VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』

原文

明年春至槇阜。師欲結界巖松。已有年矣。以有緣礙不能如願。因又集衆告以其事。時衆中猶有沮之者。師卽還巖松。顧謂徒曰。我初興茲寺。未始爲已。片瓦一木。悉屬之四方僧者。欲他時結界弘通正法也。而今不能遂所志。我奚爲而復居之哉。遂率諸徒。徑届野中。出山之時。白衣弟子塡門遮道。眷眷不能捨。以至于殞涕者有之。師慰喩曰。汝等竭誠歸三寶。則如常逢我。無有異也。遂行。時野中艸堂數椽僅蔽風雨。而朝粥午齋或不能繼。師安然處之。若享萬鐘之祿者。殺衣黜食爲修建之計。未幾瑠璃光殿及棲僧之舎成。師常以毘尼演導。而傾嚮者日多。有踰巖松時。十三年秋八月十有二日。受請結界洛西太秦桂宮院。十五日行四分衆法布薩。四來隨喜者。歡聲載道。至無所容。師爲授三歸依戒。蓋明忍律師之後久。結界秉法不行者。故四方見聞咸生希有之心。既而還野中。行道之假爲衆講訓。未嘗倦也。

延寶三年正月示微疾。至三月初緇白問候者相繼。師雖病革。而應接如常。諸子晝夜陪侍。師命設彌陀像。入觀念佛不輟。病間則諄諄囑門人。皆宗門事。未始及其私。十五日作布薩。命予代誦戒本。且曰。今生布薩。只今日而已。翼日召諸門人謂曰。吾沒後汝等當恪守吾平日所訓。使律法永振也。乃手書遺誡數則。又命上座慈門光公繼席。幷以密璽付之。十九日爲書遺檀越囑令外護。時至向佛像。頭北面西怡然而化。實延寶乙卯三月二十一日戌時也。享報齡六十有二。法臘三十。又三黑白之衆皆哀慟不能勝。二十三日諸徒奉全身葬寺之西北隅。塔曰常寂。及行分物法。衆皆漣然泣下。不忍仰視。七七日内。廣作佛事。以報慈蔭。師戒範堅潔。行門高邁。生平以宗敎爲己任。凡所涖止。講演大小部文以繩其徒。以絲緜絹帛靴履裘毳等皆害物傷慈。終身不受用。又誡門人堅禁約之。嗣法門人。慈門光等一十餘人。鬀度弟子及受三歸五八戒者不可以數計。著述有三聚戒釋要。六物圖略釋。教誡律儀鈔等若干巻。師示滅之後。篤信之士欽其遺德。就野中造鐘樓經藏及門廡等。鬱爲一方精藍。一衆以師在日將結界未就。乃相與勉卒先志。於是門風益振。而子孫亦繁興矣。

贊曰。師氣正而和。色莊而恕。守護鵝之行。持結艸之心。生平毘贊斯道。無一息敢忘。雖垂老六旬。律藏諸文未嘗釋手。其應機説法也。融通權實不滯一隅。牧衆幾三十年。道足不愧古人。嗚呼師之德大矣。豈區區小子所褒贊哉。予侍左右最久。思其訓誨之恩。何異乎天蓋地擎。昔人有言。前輩言行不見傳記。後世學者無所矜式。蓋當時門人弟子之罪。既有是編。又不忍遺。言之潸然。

訓読

明年春、槇阜に至る。師、巖松を結界けっかいせんと欲して、已に年有り。緣礙有るを以て、願ひの如くすること能はず。因て又、衆を集めて告るに其の事を以てす。時に衆中しゅちゅうほ之にしょする者有り。師、卽ち巖松に還て、顧して徒に謂て曰く、我、初め茲の寺を興して、未だ始めより已の爲とせず。片瓦一木、悉く之れ四方僧しほうそうに屬すものなり。他時の結界、正法を弘通せんと欲するものなり。而るに今、志す所遂げること能はず。我奚ぞ爲にして復た之に居するや。遂に諸徒を率ひて、徑を野中に届けんとす。出山の時、白衣の弟子、門を塡ぎ道を遮す。眷眷として捨すること能はず、以て殞涕の者之れ有るに至る。師、慰喩して曰く、汝等、誠を竭して三寶に歸すれば、則ち常に我に逢ふが如くして、異り有ること無しと。遂に行く。時に野中の艸堂、數椽僅にして風雨を蔽ふ。而も朝粥・午齋、或は繼ぐこと能はず。師、安然として之に處すこと、萬鐘の祿を享ける者の若し。衣を殺ぎ食を黜けて修建の計と爲す。未だ幾ならずして瑠璃光殿及び棲僧の舎成る。師、常に毘尼を以て演導して、傾嚮の者日に多く、巖松の時を踰て有り。十三年秋八月十有二日、請を受けて洛西らくせい太秦桂宮院うずまさけいきゅういんを結界す。十五日、四分衆法布薩しぶんしゅほうふさつを行ず。四來の隨喜者、歡聲道に載せ、容れる所無きに至る。師、爲に三歸依戒を授く。蓋し明忍みょうにん律師の後、結界秉法ひょうぼう行ぜざること久し。故に四方の見聞は咸、希有の心を生ず。既にして野中に還る。行道の假、衆の爲に講訓すること、未だ嘗て倦まず。

