VIVEKA For All Buddhist Studies.
Dharmacakra
智慧之大海 ―去聖の為に絶学を継ぐ

戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』

訓読

明年、東陽山とうようざん嚴松律院がんしょうりついんに席虛く。槇阜の衆僧、師に之を繼がしむ。師、力めて辭す。衆、强て之を起ち、已むを得ずして應ず。既に入寺して説法度人し、風聲を被る所となる。遐邇翕然して心を歸す。師、所得の檀施を以て佛殿・僧寮・鐘樓・齋堂の屬を建つ。山に巖有て高さ數丈、其の體色、殊に異し。一夕、師の夢に、不動明王之に告げて曰く、山上の巨巖乃ち我が身なりと。覺て後、之を異しむ。乃ち巖上に寶篋印塔ほうきょういんとうを建て、以て之を表す。名けて感應巖と曰ひ、文を爲して以て記す。曾て天下旱ひて、民方に以て憂と爲す。師、之を憫み、一七日を期と限て請雨法を修す。第三日に至て向井林居士、山に入るに、淸水巖間より涌出して、其の勢ひ甚だ急なるを見る。怪しみ以て師に白す。師曰く、我、民の爲に雨を請ふ。豈に其の徴ならんや。俄にして黑雲四つ興り、膏雨大澍して遠近充洽し、群民喜悦す。居士歸る比、河水大いに漲て渉ること能わず。因て信宿しんしゅくして後に返る。

承應二年、虛空藏求聞持法こくうぞうぐもんじほうを修す。一夕、瑞光室内に現じて、虛空藏菩薩の身を光中に顯すを見る。喜躍すること無量なり。凡そ此の法を修すること前後九度。師の道力の至る所、神異種種なること一にして足らず。而して畢生ひっしょうたえて人に語らず。手ずから筆記して諸の秘篋に沈む。入寂の後に及んで始めて之を得。凡そ一巻なり。今、姑其の一二を取て之を書す。餘は盡して載せず。

明暦三年、南都西大律寺に至て、大長老高喜觀こうきかん公に從て傳法灌頂を受く。公、師の道風を欽て、之に侍るを尤も善しとす。相遇する毎に玄談すること日に度る。乃ち師に付するに興正こうしょう所傳の秘璽、及び松橋流まつはしりゅうの密旨を以てし、且つ弘法大師畫する所の不動明王像を授與して、傳法の信と爲す。師、已に密學を善くし、兼ねて指を諸宗に染む。然して律を則ち尤も意を究むる所となす。篇疑聚惑、之を問ふに則ち冰泮雪消して、隠伏する所無し。故に一時、律虎多く巻を執て請益す。

師以て謂く、女人上は佛化を損じ、下は俗謠に墜つ。故に其の入寺を聽さずと。一日、早課畢天尚ほ未だ暁ならざるに、師、繩牀じょうしょうに安坐する時、忽ち異女有て現前す。身長八尺許りなり。師、是れ魔女かと疑ひ、之に謂て曰く、汝何者か邪なるや。宜しく時速かに去るべし。我が心、地の如くして、轉ずべからずなりと。異女、俛して言はず。良久しくして乃ち曰く、我は是れ此の山の主神なり。和尚、此の寺を興立して、大いに律法を行ず。我、喜躍に勝へず。故に來て謝すのみと。言ひ訖て卽ち隠る。

師、又夢に一老翁有て至り、地藏像を持して以て送る。是の如くは三夜にして、甚だ之を訝しむ。因て諸徒に囑して曰く、今日、老翁有て至る。汝等預め待てと。午時、果して老翁至り、像を以て師に獻ず。宛も夢に見るが如し。一衆、驚嘆する間に、俄に翁所在を失ふと云ふ。巖松に距つこと一拘盧舎いちくろしゃ、古寺有て禪定ぜんじょうと曰ふ。乃ち平崇びょうしゅう上人創建の所なり。邨民、師の德化を尊び、獻じて以て駐錫の所と爲す。師、乃ち蕪を芟り薉を剔て、一廬を締構す。一日、寺の西若干歩を指して曰く、此の地、想ふに是れ開山靈骨を藏するの所なり。鑿すること三尺餘、一つの壺を得て啓ひて之を視るに、果して遺骨有り。衆咸以て異しと爲す。師因んで白塔を其の所に建つ。

寛文二年秋九月、巖松に於て灌頂を行ず。九年春二月、政賢英しょうけんえい公、特に來て師に謁し、稽首して謂て曰く。河の野中寺やちゅうじは、乃ち上宮帝子手創の四十六伽藍しじゅうろくがらんの一なり。然るに屢廢の餘に當り、鞠して荆棘の場と爲る。願くは師、梵刹を修建して、以て大法を弘めんことを。師曰く、吾れ雅に太子の遺蹟を慕ふ。何の爲にか志に從はざらんや。遂に錫を降て至り、故址に就て梵宇一區を建つ。是の歳六月、靈芝れいし四十餘莖の庭際に産する有り。師見て大いに喜び、以て向後の律法隆盛の兆と爲すなり。

