を踰て有り。

十三年秋八月十有二日、請を受けて洛西らくせい太秦桂宮院うずまさけいきゅういんを結界す。十五日、四分衆法布薩しぶんしゅほうふさつを行ず。四來の隨喜者、歡聲道に載せ、容れる所無きに至る。師、爲に三歸依戒を授く。蓋し明忍みょうにん律師の後、結界秉法ひょうぼう行ぜざること久し。故に四方の見聞は咸、希有の心を生ず。既にして野中に還る。行道の假、衆の爲に講訓すること、未だ嘗て倦まず。

延寶三年正月、微かに疾を示す。三月初に至て緇白しびゃく問候もんこうの者相ひ繼ぐ。師、病革まると雖も、應へて接すること常の如し。諸子、晝夜に陪侍す。師、命じて彌陀みだ像を設けて、入觀にゅうかん念佛ねんぶつすることまず。病の間、則ち諄諄と門人に囑するも、皆宗門の事にして、未だ始めて其の私に及ばず。十五日、布薩を作すに、予に命じて代りに戒本かいほんを誦さしめ、且つ曰く、今生の布薩、只だ今日にして已む。翼日、諸門人を召し謂て曰く、吾が沒後、汝等當に恪んで吾が平日の所訓を守り、律法永く振るわしむべしと。乃ち手ずから遺誡數則を書く。又、上座慈門光じもんこう公に命じて席を繼がしめ、幷して密璽を以て之に付す。十九日、書を爲して檀越に遺り、囑して外護せしむ。時至て佛像に向ひ、頭北面西して怡然として化す。實延寶乙卯三月二十一日戌時なり。報齡享くこと六十有二。法臘ほうろう三十。又、三黑白さんこくびゃくの衆、皆哀慟して勝へること能わず。二十三日、諸徒、全身を奉て寺の西北の隅に葬る。塔は常寂と曰ふ。分物法ぶんもつほうを行ずるに及び、衆の皆、漣然泣下して、仰視するに忍びず。七七日しちしちにちの内、廣く佛事ぶつじを作して、以て慈蔭に報ふ。師、戒範堅潔にして、行門高邁。生平、宗敎を以て己が任と爲す。凡そ涖止する所、大小の部文を講演し以て其の徒を繩す。絲緜絹帛靴履裘毳等、ものを害するは皆、いつくしみいたむを以て、身を終して受用せず。又、門人を誡めて堅く之を禁約す。嗣法の門人、慈門光等一十餘人。鬀度の弟子、及び三歸五八戒を受る者は以て數計すべからず。著述に三聚戒釋要・六物圖略釋・教誡律儀鈔等、若干巻有り。師示滅の後、篤信の士、其の遺德を欽んで、野中に就て鐘樓・經藏及び門廡等を造し、鬱して一方精藍と爲す。一衆、りし日、將に結界けっかいせんとするも未だ就かざるを以て、乃ち相與に勉めて先志を卒ふ。是に於て門風、益ヽ振るひ、而して子孫、亦繁興す。

贊に曰く、師の氣、正にして和。色、莊にして恕なり。護鵝ごがの行を守り、結艸けっそうの心を持す。生平、斯の道を毘贊すること、一息も敢へて忘ること無し。老六旬を垂ると雖も、律藏諸文、未だ嘗て手ずから釋せず、其の機に應じて説法するなり。權實ごんじつ融通ゆうづうして一隅いちぐうとどこおらず、衆を牧すること幾三十年。道、古人に愧じずに足る。嗚呼、師の德の大なること、豈に區區なる小子の褒贊せる所ならんや。左右さうはべること最もひさし。其の訓誨の恩、何ぞ天蓋地擎に異ならんや。昔人に言ふ有り、前輩の言行、傳記に見へざれば、後世の學者、矜式する所無し。蓋し當に時の門人弟子の罪なるべし。既に是の編有るも、又遺すに忍ばず。之を言ふに潸然とす。

現代語訳

明年〈1670春、槇尾山に出向いた。師は巖松院を結界することを望んでから、すでに幾年月を経ていた。しかし、障礙となる事情があったことから、その願いを叶えられずにいたのである。そこでまた、(槇尾山の)衆僧を集めて、その希望を告げた。しかしその時、衆僧の中には、なおそれを阻もうとする者があった。そこで師は巖松院に帰り、ある思いを以て衆徒に言われた。「私はこの寺を復興したその最初から、何一つ己の利益の為としたことはない。(この寺にある)瓦一枚、板一枚といえどもすべて四方僧伽に属するものである。将来、ここを結界して僧坊とすることも、正法を弘通しようと思ってのことである。しかるに今、その志を遂げることは出来なくなった。私はどうしてその志の為にこれ以上この寺に居続ける必要などあろうか」と。ついに師は諸弟子を率いて、野中寺に移ることとなった。寺を出る時、白衣〈在家〉の弟子達は門を塞ぎ、道を遮った。そして、ひたすら師等を押し留めてきたため、これを捨て置くわけにもいかず、悲しみのあまり慟哭する者すら出てきた。師はそんな彼らを「あなた達が、誠を尽くして三宝に帰依したならば、それが則ち常に私と逢っているようなものであって、何も変わりはしないのです」と慰められ、ついに出発したのである。当時、野中寺の草堂は垂木の数も僅かな、極めて粗末なもので、風雨をようやく防げる程度のものであった。しかも朝粥や午斎など、ともすると用立てることすら出来なかった。しかし師は安然として、そんな貧しさの中で暮らす様は、万鐘の祿を受けている者かのようであった。衣を粗末にして食を節し、寺を整備するための計画を進めていった。そしてそれほど時日を経ぬうちに瑠璃光殿および僧寮が完成した。師が常に毘尼〈律〉を以て衆僧・信徒らを教導しているうちに、賛同者・同調者らが日々次第に多くなり、巖松院に居していた時以上のものとなっていった。