延寶三年正月、微かに疾を示す。三月初に至て緇白しびゃく問候もんこうの者相ひ繼ぐ。師、病革まると雖も、應へて接すること常の如し。諸子、晝夜に陪侍す。師、命じて彌陀みだ像を設けて、入觀にゅうかん念佛ねんぶつすることまず。病の間、則ち諄諄と門人に囑するも、皆宗門の事にして、未だ始めて其の私に及ばず。十五日、布薩を作すに、予に命じて代りに戒本かいほんを誦さしめ、且つ曰く、今生の布薩、只だ今日にして已む。翼日、諸門人を召し謂て曰く、吾が沒後、汝等當に恪んで吾が平日の所訓を守り、律法永く振るわしむべしと。乃ち手ずから遺誡數則を書く。又、上座慈門光じもんこうに命じて席を繼がしめ、幷して密璽を以て之に付す。十九日、書を爲して檀越に遺り、囑して外護せしむ。時至て佛像に向ひ、頭北面西して怡然として化す。實延寶乙卯三月二十一日戌時なり。報齡享くこと六十有二。法臘ほうろう三十。又、三黑白さんこくびゃくの衆、皆哀慟して勝へること能わず。二十三日、諸徒、全身を奉て寺の西北の隅に葬る。塔は常寂と曰ふ。分物法ぶんもつほうを行ずるに及び、衆の皆、漣然泣下して、仰視するに忍びず。七七日しちしちにちの内、廣く佛事ぶつじを作して、以て慈蔭に報ふ。師、戒範堅潔にして、行門高邁。生平、宗敎を以て己が任と爲す。凡そ涖止する所、大小の部文を講演し以て其の徒を繩す。絲緜絹帛靴履裘毳等、ものを害するは皆、いつくしみいたむを以て、身を終して受用せず。又、門人を誡めて堅く之を禁約す。嗣法の門人、慈門光等一十餘人。鬀度の弟子、及び三歸五八戒を受る者は以て數計すべからず。著述に三聚戒釋要・六物圖略釋・教誡律儀鈔等、若干巻有り。師示滅の後、篤信の士、其の遺德を欽んで、野中に就て鐘樓・經藏及び門廡等を造し、鬱して一方精藍と爲す。一衆、りし日、將に結界けっかいせんとするも未だ就かざるを以て、乃ち相與に勉めて先志を卒ふ。是に於て門風、益ヽ振るひ、而して子孫、亦繁興す。

贊に曰く、師の氣、正にして和。色、莊にして恕なり。護鵝ごがの行を守り、結艸けっそうの心を持す。生平、斯の道を毘贊すること、一息も敢へて忘ること無し。老六旬を垂ると雖も、律藏諸文、未だ嘗て手ずから釋せず、其の機に應じて説法するなり。權實ごんじつ融通ゆうづうして一隅いちぐうとどこおらず、衆を牧すること幾三十年。道、古人に愧じずに足る。嗚呼、師の德の大なること、豈に區區なる小子の褒贊せる所ならんや。左右さうはべること最もひさ。其の訓誨の恩、何ぞ天蓋地擎に異ならんや。昔人に言ふ有り、前輩の言行、傳記に見へざれば、後世の學者、矜式する所無し。蓋し當に時の門人弟子の罪なるべし。既に是の編有るも、又遺すに忍ばず。之を言ふに潸然とす。