現代語訳

明年〈1646〉、東陽山巖松律院が空席となった。そこで槇尾の衆僧は、師にこれを継がせようとした。師はこれを強く辞退した。けれども衆僧はこれを強いたため、やむ得ず応じることとなった。(巖松院に)入寺して以降は、法を説いて人々を教導する中、次第に人々の評判となっていった。(寺の)近くにある者も遠くにある者も一丸となって帰依するようになったのである。師は、得た所の檀施を用いて仏殿・僧寮・鐘樓・齋堂などを建立していった。(寺の後ろの)山には岩があって、その高さは数丈にも及び、その姿と色とは殊に異趣あるものであった。ある日の夜、師の夢に不動明王が現れた。そして「山上の巨岩は我が身である」と告げられたのである。師は目覚めて後、これを奇怪なることと思い、そこで岩の上に宝篋印塔を建てることによって、その夢告の異を表した。これを名づけて「感応巖」とし、文を書いて記し残した。ある日、天下は旱魃に見舞われ、民は大いに憂いた。師はこれを憐れみ、一七日を一期として請雨法を修した。その三日目、向井林居士が山に入っているとき、清水が巌の間から溢れ出し、その勢いたるや非常な様を見た。彼はこれを怪しんで、師に報告した。すると師は、「私は、人々の為に雨請いを行じているが、その徴兆であろうか」と言われた。すると突如として四つの黑雲が湧き起こって、恵みの雨が大いに降って遠きも近きも潤い満たし、人々は心から喜んだ。居士が帰ろうとする頃、河の水が大いに満ちて渡ることが出来なくなっていた。そこで(居士は)信宿〈二晩泊まること〉した後に帰っていった。

承応二年〈1653〉、虚空蔵求聞持法を修す。ある夜、瑞光が室内に現れ、虚空蔵菩薩の身がその光の中に顕れたのを見る。その喜びは言い尽くせぬほどのものであった。およそ虚空蔵菩薩法を修すること前後九度にわたる。師の道力が現じ、神異なる様々な事象があったのは一度や二度ではなかった。しかし、師は終生、決してそれを人に語らなかった。ただ手ずからその出来事を筆記し、いくつかの函の奥底に仕舞い込まれていた。師が入寂された後ではじめてその存在が知られたのである。その分量はおよそ一巻であった。今、姑〈戒山〉がその中の一、二を取って記したのみである。他の全ては書き記さなかった。

明暦三年〈1657〉、南都西大律寺に出向いて、大長老の高喜観公に従って伝法灌頂を受けた。高喜長老は師の道風を尊び、(叡尊の末徒たる西大寺の長老として)師に侍ることを最善であるとしたのである。会うたびに一日中深く話しこんだ。そこでついに、師に(西大寺門外不出であった)興正菩薩所伝の秘璽及び松橋流の密旨を付法し、さらに弘法大師が描かれたという不動明王像を授與して、伝法の証としたのである。

師は、すでに密学を善くし、兼ねて諸宗を弘く学ばれていた。けれども律については最も意を用い、究められていた。五篇についての疑い、七聚に関する不明な点など、それらについて師に質問すれば、たちまち氷が解けるように雪が消えるように明らかに答えられ、もはや一片の疑問すら残らぬほどであった。そのようなことからある時、多くの律を学ぶ優れた僧たちが経巻を持ってその教導を受けた。

師は、「女人というものは上は仏の教化を損ない、下は世俗の歌謡に心を奪われる。そこで女人が巖松院に入ることを許さない」と言われた。ある日、いまだ夜も明けきらず陽も登らないほどの早朝、師が縄床にて安坐されていた時、突然として異女が現れた。その身長八尺ほどであった。師は「まさか魔女でなかろうか」と疑い、これに対して「汝は何か邪悪なるものであろうか。速やかに去るがよい。私の心は大地の如く不動なるものであって、(煩悩など魔に)退転することはない」と言われた。すると異女は、押し黙って何も言葉を発しなかったが、やや久しくしてから口を開き、「私はこの山の主神である。和尚がこの寺を中興し、大いに律法を行じられているのを、私は大いに喜んで堪えなくなり、ここに現れて感謝したいだけなのです」と言う。そしてそう言い終わるとたちまち消えてしまった。

師はまた、一人の老翁が訪れ、彼から地蔵菩薩像を贈られるという夢を見た。同じ夢が三夜続いたことから、これを甚だ訝しまれた。そこで諸々の衆徒に「今日、老翁が訪れてくるであろうから、あなた達はそう予定して待っていなさい」と指示された。昼時、まさしく老翁が来訪して来て、像を師に献じられた。まさしく師が夢に見られた通りであった。衆徒らが皆、これに驚嘆している間に、にわかにその老翁の姿は見えなくなってしまった、ということである。巖松院から距離にして一拘盧舎〈約1.8km〉に古寺があって禅定寺という。平崇上人が創建された所である。村民らは師の徳化を尊び、(禅定院を師に)献じて駐錫の所とした。そこで師は茂みを刈り取り、荒れ地を平らかにして一つの庵を構えたのだった。ある日、寺の西側の土地若干歩〈数坪〉を指さして、「思うにこの場所は開山の霊骨を納めている所である」と言われた。そこでそこを三尺余り掘ってみたところ一つの壺が出て、これを開いて見たところが、そのとおり遺骨が納められていた。衆徒は皆これを不思議なことと驚いた。師はこれに因んで白塔をその場所に建てられた。

寛文二年〈1662〉秋九月、巖松院において灌頂を行ぜられた。九年〈1669〉春二月、政賢覚英公が達ての事が有るとして来訪して師に謁見され、稽首して言うには「河内の野中寺は上宮帝子〈聖徳太子〉が自ら創建された四十六伽藍の一つです。しかしながら幾度も荒廃を繰り返した挙げ句が、終いに処刑場となっています。どうか師よ、(野中寺跡に再び)精舎を建立し、それによって大法を弘めてくださいますように」とのことであった。そこで師は「私はもとより太子の遺蹟を慕ってきました。どうしてその志に従わないことがありましょうや」と快諾された。遂に錫を降って彼の地に赴き、野中寺址に堂舎一宇を建てた。この年の六月、霊芝四十余りが庭先に生じた。師はこれを見て大いに喜び、今後に律法が隆盛する兆とした。