十三年〈1673〉秋八月十有二日、要請を受けて洛西太秦の桂宮院を結界した。十五日には四分衆法布薩を行う。四方から集まった随喜者は、その評判が弘く伝わっていたため、収容する場所すら無いほど多いものであった。師はそこで、彼らの為に三帰依戒を授けた。思うに、明忍律師の後、結界の秉法〈羯磨〉が行われなくなって久しかった。その故に四方でこれが行われることを見聞きした者等は皆、希有の心を生じたのであろう。師はこれを終えて野中寺に還った。(師は)行道の暇を見つけては衆僧の為に講義・訓誡し、これを休止されることなどなかった。

延宝三年〈1675〉正月、師に微かながら病の徴候が現れた。三月初となって緇白〈僧俗〉の問候〈見舞い〉の者が相次いで来た。師は病が日増しに重くなっていたけれども、訪問者に応対して接する様子は常と変わりなかった。諸々の弟子らは昼夜に側仕えた。師は(居室に)阿弥陀像を祀るよう命じられ、たゆまず入観念仏されていた。病を得てから諄諄と門人に嘱することは、全て宗門に関する事であって、一つとして私事については言われなかった。十五日、布薩を行ったけれども、私〈戒山〉に代りに戒本を誦すように命じられ、また「(私が)今生で行う布薩は今日が最後となる」と言われた。翌日、諸々の門人をお召しになって、「私の没後、あなた達はまさに身を慎み、私が日頃からしてきた訓誡を守って、律法が末永く行わるように努めよ」と述べられた。そして手ずから遺誡数則を書かれた。また、上座の慈門信光公に命じてその席を継がされ、并せて(高喜長老から受けた西大寺流の)密璽を付された。十九日、手紙を書かれて檀越に送り、(野中寺および律僧らの)外護を託された。ついにその時となり、師は阿弥陀像に向かわれ、頭北面西して怡然〈喜び楽しむ様〉として遷化された。実に延宝乙卯〈1676〉三月二十一日戌時〈19-21時〉のことである。その報齢、享けること六十有二年、法臘は三十。また三黑白の衆は皆、哀慟して堪えることが出来なかった。二十三日、諸弟子らは全身を奉って寺の西北の隅に葬った。その塔には常寂と記す。 分物法〈律に基づいた亡比丘の遺品分配〉を行う段となるも、衆徒らは皆、涙を流して泣き、(思い出の遺品を)仰視するに忍びなかった。七七日〈四十九日〉の間、広く仏事を作して慈蔭〈慈しみに満ちた教え・恩〉に報わんとした。

師は戒範堅潔にして行門高邁。平生、宗教〈仏教〉を以て己が任とされていた。およそ共同される際には、大乗小乗の部文を講演し、その徒弟らに訓戒された。絲・緜・絹・帛・靴履・裘・毳など生き物を害して得る物は、その慈しみ憐れみの心によって、終身に受用されることはなかった。また門人にも誡めて、堅くその受用を禁じられていた。嗣法の門人は慈門信光など十人余り。得度剃髪の弟子、及び三帰五戒八戒を受けた者は数えることが出来ない。著述に『三聚戒釈要』・『六物図略釈』・『教誡律儀鈔』等、若干巻がある。師が示滅された後、篤信の居士がその遺徳を尊び、野中寺に鐘樓・経蔵及び門廡など造り、盛んに整備されて一精舎としてその威容を構えるに至った。衆徒らは、師が在りし日にまさに野中寺を結界しようとされていたのが未だ果たされぬままであったことから、そこで弟子らは力を合わせて努め、その先志をついに達したのだった。これによって野中寺一門の門風はますます世に振るうこととなり、その子孫もまた繁興しているのである。

賛して曰く、師の気性は正しくして柔和であり、その容貌は厳かであり慈しみ深く、護鵝の行を守り、結草の心を持っていた〈どれほど小さな命も守ろうとし、戒律を厳しく守っていた〉。その平生は、斯の道〈仏教〉(が正しく世に行われること)を讃えて力を尽くすことを、一息として忘れることなど無かった。老いて六十を過ぎても、律蔵の諸文を決して自己流に解釈せず、相手の能力に応じて説法された。権教・実教に融通して一隅に滞ること無く、衆僧を教導すること幾三十年。その道業は古人に対しても恥じぬものであった。嗚呼、師の徳の大いなることを、一体どうして取るに足らぬ小子〈戒山〉が讃歎出来るものであろうか。私は師の左右に侍ることが最も長かった者である。その訓誨の恩たるや、天蓋地擎に異なるものでない。「昔人の言に、『前輩の言行、伝記に見えざれば、後世の学者、矜式〈敬って手本とすること〉する所無し。思うにそれは当時の門人弟子の罪であろう』という」。すでにこの編〈慈忍律師伝〉を成したけれども、(師の大なる徳と行業とを伝えるのには、その内容が全く不十分で拙いものであるから)また後代に遺すに忍びないものである。それを思うと涙が溢れてくる。

現代語訳 小苾蒭覺應