脚註

  1. 結界けっかい

    比丘が律の規定に従って生活するには、諸々の界すなわち一定の範囲を設定しなければならない。その範囲を決定することを結界という。その決定は、その所の比丘全ての者が集まっていることを確認した上で、その提議をして議決をしなければならない。その提議を白(びゃく)といい、それについて反対意見のないことの確認(議決)を羯磨(こんま)という。もし、この白に対して異議ある者が一人でもあった場合、その白は否決される。僧伽の運営は多数決ではなく、全会一致でなされる。
    界には自然界と作法界に大別され、それぞれ様々に細別されるけれども、ここにいう結界とは特に摂僧界・摂衣界・摂食界の作法界全てを結界することであろう。慈忍は巌松院をそのように結界して僧坊とすることを望んでいた。そのように結界を全うすることは、いわば一定の自治権を得ることを意味する。様々な律に規定される諸行事を、その人数や年数など諸条件さえ揃ってさえいれば全て自前で行うことが出来るようになるためである。

  2. 衆中しゅちゅうほ之にしょする者有り

    沮すとは、はばむ・さまたげるの意。槇尾山の衆僧の中に、それが具体的に誰か、何人によるものであるか不明であるが、慈忍が巌松院を結界することに頑なに反対する者があったことが知られる。何故か。慈忍が巌松院を結界して僧坊とするのは、これを私物化して槇尾山の支配から脱せんとしているのであろうと危惧したのであろう。
    そもそも結界とは、元来そのような本末関係を決定するものではない。しかし当時、律院・律僧であろうとも中世以来の寺院の在り方、本末関係をそのまま引きずっていたことから、そのような発想が生まれたのであったのかもしれない。無論、慈忍からすれば、そのような発想は邪推に過ぎないものであったろう。本文に伝えられるその言葉には律師の大なる悔しさがあらわれている。
    これは単なる一私見であるけれども、明忍など最初に戒律復興を成し遂げた五人は同時期、矢継ぎ早に亡くなっており、そこに残された門弟らには以降の指針・体制についてなど充分な教育がなされていなかったのかもしれない。よって、その最初期の成員とは異なり、いたずらに保守的・閉鎖的となってしまっていた可能性がある。これは別問題であろうけれども、その一応の根拠として、対馬で邂逅した明忍の勧めによって槇尾山に赴き、慧雲のもとで沙弥戒を受け、慶長十六年〈1611〉三月に自誓受具した賢俊良永のことがある。堅俊は、定めであった五夏を満たすこと無くただ一夏を過ごしたのみで、高野山に身を移している。槇尾山の衆徒らは、むしろこの賢俊の退衆をきっかけに閉鎖的となってその門人に対する縛りを強めていったのであろう。
    これも推測に過ぎないが、槇尾山は後に江戸の三僧坊の一つに挙げられる中でその最初を築いた最も重要なところであるのに違いはないが、慈忍が出た以降は特に振るわず、他の野中寺や神鳳寺に比すれば大した者が排出されることがなかったのは、槇尾が賢俊の退衆をきっかけに過度に保守的・閉鎖的となったことが原因であったかも知れない。

  3. 四方僧しほうそう

    四方僧伽。僧伽全体、世界中の仏教僧全体を指す語。仏教僧とは比丘のことであって、その人がどの宗派に属していようとも比丘であれば四方僧伽の一員であり、四方僧坊では受け入れられることが本義であって、理想とされた。なお、唐招提寺の招提とは四方僧伽を意味する胡語の音写の略である。四方僧伽に対し、一地方など特定の界内に限定された四人以上の比丘の集いを現前僧伽という。

  4. 洛西らくせい太秦桂宮院うずまさけいきゅういん

    太秦寺境内にある聖徳太子創建と伝説される小院。

  5. 四分衆法布薩しぶんしゅほうふさつ

    『四分律』に基づいた布薩。布薩とは、毎月新月および満月の二回必ず行じなければならない、僧伽においても最も重要な行事。ここで十五日とあるが、それは満月の日であったことを意味する。
    今一般に、布薩とは「僧侶が懺悔・反省する儀式」などと説明される。しかし、これは全くの誤りである。なんとなれば、布薩に参加する者の条件として、なんらか懺悔すべき罪があることを自身に認められる者は事前に懺悔して出罪しておかなければならず、もし懺悔不可能あるいは出罪に時間を要する者であれば、布薩に参加することが出来ないためである。正しく布薩とは、現前僧伽の成員全てが参加し、戒本を一人の上座比丘が読誦するのを参加者が静聴することに拠って、その僧伽が清浄であることを「確認するための行事」。そのようなことから布薩をまた説戒ともいう。すなわち、比丘らが律に基づいて清浄であることを保ち、僧伽の自浄作用を担う重要な儀式である。繰り返すけれども、布薩は「懺悔反省の儀式」ではない。なお、ここでいう清浄とは「律の規定について違反の無いこと」を意味する。また、これはあくまで僧伽の儀式であるから、僧伽の成員となっていない沙弥・式叉摩那・沙弥尼は布薩に参加することは一切出来ない。ただし、梵網布薩はこの限りではない。
    万一、布薩で戒本を静聴している最中、比丘が自身に該当する罪のあることを気づいたならば、布薩が終了してからその罪に応じた懺悔を行って出罪する。布薩が進行しているならば、それを妨害してはならないのである。ちなみに、律における罪であるとか違反であるとかを宗教的に理解しようとするのは大なる誤解となることに注意。律はあくまで僧伽における法律である。

  6. 明忍みょうにん律師

    江戸期の直前、慶長年間に戒律復興を果たした五人の中心人物であり、後代はその象徴とされた人。

  7. 結界秉法ひょうぼう行ぜざること久し

    秉法とは、律に則って羯磨を行じること。ここでは結界するための羯磨を行うこと(結界については上述の通り)。
    この記述に拠り、明忍らが平等心王院を結界して以降、その門流の誰一人によって何処にも結界がされていなかったことが知られる。明忍らが(宗派意識など持ち出さずして)律法の興隆を志して実際に果たされ、その門に入る者が次々現れて、慈忍のように他寺に派遣される者があった状況を思えば、これは甚だ奇妙なことである。なんとなれば、ある一定以上の規模を持つ寺院であれば、これを結界して正しく僧坊とすることで、そこの律僧らはより律に厳密に従って生活することが可能となるためである。
    ここで注目したいのは、この時、桂宮院でどの種の結界がなされたかであり、誰の要請によってなされたかである。現在残っている桂宮院の形態、そしてここで布薩が行われたとする記述からすると、おそらくはこれを戒壇として結界したのであろう。しかし、この後に桂宮院がどのように運営されたかの文書に接したことがないため、詳しくは不明。

  8. 緇白しびゃく

    僧俗。それぞれの着衣の色をもってその呼称とした語。緇は鈍色(にぶいろ・ねずみ色)で出家者を、白は白色で在家者を表す。緇素あるいは道俗に同じ。

  9. 問候もんこう

    見舞うこと。

  10. 彌陀みだ像を設けて、入觀にゅうかん念佛ねんぶつすることまず

    近世、律僧が日々持律・修善に励みつつ、同時に阿弥陀の浄土信仰を持つことがしばしば行われた。それは支那では特に宋代の元照から見られ、日本には榮西や俊芿など渡宋した僧によってその思想や傾向がもたらされた。また、そのような支那との交渉とは別に、平安末期に戒律復興を志して活動した中川実範がその晩年に浄土教に傾倒しており、ために浄土宗において高祖の一人に挙げられてもいる。それは平安後期に強まっていた末法思想による影響が強くあってのことであったろう。
    ここで慈忍がその最期に彌陀像の前で観想念仏したとされるのは、まず宋の元照の故事に倣い、また明忍の最期に同じくしようという意志が働いてのことであったろう。

  11. 戒本かいほん

    [S]prātimokṣa/[P]pāṭimokkhaの漢訳。その音写が波羅提木叉(はらだいもくしゃ)。比丘として為すべきでないこと、あるいは為すべきことの集成である律蔵の枢要を抽出してまとめたものであり、それが「戒(律)の根本」であることから意訳して戒本といわれる。しばしば安直に理解される「戒が書かれた本であるから戒本」などという意味ではない。
    『仏遺教経』に「汝等比丘、我が滅後に於いて、まさに波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。闇に明に遭い、貧人の宝を得るが如し。当に知るべし、此れは則ち是れ汝等が大師なり」と説かれる一節が非常に著名。 原語prātimokṣaから見たならば、prāti (=prati)は「それぞれの」、mokṣaは「解脱、開放」の意であることから、別解脱・処処解脱・随順解脱と漢訳される。各自が受けた戒あるいは律の一々に従うことによって身および口によって為される悪から次第に、個別に離れることができることから、別解脱と訳された。

  12. 慈門光じもんこう

    慈門信光。京師の井口氏出身、寛永元年〈1624〉生(?)。初め洛西長遠寺任可禅師について出家。後に槇尾山平等心王院に交衆して、寛文七年〈1667〉二月廿六日自誓受具し、慈忍を依止師とする。慈忍に従って巌松院から野中寺に移り、その第二世を継いだ人。後に河州黒土村福王寺を中興。宝永四年〈1707〉七月十日示寂、世寿八十四、法臘四十。 慈門そして戒山や洪善など、慈忍律師の高弟であった者の多くは禅宗から転向した人であった。

  13. 法臘ほうろう

    人が出家し具足戒を受けてからの年齢。すなわち比丘となってからの年数で、出家者の席次を決定する。沙弥として出家しただけで具足戒を受けていないのであれば法臘が数えられることはない。安居を何回過ごしたことかの回数を表すものでもあることから、これを夏臘(夏臈)ともいう。

  14. 三黑白さんこくびゃくの衆

    黑白は緇白に同じで僧俗の意。僧俗をまとめて言う場合、四衆(比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷)あるいは七衆(四衆と沙弥・正学女・沙弥尼)と言うが、「三黑白の衆」は解しかねる。あるいは野中寺が女人禁制であったため、比丘・沙弥・優婆塞の男性の出家在家を言った語か。

  15. 分物法ぶんもつほう

    亡比丘の遺物分配法。その方法と次第、誰が何を受けるべきかは律蔵に規定がある。

  16. 七七日しちしちにちの内、廣く佛事ぶつじを作して...

    師僧や父母などが逝去したならば四十九日の間、講経・説戒など仏事を設けて回向し、その徳に報いるべきことが『梵網経』において「戒」として説かれている。
    そのような『梵網経』の所説に従った法会を、これを梵網会というが、初めて日本で行ったのは聖武天皇であって、その母藤原宮子のためであった。そしてその子孝謙天皇もまた、父聖武帝が崩御したときに『梵網経』の諸説に基づいてこれを講讃する法会を全国の国分寺に命じて行わせている。まさにこれが現在の日本における仏教的習慣、「法事」の淵源であった。

  17. ものを害するは皆、いつくしみいたむを以て...

    道宣を祖とする南山律宗がいわばドグマとして固執した、絹衣や革履など、殺生に基づく物品の使用を避けていたこと。ここにも記されているように、その動機は「慈しみ傷むを以て」であるけれども、現実には様々な矛盾がたやすく指摘されてしまう事項であったため、支那以来、日本でもその矛盾が争点となった。
    まず支那の昔、実際に印度に渡り広く見聞した事柄を記し報告した義浄により、道宣の律宗における独自の教義が強く批判された。道宣自身は印度に行ったことがないにも関わらず、憶測や伝聞によって律宗の教義を構築し、それを印度本来としたことが批判されたのである。その批判は広範囲に渡るが、中でも絹衣の不使用を強いることは印度本土での実情に反し、また不合理なものとして強く批判されている。その矛盾とは、まず絹の使用は律で禁止されておらず、印度で仏在世から広く使用されてきたものであること。そして、禁止されていない物の不使用を他に強制すること自体が律に反するということ。そしてまた、絹を避けて蚕の殺生に関わることを免れ得たとしても、麻や綿は農耕の結果として得られるものであるが、その農耕もまさに多くの殺生を避けることが出来ず、麻や綿も殺生の結果として得られる点である。あるいは、軸装された曼荼羅など仏画はほとんど絹が用いられるが、自身がたとい絹衣を避けて麻衣・綿衣を着て得々としたとして、日々自身が礼拝対象とする、まさにその慈悲を説かれた仏菩薩が絹を用いたものに描かれていたならば、それはもはや喜劇であろう。
    私見であるが、慈悲の表出として絹や革製品などを避けようとする態度自体を否定する必要はなく、むしろ尊いものとして敬すべきであろう。が、まず律に基づかないにもかかわらず、これをドグマとして他に強いるようになればたちまち他からの批判など不必要で不毛な論争を惹起するため、そのようなことは避けるべきであったと思う。

  18. りし日、將に結界けっかいせんとするも

    慈忍は野中寺も結界し僧坊とせんとしていたことがここから知られるが、やはり槇尾山はそれを許さなかったのであろう。慈忍が巌松院を離れた時、槇尾山との関係を断ち切る(退衆)までにいたらなかったのかもしれない。ここで弟子らが野中寺を結界するにあたり、槇尾山との関係がどのようなものであったかも、今の所それを確認しうる資料が無いため未詳。
    いずれにせよ、野中寺は江戸以来近代まで「律の三僧坊」などとして名を馳せていたが、少なくとも慈忍が存命中にはそのようなことはなかった。なお、三僧坊として挙げられる泉州の神鳳寺は、槇尾山にて受具後五年を過ごすこと無く高野山へと離れた堅俊良永律師に師事して比丘となった真政圓忍により、延宝元年〈1673〉に僧坊として結界されている。これは野中寺に先立つものであって慈忍存命中のことであった。

  19. 護鵝ごがの行を守り、結艸けっそうの心を持す

    「護鵝の行を守る」とは、ある比丘が托鉢に訪れた宝玉職人の家で誤って宝玉を飲み込んだ鵝鳥の命を護るために自らの身命を擲とうとしたという『大乗荘厳経論』巻十一にある説話に基づくもので、小さな命でも決して害わず守ろうと努めること。「結艸の心を持す」の結艸(結草)とは、やはり『大乗荘厳経論』巻三にある説話で、賊によって草でもって捕縛された比丘達(おそらく縄で捕縛したのを、さらに地面に生えている草に結びつけられた比丘)が、生草を損傷してはならないという律の条項を守るために、たやすく引きちぎることが出来る草であってもこれを害わなかった、という説話に基づくもの。すなわち、どれほど小さな律の条項であってもこれを厳密に守ろうとすること。
    この結艸の説話は草繋比丘(草繋諸比丘)の話として、『大般涅槃経』などにも取り上げられており、また『梵網経』の諸注釈書にも持戒の鑑としてしばしば挙げられている。いずれも慈忍律師の慈悲深く、また戒律を厳に守っていたその徳を称える語。なお、「守護鵝之行。持結艸之心」とそれを並べてその徳を称えるのは、道宣『続高僧伝』巻二十四の大総持寺釈智実伝に見られる。日本でも『』『東大寺要録』本願章など律に関して述べる中で「鵝珠」・「草繋」などと用いられ、律を捨てた最澄ですら『顕戒論』などにて同様の表現を用いているなど、古来、持律の比丘を称える表現としてよく知られた語。

  20. 權實ごんじつ融通ゆうづうして一隅いちぐうとどこおらず

    権実とは、天台教学などにおける教相判釈の一つで、仏教を真実へと導く仮・方便の教えたる権教と、真実の教えである実教とに分けたもの。ここでの意は、仏教の全ての教えを遍く学び、一つの宗義・教学に固執することがなかったこと。いわば諸宗兼学であったこと。この態度は後代の慈雲尊者にも引き継がれていく。
    もっとも、南山律宗自体は、特に南宋代以降、天台教学を背景とした教義を構築していた。また、日本に初めて律をもたらした鑑真は天台の学僧でもあった。そして後代の律僧らの態度もまた、必ずしも天台教学を第一と考えることはなかったが先ずは道宣および元照の見解を最も良しとして倣い、さらに広く諸宗を学び修めるのが普通であった。

  21. 左右さうはべること最もひさ

    『律苑僧宝伝』の編者たる戒山は、筑後州久留米出身で肥後城主に仕える家臣江上氏の息子であった。初め臨済宗黄檗派(黄檗宗)の鉄眼道光禅師のもとで剃髪出家。後に仏道の要は戒律にあることを知り、大阪に転じて師を求めていた時、法厳寺の洞水雲溪禅師から巌松院にあった慈忍律師が当代随一の人であることを聞く。そこでただちに律師の弟子として改めて沙弥出家し、野中寺に移ったその年の寛文十年〈1670〉十二月二十八日に受具。このとき戒山の齢二十二であった。
    本文の言によれば、戒山は後を継いだ慈門新光など誰よりも長く慈忍律師に側仕えた人であったという。もっとも、巌松院滞在時からその門下に入って側仕えていたのは慈門および洪善も同様である。慈門が自誓受したのは平等心王院であったが、必然的により年齢も法臘もより高い慈門が野中寺二代を継ぐこととなったのであろう。

関連コンテンツ